カーテンの間から零れる眩しい日差しに、レイチェルは目を覚ました。
もう朝だ。そう頭の片隅では認識したものの、何となく倦怠感が抜けないせいで、まだ起き上がる気にはなれない。あと30分寝ようと寝返りを打って────至近距離で整った顔が目に入って、レイチェルはぎょっとした。それだけではない。自分の体に、何か────人の腕が巻きついている。冷静になってよくよく状況を見てみると、狭いベッドの中で、ビルがレイチェルを抱きしめるようにして眠っていた。
…………ああ、そうか。そうだった。あの後、私、ビルと────。頭の中でうっかり昨夜の出来事を反芻してしまって、レイチェルは一人顔を赤くする。ともあれ、頭がすっかり覚醒してしまったのでもう一眠りする気にもなれず、レイチェルはビルの腕の中から抜け出して上体を起こした。
「ビル?」
小声で名前を呼んで、顔の前でひらひらと手を振ってみる。が、どうやら眠りが深いらしく起きる気配がない。レイチェルは枕に頬杖をついて、じっとビルの顔を覗きこんだ。
相手が眠っているのをいいことに、ここぞとばかり無防備な寝顔をじっくりと観察する。朝になってもあんまり髭が目立たないんだなあとか、睫毛が長いなあとか、唇の形が綺麗だなあとか、やっぱり元々の顔立ちが整っている人は眠っていても綺麗なんだなあ、とか。そんなことを考えていたら、知らず溜息が出た。
白いシーツの上に散らばっていると、鮮やかな赤毛はより色を濃くして見える。男の人にしては長い髪を手にとれば、さらさらと指の間を逃げていく。その感覚が心地よくて何となしに繰り返していると、ビルが薄っすらと目を開けた。
「あ、ごめんね。起こしちゃった?」
「んー……ごめん、レイチェル……今何時………?」
朝食の支度してない、と掠れた声で言うビルにレイチェルは思わず噴き出してしまった。ハウスキーパーとしては正しい姿勢だろうけれど、起きて第一声がそれと言うのは、何だかおかしい。眠たげに目をこするビルに、レイチェルはちらと壁掛け時計に視線をやった。
「ちょうど朝7時を過ぎたところ。……だけど、いいわよ。今日はゆっくり寝てて。ベッドで眠るの、久しぶりでしょ」
居候だから仕方ないとは言え、ここのところずっとビルはリビングの狭いソファで寝ていたのだから、十分に体の疲れがとれていたはずもない。レイチェルが気遣いからそう口にしたものの、ビルはベッドから起き上がって伸びをした。その拍子にブランケットが肩から落ちて素肌が晒され、レイチェルは思わず視線を逸らした。自分も人のこと言えた状態ではないが、目のやり場に困る。そんなレイチェルの反応に、ビルがくすりと笑う。
「昨日散々見たくせに」
「そっ……それとこれとは話が別なの!」
「そう言うものなのかな。ところでレイチェル、今日の君の予定は?」
「え? 特にないけど……」
誰かと会う約束もしていないし、特段今日中にしなければいけない用事と言うのもない。強いて言えば、部屋の掃除をしようかと思っていたくらいだ。そんなことを思い巡らせていると、ビルがお返しとばかりにレイチェルの髪を梳く。そのくすぐったさに、レイチェルは思わず目を細めた。
「デートしようか」
「デート?」
「うん」
────デート。ビルが何気なく口にしたその単語に、レイチェルはどきりと心臓が跳ねるのを感じた。
買い物に行ったり、一緒に食事したり、映画を見たり。今までデートもどきのお出かけは何度かしたけれど、はっきりとデートと呼べるものはなかった。
ビルとデート。それもビルから誘ってくれるなんて。どうしよう、素直に嬉しい。
「レイチェルに見せたい場所があるんだ」
そう言ってビルが連れてきてくれたのは、美しい花が咲き乱れる庭園だった。ルピナスの群生地だ。
連れて来てくれた────事実なのだけれど、その表現に何だか違和感を感じるほど、ほんの一瞬の出来事だった。
出かける支度を終えてリビングへと向かったレイチェルは、ビルは言った。「腕を組んで、目を閉じて」。その通りにしたら、何だか奇妙な────遊園地のコーヒーカップをもっとひどくしたような────感覚かして、次に目を開けた瞬間見知らぬ場所に居た。
ピンク。薄紫。赤。黄色。白。青紫。色とりどりのルピナスが、一面に広がる様子は、ため息が出るほど美しい。それに、夏も終わりが近いこの時期に、ルピナスがこんな風に咲くと言うのも滅多にないことだ。
ここは一体どこなのだろうと、手がかりを求めてきょろきょろと辺りを見回す。すると遠くに見知った建物が見えて、レイチェルはあっと声を上げた。
「あれ……向こうに見えるの、アレクサンドリアの博物館よね? あの近くに、こんな場所があったなんて……」
「魔法使いが管理してる土地なんだ。マグルには見つけられないよう防御呪文が施してある」
