「あ、ねえ。そのズッキーニ安い。おいしそうだし、3つくらい買っておきましょ」
壁一面を埋め尽くすようにして、棚の上に所狭しと並んだバスケットの中には、色とりどりの野菜が種類ごとに分けられ、ぎっしりと詰め込まれている。その中の1つを指差してレイチェルが言えば、隣を歩くビルが頷いた。レイチェルには届かない位置へと何なく手が伸びて、買い物カゴの中へと野菜が移されていく。
「確か、まだ冷蔵庫にナスとトマトが残ってたよね。夕飯はラタトゥイユでも作ろうか?」
「いいわね。そうだ、冷蔵庫と言えば、牛乳がもう残り少なかったわよね。買っておかないと」
「うん。えーと、後はヨーグルトと、シリアルと……」
ビニールのタイルの床を、カラカラとカートが滑っていく。レイチェルは買い物リストの確認をしているビルの横顔をちらと盗み見た。それから、買い物カートへと視線を戻す。カゴの中には、パンや野菜、洗剤なんかの食材や日用品ばかり。最近は買い物をビルに頼んでいたせいで久しぶりだけれど、場所だって来慣れている近所のスーパーマーケット。それなのに────。
「……レイチェル。レイチェル、聞いてる?」
「……えっ、ごめん、何?」
「うん。ヨーグルト、いつものプレーンでいい? 今日は、ブルーベリーが安くなってるみたいだけど」
「あ……これ、ブルーベリーもおいしいのよね。どうしようかな」
ヨーグルトのラベルとにらめっこして真剣に悩みはじめたレイチェルに、ビルが微笑ましそうな視線をくれる。それに気づいて、レイチェルは何だか照れくさくなってビルに見られないよう顔を逸らした。
どうしてだろう。何だか、胸のあたりがそわそわと落ち着かない。たぶん────隣にビルが居るせいだ。
いつもの買い物。いつものスーパー。それなのに、妙に気分が浮足立っている。
何てことないただの買い出しでも、誰かと一緒だと意外と楽しいものらしい。
「ねえ、ビル。聞いてもいい?」
買い物を終え、レジ袋から取り出したジュースを飲みながら、並んで家路を歩く。バスを使ってもよかったのだけれど、レイチェルにはビルと話したいことがあった。少し凹んだペットボトルを傾ければ、冷えたレモネードの甘酸っぱさが、喉を潤していく。
「ここが過去だって気づいたとき、焦らなかったの?」
話を聞く限り、かなりの異常事態だと思うのに、ビルは何だか────あまりに、落ち着き払っている。
どうして過去に来たのかも、帰る方法もわからない、なんて。レイチェルなら気が気じゃなくなりそうだ。少なくとも、こんな風にのんびりスーパーに買い出しに行けるような精神状態で居られないことは確かだろう。
「実は、タイムトラベル自体は初めてじゃないんだよ。流石にここまで大規模じゃなかったけど」
「えっ」
何でもないことのように答えたビルに、レイチェルは驚いた。初耳だ。
確かに、前にも経験したことならそこまで焦らないだろうか。あれ、でも、この間話を聞いた時は、時間旅行は規制されていると言っていた気がするのだけれど。
「前って、そのときもその……何かの呪いで?」
「まさか。学生時代の話だよ。逆転時計……タイムトラベルをするための道具があってね、それを使ってた。勿論、魔法省から使用許可はもらってたよ。何十枚も書類にサインをしたり、教授に推薦状を書いてもらったりして、手続きはかなり面倒だったけど」
どうやら目的がはっきりしていて、悪用はしないと信用に足る人物であることが証明できれば、特例で許可が貰えるものらしい。しかし、そのときのビルのタイムトラベルはせいぜい数時間────「元の時間に戻る」のに特別なことをする必要はなかったから、今回とはまた勝手が違うらしい。
「ビルにとっての目的って何だったの?」
「選択授業を全科目受講したかったんだ。1日が他の学生よりも長いし、授業も課題も多いし、過去の自分と遭遇しないように気をつけなきゃいけないしで、頭がこんがらがりそうだったけど」
「……そんな理由で許可が下りるの?」
そもそも、魔法使いに学校なんてあるの。レイチェルが思わず呟けば、ビルが説明してくれた。
魔法使いの子供は力の制御方法を学ぶために、学校へ通うことが義務付けられていて、そう言った魔法学校は世界各地にあること。ビルの母校の場合、イギリスに居る魔法使いの素質のある子供には、11歳になったときに手紙で入学許可証が届くこと────。
「魔法使いって、やっぱり皆、先祖代々魔法使いなの?」
「そんなことないよ。マグル生まれ……魔法使いじゃない両親から生まれる魔法使いも居る。まあ、やっぱり両親共か、どちらかは魔法使いだって子の方が多いけどね」
