暑さのせいだ、とレイチェルは小さく溜息を吐いた。
透明なグラスの中で、ストローで回された氷がカラカラと涼しげな音を立てる。ぐったりとソファの肘かけにもたれるレイチェルから少し離れたところで、ビルはレイチェルが淹れてやったアイスティーを飲んでいた。レイチェルに合わせて買ったソファでは、長い脚を持て余してしまっている。その光景を見て、レイチェルはもう一度、暑さのせいだと強く確信した。
クーラーとアイスティーによって少しばかり冷えた頭は、この状況の異常性をレイチェルの頭に再び激しく警告していた。何だってつい30分前の自分は、この目の前の青年を泊めてあげるだなんて安請け合いしてしまったのだろう。相手は見ず知らずの、しかも自分と同じ年頃の異性だ。友人や知り合いならばともかく、名前以外何もわからないと来た。いや、名前以外にも情報がないこともなかった。自称未来から来た、自称レイチェルの恋人であると言う、ない方がよっぽどマシな気がする情報が。全くもって、自分の愚かしさを呪うほかない。唯一の不幸中の幸いは、今のレイチェルには義理立てしなければいけない恋人が居ないことだろうか。いや、やはりこれは別に幸いではない。
彼が一体どう言う人物なのか、追い追い知る必要はあるだろうけれど、今はとりあえずやめておこう。これ以上疲れたくはない。レイチェルは額を押さえて、ふうと息を吐いた。
「あー……ミスター・ウィーズリー?」
「ビルでいいよ」
「そう。じゃあ、ビル」
向けられる親しげな笑みに、ペースを崩されそうになる。初めて入る他人の部屋のはずなのに、ビルはやけにくつろいだ様子だった。まるで、何度もこの部屋に来たことがあるみたいに────そう考えて、レイチェルは顔を顰めた。いや、まさか、いくら何だって。
精神衛生を保つためには、これ以上考えてはいけない。レイチェルは気を落ち着かせようと、一度深呼吸をした。
「さっきは、突然だったからもう仕方ないけど」
さっきの、と言うのはいきなりのハグとキスの話だ。そりゃあレイチェルだって友人相手ならばそう言ったこともするけれど、ビルは会ったばかりで友人なんかじゃない。この調子で馴れ馴れしく振る舞われるのは非常に危険だ。そして、驚きはしたものの、不快に感じなかった自分が何よりも危険だ。アイスティーを口に運ぶだけの何気ない動作ですら絵になってしまうのだから、ハンサムと言うのは恐ろしい。しかしだからと言って、ほだされてはいけない。どんなにまともそうで善良そうに見えたって、目の前のこの青年は未来から来たなんて真面目に言ってのける人間なのだ。
「次、私に指一本でも触れようとしたら、出て行ってもらうから」
レイチェルはできるだけ威厳を持って聞こえるように努力した。初対面の人間───しかも極上の美青年に対して尊大に振る舞うことに対して気が引けないわけではなかったし、自分でも嫌な感じだなと自己嫌悪に似た気持ちがちくちくと胸を刺す。けれど、冷静に判断すれば、レイチェルが気まずくなる必要なんてないのだとも思った。この部屋の家主はレイチェルで、ビルはレイチェルの気まぐれと厚意によってこの場に存在しているのに過ぎないのだ。実際に追い出すことは半分諦めているにしろ、この目の前の青年には、レイチェルの機嫌を損ねれば今夜の宿がなくなるのだと肝に銘じてもらわなければならない。そして。「私……私は、あなたの恋人じゃない」
レイチェルは掌の中のグラスを強く握りしめた。相手はなぜだかレイチェルの恋人を自称しているからして、この真っ向からの否定は逆上させてしまうかもしれないと言う不安もあったが、どうしたって強く否定しておかなければならない。家に上げはしたものの、それは彼の妄想の通りレイチェルが彼の恋人だからでも、レイチェルがそれを信じているからでもない。美青年に好意を抱かれていると言う状況は喜ぶべきなのかもしれないが、それが勝手に恋人だなんて妄想を膨らませるところまでいきすぎてしまえば単純に恐怖だ。「あー……」
