「ドアから入って来たんだから、できたらドアから出て行ってほしいわ」
翌朝、朝食のトーストを齧りながら、レイチェルはビルにそんなことを告げた。
先日、あの魔法省の男との一件をレイチェルはちょっと根に持っていた。魔法使いの作法がどうかなんて知らない。他人の家を訪問したときは、別れの挨拶をしてドアを出て行く、そして家主は笑顔でそれを見送ると言うのがマグルの礼儀なのである。家主に黙って勝手に消えているなんて言うのは、無作法もいいところだ。
「その後は、瞬間移動でも何でも好きにすればいいけど」
「あれは一応『姿くらまし』って名前があるんだよ」
憮然と呟くレイチェルに、ビルが苦笑する。「ふうん」と生返事をして、レイチェルはティーカップを傾けた。
少し焦げ目のついたトーストも、紅茶の濃さも、レイチェルの向かいに座ったビルの穏やかな笑みも。まるでいつも通りの朝だ。それでも、テーブルの端には、そう多くないビルの荷物がまとめてあって。
ああ、本当に最後なのだなと、レイチェルはぼんやり思った。
「ありがとう、レイチェル」
レイチェルの要望通り玄関ドアから外へ出たビルは、そう言って笑いかけた。ここを訪ねて来たときと同じ服を来たビルが、あの日と同じにレイチェルの名前を呼ぶ。けれど、出会った日とは違って、空はまだ抜けるように青く、ビルは心細そうな表情はしていない。
「こちらこそ、ありがとう。ビルは最高のハウスキーパーだったわ」
「それはよかった」
お世辞ではなく、本心からの言葉だ。最初はどうなることかと思ったけれど、ビルのおかげでこの休暇は楽しかった。
どちらからともなく一歩近づいて、ハグをする。ビルの首へと腕を絡めて、触れ合った皮膚から体温を感じると、何だか落ち着く。出会った日は、まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。
出会った日と言えば────ふいに、あることを思い出して、はくすくす笑ってしまった。
「どうしたの?」
「あのね……最初の日も、こうやって玄関の前で抱きしめられたなあって思い出して。覚えてる?」
「ああ……あの後、レイチェルに本気で怒られたね。『次やったら出て行ってもらう!』って」
「あれはビルが悪いのよ。初対面なのに、いきなり馴れ馴れしくするから。あんなことされたら、警戒するに決まってるでしょ」
これが最後だからしおらしくしたいのに、ついいつものように憎まれ口を叩いてしまう。けれど、これでいいのかもしれない。湿っぽいお別れは、好きじゃないから。レイチェルはどうせなら、涙よりも笑顔で見送りたい。
そんなことをぼんやり考えていると、ふいにビルが軽くの唇に掠めるようにキスをした。
「レイチェルが嫌じゃなかったら、いいんだよね?」
思わずぽかんとしたレイチェルに、艶やかに目を細めて笑う。男の人なのに妙に色っぽくて、レイチェルは頬に熱が集まるのを感じた。照れ隠しにそっぽを向いて、ついでにビルから距離をとった。正確には、『レイチェルの嫌がることをするな』と言ったのだ。とは言え、確かに似たようなものだ。そう言えばそんな一方的なルールも作ったんだったと、今更に思い出して何だか気まずい。
「こっち向いて、レイチェル」
小さな子供をなだめるような口調で、レイチェルの名前を呼ぶ。ビルの手が、レイチェルの頬に触れた。再び重ねられた唇は、今度は啄ばむようにして柔らかく唇を食む。酸素を求めて開いた唇を割って入りこんだ舌が、ゆるやかに歯列をなぞる。粘膜の触れあう感覚に、背筋にぞくりとしたものが走った。丁寧で甘ったるいキスに、足元がふわふわする。
すっかり体の力が抜けてしまったレイチェルは、長いキスから解放されても、その余韻で頭がぼうっとしていた。ビルにもたれかかったまま、浅い呼吸を整える。ふと顔を上げれば、切なげな目で自分を見つめる視線に気がつく。どうしてか、ビルが次に何を言おうとしているのかがわかって、レイチェルは小さく首を振った。
「さよならはいらないわ。だってそれじゃ、永遠の別れみたいだもの」
レイチェルは笑みを浮かべて、ビルを見上げた。自分の瞳に映るその姿を、瞼の奥へと焼きつけるように。鮮やかな赤い髪。理知的な光を湛えた瞳。長い睫毛。真っ直ぐに通った鼻筋。穏やかな笑みを浮かべた、少し薄い唇。シャツの襟ぐりから覗いた鎖骨。骨ばった手の甲。節の目立たない長い指。全てが、好きだなあと思った。ビル・ウィーズリーと言う人間を構成する全てが好きだ。
また、腕を引かれて抱きしめられる。そうだね、とビルが耳元で笑った。
「きっと、また会えるよ。レイチェルが、僕を探してくれるなら」
ビルの体が、レイチェルから離れる。あたたかな体温も。背中へと回されていた腕も。名残惜しむようにレイチェルの髪の先を掬っていた長い指が、遠ざかっていく。そうしてパシッと空気を切るような大きな音がしたかと思うと、次の瞬間にはビルの姿はもうどこにもなかった。
「『姿くらまし』、ね」
レイチェルはたった今までビルが居た空間を見つめて、教わったばかりの単語を口の中で転がした。行き先は聞いていないが、たぶんあの魔法省の男のところだろう。できるならビルが元の時間に帰るところを見届けたかったけれど、きっと無理だ。レイチェルは魔法について知らないことになっているのだろうから。
何にせよ、いつまでも部屋の前でぼうっと立ち尽くしていても仕方がない。1人部屋の中へと引き返して、リビングの扉を開けたレイチェルは、ふいに部屋の入口で立ち尽くした。
この部屋は、こんなに広かっただろうか。
綺麗に片付いたキッチン。ほんの少し椅子が引いたままになっているダイニングテーブル。食器棚に仲良く並んだマグカップ。レイチェル1人で住んでいた頃とよく似ていて、けれど少し違うものたち。すぐにでもドアを開けて、買い物帰りのビルが現れそうなのに。でも、もう、ビルはここには帰って来ない。ビルが使っていたブランケットが肘かけにかかったままのソファを見たら、涙がこみ上げてきた。
たった1ヶ月かそこらの同居人。困っていたから仕方なく雇ったハウスキーパー。それが居なくなったから、何だって言うの。今までどおりの、元の一人暮らしに戻るだけ。寂しくなんてないわ。そうでしょう、レイチェル。
そう自分に言い聞かせるのに、溢れて来る涙は止まってくれそうにない。
「何で……何で、行っちゃうの。帰らないで……っ。側に居てよ。1人にしないで……ビルのばか」
頭では、ちゃんとわかっている。元の世界に帰るのが、ビルのためだ。ビルは、帰らなければいけない。
それでも、寂しい。どうしようもなく。困らせるだけだとわかっていたから、ビルの前では言えなかった。もっと一緒に居たかった。もっとたくさん話をしたかった。ビルの隣で、笑っていたかった。
フローリングの床に座り込んで、レイチェルは声を殺して泣いた。
あと少しで休暇も明ける。レイチェルにとって、あまりに長すぎる夏が終わろうとしていた。