「いらっしゃいませ。お1人ですか?」
「いいえ。人を探しているの」
幸運にも道が空いていたおかげで、思ったよりも早く着いた。ホテルの3階にあるバーラウンジ。天井にはシャンデリアがきらめき、大理石でできた白いタイルの床にはつやつやした黒い革張りのソファと同色のテーブルが並べられている。中央に置かれたグランドピアノが奏でるジャズが、ゆったりとした落ち着いた雰囲気を作り上げていた。もう夜も遅いせいか、ほとんどがホテルの宿泊客らしき外国人ばかりで客はまばらだ。にこやかに声を掛けて来たボーイにそう答えて、レイチェルはきょろきょろと薄暗い店内を見回した。
────居た。
視界の端に見知った赤を見つけて、ドキリと心臓が跳ねた。華奢なヒールで浮いた踵が、震えそうになる。夜景を眺めながら1人静かに座っている青年は、確かにレイチェルの知っている“彼”だった。
今日この日、ここに来れば会える。わかっていたけれど、心のどこかで不安だった。────本当に居た。本当に会えた。
逸る気持ちを落ち着かせるように、小さく息を吐いた。意を決して、レイチェルはヒールを鳴らして彼の元へと向かう。
「こんばんは。隣、いいかしら?」
立ち止まれば、シフォン地の裾が膝の上でふわりと揺れる。少しでも綺麗に見えるようにと、今日のために買ったワンピース。これを着ていると、鏡の中の自分は普段より大人びて見えて、いつもよりも積極的になれる気がした。
愛想良くそう声をかければ、青年が肩越しに振り向いた。レイチェルを見返すその顔は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたものの、すぐに微笑んで椅子を引いてくれた。
「ええ。どうぞ」
「ありがとう」
隣に座る青年────ビルの横顔を、ちらりと盗み見た。レイチェルの記憶にあるビルよりも少し幼く見える。ポニーテールにした髪は、少し短い。確かにこうして目の当りにしてみると、本人と言うよりもよく似た弟と言われた方がしっくりくるなと、レイチェルはそんなことを思って笑みを漏らしそうになった。
「ご注文は何になさいますか?」
「モスコミュールを」
当たり前だけれど、間違い探しみたいによく似ている。鮮やかな赤毛も、端正な顔立ちも、雰囲気もほとんど同じ。座っているからわからないが、たぶん立ってみれば背の高さなんかも同じだろう。
けれど、もしも隣に2人を並べられたら、レイチェルはすぐに見分けられる自信がある。別に好きな人だから見間違えたりしないとか、そう言う乙女チックな理由じゃない。理由はもっとずっと単純だ。だって、今目の前に居るビルと、レイチェルの知っているビルでは、レイチェルに対して向ける表情が全然違うから。
初めて向けられた、知らない相手を見る目。紳士的だけれど、他人行儀な笑み。当然だ。だって“彼”にとっては、レイチェルは会ったことのない人間なのだから。まるきり初対面の、顔も合わせたことも、話したこともない他人同士。
でも、レイチェルは知っている。彼の名前も。彼がとても優しいことも。
そして、彼の秘密も。
「ねえ」
一応会話に応じてくれるつもりはあるのか、レイチェルの呼びかけにビルは緩慢に振り返った。口元には、穏やかで大人びた笑み。でも、よくよく見ると目の奥は笑ってない。たぶん、レイチェルが本当にビルと初対面だったら気付かなかっただろうけれど。素っ気ないながらもその視線が自分へと向けられたのに満足して、レイチェルはリップグロスを引いた唇を笑みの形に持ちあげた。
考えるまでもなく、言うべき言葉は決まっていた。もう、ずっと前から。
彼の耳元に顔を寄せて、レイチェルはひそりと囁いた。
「知ってるわ。あなたって、魔法使いでしょう?」
ビルの持ったウイスキーグラスの中で、カラリと氷が音を立てる。あからさまに動揺を見せるビルを、レイチェルは笑みを崩さないままじっと見つめた。心地良いジャズピアノと、酔っぱらった恋人達の楽しげな笑い声が耳を撫でる。
どうして、と呟く乾いた声を聞きながら、レイチェルはふと考えた。
もしも今夜、レイチェルがここに来なかったら、どうなったのだろうか。
もしも、レイチェルの仕事が終わらず、あるいは道が混んでいて、ここに来るのが間に合わなかったとしたら。そうでなくても、もしも、ビルの気が変わって、別の店を選んでいたとしたら。
そうしたら、今夜、レイチェルとビルは出会わない。きっかけがなくなってしまうのだから、恋人同士になることもきっとない。それなら、きっと、あの日ビルがタイムトラベルに巻き込まれたからと言って、レイチェルを訪ねることもなかっただろう。
だとしたら、レイチェルの頭の中にあるビルの記憶はどうなるのだろうか? レイチェルの夢の中のできごと? 幻? それとも、何事もなかったかのように、記憶ごと泡のように消えてしまう?
もしも、今日を逃しても、レイチェルがどうにかしてビルを探して見つけたとして。そうして、恋人になれたとしても。今日出会ったのだと言ったビルの言葉は嘘になる。だとしたら、そのビルと「レイチェルと誕生日に出会ったビル」は別のビルなのだろうか?
そこまで考えて、レイチェルはふっと肩の力を抜いた。
“もしも”をいくら考えても仕方ない。だって事実、レイチェルはここに来た。
きっと、今日を何度繰り返しても、どんなトラブルがあったとしても、レイチェルは必死に彼を探すだろう。
運命だとか、必然だとか。これがそう言った言葉で呼ぶべきものなのかどうか、レイチェルは知らない。
けれど、あの夏の夜、レイチェルは確かに“未来”の彼と出会った。そして、今夜は“今”のレイチェルと“今”のビルが。数年後の夏には、彼は“過去”のレイチェルと出会うのだろう。
まるでメビウスの輪みたいね。本当の始まりは一体どこなのだろうか。
何だっていい。大切なのは、今、“レイチェル”の目の前に“ビル”が居ることだ。
「私はレイチェル・グラント。“初めまして”、ビル・ウィーズリー」
驚愕に見開かれた瞳の中に、レイチェルが映っている。それを見て、レイチェルは笑みを深くした。
これは一体何度目の出会いで、何度目の言葉なのか。そんなのはわからない。
現在で、過去で、未来で。レイチェルと彼は出会って、きっとその度に、レイチェルは彼を好きになる。
何度でも、恋を始めよう。