納得したような、落胆したような。複雑な響きの声だった。ビルは何かに思いを巡らせるように、そっと目を伏せた。長い睫毛が頬に影を作る。
「ごめん。つい、嬉しくて……もうしない」
予想外の反応に、レイチェルはまたもや拍子抜けしてしまった。どうしてそんなに冷たいことを、とか喚かれるかもしれないと思ったのに。トーンの下がった声は、心底彼が反省しているのだと感じさせて、何だか気まずくなる。これじゃまるで、レイチェルがものすごく酷いことを言ってしまったみたいだ。
「……随分、聞きわけがいいのね」
皮肉が半分、素直な感想が半分だった。不審者のくせに、どうにもさっきから反応が常識人じみている。不審者ならもっと不審者らしくしてほしい。そうすればこちらも遠慮なく冷たく対応できるのに。いや、やっぱりそれはそれで困る。レイチェルが眉根を寄せると、ビルは困ったように微笑んだ。
「僕にとって、君は恋人だけど……君にとっては、あくまで未来の話だから」
寂しそうな表情に、レイチェルの胸がちくりと痛んだ。ああ、まただ。彼の目があまりにも澄んでいるから、その言葉が本当なんじゃないかと思えてくる。彼は本当に自分の恋人で、自分はどうかして彼の記憶を忘れてしまったんじゃないか────そんな風に。
カラン、とまた溶けた氷が音を立てる。気まずい沈黙に耐えきれなくなって、レイチェルは勢いよくその場から立ち上がった。
「……私、もう寝る。でも、ベッドは一つしかないの。だから、リビングで悪いんだけど……ソファ、一応寝られるスペースはあると思うから」
「十分だよ。ありがとう」
ほら。恋人だと主張するくせに同じベッドでとごねるかと思えばそうでもない。レイチェルはつくづくこのビルと言う青年がわからなかった。
不審者のくせに、何だってそんなに真っ当なのだ。だからこそ、警戒できない。もっと、気持ち悪いとか、怖いとか、そう言った負の感情を抱いて然るべき相手だ。たとえ警察に連絡してお引き取り願ったとしたって、レイチェルが責められる謂われはないはずだ。もっと毅然とした態度を取っていい。間違ってもこんな風に同じソファに座ったりするのは本来適切ではない。断じて適切ではないのだ。
そうしてそのまま部屋へと向かおうとしたところで、レイチェルはふと、足を止めてビルを振り返った。
「……言っておくけど、いつもこんなことしてるわけじゃないのよ」
不審者相手にこんな言い訳をする必要もない気がしたけれど、相手が美青年ならば初対面でもホイホイ家に上げてしまう軽い女だなんて誤解されるのは心外だ。あくまでも本当に困っているみたいだったから仕方なくであって、そう言うつもりで家に上げたんじゃない。
憮然と言い放つレイチェルを、ビルはきょとんとした顔で見返す。そして。
「知ってるよ」
ふ、とビルは表情を緩めた。まるで、愛しいものを見るような────恋人に向けるような優しい目が、レイチェルを見つめる。
レイチェルは何も言わず、そのまま寝室へ向かった。パタリとドアを閉めて────ドアを後ろ手にしたまま、ずるずると壁伝いに床へと崩れ落ちた。クーラーは効いているはずなのに、自分の頬がやけに熱を持っていることに、気がつかずにはいられなかった。
「あー、もう……」
これではいけない。馬鹿じゃないの。馬鹿じゃないの、自分。不審者相手に、何をときめいているのだ。
警戒しなければいけないと思うのに、できない。なぜだか彼は大丈夫だと────信用できると、思ってしまう。どうしてだろう。
「あれは不審者よ。不審者なのよ、レイチェル」
正気になりなさい。2度、3度と頬を叩いて、自分に言い聞かせる。
いきなり人の恋人を名乗る男なんてまともじゃない。そもそも何者なのかもわからないし、教えてないのに勝手に人の名前を知っているのも、人のフラットの場所を付き止めてるのだって気持ち悪いわ。そうでしょ?
頭ではそう思うのに。熱はまだ引かない。
────何だかやけに疲れた。柔らかなベッドに身を投げて、レイチェルは大きく溜息を吐いた。