いくら体は休息を求めていると言っても、扉一枚向こうに見知らぬ男性が居る状況で安眠できるほど、レイチェルの神経は図太くできていない。天井を見上げながら、レイチェルはビルについて思考を巡らせた。
やっぱり、好青年然としているのはこっちを油断させるための演技なのだろうか。あまり人を疑いたくはないが、そう考えるのが自然だ。レイチェルが眠った頃を見計らって、無理矢理部屋に押し入って来るかもしれない。金を出せと脅されるかもしれないし、襲われるかもしれない。ナイフを突きつけられるかもしれない。冷静に考えればやはり、相当危険な状況だ。もしもレイチェルと同じ状況の人間が被害に遭ったとニュースで知ったら、どうして見知らぬ男を部屋に上げたりしたのかと呆れるだろう。
やっぱり、今からでも警察を呼んだ方がいいだろうか? レイチェルは電話へと手を伸ばした。が、結局はダイヤルする前に、受話器を戻す。
危険だ、警戒しなければいけない。信用してはいけない────そう警告する自分が一方で、彼はそんな人じゃないから大丈夫と、そんな風に信じている自分が居る。本当に困っているように見えたし、悪い人には見えない。レイチェルを恋人だと信じているのも、何か理由があってのことなのかもしれない。
とは言え、出会って間もない人間を無条件に信じるのは賢明ではない。
ドアは鍵をかけたし、念のために貴重品も隠した。枕元には護身用の銃もある。必要がないことを祈るが、用心に越したことはないだろう。
もしも無事に明日を迎えられたら、ビルの素性について聞いてみよう。そうだ、どうして私の名前を知っていたかも聞かないと。この場所もだ。それから、それから────。
結局、考えているうちに眠ってしまったらしい。気づいた時には、カーテンの向こうの空はすっかり明るかった。
「おはよう。レイチェル」
「……おはよう」
もしかしたら朝になったら金目のものと一緒に姿を消してるんじゃないかと思ったが、ビルは昨夜と同じにリビングに居た。どうやらあれこれ考えたのは杞憂だったらしい。疑って悪かったかなと一瞬罪悪感が湧いたが、まともな人間なら疑って当然だったと思い直した。あまりにも呆気なく朝を迎えてしまったことに戸惑っていると、ビルがにっこり笑ってみせる。
「キッチンを借りていいなら、朝食を作るけど」
「……お願い」
「ベーコンエッグでいい?」
「任せるわ……」
あまりにも平和すぎるやり取りに、何だか拍子抜けする。レイチェルが寝ぼけ眼で新聞へと目を通している間に、ビルは手際よく調理を始めていた。どうしてフライパンや調味料の場所を知っているのか────その疑問には気づかなかったことにしておいた方がいいのだろう。
「はい、どうぞ」
トン、と軽やかな音と共に置かれた皿の上で、ベーコンの焼けた匂いが鼻腔をくすぐる。もしかしたら、睡眠薬か何か入っているかも。そんな考えが一瞬頭をよぎったが、その可能性は低いだろうと考え直した。何かするつもりなら、わざわざレイチェルが起きるまで待ったりせず、熟睡している間にやっているはずだ。
「……おいしい」
「それはよかった」
思わず漏れた言葉に、ビルが微笑む。お世辞ではなく本当においしかった。特別料理上手と言うよりも、塩加減とか卵の半熟具合なんかが何ともレイチェル好みなのだ。薄く焼き色のついたトーストを飲み込んで、レイチェルは目の前に座るビルへと問いかけた。
「今日は行くところはあるの?」
「いや。ないよ」
「……そう」
一晩は泊めてあげたんだからもう出てって、と────そう告げたら、きっとその通りになるだろう。レイチェルには何故だかそんな確信があった。別に、今すぐ追い出したいわけではない。かと言ってずっと居られるのも遠慮したいが。もっとずうずうしければ遠慮なく突き放せるのに、妙なところで遠慮がちだから対処に困る。
「……そう言えば、自己紹介がまだよね。私はレイチェル・グラント。2年前にイギリスからこっちに来て、観光客向けのガイドをやってる。今はハイシーズンじゃないから、溜まった休暇を消化中……だから、基本的には毎日家に居るから」
「うん」
だから空き巣狙いなら無駄だと牽制しておくつもりだったのだが────既に知っているとでも言いたげな何の感動もない返答に、レイチェルは眉を顰めた。もしかして、本当に知っていたのだろうか?……怖いから考えるのはやめておこう。
