何だか、頭がひどく混乱していた。
苦手だった物理の授業だって、ここまで混乱したことはなかったような気がする。いや、今私が理解しようとしている内容は、物理とはまるで対極に位置するものなのだろうけれど。

「……じゃあ、ビルは、本当に魔法使いなの?」

くらくらする額を押さえて、私が何とか絞り出せたのはそれだけだった。
ビルは魔法使いで、私みたいに魔法が使えない人間はビル達には“マグル”と呼ばれていて、さっき持っていた木の棒はその“魔法”を使うための杖で、ドアノブが消えたり現れたりしたのもそのせいで────到底、はいそうですかとは信じられない。でもさっき、ソファに座った私に「今は紅茶よりもホットミルクの方がよさそうだね」なんてビルが一瞬で空中から木の棒……じゃなかった杖の一振りでマグカップに入ったミルクを取り出してみせたのは、確かに手品か魔法でもなければ説明がつかないことだ。

「僕の勤め先は銀行なんだけど、仕事はピラミッドの調査をすることなんだ。小鬼と一緒に働いてるんだよ」
「小……小鬼?」
「そう。だから、さっきレイチェルに聞かれたとき、彼らと一緒に居るのを見られたのかと思って……」

やっぱり、目眩がしてきた。日常的に慣れ親しんだ銀行と言う単語と、小鬼と言う非日常でファンタジックな単語が頭の中でうまく結びつかない。やっぱり「冗談だよ」なんて言われるんじゃないかとビルの顔を見返してみたけれど、その表情は至って真剣だった。

「家族の写真が見せられなかったのにも、理由があるんだよ。ほら、これ」
「……見てもいいの?」
「どうぞ」

そう言ってビルが渡してくれたのは、以前私が見つけたあのアルバムだった。本人の許可なく勝手に見るのは良くないだろうと思ったし、見るのが怖かったのもあって結局中は開けていない。革製の表紙へと恐る恐る指をかけてページを開くと、そこにあった「写真」に私はあっと声を上げた。

「動いてる……」

私の知っている写真とはまるで違う。写っている人達は、私が見ていることに気がついて驚いたような表情をしたり、笑いかけたり、隣に居るビルに向けて手を振ったりしている。
これが両親。弟のチャーリー。パーシー。フレッド。ジョージ。ロン。妹のジニー────ビルが指差していく人達は、皆ビルと同じ燃えるような赤い髪をしている。そうでなくても、ビルの優しい声色で、その人達がビルの大切な家族なのだとすぐにわかった。

「信じてくれた?」
「まあ……」

あまりのことに理解が追いつかなくて、混乱してはいるけれど。呆然と写真を見つめる私と目が合ったせいか、写真の中の小さな赤毛の女の子が恥ずかしそうに母親のスカートの影に隠れる。私を騙すためだけにここまで大掛かりに色々と小道具を用意するのは、あまりにも馬鹿げている。これはこれで非現実的だけれど、魔法の存在を認めた方がまだ現実的のような気がした。

「よかった……」

アルバムを閉じた私に、ビルがホッとしたように息を吐いた。ふにゃ、と頬を緩めたその表情が、何だかいつもと違って可愛らしく思えるからハンサムはずるい。私が思わず溜息を吐くと、ビルがぎゅうと私を抱きしめて肩口へと顔を埋めた。

「ごめん。まさか浮気を疑われてレイチェルを不安にさせてたなんて、思ってもみなかった」
「まあ、えっと……誤解だったわけだし……私こそ、ごめんなさい。確かめる勇気がなくて……」

もっと早くに思い切って直接聞いていれば、こんな風に爆発することもなかったのかもしれない。真実が明らかになってみれば、私がさっきビルにしたことはひどく滑稽な八つ当たりに思えて、何だか恥ずかしい。いや、でも、普通は考えないでしょう。自分の恋人が魔法使いかもしれない、なんて。

「むしろ、どっちかって言うと……レイチェルに嫌われたんじゃないかと思ってたんだ」
「私が? ビルを?」
「だから、さっきのも……レイチェルが嫉妬してくれたのなって思って、ちょっと嬉しかったんだよ」

ビルが拗ねたような口調で言った。不安にさせてしまったのには罪悪感もあるけれど、ビルも拗ねたりするんだと、そんな新鮮な驚きがちょっと嬉しい。ビルはいつも余裕があって、寂しいのは私だけかと思っていたから、何だかくすぐったい。

「最近、ぼんやりしていることが増えたし……何か言いたげに僕を見てることが多かったから……その……他に好きな人ができたのかと思ってた。別れ話をするタイミングを、窺ってるのかなって」
「まさか!」

言われてみれば、確かに思い当たる節はある。私がビルの浮気を疑って言い出せずに居たのが、ビルには別れ話を切り出すタイミングに迷っていたように見えたのだろう。確かに別れるべきなんじゃないかと考えていたのは嘘じゃないけれど、その理由は全くの見当違いだ。