だからレイチェルがこの近くを通っても気がつかなかったし、本来の開花時期ではない今の季節に魔法で枯れないようにできるのだと言う。
その答えはレイチェルには少し、残念に思えた。今まで、この近くは何度も来たことがあったのに。こんな素敵な場所があるのに、普段のレイチェルには見えていなかったなんて。
「ここなら、誰にも邪魔されずに2人きりになれると思ったんだ」
さらりとそんなことを言うビルに、レイチェルはまた頬に熱が集まるのを感じた。
からかわれているのか、本気で言っているのか、いまいちまだ掴めない。
赤くなった顔に気づかれないよう、レイチェルは目の前で咲き誇る花々に見惚れている振りをする。
実際、美しかった。魔法の効果なのか、レイチェルの前で優美に咲く花々は、その1輪1輪、そのひとひらさえも生命力に溢れ、色鮮やかに輝いているようだった。それが見渡す限り、遠くまで続いている。その光景はどこか非現実的で、幻想的ですらあった。
こんなに美しいものが側にあったのに、今まで気づかなかったなんて。そう考えて、レイチェルは隣に立つビルに向き直った。
「私……ビルに謝らなきゃ」
この花と同じだ。ビルに出会ってから、ビルはレイチェルは今まで知らなかったたくさんのものを見せてくれた。レイチェル1人の視野や価値観だけでは、気づかないもの、見えていなかったものがたくさんあった。
ビルが好きだ、と。認めて気持ちが膨らんでいくにつれて、同じようにレイチェルの中で育っていったのは、罪悪感だった。
「出会ってすぐの頃……ビルの言葉を信じてなくて……自分でも酷い態度を取ったと思うわ。今更だけれど、ごめんなさい」
仕方なかった、と思う。だって、ビルとの出会いはあまりにも非日常が過ぎて、何一つ信用できなかったから。自分にそれほどの非があったとも思わないが、だからと言ってビルに非があったわけでもない。ビルだってある意味被害者だったのだ。不安だっただろうに申し訳ないことをしたとレイチェルが眉を下げれば、ビルは穏やかに微笑んだ。
「レイチェルの立場からしたら疑うのは当然だよ。前にも言ったけど、知らない男に気を許してレイチェルが危ない目に遭ったりしたら困るしね。僕は気にしてないし、家に置いてくれたことには本当に感謝してるんだよ。だから、謝らないで」
「でも……」
「確かに、僕が予想してた反応とは違ったけど……でも、僕と知り合う前の……僕の知らないレイチェルが見れて、嬉しかった」
どこか切なげなビルの口調に、レイチェルははっと息を飲んだ。ビルの帰る未来にも、“レイチェル・グラント”は存在するのだろう。正真正銘、ビルの恋人として。それは確かに、レイチェル本人だ。レイチェルの未来。けれど、“今”のレイチェル全く同じではない。10歳の頃のレイチェルと、20歳になったレイチェルに違うところがたくさんあるように。
今この瞬間にも、この国のどこかに、もう1人のビルが居る。けれどそのビルは、目の前のビルと同じじゃない。
22歳のビルと、20歳のレイチェルがこうして向き合うことは、もうこの先二度とないのだ。
「好きだよ、レイチェル」
腕を引かれて、ビルの胸の中へと抱き寄せられる。飾り気のないその言葉が何よりも嬉しくて、目頭が熱を帯びた。耳元に囁かれる声は、蜂蜜みたいに甘い。
背中に回された腕から伝わって来る体温は温かくて、レイチェルの頬に触れるてのひらは柔らかい。耳を寄せた胸の皮膚の下で、彼の心臓が確かに脈打っているのがわかる。それでも────それでもビルは本来ここに存在しないはずの人間なのだ。
あの失礼な魔法使いの言っていた通り、本来なら“マグル”であるレイチェルは、ビルのことも魔法のことも記憶に留めておくべきではないのだろう。全て忘れて、元の日常に戻るべきなのだ。頭ではそう理解していても、レイチェルは心からそう望むことができない。ビルを忘れたくない。たとえビルとの出会いが、時間の歪みが生んだ、不自然なものだとしても。出会わなければよかった、なんて思えない。
今目の前に居るビルは、本来ならレイチェルとは出会わないはずの人間だった。“今”この瞬間に、ビル・ウィーズリーは2人も存在してはいけない。だから、ビルはもうすぐレイチェルの前から居なくなる。レイチェルの元から去って、自分の居るべき未来へ帰ってしまう。ビルは言葉を濁していたけれど、レイチェルは知っている。別れの時はすぐそこまで迫っている。
初めから、終わりの見えている関係だったのに。世界の違う人だと知っていたのに、レイチェルは目の前の優しいドッペルゲンガーを好きになってしまった。好きにならずに、いられなかった。
縋るように、ビルのシャツを指に握りこむ。ビルは何も言わず、ただレイチェルを抱きしめる腕に力を込めた。
これが泡沫の夢に過ぎないことくらい、口に出さなくてもお互いわかっていた。