ビルのために紅茶を淹れる時間が好きだった。
温めたティーポットにお湯を注いで、紅茶の葉が開くのを待つ。小さな葉っぱがまるで花びらのようにひらひらと踊って、透明だったお湯がビルの髪に似た赤に色付いていく。今ではすっかり手順にもタイミングにも慣れたけれど、付き合い始めの頃はまだ危なっかしくて。元々そう広くないキッチンで私が真剣に紅茶を淹れようと頑張っているのに、私を後ろから抱き締めたビルが耳や髪にキスを落とすから、「邪魔しないで」なんて怒ってみせたりもして。でも、そんな何気なく穏やかに過ぎて行く時間がとても好きだった。
ビルの部屋は、ビルと過ごす時間はどこもかしこも優しい思い出で溢れている。だから、ずっとこんな風に笑い合って過ごせたらいいのにと願ってしまった。でももう────もしかしたら、この部屋に来るのも今日で最後になるのかもしれない。
「ねえ、ビル。この間の金曜日の午後、私、ハーン・ハリーリの近くて、ビルが歩いているところを見たの。あのとき、一緒に居たのって、誰?」
今日こそちゃんと話をしようと、心に決めてきた。たとえ、そのまま別れ話になってしまったとしても。
とは言え、ビルの顔を見てしまったら決心が鈍りそうで────ソファに座って後ろから抱きしめられているタイミングでそう切り出した。……これから深刻な話をしようとしているシュチュエーションとしては、何だかちょっと奇妙な気もするけれど。
「僕が、誰かと一緒に歩いてた?……それって、相手は……」
「短い黒髪のボブの……綺麗な女の人」
「ああ、そうなんだ」
顔は見えないけれど、ビルの声にホッとしたような響きが混ざるのがわかった。
どうして曲がりなりにも恋人に女性と一緒に居た場面に言及されてホッとするのか、意味がわからない。まさか他に、もっと見られると困る相手が居るのだろうか……? だとしたら、私が見かけたあの女性も浮気相手の1人に過ぎなかったのかもしれない。
「彼女は、仕事の同僚だよ」
「ふぅん」
返って来た言葉は、あまりにも予想通り。それを聞く私も、やっぱりどこか冷めた気持ちだった。やっぱり、ビルはそう答えるだろうと思った。そして、やっぱり私は素直にそれを信じることができない。予想していたはずなのに、心臓がジクジクと痛む。
「仲の良い職場なのね」
何気ない口調を心がけたつもりだったけれど、どうにか紡いだ言葉はひどく冷えていた。
私の言葉に含まれた棘に気がついたのか、ビルの腕が私の腰から離れる。顔を見て話そうとしているのだとわかったけれど、私にはビルの目を見ることができなかった。
「レイチェル。本当に、彼女はただの同僚だよ」
「……私だって、そう信じたい。ビルの言葉を信じようって、信じたいって思ってる。……でも、もう無理みたい。 あなたが何の仕事をしているのかも教えてくれないのに、こんなときだけ私にそれを信じろって言うの?」
冷静になれと自分に言い聞かせるのに、声が勝手に震えてしまう。感情的になったら、きちんと話をするなんて無理だ。わかっているのに────どうやら今まで飲み下していた不満は自分で思っていた以上らしく、1度外に出してしまったら溢れてもう止まらなかった。
「ビル、いつも、何にも教えてくれないじゃない。私、そんなに信用がない? 家族や友達の写真さえ見せられないほど?」
言った。とうとう言ってしまった。
ビルが驚いたように目を見開く。もう後戻りができないと、わたしはぐっと大きく息を吸い込んだ。泣きたくないと思うのに、視界が滲む。滲んで、あふれて、ビルの顔がよく見えない。
「ビルは出会ったときから、ずっと変わらない。いつも優しくて、素敵な恋人だけど……いつだってそうだから、不安になるの。ビルが悲しいときや、怒りたいときに側に居てほしいって思う相手は、私以外に誰か他に居るの?」
「そんなの、居ないよ」
ビルの声は真剣だったけれど、私は静かに首を振ることしかできなかった。
ビルは、私の前に居るときはいつだって完璧な恋人だけれど────私の恋人で居てくれるのは、私の前に居る間だけだ。私は相変らず、私の前に居ないときのビルのことは何ひとつ知らない。3年の月日が経っても、出会った頃とほとんど距離が変わらない。2人で過ごした時間に意味があったのか、わからなくなる。ただ心地いいだけで、上辺を綺麗に取り繕っただけで、中身は空っぽだったんじゃないだろうか?
