云ったら君はどこへ行く

結局、ビルのそっくりさんについては詳しいことは何もわからなかった。
レイチェルが積極的に聞き出そうとしなかったせいもあるが、昼食に入ったチャイニーズレストランでも、ビルは意図的にその話題を避けているように思えた。代わりに聞けたことと言えば、ビルの家族の話くらいだ。どうやら、ビルは7人兄弟の一番上らしい。やんちゃな弟たちの話は、嘘か本当かわからないが面白くて、レイチェルはビルが話している間くすくす笑いが止まらなくなってしまった。
その後は、レイチェルは自分の買い物をしないのかとビルが気にするので、雑貨屋やアクセサリーショップなんかをぶらぶらと巡って。アクセサリーと言えば、いつの間に買ったのか、ビルは帰り際レイチェルにプレゼントをくれた。受け取れないと言うレイチェルに、高いものじゃないからとビルは半ば無理矢理握らせてきた。金の台座の真ん中にルビーのような赤い石。その周りを透明な石が囲っている、小ぶりなピアス。たぶん大きさから言っても宝石ではなくガラスだろうけれど、とても綺麗だ。レイチェルは一目でそれが気に入ってしまった。
1日連れ回してしまったからと、夕飯はテイクアウトのもので済ませて。一緒にソファに並んでビデオを見た。
今日は楽しかったなあ、だとか。なんかまるでデートみたいだったな、とか。眠りにつく前に、そんなことを考えたのがいけなかったのだろう。
嫌な夢を見てしまった。

「私の夢は、エジプトに行ってガイドをすることなの」

パパとママが、昔夏休みでエジプトに連れて行ってくれたの。気球に乗ったときに見た、イギリスとは違う青い空がとっても綺麗だった。大昔の人達が作ったピラミッドも、オクトーバー橋から見下ろしたナイル川も、白い砂漠も、何もかもが鮮やかだったわ。だから今度は私がその素晴らしさを誰かに教えてあげたいと思ったの。それが私の夢。

レイチェルみたいなお嬢様には無理なんじゃないの?」

そう言うと、大抵、そんな風にからかいの言葉が返ってきた。同級生達のくすくす笑いが耳を撫でる。
夢見がちのお嬢様の戯言ね。何にもわかってないのよ。どうせ、現実を知ったらこんなはずじゃなかったって泣いて逃げ出すに決まってるんだから。

「エジプトでガイドって、それって一人暮らしをしてってことでしょう? イギリスみたいに便利じゃないし、お手伝いさんだって居ないのよ?」

仲の良い友人までもが、そう言って顔を曇らせたのがレイチェルにはショックだった。
今にして思えば、あれはレイチェルを心配してくれてのことだとわかる。確かに一般的な基準から言えば、レイチェルの家は裕福だった。家にはメイドがたくさん居て、料理だって家事だって何だって代わりにやってくれる。お嬢様育ちと言われてしまえば否定しようもない。

「エジプトなんて、危ないわ。ねえ、レイチェル。パパとママを愛しているならやめてちょうだい」
「大事な一人娘を、そんな遠い所にはやれない。レイチェル、考え直すんだ」
「ねえ、レイチェル。夢を持つのは素晴らしい事よ。けれど、現実は貴方が思うほど、甘いものじゃないわ。ねえ、レイチェル。大学に行きなさい。ご両親もそう望んでいるのよね?」

両親も、先生も、レイチェルの好きな誰もかもが、レイチェルの夢を否定する。レイチェルが幼い頃は、一緒になって素敵な夢だと笑ってくれたのに。レイチェルが本気だと────本気で夢を実現させようとしているのだとわかった途端に、手のひらを返す。そんな夢は諦めて、現実を見なさいと。

「素敵だね」

そう言ってくれたのは、彼だけだった。彼だけが、レイチェルの夢を応援してくれた。
レイチェルの、初めての恋人。手を繋いだのも、デートも、キスも。何もかも、彼がレイチェルにとっての初めてだった。
彼が穏やかな笑顔でそう言ってくれたから、頑張ろうと思った。彼が居てくれれば、頑張れると思った。
だから────、だから。卒業したらエジプトに渡るつもりだと、真っ先に彼に伝えたのは、彼への感謝のつもりだった。彼ならきっと、おめでとうと言ってくれると思った。喜んでくれると思った。喜んで欲しかった。

「君は俺より、自分の夢の方が大事なんだね」

傷ついたような目をする彼に、レイチェルは声が出なくなった。
違うわ、そうじゃない。私だって貴方が大切よ。貴方と離れたくなんてない。でも、夢だったから────貴方が応援してくれた夢だから、叶えたいと思ったの。
素敵だと言ってくれたのは、嘘だったの?

