冷蔵庫に桃が5つ

しまった。夕方には帰るつもりだったのに、すっかり遅くなってしまった。
ヒールの硬い音を鳴らしながら、夕闇の中、レイチェルは家路を急いでいた。おろしたばかりの靴だから歩きにくい。加えて、道が混んでいたせいで、帰りのバスが遅れていたのもよくなかった。あらかじめ伝えていた帰宅時間を、もう1時間以上過ぎている。角を曲がり、ようやく見慣れたフラットが見えてくると、レイチェルはほっと息を吐いた。
急いで階段を駆け上がり、鍵を回す。

「ただいま、ビル! 今帰ったわ」
「おかえり、レイチェル

ドアを背にしたまま声をかければ、キッチンからエプロン姿のビルが顔をのぞかせる。
ここのところ、レイチェルはビルに留守を任せて外出するようになっていた。
単純に、いつまでもビルを置いては出掛けられないと言うのは不便だからだ。別にビルを信頼しているからとか、何か心境の変化があったわけじゃない。断じて。
最初はやっぱり少し不安だったけれど、実際やってしまえば何てことはなかった。10分だった外出が30分、1時間と伸びていって、最近では半日家を空けることも珍しくない。それでもやはり、特に問題はない。

「桃を買って来たんだけど」
「じゃあ冷やしておいて、デザートに剥こうか。あと20分くらいで夕食ができると思うから、先にシャワーを浴びてきたら?」
「本当? ありがとう。そうさせてもらうわ」

実にできたハウスキーパーである。
その言葉に甘えて、レイチェルは自室に鞄を置いてシャワールームへと向かった。埃っぽくなった体をお湯で洗い流すと、疲れまでも一緒に流れていくような気がする。のんびりとバスタブに浸かって温まったレイチェルがダイニングへと向かうと、テーブルの上には夕食の準備ができていた。今日のメニューは、サラダにチキンスープ。それにマカロニグラタン。グラタンはたった今焼き上がったところなのか、湯気を立てている。
もう一度言おう。実にできたハウスキーパーである。

「ごめんね、遅くなって。もう少し早く帰って来る予定だったんだけど」
「いいよ、そんなの気にしなくて。楽しかった?」

食事の支度をしてくれていたビルにしてみれば、予定より帰りが遅いと言うのは困るだろう。
そう思って罪悪感に眉を下げれば、ビルは言葉通り何でもなさそうに笑ってみせる。その笑顔につられるように、レイチェルも思わず頬を緩めた。

「ええ、とっても。ハンナ……職場の同僚に会って来たの。向こうも休暇中だから、気分転換にね」
「ああ。でも、彼女が住んでるのって確かアレクサンドリアだろう? わざわざカイロまで?」
「ええ、そうだけど……私、ビルにハンナの話したっけ?」
「前に聞いた」

…………そうだっけ?
ビルは何でもないことのように返したが、記憶を辿っても、ビルに何か同僚の話をしたような記憶はない。どうして知っているのだろうかとほんの少しの違和感を覚えたものの、まあ覚えていないだけで何か言ったのかもしれない。そう思い直して、レイチェルはビルの整った顔をじっと眺めた。そうしてふと、頭によぎった疑問が口をついた。

「ねえ、ビル。いつまでここに居るの?」

今日同僚と話していて、気がついたのだ。レイチェルの休暇も、そろそろ半分が過ぎようとしている。
レイチェルにとってはそんな何の気なしの問いかけだったのだが、ビルの動きが不自然に固まったのがわかった。
あからさまな動揺を見せたビルに、自分は何か妙なことを聞いただろうかと考えて、レイチェルははっとした。咀嚼していたレタスを飲み込んで、慌てて言い繕う。

「あの、誤解しないで。早く出てけって意味じゃないのよ」

確かに、今の発言はビルの立場からすればそうとしか思えないだろう。
そうじゃなく、純粋にただ気になったのだ。ビルにだって、色々事情はあるだろう。その“事情”のせいでレイチェルのフラットに身を寄せているにしろ、家族や友人や心配しないのだろうか。あの、ショッピングモールで見かけた何か訳ありらしいビルのそっくりさんとか────結局、彼はビルとどう言う関係なのだろう。

レイチェルには申し訳ないんだけど……未だに見通しは立ってない」

困ったように眉を下げるビルに、レイチェルは「そう」と小さく返した。
ビルの抱えているものが何なのか気にならないわけではないけれど、本人が話したがらないのなら無理に聞き出すつもりはない。むしろ、何かレイチェルの手に負えないような面倒なことに巻き込まれている可能性を考えると、下手に関わらない方がいい気もする。

「まあ、好きなだけ居たらいいわ」

レイチェルの休暇が終わるまでなら、だけれど。
素っ気なく答えて、レイチェルはまたサラダへとフォークを伸ばした。あくまでこの同居は期限付きだ。休暇が明ければ、レイチェルはまたツアー客と一緒に国中のあちこちのホテルを飛び回る生活が始まる。ほとんど家には帰って来なくなるのだから、ハウスキーパーなんて贅沢な存在は無用だ。そうでなくても、ビルの「見通し」が立てば、即座にこの同居は終わるだろう。そう考えて、レイチェルは思わず長い溜息を吐きだした。

「どうしたんだい、レイチェル
「別に……ただ、ビルが居なくなった後、大変そうだなって思って」

不思議そうな顔をするビルに、レイチェルは眉を寄せた。
ビルが来てからと言うもの、レイチェルの生活力は堕落の一途を辿っている。だって、料理も洗濯も掃除も観葉植物の水やりも────下着は自分で洗っているし自室の掃除は流石にビルにやってもらってはないが────面倒なことは全部ビルがやってくれているのだ。料理の後片付けも、皿洗いもしなくていいなんて、1人で暮らしていたら普通ありえない。
実家に居た頃もハウスキーパーが色々と世話を焼いてくれたから、里帰りをしているようなものだと割切ればいいのかもしれない。実際、そんな生活が当たり前だったレイチェルは、エジプトに来てすぐの頃、結構苦労した。実家とは勝手が違ったと言うのもあるが、やっぱり主な原因はレイチェルが決定的に家事能力に欠けていたことだ。何もかも自分でやらなければいけないと言うのに驚き、自分が何もかもできないことに驚き。お気に入りの白かったはずのブラウスが自分の“洗濯”によってピンク色に変わっていた時には、お嬢様育ちには自活なんて無理だと言う友人達のからかいは正しかったと認めざるをえなかった。
今でこそ人並みに料理も洗濯もできるようになったが、最初の頃は失敗ばかりで、一通りをこなせるようになるにはそれなりに長い時間が必要だった。今でも正直、家事は決して得意ではないので、ビルの存在はありがたい。

「それは光栄」

そう言って、ビルが悪戯っぽく笑ってみせた。そうして、レイチェルの前にデザートの皿が置かれる。冷蔵庫で冷やされた桃は、綺麗に皮を剥かれて艶々とおいしそうだ。何となく悔しいから口に出す気はないけれど、絶対、果物の皮を剥くのはレイチェルよりもビルの方が上手い。と言うかたぶん、家事全般ビルの方が上手い。
フォークを突き立てて、口へ運ぶ。おいしい。甘い桃の香りと、甘酸っぱさが広がって、レイチェルは思わず顔を綻ばせた。おいしい。

「桃が少し余ったから、明日の朝ジュースにしようか」
「うん」

本当に、レイチェルのハウスキーパーは有能だ。

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