毒か蜜かもわからない

結論から言えば、レイチェルはビルをしばらくの間家に置くことになった。
とは言っても、ただの居候ではない。レイチェルはタダ飯食らいを養えるほど経済的に余裕があるわけではないし、困っているのだから放っておけないなんて博愛的なボランティア精神に富んでいるわけでもない。単純な労働を対価とした────まあ、言ってみれば雇用契約だ。
レイチェルの休暇が終わるまでの間、ハウスキーパーをしてくれるのなら、寝る場所と食事は提供する。ただし、レイチェルの気に入らないことをしたらすぐにでも出て行ってもらう────それがレイチェルがビルに出した条件だった。気に入らないことと言うのは、レイチェルの私物に勝手に触るとか下着の引き出しを開けるとか財布の中のカードを勝手に使うと言ったことも勿論だが、キスやハグと言ったスキンシップ含めてだ。要するに一緒に住んでいるからと言って気安く手を出そうとするなと言うことである。

「つまり、レイチェルが嫌じゃなかったらいいってこと?」
「そうね。そんな状況があったとしたらね」

からかうように笑ったビルに、レイチェルは無表情で返した。
食費が1人分増えるだけならば金銭面でもそこまでの負担ではないし、何よりせっかくの休暇だ。あくせくと家事に追われるよりは、趣味に時間を使いたいし、のんびりしたい。レイチェルにとっても悪い話ではなかった。現にこの3日間、ビルがせっせと食事や掃除をしてくれたおかげでレイチェルは読みたかった小説を10冊を読破できてしまった。

「ねえ、レイチェル。貴方、恋人ができたの?」

一人暮らしの女の部屋に、男が出入りしている。一般的に言って、その状況は傍から見ればそう認識されるだろう。それはレイチェル達だって例外ではない。
お隣の新婚夫婦の奥さんにキラキラした目で問われて、レイチェルは困惑した。お裾分けにと果物をくれたが、どうやら本題はこれだったようだ。別に隠し通そうとコソコソしていたわけではないけれど、まさかたった数日でビルの存在を他人に知られることになるとは。どうやらごみ捨てのときに偶然バッタリ会ったらしい。

「あー……まあ、そんな感じ」

レイチェルは曖昧に笑みを浮かべた。もちろんビルとレイチェルは今も昔も恋人同士なんかじゃないが、押しかけてきた見知らぬ男を泊めた上、そのままハウスキーパーとして雇ったなんて事実をそのまま話してしまうよりは、その誤解を放置しておいた方が幾分かマシに思えた。

「彼、とってもハンサムね!どこで知り合ったの?」
「秘密」

レイチェルは曖昧に微笑んで誤魔化すことにした。何だか見栄を張っているみたいで居た堪れない気持ちになるが、詳しく話すわけにはいかないのだから仕方ない。おしゃべりな隣人の追及をかわし、どうにか会話を切り上げて彼女を部屋へと見送る。ふうと一息ついて顔を上げると、すぐそこに買い物帰りのビルが立っていた。

「知らなかったな。僕っていつの間にかレイチェルの恋人にしてもらえたんだ?」

どうやら会話を聞かれていたらしい。悪戯っぽく笑うビルに、ばつの悪い気持ちになる。隣人を誤魔化すために仕方なかったとは言え、今の会話だけじゃ、まるでレイチェルがビルの虚言を認めたみたいじゃないか。そんなの、本気にされたら困る。レイチェルは自分より背の高いビルを、じろりと睨み上げた。

「……そう言うことにしておいた方が、面倒くさくないでしょう」

それだけよと念押しして、レイチェルはさっさとドアを閉めてリビングへと向かった。
自分の貞操観念や倫理観はごくごく一般的だと思うし、実際ビルとレイチェルの間には何もない。が、この国の人々のそう言ったことへの価値観はレイチェルよりよほど厳格なのだ。知られれば確実にレイチェルにいい方向には働かない。ビルだって、この国に住んで長いならわかっているはずなのに。

