暗号のようなさよならだったから

「ありがとう、レイチェル!本当に楽しかった!」
「今度エジプトに来たら、絶対またレイチェルのツアーにするね!」

今日もまた、レイチェルの担当していたツアーが1つ終わった。
レイチェルは観光ガイドの仕事が好きだ。自分がこの土地で子供の頃に感じたあの感動をツアー客にも伝えたいと言う熱意を持っているし、彼らの楽しそうな笑顔や興味深そうに目を輝かせる姿を見ると喜びを感じる。特にそれが、今みたいな小さな子供ならなおさらだ。怪我をしたり迷子になったりすることもなく、無事に別れたときにはほっとするし、そうあるようにと責任感を持っている。だから基本的に、仕事は楽しいし、誇りもやりがいもある。
基本的には、の話だ。

「どうしたんだい、レイチェル。珍しく機嫌が悪そうだね」

帰社したレイチェルを迎えた同僚が、レイチェルの顔を見て驚いたように言った。レイチェルは指摘された通り不機嫌な表情のまま、1週間ぶりに目にする自分のデスクに乱雑に鞄を置く。薄く積もった埃と一緒に、同僚からの善意らしきキャンディやチョコレートがバラバラと天板の上を跳ねた。

「3件もロストバゲージがあって、もう最悪。係の対応も悪くて、3日目のホテルでようやく届いたの。そのうちの1人に、スーツケースの中に予備のフィルムを入れてたせいでそれまで全然記念写真が撮れなかったって、ツアーが解散するまでずーっと嫌味を言われ続けたんだから! だからあの航空会社は嫌なのよ!」
「あー、あそこな。俺も前にあったよ」
「おつかれさま。それは災難だったね」

苛立ちを隠す余裕のないレイチェルに、まだ社内に残っていた同僚達が苦笑する。別れ際に家族連れの子供達に癒されたから今はこの程度で済んでいるが、ツアー中はにこやかに笑みを浮かべながら心の中でひたすら呪詛を吐き捨てていた。レイチェルの脇から手が伸びて来て、また机の上にキャンディーが増える。そのうちの1つの包みを開けて、レイチェルはガリと奥歯で噛み砕いた。甘ったるいストロベリーの味と香りが、瞬く間に口の中に広がる。

レイチェルは働き過ぎよ!休暇が終わってから特にね!」

同僚であるハンナにそう言われて、レイチェルは思わず苦笑を浮かべた。
確かに彼女の言葉はその通りで、休暇が明けて仕事に復帰したレイチェルは、ほぼ休みなく国中を飛び回っている。一応言っておくとパワハラではない。レイチェルがそうして欲しいと頼んだのだ。
忙しい日々は体力的にはきついものの、余計なことも考えられずに仕事に没頭できることは今のレイチェルにとってはありがたかった。家には帰りたくないから、ツアー客と一緒にホテルを転々とする方がずっと気が楽だ。
ドアを開けても、おかえりと迎えてくれる声が聞こえないこと。隣が空いたソファ。1人分の食事しかないダイニングテーブル。そう言ったものに、寂しさを覚えなくて済むから。

「ボスはまだ戻ってない? だとしたら、報告は明日でもいいわよね? 今日これからメールを打ってたら夜中になってもここを出られないわ」

とは言え、今日に限っては別だった。今日は、1秒でも早く仕事場を離れたい。
早口でそう捲し立てて、レイチェルは必要な資料をファイルへと綴じ込む。そうして自分の鞄を掴むと、奥にあるロッカールームへと引っ込む。ちょうど帰るタイミングだったのか、レイチェルに少し遅れてハンナもロッカールームへと入って来た。

「ねえ、レイチェル。もしかして、今夜何か予定があるの?」
「そうなの……急いでるのに、よりによって今日に限って遅くなるなんて」

言いながらも、レイチェルは自分の着ていたブラウスとキャミソールを脱いでいく。本当は会社を出てからどこか別の場所で着替えようと思っていたのだが、あまりにも時間に余裕がないので仕方ない。代わりに紙袋に入っていたワンピースを出して足をくぐらせると、ハンナは目をきらきらと輝かせた。

