本当はたぶん、もっとずっと前からわかっていたのだ。その方がレイチェルにとって都合がよかったから、気づかない振りをしていただけで。
出会ったときの状況では仕方なかったにしろ、最初はビルを詐欺師かストーカーだと疑って散々な態度をとっていた。同居すると決まってからも、あくまでハウスキーパーとして雇うだけだとか、少しでもレイチェルに何かしたら出て行ってもらうとか言っておいて、今更やっぱり好きになりました、なんて。随分虫の良い話じゃないか。
要するに、レイチェルのくだらないプライドの問題である。認めたくなかったのだ。
ビルを家に住まわせたのは、家事をやってくれるメリットもあったにしろ、いくら相手がハンサムな好青年だろうと詐欺師やストーカー相手に簡単にほだされたりしない、自分はそんなに軽薄な女じゃないと言う自負があったからこそだ。それが────それが、まんまとビルに恋をしてしまったとか、何だかもう羞恥に泣きたくなってくる。ハンサムな青年を家に上げて、一緒に生活しているうちに好きになってしまうとか、他人事ならこの上ない予定調和だとしか思えない。重ねて言うが、あのときのレイチェルにはそうならないだろうと言う自信があったのだ。幸運にもビルは違ったが、当初疑っていたように彼がハニートラップを仕掛けて来た詐欺師だったとしたら、レイチェルは今頃貯金の大部分を巻きあげられている。何と言う軽薄さだろう。チョロい。チョロすぎるでしょう、レイチェル・グラント。
でも、とレイチェルは自分に言い訳をしてみる。
だって、仕方ないじゃないか。ビルがハンサムだから────もちろん、あの笑顔の破壊力はレイチェルも認めざるを得ないけれど────それだけで好きになったわけじゃない。ビルがただ顔がいいだけのロクデナシだったら、好きになったりしなかった。
ビルはいつだって紳士的で、誠実で親切だった。いつだって、自分の気持ちを押し付けてきたりしなかった。レイチェルの気持ちを一番に考えてくれた。言葉で、態度で、レイチェルを大切にしてくれているのがわかった。
『そんな理由で、泣きそうなレイチェルを放っておく方が嫌だよ』
思い出すと、胸がきゅうっと締めつけられる。なぜあのときの自分はああも平然としていられたのか、自分のことながら理解に苦しむ。
あんな風に優しい笑顔で、あんなことを言われて。そんなの、好きになるに決まってる。
他の誰でもない。ビルだからだ。ビルじゃなかったら、きっと、恋なんてしなかった。
ビルだから、頑なだったレイチェルの心を溶かしてくれた。
相手がどんなにハンサムだって、好きになんてならないと思っていた。もう当分、恋なんてしないだろうと思った。
もう終わった恋が、まるで呪いのようにレイチェルの心に巻きついていた。別れにあんな痛みがあるのなら、誰かを好きになんてならなくてもいいと思った。
もう二度と、あんな風に傷つくのは嫌だった。誰かに恋をして、信じて、そして裏切られるのが怖かった。信じたぶんだけ、裏切られたときの痛みも大きいから。だから心に鍵をかけて、誰も立ち入らせないと誓った。それなのに、ビルはたやすくその鍵を開けてしまった。
それでも、すっかり臆病になってしまったレイチェルは、恋をしていると認めることも、踏み出すことも怖くて────けれど、踏み出さなければビルはレイチェルの目の前から居なくなってしまう。
「私、貴方が好きよ。ビル」
好きになれば好きになっただけ、別れるときの喪失感も大きい。それは確かだろう。
けれど、もう好きになってしまったのだから手遅れだ。自覚したからには、それを相手に伝えなければ、何もできなかったと後悔する羽目になる。そんなのは嫌だった。
恋人でもない異性に対して、こんな風にストレートに言葉にするのは照れくさい。でも、ビルが元の時間に帰るまで、あと数日しかないのだ。自然とお互いに意識するようになって距離が縮んで────なんて。一般的な恋人になるまでのステップはこの際踏んでられない。言わなければ伝わらないのなら、そうするしかない。
「あー……えっと……そうなんだ」
突然の告白にビルは驚いたように何度も瞬きをし、それから困ったように視線を泳がせた。