「もう、疑うのも疲れたの。ごめんなさい。今あなたを信じても、私、きっと明日になったらまた不安になるって、自分でもわかってるもの。このままだと、私、ビルのことも自分のことも嫌いになる」
エジプトには家族の写真を持ってきてないと言うのだって、嘘だった。電話がないと言っていたのだって、嘘かもしれない。もしかしたら本当はこの部屋のどこかにこっそり隠してあって、私以外の女の子とは、その電話で楽しくおしゃべりしているのかもしれない。そんな風に疑ってしまう自分が、何よりも嫌。
どんなにビルが言葉を尽くしてくれても、私はもうビルの言葉を心から信じることができそうにない。こうなってしまったらもう、元通り仲の良い恋人同士、なんてきっと不可能だ。
「……だからもう、終わりにしましょう。私、もうここには来ないわ」
胸の中でグチャグチャと絡まったままの感情とは裏腹に、吐き出した言葉はやけに静かに響いた。結局、冷静に話し合いなんて無理だったし、最悪な形で別れ話になってしまった。こんな風に、泣いたりするつもりなんてなかったのに。ビルを前にすると、いつも私は取り乱してばかりいる。出会った頃からずっとそうだった。私ばかりが、相手の言葉や指先ひとつに振り回されている。
「待って、レイチェル」
ソファから立ち上がった私の腕を、ビルが掴む。手荒な動作ではなかったけれど、私が簡単に振りほどけない程度には強い力で。仕方なく、振り返ってビルを見返した。何を言われるのだろうと、心がざわつく。ビルは珍しく、言葉に迷っているようだった。
「僕は、君とは違って……その……」
私を見るビルの表情は、どこか焦っているように見えた。そんな表情初めて見たな、なんて冷静な自分がそう考える。そして、それをどこか嬉しいと思ってしまっている自分が居る。
私と違って、何だろう。聞きたかったけれど、いざとなると聞くのが怖い。結婚している? 子供が居る? やっぱり、聞かない方がいいのかもしれない。それでも愛している、これからも側に居てほしいと────そんな風に、請われたら、私はきちんと拒絶できるだろうか。
「………………魔法使いなんだ」
けれどそんな躊躇いも、その言葉を聞くまでの話だった。
しん、と部屋の中に奇妙な沈黙が落ちるのがわかった。苦し紛れに出た言い訳にしたって、あんまりだ。自分の意志とは無関係に、頬が勝手に引きつって笑みが浮かぶのがわかる。
「…………何、それ」
この期に及んで、よりにもよってそんな子供だましみたいな嘘を吐くビルが、信じられなかった。さっきまで胸に渦巻いていた怒りが、嘘のように冷えていくのがわかる。……ああ、私の怒りを鎮めようとしたのなら、この言葉は正解なのかもしれない。もう、怒る気にすらなれそうにないから。
「私……私、ビルのこと、本当に好きだったわ」
『他に愛している人が居るけれど、君のことも愛してしまったんだ』と。
正直にそう打ち明けてくれたら、たぶん許せた。そんなの卑怯だって怒っただろうけれど、どうして私を選んでくれないのって詰っただろうけれど、それでもたぶん、私はビルのことを嫌いになれなかったと思う。
それができないのなら、もっと上手く隠してほしかった。だって、ビルの頭の良さなら、それくらいできだでしょう。ビルのことを疑ってすらいなかった私を丸めこむことくらい、簡単だったでしょう。少しでも私のことを好きだと思ってくれたのなら、私への思いやりがあるのなら、そうしてほしかった。彼の決めたタイムリミットまででいいから、素敵な恋人のままで居てくれたら。馬鹿な私は全てが嘘だったとも知らずに、ビルとの別れに泣いただろう。
「ビルが……私に、何か秘密を隠してるって、わかってたけど……それでも、好きだったのに」
だって、大好きだったから。彼の心の中に居るのが他の人でも、私の隣に居る時に私だけを見てくれるなら、それでも構わないなんて。私の前で優しい恋人で居てくれるなら、それでいいなんて。一瞬でも、そんな馬鹿みたいなことを本気で考えてしまったほどに。
「貴方が魔法使いだろうと、どこかの国の王子様だろうと、どうだっていい。私はもうあなたとこれ以上話をする気はないし、聞きたくない」
とっくに気づいていたくせに、それでも今日まで引き延ばしてしまったのは、ビルを失いたくなかったからだ。結局私は、今でさえビルが私に全てを打ち明けてくれると言う期待を捨て切れずにいた。ビルの言葉を、私達の間にある優しい思い出が嘘だと思いたくなかった。
だからこそ、最後まで半端な嘘で私を誤魔化そうとするビルが許せない。
「さよなら」
吐き出した言葉は、自分でも驚くほどに冷たかった。
私の名前を呼ぶビルの声を無視して、早足で進む。廊下を通って、玄関へと。そして外へ出る
────はずだった。けれど、その瞬間。掴もうとしたドアノブが消えていた。
「えっ?」
あまりにも唐突な、そして不可思議な自体に頭が真っ白になる。
泥棒? いや、でもドアノブだけ盗む泥棒なんて居るだろうか? もしもそうだとしたって、いつの間に。ついさっきまであったはずのドアノブが、きれいさっぱりとなくなっていた。一体、どうして? 何にしたって、ノブがなければドアが開けられるはずもないのだから、その場でただ立ちつくすしかない。
「ごめん、レイチェル。驚かせて。でも、こんな形で君と別れるのは嫌なんだ」
すぐ斜め後ろからそんな声が振って来て、私は混乱したままビルの顔を見上げた。困ったように眉を下げたビルは、どうしてか手に木の棒を持っている。そうしてそれを軽く振ると、ドアノブはまた一瞬で元通りになった。まるで、手品か魔法みたいに。
「できたら、実際に見せるよりも先に説明がしたかったんだけど」
────話を聞いてくれる?
何が起こったのかわからずにポカンとする私は、何も言えずただ呆然とビルの整った顔を見つめることしかできなかった。