デザートにマンゴーが食べたくなった。レイチェルが夜の町へと買い物に出かけた理由は、そんな単純なものだった。
バカンスを満喫する観光客の姿が通りから消えると、夏の終わりを感じさせる。
とは言え通りは人で溢れて騒がしく、湿っぽい感傷は似つかわしくないように思えた。ビロードのような濃紺が空に広がり、夜がすっかり更けても、この町は眠らない。神話の時代から太陽に愛されたこの地は、日中ともなれば温度計は人体と変わらない数値を指し示し、強い日差しの下を長く歩けば汗が噴き出す。だからこの町では、人々は夏の間は空が太陽の支配下にある時間は出歩かないのが常だった。
青い空と太陽に焦がれてこの地へとやって来たレイチェルにとって、その事実はほんの少しの落胆をもたらしたが、今ではこの夜の活気をすっかり好んでいた。乾燥して埃っぽい空気は、はじめのうちは雨の多い故郷への懐かしさを募らせたが、慣れてしまえばそう悪いものでもない。とは言え、いくら日中に比べれば涼しいとは言っても、雪に慣れ親しんで育った身は元来暑さに強くできていない。目当てのマンゴーの詰まった紙袋を抱え、レイチェルはクーラーを求めて家路を急いでいた。
大通りから2本外れて、更に一本奥の路地。ありふれたレンガ造りのフラットが見えてくると、自然と足取りは軽くなる。ここまで来れば、あとほんの少し。これで後は涼しい部屋の中、ソファでくつろぎながら新鮮なマンゴーを食べられるのだ。久々に訪れた優雅な夜更けに胸を躍らせ、階段を駆け上がる。そして、そのまま部屋へと一直線────の、はずだった。レイチェルの足が止まってしまったのは、そこに予期せぬ第三者の存在があったからだ。
レイチェルの部屋は、3階の一番奥の角部屋にある。狭いながらもレイチェル一人の城であるはずの部屋の前には今、見知らぬ青年が立っていた。そしてその指はインターホンへと伸びていたが、一向に返事がないことに青年は戸惑っている様子だった。当然だ。中に居るはずの人間はここに居るのだから返事があるはずもない。
階段を上りきった姿勢のまま、レイチェルはその場で立ちつくしていた。部屋の前に立っているのだから、普通に考えてあの青年はレイチェルに用があるのだろう。そう思い至ったものの、全くもって見覚えがないのだ。人違いと考えるのが妥当だが、青年はレイチェルと同じ肌の色をしていた。夕闇の中に浮かび上がるのは、この地に住む人達とは違う、白い肌。人違いをしようにも、このフラットに住む外国人はレイチェルだけだ。観光客の可能性も考えられたが、だとしてもレイチェルの部屋の前で待ち構えているのはおかしな話だ。さっぱり状況は飲み込めなかったが、何にしろ、このまま黙ってぼんやり見ているわけにもいかない。彼が退いてくれなければ、レイチェルは部屋に入れないのだから。レイチェルはクーラーが恋しかった。それに、ぐずぐずしていてはせっかくのマンゴーも傷んでしまう。
「あの……どちら様ですか?」
意を決して声をかけたレイチェルに、青年が振り向く。その表情を見るに、どうやら、いきなり声をかけられたことに驚いたようだった。青年はレイチェルと部屋のドアを見比べ、ようやく部屋の主が外出していたことに思い至ったらしかった。訝しむような視線に気づいたのか、困ったように眉を下げる。
「……ごめん。いきなり部屋の前に立ってたら、驚くよね」
「いえ……」
驚くと言うか、怪しい。そう思ったが、レイチェルは賢明にもそれを飲み込むことにした。遠目にはわからなかったが、ちかちかと瞬くライトに照らされた青年の髪は赤く、まるで燃えているかのように鮮やかだった。こんな髪をした人なんて、一度見たら絶対忘れないだろう。やっぱり、レイチェルの知り合いにこんな男の人は居ない。