いきなりすぎただろうか、とレイチェルは少し後悔した。ちょうどソファに並んで座って映画を見ていて、画面の中もいいムードだったから、後押しされるように言ってしまったけれど。そんな半ば勢い任せの告白は、ビルにとっては青天の霹靂だっただろう。
あからさまに戸惑っているビルに、そう言えば、とレイチェルは思った。ビルは出会ったときから再三自分はレイチェルの「未来の恋人」だと言っていた。あくまでビルと恋人関係にあるのは「未来のレイチェル」であって、「今のレイチェル」には無関係のことだ、と。だから、レイチェルの意志に反して手を出したりしないから安心してくれ、と。
当時はそんなのどうせ妄想か虚言のどちらかに違いないと思っていたし、全く信じていなかった。だから、その意味を深く考えることはなかったのだけれど。あれはもしかして、ビルに対しても言えるんじゃないだろうか。
つまり、ビルが好意を持っているのは「未来のレイチェル」で、「今のレイチェル」のことは何とも思ってない可能性がある。
「“今の私”には興味ない?」
いまひとつ反応の悪いビルに、レイチェルはこてりと首を傾げた。
成長期もとうに過ぎたし、たかだか2年か3年後の自分が今とそう大きな変貌を遂げているとも思えないのだが、もしかしたら外見か、それとも内面のどちらかがビルの好みから外れているのかもしれない。それなら仕方ないなと溜息を吐けば、ビルが慌てたように首を振った。
「そんなことはないよ。そうじゃなくて……」
困惑したように眉を下げる表情さえも魅力的なのだから、ハンサムと言うのはずるい。恋愛感情なんてない状態でもビルの容姿には惑わされることがあったのだから、自覚してしまった今となっては尚更だ。
伏せた睫毛が髪と同じに赤いこと。その赤が縁取る瞳の青さ。そんなものに見入ってしまいそうになって、レイチェルは思わず自分を叱咤した。今はビルの顔に見惚れている場合じゃない。自分はまさに今振られようとしているかもしれないのに。そうレイチェルはじっとビルの言葉を待った。
「いや、君は君だってわかってるんだけど……」
よほど言いにくい理由なのだろうか。ビルにしては歯切れが悪い返答に、レイチェルはいよいよ振られるのかもしれないなと思った。それなら、変に言葉を濁さずにきっぱり言ってくれた方が気が楽なのだけれど。
ビルはくしゃりと髪をかき混ぜて、視線を彷徨わせていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「君は、今の僕よりも年下で……レイチェル本人と言うよりも、レイチェルの妹みたいな感覚と言うか……つまり……」
「つまり?」
「………………浮気してるみたいな気分になる」
予想外の発言にレイチェルは思わず目を見開いたが、同時に納得もした。
なるほど。レイチェルのこの状況も大概複雑だと思うが、それはビルも同じだ。『恋人によく似た、年の近い妹が恋人の留守中に自分を誘惑している』────感覚的には、そんな状況が近いのだろうか。それなら、確かに気まずいのはわかる。
しかし、当然ながらレイチェルは妹ではない。それに、ビルが誠実であろうとしている相手がレイチェルの未来だと言うのなら、こうして今のレイチェルがビルに告白していることも、その結果も知っているだろう。ビルが罪悪感を感じる必要もない。どうやら振られるわけではなさそうだと、レイチェルは唇の端を上げた。
「それじゃ、帰ったら未来の私にたっぷり言い訳して?」
抱きしめていたクッションの代わりに、ビルの首に腕を絡めた。照れているのか、目元を赤くして視線を逸らすビルが可愛い。まさか、自分より年上の男の人を可愛いと思う日が来るなんて。
思わずくすりと笑い声を漏らせば、ビルが少しムッとしたように眉を寄せる。それすらも、今のレイチェルには愛しくて仕方がなかった。
ビルの瞳の中に、レイチェルの影が映りこんでいる。それだけのことが何だか嬉しくて、もっとよく見ようと覗きこむ。目の前のレイチェルから逃げてばかりだったビルの視線を捕えて微笑むと、ビルの顔が近づいて来る。
睫毛の先が触れあうのを感じて、レイチェルは静かに目を閉じた。