「ごめん、レイチェル。気を悪くした?」
「……別に」

表情に出したつもりはないのに、ビルはレイチェルの不機嫌の虫に気づいたらしい。背中を追いかけてくる声に、困ったような響きが混ざる。レイチェルはそれに対しても、素っ気なく返すだけだった。
別に、怒ってはいない。怒っているとしても────ビルに対してじゃない。苛立つのは、自分に対してだ。
恋人だと言ってしまったのは、仕方なかったと思う。だって、それが一番波風が立たないから。
けれど、その前に。嫌じゃなかったのだ。恋人なのと聞かれたとき、困ったなとは思ったけど、全然嫌じゃなかった。そんな自分にムカムカする。まさか、もうその気になった? そんなに軽い女になったつもりはないのに。

レイチェル。紅茶を淹れるけど、アッサムでいい?」
「……うん」

ご機嫌取りのつもりなのかもしれない。遠慮がちに尋ねてくるビルに頷けば、明らかにほっとした表情になったのが何だかおかしかった。別にビルに怒ってなんかいないのに。ただ、勝手にレイチェルが図星を指されたような気になっただけだ。ビルは悪くない。

「……ありがとう、ビル」
「どういたしまして」

程なくして、ビルが差しだしてくれたティーカップはレイチェルのお気に入りだった。そうして、口元に運んで────ふと気付く。最初のうちはやっぱり、何か入っているかもしれないと、警戒していたのに。こんなところにも、自分がほだされているのを感じて、レイチェルは何とも言えない気分になる。無意識のうちに、かなりビルに対して気を許してしまっている。たぶん、自分で思っている以上に。
とは言え、ビルにも、まして淹れられた紅茶にも罪はない。レイチェルはテーブルへと戻しかけたカップを再び口へ運んだ。

「……甘い」

どうしてわかるんだろう、と思う。
アッサムはそんなに好きじゃないけれど、イライラした時には飲みたくなる。ちょうどこれくらいの、砂糖とミルクがたっぷりの。温かな液体が胸を過ぎて行くと、ほっとする。さっきまでのささくれた感情が、溶けていくのがわかる。

まだ、100%信用したわけじゃない。信用してはいけない。

頭ではそう思うのに、段々とビルに対して冷たい態度が取れなくなってきている。
家族以外の他人が自分の生活に入り込んでくるなんてストレスを感じて当然なのに、ビルと居るのは不思議なほど楽だった。落ち着く、と言ってもいい。
レイチェルが1人になりたいときは話しかけてこないし、してほしくないと思ったことはしない。距離感をわきまえていると言うか、何と言うか。まるで、本当に一緒に暮らしている恋人同士みたいだ。出会ってからまだ1週間しか経たないことを思えば、それは本来「おかしいこと」なのだが────今のところ、それは一切悪い方向には働いていない。

「夕食はコズバレイヤでいいかな」
「うん」

提示されるメニューは、当たり前のようにレイチェルの好物だ。これもきっと、偶然じゃないのだろう。
クッションを抱きしめたままぽふりとソファに寝転がって、レイチェルは夕食の支度を始めたビルの背中を眺めた。
まずいよなあ、と思う。この状況の、何もかもがまずい。見知らぬ男を泊めて、その上ハウスキーパーにして。そして、ただの事務的な雇用関係ならまだしも、かなり気を許してしまっている。しかも、その男はレイチェルの恋人を自称するストーカーだ。未来から来たと言う虚言の件もある。
理性が大音量で警戒信号を鳴らしているのに、感情はビルならば大丈夫だと信じたくなってしまっている。本当にまずい。極めつけは、この異常な状況を心地良く感じてしまっているのだから本当にどうしようもない。

随分と無害なストーカーも居たものだと、レイチェルは小さく溜息を吐いた。

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