「じゃあ、私からいくつか質問をしていい?」
「勿論」
何でもどうぞとビルは笑ってみせたが、何から聞けばいいだろう。レイチェルが今ビルについて知っていることと言えば、名前と、やたらに顔の整っている不審者で、自称レイチェルの未来から来た恋人と言うところまでだ。そう情報を整理して、何故そんな人間を泊めてしまったのかと言う後悔が胸に湧いてくるが、終わってしまったことは仕方ない。
「イギリス人よね?」
「そうだよ」
「旅行? それとも住んでるの?」
「4年前からエジプトに住んでる。ちょっと理由があって、自分の家には帰れないんだ」
「4年前って……年齢は?」
「22。レイチェルと同じだよ」
「……私、まだ20なんだけど」
正確には次の誕生日で21になるが、少なくとも「同じ」ではない。疑問符を浮かべるレイチェルに、ビルは「ああ、ごめん。そうか」と何やら一人で納得している。……もしかして、それも未来から来たと言う設定の一環なのだろうか。いや、いい。突っ込んだら負けだ。
「職業は?」
「銀行に勤めてる。けど、今は休職中みたいなものかな」
「しばらく泊めてほしいって言ってたけど、具体的にはいつまで?」
「……それが、わからないんだ。レイチェルの好きなときに追い出してくれていい。今日この後出て行けって言うなら、そうするよ」
────ほら、やっぱり。さっきレイチェルが予感した通りだ。今すぐ出て行くなんて言われると、追い出すのが可哀想に思えてくるからずるい。しかもそれが、レイチェルに引き留めてもらうためじゃなく、本気で言っているのだとわかるから。とは言え、またも安請け合いをするのは躊躇われたので、そこには触れないことにした。
「どうして、私の家や名前を知ってたの?」
これこそが本題だ。ガイドと言う仕事柄、レイチェルはイギリスからの観光客と接する機会も多い。その人達には名乗るし、場合によっては名刺も渡す。けれど、ビルは客ではないとはっきり言える。
ガイドは客の顔を覚えるのも仕事だ。自分の担当ツアーにこんな美青年が居たら絶対に忘れるはずがない。それにもし客だったとしたって、やはりレイチェルのフラットの住所まで知っていると言うのはおかしい。訝しげに見つめるレイチェルに、ビルは微笑んだ。
「言っただろ?僕は君の未来の恋人だからね」
全く答えになっていない返答に、レイチェルは閉口した。ダメだ。さっきまでは、まともに会話が成立していたのに。
変人だと思ったら妙に常識人じみていて、かと思ったらやっぱり変人で。悪人ではないと思うのだが、今ひとつ掴めない。レイチェルは溜息を一つ吐いた。今はこれ以上の質問は諦めよう。
中断していた食事を再開しようとして、レイチェルはヨーグルトに入れるジャムを出し忘れていたことに気がついた。すると、レイチェルが動く前にビルが立ち上がる。冷蔵庫から出してくれたのは、レイチェルのお気に入りのラズベリージャム。
「これ?」
「ああ……うん、そう……」
だから、どうしてわかる。
結局、この人は何者なのだろう。詐欺師か、ストーカーか。虚言でレイチェルを騙そうとしているにしろ、本当に恋人だと信じ込んでいるにしろ、どんなに善良そうに見えたとしてもまともじゃない。そして、さっきからこのレイチェルに関するあれこれを把握している様子から見ると、後者の可能性が高いような気がする。
どこかで偶然レイチェルに一目ぼれして、家を突き止めて、生活習慣なんかも調べた────そんな感じだろうか。別に誰もが振り返るような美女と言うわけでもないし、レイチェルのどこがそんなに気に入ったのかは謎だけれど。
「紅茶が入ったよ」
「……ありがとう」
そうやって淹れてくれた紅茶もまた、絶妙にレイチェル好みだ。頭がすっきりする渋みのあるダージリンで、ミルクはなし。角砂糖は1つ。何と言うか、知りつくされている。
普通に考えてかなり気持ち悪いはずなのだが、驚きはするものの嫌悪感が薄いのは、ひとえにビルが美青年だからのような気がする。目の前のビルはただ紅茶を飲んでいるだけなのに、やけに絵になる。レイチェルの視線に気づいたビルが微笑んだので、レイチェルはパッと視線を逸らした。
こんな奇妙な出会い方じゃなければ、確実に好意を持っていただろうと思うと恐ろしい。