そして、青年の返事で、レイチェルは一つ気がついたことがあった。彼の話す英語に────正確にはそのイントネーション。恐らく、いやきっと間違いなく、彼はレイチェルと同じイギリス人だ。その事実に多少の懐かしさと親近感が生まれはしたものの、だからと言ってすぐに心を開けるほどレイチェルは無邪気でも社交的でもない。ここがレイチェルの部屋の前なんかでなく、パブのカウンターならば話は別だったかもしれないが。無表情のままじっと見返すレイチェルに、青年は友好的に笑みを浮かべてみせた。
「あー……えっと……その……僕のこと、知らないかな?」
「残念ながら……」
そう微笑する青年は、驚くほど端正な顔立ちをしていた。もしかして、これは新手の押し売りなんじゃないだろうか。レイチェルは頭の隅で考えた。詐欺師は一見ものすごく親切そうで、騙されてもなお「まさかあの人が」と信じられないことが多いと言う。いかにも好青年に見えるが、もしかしたら彼もそうなのかもしれない。確かにこんなセールスマンなら、「ちょっとお話だけでも」なんてニッコリされたら、どんなに貞淑なマダムだってついつい部屋に上げてしまうだろう。高価な壷だって、胡散臭いまじないのネックレスだって、何だって簡単に売りつけられてしまうに違いない。
セールスならお断りだ。けれど、まだ青年がそうだと決まったわけではないし、よくよく話も聞かずに勝手に決めつけるのも失礼だろう。そう思い直して、レイチェルは彼の言葉の続きを待つことにした。
「ビル・ウィーズリーです」
「……はあ」
名前を聞いたらわかってくれるんじゃないかと期待しているのか、切羽詰まった声で青年は名乗った。けれど、レイチェルにはまたしても覚えがなかった。ウィーズリーなんて変わった名字も、恐らく一度聞いたら忘れないだろう。となるといよいよ、青年はやはり赤の他人であると言う結論が導き出すほかない。
「まいったな」
素っ気ないレイチェルの反応に、青年はそう呟いて頬をかいた。けれど、まいったのはレイチェルも同じだった。見ず知らずの他人が自分のフラットの前に立っていて親しげに話しかけてくるなんて。その上、相手は自分を知っている様子なのだから、全くもってわけがわからない。一体、彼はレイチェルに何の用があると言うのだろう?
「本当に、僕がわからない?」
縋るようにこちらを見つめる瞳があまりにも澄んでいて、レイチェルは思わず視線を泳がせた。なぜか自分が悪いことをした気分になって、罪悪感がちくちくと胸を刺す。そんなに見られたって、覚えがないものはないのだから仕方ない。
単純な人違いなのか、それとも何かの行き違いなのかはわからないけれど、どう考えたって彼とレイチェルは初対面だ。それなのに、彼がまるで────まるで親しい友人か恋人でも見るようにレイチェルを見るから、もしかしたら本当に自分は彼とどこかで会ったことがあるんじゃないかと思えてくる。小さく頷くと、彼はいよいよ困り果てたようだった。
「あー……えっと……信じてもらえるかわからないけど」
言いづらいことなのか、青年は視線を落として、躊躇いがちに言葉を切った。沈黙が辺りに満ちたせいで、なんだか落ち着かない気分にさせられる。もしかしたら、自分が覚えていないだけで、本当に彼と会ったことがあるのかもしれない。例えばそう、生き別れか、腹違いの兄だとか?そんな風にレイチェルが思いを巡らせていると、青年はようやく口を開いた。
「僕は、未来から来た君の恋人なんだ」
真剣な表情で続けられた言葉は、想像したよりももっと突拍子がなかった。
────がさり。思わず取り落とした紙袋の口から飛び出したマンゴーが、ころころと地面を転がる。
どうやら、赤毛の美青年は壷やネックレスではなく、ガラスの靴の押し売りに来たらしい。