「    」

彼の名前を呼んだところで、目が覚めた。
ベッドから上半身だけ起こした姿勢のまま、荒い呼吸を繰り返す。今居るのが見慣れた自分の部屋であることに、肩の力を抜いた。枕元の時計が針を刻む規則的な音が、いやに響く。
額を伝う冷たい汗に溜息を吐いて、レイチェルはベッドから抜け出した。

「あれ……レイチェル?」

眠れそうにないので何か飲もうとリビングに行くと、暗闇の中、ソファのあたりで人の動く気配がした。明らかに寝起きだとわかる掠れた声が、レイチェルの名前を呼ぶ。足音には気をつけたつもりだったのだけれど、気配で起こしてしまったようだ。

「ごめんなさい、ビル……起こしちゃった?」
「それはいいけど……どうしたの、こんな時間に」
「……ちょっと、夢見が悪くて」

違う、ただの夢なんかじゃない。あれは、レイチェルの過去だ。
唯一自分の夢を応援してくれていたはずの恋人の拒絶に、裏切られたような気がした。もう誰も信じられなくなりそうだった。
彼でさえそんな反応だったのだから、どうせ説得しても無駄だと────そう決めつけて、卒業するのと同時にスーツケースを片手にイギリスを後にした。友人も、家も、両親の愛情も、何もかも置いて来た。このフラットを借りて、外国人でも雇ってくれる旅行会社を探して、頼みこんでガイドとして働き始めて。寂しさを忘れるように、がむしゃらになった。
レイチェルの覚悟が本気だと伝わったのか、それでももう反対しても無駄だと諦めたのか。2年が経った今では両親もレイチェルの夢を応援してくれている。けれど、逃げ出すようにエジプトへ来たせいで、彼らや友人達との間にしこりができてしまったのも確かだった。
冷蔵庫から出したミネラルウォーターを口に含む。乾いた喉が潤えば、少し気分も落ち着いた気がした。

「ちょっと……何するの」

ふいに背中に体温を感じてレイチェルは顔をしかめた。後頭部にキスを落とされたとわかって、レイチェルはビルの腕の中から逃げ出す。そうして体を反転させてビルを睨めば、今度は腕を引かれた。自然と、ビルの胸へと顔を寄せるような形になる。

「何なの……やめてよ」
「ごめん。でも、人の体温って、安心するからさ」

ぽんぽんと、小さな子供にするみたいに頭を叩かれる。抱きしめられていると言うのにいまひとつ危機感が働かないのは、ビルの言う通り人肌に安心したのと、その手つきが優しくて心地良かったからだろう。いや、実際、抱きしめられていると言うほどの強引さはなかった。ビルの腕は、レイチェルの背中に軽く回されているだけで、抜け出そうと思えば簡単に抜け出せるだろう。さっきみたいに。
ふいに目頭が熱くなって、涙腺が緩む。あ、駄目、泣きそう。泣き顔を見られたくないから俯いて、ぐすりと鼻を啜る。

「私に指一本でも触れたら、追い出すって言ったじゃない」

忘れたのと、震えそうになる声で呟く。最初の日に出した条件だ。レイチェルに気安く触れようとしたら、出て行ってもらう。ビルはそれにわかったと頷いたし、実際今の今まではレイチェルに触れようすらとしなかった。
沈黙が落ちる。レイチェルが言葉を待っていると、耳元でビルが笑った気配がした。

「覚えてたけど。そんな理由で、泣きそうなレイチェルを放っておく方が嫌だよ」

その、あまりにも優しい声に。かあっと首筋から熱が這い上がる。暗がりでビルにはバレていないだろうけれど、今のレイチェルの顔はきっと赤い。
ビルの胸を押して、腕の中から抜け出す。心臓の鼓動が、さっきまでとは違う意味でうるさい。ビルのせいで憂鬱な気分はすっかり吹き飛んでいた。けれど、ありがとうと言うのは何だか癪だったので、無言のままビルから離れる。もういいから部屋に戻ろう。急ぎ足でビルから距離を取る。リビングのドアノブへと手をかけたところで、レイチェル、とビルが遠慮がちな響きで名前を呼んだ。

「それで、やっぱり僕は出てった方がいいのかな」

どこか不安そうな口調に、レイチェルは気がついた。確かに、これでレイチェルには堂々とビルを追い出す口実ができたわけだ。いくらハウスキーパーとして優秀でも、自分の恋人を自称する、それも未来から来たなんて虚言を口にする不審者なんて、やっぱり長くは関わり合いにならない方がいい。ルール違反を犯したのはビルの方なのだから、罪悪感を持つ必要もない。これは、彼とさよならできる絶好の機会だ。明日の朝出てってと、そう言えばいい。たったそれだけでいい。
なのに。

「……好きにすれば」

そのたった一言が言えなかったのは、どうしてだろうか。

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