「ビルが好きすぎて、悩んでたのよ」

ビルのことが好きで、浮気されていることが事実だったとしても、嫌いになれる自信がなくて。このままだと自分を見失いそうで、どんどんダメになるんじゃないかと怖かったから。
だって、まさか────恋人が魔法使いで、それを魔法使いじゃない私に必死に隠そうとしているなんて、想像もしなかったんだもの。

「僕も好きだよ」

こっちから軽く触れるだけのキスを仕掛ければ、ビルもキスを返してくれる。徐々に深くなっていくそれに、頭の中がふわふわして心地いい。キスなんて、今までもデートの度にしていたのに。相手も私のことを大切に想ってくれているとわかるだけで、こんなにも違うものなんだろうか。そう言えば、初めてビルとキスをしたときも、幸せすぎてびっくりしたっけ。そんなことを思い出してふふ、と笑うとビルが不思議そうな表情になった。

「あのね。私もね……さっきビルが焦って引き留めてくれようとしたの、嬉しかった」

あのときは完全にもう別れるつもりだったから、そんな素振りを見せるわけにはいかなかったけれど。それでも、失いたくないと思っていたのは私だけじゃなかったんだと、そう思えたから。ビルの肩へと寄りかかれば、大きな手が髪を撫でてくれる。またこんな穏やかな時間を過ごせるなんて、30分前の私は想像もしなかったな、なんて考えると、思わずまた口元が緩んだ。

「あーあ。こんな風に拗れるなら、もっと早く伝えればよかったな」

私の髪を撫でながら、ビルが小さく溜息を吐いた。私としては、私のために取り乱してくれるビルが見れたのだから、さっきの別れ話も悪くないなと思えたのだけれど。ビルにしてみれば、そもそもずっと浮気を疑われていたのが心外のようだ。まあ、逆の立場だったとしたらそうだろうなと理解できるし、ビルを信じきれなくて申し訳なかったとも思うけれど、実際問題かなり怪しかったのだから仕方なかったような気がする。それに、ビルだって、私が別れたがってるんじゃないかと疑っていたわけだし。
ビルの話によれば、魔法使いの世界にも私達“マグル”と同じように色々とルールや法律があるらしい。そして、その法律によって私みたいな“マグル”の前で軽はずみに魔法を使ったり、その存在を教えることは禁止されているのだと言う。
とは言え、“マグル”の私にとってはそんな事情はわからないので。

「ね、ね、ビル。何か魔法使ってみせて」

せっかく魔法が現実に存在すると知ったのだから、それを使うところを見てみたい。さっきは混乱していたから、今度こそこの目でじっくりと。
ビルの袖を引っ張ってそんな風にねだってみると、ビルは仕方がないなと言いたげに苦笑した。

「お手をどうぞ、お姫様」

そんな言葉と共に恭しく差し出されたビルの手に、そっと自分の手を乗せる。気分はお姫様と言うより、クリスマスプレゼントを前にした子供の頃に戻ったみたいだ。一体これからどんな素敵なことが起きるんだろうとワクワクする。だって、魔法だなんて! そんなの、おとぎ話やアニメの中だけだと思ってたのに。

「よく見てて」

私が頷いたのを確認すると、ビルは悪戯っぽく笑って持っていた杖を軽く振った。その先端が私の皮膚へと触れた瞬間、まるでキャンドルのように淡く柔らかな光を放った。杖先から溢れた光の帯は、そのままぐるりと私の指の1本の付け根を取り巻く。そして一瞬眩く光ったかと思うと、形を変えた。私の左手の薬指に嵌まる、金の輪に。

「プロポーズは、もっとロマンチックな場所でしたかったんだけどな」

呆然とその輝きに魅入られるばかりの私に、ビルが困ったようにそう呟く。信じられない気持ちでビルの顔を見つめていると、ビルはもう1度杖を振った。今度は何もないところから次々と花が溢れて来て、私へと降り注ぐ。膝の上にと落ちてくる頃には、またポンと軽い音を立てて形を変えた。今まで贈ってくれたどれよりも大きな、美しい花束に。

「僕と結婚してくれる?」

私の指輪に唇を落として、ビルがほんの少し照れたような、はにかんだ笑みを浮かべてみせる。今度こそ、王子様みたいなその仕草に頬に熱が集まるのを感じた。
あまりにも美しい魔法は、まるで夢の中に居るみたいで、信じられなくて。おとぎ話のお姫様だって、きっとこうも幸福じゃないだろう。魔法って、みんなこうなんだろうか? ううん、きっとビルだからだ。私の大好きな、世界で1番優しい魔法使い。
何か言わなくちゃと思うのに、涙がこみ上げてくるせいで言葉にならない。でも、迷う必要なんてなく、答えはもう決まっている。

YESの言葉を紡ぐ代わりに、ビルの首へと思い切り抱きついた。

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