甘い夢の途中

今日もまた、平穏に1日が終わろうとしている。
カーテンの向こうの空が夕焼けに染まり始めているのを見て、レイチェルは読んでいた本に栞を挟みこみ、自室を出た。いつもの通りなら、そろそろビルは夕食の支度を始める時間だ。そう考えてリビングへと足を向かわせれば、やはり冷蔵庫を前にして何やら考えてこんでいるビルの姿があった。

「ねえ、ビル。今日は、映画を観に行かない?」
「映画?」

肩越しに振り向いて不思議そうに瞬くビルに、「そう」と頷く。
こうしてビルを誘ったのには、それなりに理由がある。1つは、単純にレイチェルが何となく映画を見たい気分だった。それだけなら別に1人で見に行けばいいだけの話だ。もう1つは、ここのところレイチェルばかり外出してビルに留守番をさせていることに対して、多少の罪悪感があった。ビルの外出なんて食材の買い出しくらいのもので、あとはずっと家に居るのだ。家事を片付けた後の自由時間はあるにしろ、それだってできることは限られる。いや、まあ、住み込みのハウスキーパーってそう言うものなんだろうけれど。

「いいの? 僕も一緒に行って」
「じゃなきゃ誘わないわよ。あ、だから今日は夕食の支度はしなくていいからね。たまには外で食べましょ」

要するに、ビルの有能な仕事ぶりに感謝しているからこそ、たまには休ませてあげるべきだし、ちょっとした気分転換も必要だろうと思ったのだ。ビルの表情に迷惑そうな色がないことに安心して、レイチェルは出掛ける支度をするため再び自室へと戻った。

「何が食べたい?」
レイチェルの食べたいものでいいよ」
「いいわよ、気を遣わなくて。今日はビルの食べたいものにしましょう」

そうして30分後、夜の町へと繰り出した2人は、まずレストランを選ぶのにすったもんだした。
結局ビルが選んだのは、レイチェルのお気に入りのスペイン料理の店だった。何だか最終的にレイチェルの好きな物を選んだ気がするのだが、まあいい。おいしいアヒージョやパエリアに、ワインのほろ酔い気分も手伝って、レイチェルはご機嫌だった。

「面白かったわね」

そうして映画もまた、前評判通り楽しめるものだった。
主人公は実業家の男。恋人に別れを告げられ傷心中だった彼は、車の運転をしているうちに道に迷ってしまう。ヒロインは、そこで偶然出会ったコールガール。ひょんなことから知り合った2人は、男の仕事のために少し変わった契約を結ぶ。そのために、男には彼女を上流社会に相応しいレディに仕立て上げる必要が合った。最初は彼女を見下し侮っていた男だったが、磨きあげられた彼女の美しさや知性に驚き、また、彼女の内面にも心惹かれていく。
まだアルコールが抜けきらず、どこかふわふわとした足取りのまま、レイチェルは後ろを歩くビルを振り返る。

「ヒロインの女優さんが素敵だったわ」
「ああ、うん。そうだね」

気品あるレディへと変身したヒロインはとても魅力的だった。映画の中のヒーロー同様、レイチェルもすっかり彼女の心を奪われてしまった。同性のレイチェルですらそうだったのだから、きっとビルも同じだろうと思ったのだが、何だか気のない返事に、おやと思う。ビルの好みではなかったのだろうか。
不思議に思ってビルを見上げると、「でも」とビルが言葉を切ってレイチェルを見つめる。

「僕にはレイチェルの方が魅力的だよ」
「え?」
「なんて、ね」

白い歯をのぞかせて、ビルが綺麗に笑う。
……いきなり何を言い出すのだ、この男は。頬に熱が集まって来るのを感じて、レイチェルはビルに見られないよう顔をそむけた。毎日一緒に居るせいで忘れかけていたけれど、そう言えばビルはとてもハンサムだった。正直言ってかなり好みの顔なので、こう言う不意打ちは心臓に悪い。

「そう言う安っぽいリップサービスは結構よ」
「ひどいな。本気だよ」

照れ隠しに可愛げのない返事をするレイチェルに、ビルが苦笑する。だとしたら余計にタチが悪い。
逸らした視線の先で、ショーウィンドウのガラスに自分達の姿が映り込んでいるのが見えた。同じ年頃の男女が、軽口を叩きながら夜の町を並んで歩いている。そんな様子は、傍から見れば恋人同士のように見えるのだろうか。レストランで食事をして、映画を観て。実際、やっていることはカップルそのものだ。そう考えて、レイチェルは思わず自嘲の笑みを浮かべた。

恋人同士? ありえない。
だって、レイチェルは今隣に立っているこの青年について、何も知らないのに。

ビル・ウィーズリーと言う名前。イギリス人で、年齢は22歳。銀行に勤めているけれど、今は休職中。レイチェルがビルについて知っていることと言えば、それくらいだ。そしてそれすらも、レイチェルを信用させるための嘘じゃないと言う保証なんて、どこにもない。唯一手掛かりらしいものと言えば、あのビルのそっくりさんくらいで。
考えられるのは、あの彼はビルの双子の弟か何かで、彼と何かトラブルになったとかだろうか。金銭トラブルか、女性を巡っての三角関係か。どっちにしろ、あのそっくりさんの前には顔を出せない。そんな感じ。
たぶん、ビルは何かしら、レイチェルの手に負えないような面倒な事情を背負っている。だから、深入りするべきではないと思うのに。ビルと過ごすうちに、知りたいと思う気持ちが膨らんでいく。
彼は一体、何者なのか。どうして、レイチェルのところにやって来たのか。どうして、レイチェルの家を、名前を知っていたのか。

『僕は未来から来た、君の恋人なんだ』

初めて会ったときのあの言葉が、きっと彼の本質だ。
あんな馬鹿げたことが、まさか真実のはずがない。どんなにマトモそうに見えたとしたって、彼は普通じゃない。
ありもしない虚言を平気で口にできる詐欺師か、現実と妄想の区別がつかないストーカーか。ビルの正体なんて、そのどちらかしかないのに。

レイチェル

レイチェルの名前を呼ぶ声が、笑った顔が優しいから、勘違いしてしまいそうになる。ビルはそんな人じゃないと、信じたくなってしまう。彼が言っていることは全て真実で、彼は本当に、未来から来たレイチェルの恋人なんじゃないか、なんて。
馬鹿みたいだ。そんなSF映画みたいなこと、あるわけないのに。あんなの、作り話か嘘のどちらかに決まっている。レイチェルの目に見えるビルは、きっと本当のビルじゃない。彼はきっと、レイチェルを利用しているだけなのに。

わかっているのに、それでもビルを嫌いになれない自分が、本当に馬鹿みたいだ。

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