「デートね!そうでしょ?」
「違うわ。悪いけど、ファスナーを上げてもらっていい?」
「またまた、そんなこと言って!隠さなくったっていいじゃない!」

快活に笑うハンナに、レイチェルはぎこちない笑みを浮かべた。こうしてからかわれるのが嫌だったから、会社で着替えるのは嫌だったのに。何がそんなに楽しいのか、鼻歌まじりにレイチェルのワンピースのファスナーを上げていた同僚は、ふいに何かに気がついたのかあら、と声を上げた。

「素敵なピアスね!どこで買ったの?」
「ありがとう。わからないの、貰い物だから。ごめんなさい、急いでるから。じゃあね、ハンナ」
「楽しんでね!今度、詳しく話を聞かせてちょうだい!絶対よ!」

仕上げとばかりに甘ったるい香水を吹きつけられて、レイチェルはロッカールームから送り出された。きっと、明日にはレイチェルのデートの話が会社中に広まっているのだろう。そう考えると憂鬱だったが、何しろ今のレイチェルには時間がない。大慌てでつっかけたヒールのせいでふらつきそうになりながら、大通りに出てタクシーを拾う。

「お客さん、どちらまでで?」
「フォーシーズンズホテルまで」

レイチェルが答えると、タクシーが動き出す。時計を見ると、8時を少し過ぎたところだ。渋滞していなければ、30分もあれば着くだろう。ようやく人心地ついたレイチェルは、後部座席にもたれてふうと息を吐きだした。
心地のいい揺れを感じながら、レイチェルは過ぎて行く車窓を眺めた。夜の暗さのせいで、埃っぽい窓硝子に自分の顔が映り込んでいる。

時々、あれは夢だったんじゃないかと思う。

だって、やっぱり魔法だとか、タイムトラベルだとか、未来の恋人だとか。そんなのって、レイチェルにとっては、SF映画の中の出来事なのだ。仕事で疲れていた上に、1人で休暇を寂しく過ごすことに耐えられなかったレイチェルの願望が見せた幻なんじゃないかと、何度も考えた。ビルに聞かれれば、きっと「ひどいな」と苦笑するだろうけど。
だって、全然、現実味がないのだ。あのときは、ビルが魔法使いだと言うことも、魔法の存在も、確かに真実なのだと思ったのに。ビルがすぐ側に居たからこそ信じられていた“魔法”が、ビルが居なくなった途端に、レイチェルからポロポロと剥がれ落ちてしまったようだった。数ヶ月経った今では、もはや全てが遠い出来事のようだ。
バックミラーに映り込んだ自分の顔を見て、レイチェルはそっと耳朶に触れた。金属の冷たい感触が指先を撫でる。彼の髪と同じ、赤い石。ビルが居なくなってから、彼にもらったピアスをレイチェルは肌身離さず身に着けていた。まるでアミュレットか何かのように。これを見ると、あれは確かに現実だったのだと信じることができるから。
ビルとの思い出を反芻するほど、非現実的で。あれはやっぱり詐欺師だったと言われた方が、ずっと納得がいくような気がした。レイチェルの恋人だと言うのも、魔法使いだと言うのも、全部嘘だったのだと。
それに、ビルの言葉には矛盾があるのも確かだった。

『どうして教えてくれないの? 私のことなんだから、知っておきたいの。ねえ、お願い!少しだけでいいから』
『駄目だよ。幸福な未来だって、それを知ったことによってレイチェルが安心してするべきはずの努力をしなくなったりすれば、未来が変わってしまう可能性だってあるんだ』

そう言って困った顔でレイチェルを諭したビルが、どうしてレイチェルとビルのことに関しては、あんなにあっさりと話してくれたのか。どうしてビルは、あのとき、あの魔法使いにレイチェルは何も知らないと嘘を吐いたのか。どうして、別れ際にもレイチェルの記憶を消そうとしなかったのか。
ビルが、何を意図してレイチェルに未来を教えたのか。そして、危険を冒してまでレイチェルにその記憶を残そうとしたのか。レイチェルには、何となくわかっていた。そして、今、ビルが意図した通りに行動しようとしている。
レイチェルには、自分がこれからしようとしていることが正しいのかどうかの判断がつかない。他人に話せば、馬鹿馬鹿しいと笑われるだろう。けれど、他人の目とか、正しいとか間違っているとかを抜きにして、「自分がどうしたいのか」を考えれば、答えはシンプルだった。

レイチェルは、ビルが好きだ。だから、信じたい。もう一度、彼に会いたい。
だから、レイチェルは、彼を探す。レイチェルの知らない、レイチェルを知らない彼を。

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