と言うことは、レイチェルにもその手紙が届く可能性はあったわけだ。だって11歳だった当時、レイチェルはイギリスに住んでいたのだから。しかし、そんな不思議を手にした記憶はないので、レイチェルには魔女になる素質はなかったと言うことだろう。
何だかちょっと残念だ。小さく溜息を吐いたところで、レイチェルはビルが不思議そうに自分の顔を見つめていることに気がついた。
「ごめんね、ビル。質問責めにしちゃって」
「いや、それは別に構わないけど……レイチェルこそ、退屈じゃない?」
「全然! 外国の話を聞いてるみたいで面白いわ」
違う文化圏と言う意味では、外国と変わらないかもしれない。
レイチェルは元々自分の知らない文化の話を聞くのが好きだ。だから、観光ガイドなんて職についているのである。大昔の人々や、遠い国々。自分には考えもつかない社会構造や価値観を知ると、わくわくする。まあ、ビルの話は、レイチェルにとってはちょっと刺激的すぎる気もするけれど。
「それに、魔法使いの話を聞ける機会なんてめったにないもの」
だから、今の内にたくさん聞いておかなくちゃ。そう言ってニッコリ笑えば、ビルも微笑んだ。
そう。こうやってレイチェルと一緒に買い物をして、同じリズムで生活をして。レイチェルと同じ言葉を喋っていても、この人はレイチェルとは違う。隣を歩いているこの青年は、レイチェルとは違う文化の中を────違う世界を生きて来た人間だ。何十マイルも離れた海の向こうよりも、もっと遠いところ。
あまりにも非現実的で、にわかには信じがたい。他人が聞けば、馬鹿馬鹿しいと笑うだろう。そんなのはレイチェルを騙すための虚言に決まっている、と。けれど、レイチェルにはどうしても、ビルが嘘を吐いているとは思えない。
ビルは本当に魔法使いで、本当に未来からやって来たのだ。
そして────たぶん、その未来においてビルとレイチェルが恋人だと言うのも本当なのだろう。だって、それだけ嘘を吐く方が却って不自然だ。
この人は────この人が、レイチェルの未来の恋人。
じゃあ、“今”のレイチェルとビルは?
恋人同士ならば、未来のレイチェルとビルは愛し合っているのだろう。なら、今のレイチェルは? 今のレイチェルにとって、ビルはどう言う存在なのだろう。 レイチェルは、ビルをどう思っているのだろう。
ただのハウスキーパー。ただの同居人。本当に、それだけ?
家に帰ったとき、部屋の窓から漏れる灯りに安心する。「おかえり」と出迎えてくれるビルの笑顔に。他愛ない会話を、楽しんでいる自分が居る。最初のうちは違和感があったはずなのに。誰かと一緒に食べる食事も、家の中に人の気配があることも、いつしか当たり前になってしまった。
『僕は未来から来た、君の恋人なんだ』
あの出会いが、もう随分と遠い昔の出来事のように思える。
レイチェルのフラットの前に立っていた、見知らぬ青年。あの日、詐欺か妄想としか思えなかった言葉は、本物だった。ビルは未来からやって来た。異邦人、と呼ぶべきだろうか。
本来なら、ここに居るはずのない人。今はまだ方法がわからなくとも、遠くない日に元居た場所に帰るのだろう。帰らなければいけない。そう、わかっているのに。
ビルと出会う前の自分の生活が、うまく思い出せない。
「レイチェル?」
名前を呼ばれて、ふいに思考の波から引き戻される。はっとして顔を上げれば、ビルが心配そうな顔でレイチェルを見つめていた。どうやら、考え事をしているうちにいつの間にかフラットまで着いていたらしい。手に握ったままだったレモネードは、すっかり温くなっている。
「体調が悪いなら、休んでてよかったのに」
「ううん。大丈夫よ。ちょっと考え事してただけ」
「ならいいけど……あれ?」
先に階段を上っていたビルが、ふいに足を止めた。
自然と、レイチェルも立ち止ることになる。一体どうしたのかと、レイチェルは背伸びするようにしてビルの肩越しに様子を窺う。そこには、どこか既視感を覚えるような光景があった。
レイチェルのフラットの前に、見知らぬ男性が立っている。ちょうど、出会った日のビルと同じように。
「ミスター・ウィーズリーですね?」
レイチェル達に気がついた男性────青年が、こちらへと近づいて来る。彼の肌はビルと違って浅黒く、砂漠の遊牧民族の着るものに似た、ゆったりとした衣服を身にまとっていた。そして、青年の口から紡がれたのも、レイチェルではなくビルの名前だった。
よく見れば、彼の手にはビルが持っていたのと同じような木の棒────杖を持っている。
「魔法省の者です。あなたを探していました。少々お話を」
遠くない日に、ビルは元居た未来に帰るのだろう。
彼は本来なら、ここに居るはずのない人だから。