きっかけは唐突に訪れた。

「え? 明日ってお店休みなの?」
「あれ? 言ってなかったか? いやあ、すまんすまん」

ある日のこと。閉店時間も過ぎて、洗ったお皿やグラスを片づけていると叔父がそんなことを言い出したので驚いた。厨房の設備のメンテナンスがあるから、明日は臨時休業。いつもなら定休日に合わせているのだけれど、忙しい時期だからか業者側の都合がつかなかったらしい。全くもって初耳だ。常連客には伝えてあったらしいけれど、肝心の従業員が知らないとはこれいかに。

「せっかくだから、ビルとデートでもして来たらどうだ?」
「……ビルの部屋、電話ないのよ、叔父さん」
「そうだったか?」

名案だと言わんばかりの朗らかな口調に、思わず溜息が出た。
向こうからこっちに電話をかけてくることはあるけれど、こっちからは連絡の取りようがない。予定の変更なんかは、ビルがお店に来たときに話すことにしている。何だかんだとちょくちょく来てくれるし、そもそもこっちから予定を変更したいこともあまりないから、不自由したことはなかった。何にしろ、明日急にデートなんて無理だ。向こうにだって仕事があるだろうし。……何の仕事なのかもよく知らないわけだけれど。

「電話がないなんて不便そうだなあ。仕事にだって使うだろうに」
「……私に言わないでよ」

私だって、本音を言えばビルの家に電話があればいいのにとは思っている。
急に声を聞きたい、なんてそんな些細な理由もないわけじゃないけれど。たとえば、ビルが怪我か何かしたとして。ビルが私に会いに来てそれを伝えてくれない限り、私はそれを知ることができない。ビルがどう思っているのかはわからないけれど、それってやっぱりひどく寂しいことに思える。

「そう言えば、ビルって何の仕事してるんだ? 彼のオフィス、ここから近いんだろう?」
「知らない」
「知らない? 知らないってレイチェル、お前、そんなわけ……」
「だって、本当に知らないんだもの」

冗談だろうと言いたげな口調に、思わず苛立ちが混ざる。自分でもわかっていたことだけれど、やっぱり、私とビルの関係は第三者の目から見ても“奇妙”なのだと突きつけられたような気がして。3年も付き合ってるのに、恋人の仕事が何なのかすら知らないなんて、やっぱりおかしい。
ざらついた気持ちを落ち着かせるように、小さく息を吐いた。叔父さんに八つ当たりしたところで、何も解決しない。

「……とにかく、明日はお休みなのね。わかったわ」
「ああ。ここのところ忙しかったし、のんびりしておいで」
「ありがとう。おじさんも無理しないでね。たまにはちゃんと休まないと体壊しちゃうわよ」

カトラリーも全て綺麗に磨き終わった。これで今日の私の仕事は終わりだ。
エプロンを外して、思わずふぅと溜息が出た。奇妙な付き合い方だと言われれば否定はできないけれど、連絡を取る方法がまるきりないわけじゃない。ビルのフラットは知っているのだ。今から訪ねてみれば、明日の予定を聞くことはできるかもしれない。でも────。

急に訪ねて、喜んでもらえる自信がない。迷惑そうな顔をされたらどうしよう。
ううん。迷惑そうにされるだけならまだいい。もしも……もしも、他の誰かと一緒だったら?

そんな不安もあるけれど、別にそれだけが理由なわけじゃない。
付き合い始めた頃から、私達はずっとこうだ。ビルが私の部屋を予告なく訪ねてくることがないように、私もビルの部屋に突然押し掛けることはしない。合鍵も、お互い渡していない。ビルが約束なしに私の部屋を訪ねて来たのは、私が風邪を引いて寝込んでいると叔父さんに聞いたとき、ただその1度きりだけ。一緒に暮らそう、なんて話も出たことはない。

「……会いたい」

何だか妙に気持ちがざわついて、思わずそんな言葉が口から出た。こんな風に不安なときは、やっぱり恋人に側に居てほしくなる。ビルの腕に抱きしめてもらって、その体温を感じていられたら、きっと安心して眠れるのに。そんなことを考えて、また自己嫌悪に陥った。
ビルに会ったら不安がなくなる? 安心できる? 馬鹿みたいだ。そもそも、その不安の原因だって、やっぱりビルなのに。

わかっている。たぶん、今から会いに行っても、ビルは優しく迎えてくれる。嬉しいよって笑ってくれる。でも────私はたぶん、その言葉が嘘なんじゃないかと、また不安になる。私を気遣って、本当のことを言わないだけなんじゃないかって。

迷惑そうにされたら傷つくし、優しく笑いかけてもらっても疑ってしまう。そんなの、もうどうしようもない。自分のことながら、面倒くさすぎる。最悪だ。それなら、最初から会いに行かない方がいい。今まで通りのこの距離感が、私達には合っているのだとも思う。サプライズは嬉しいけれど、相手のペースを乱して、負担をかけてしまうから。
別に、ビルに24時間365日、私の恋人として過ごしてほしいわけじゃない。私が1人で過ごす時間を心地よく感じるように、ビルにだって1人きりで過ごしたい時間や、友人と過ごしたい時間だってあるだろうから。恋人ならいついかなるときお互いのことを考えるべきだ、とか、全てを包み隠さず打ち明けるべきだ、なんて強いるつもりもない。どうせなら笑って過ごしたいと思うし、実際にそれなりの年月を喧嘩せずに過ごせているのは、お互いの時間やパーソナルスペースを尊重した結果なのだとも思う。

それでも────やっぱりビルは、私から見るとあまりにも秘密が多い。

んん、と伸びをした。何だか暗いことばかり考えてしまうのは、疲れているからかもしれない。おじさんの言う通り、ここ数日は特に忙しかったから。せっかく休日ももらえたことだし、明日は1人でのんびり街歩きでもしてリフレッシュすれば、少しは気持ちも前向きになるだろうか。

 

 

 

……なんて、思っていたのだけれど。
久々の休日は、午前中までは何もかもが順調だった。いつもよりのんびりと朝寝坊して、いつもよりちょっと豪華な朝食を食べて。休日用にいつもより薄い化粧と、忙しく給仕をすれば踏んづけてしまいそうなロングスカート。淡い色のシフォンがふわっと靡くと、何だか気持ちまで軽くなるような気がした。のんびりと洋服や雑貨なんかを見て、ウインドウショッピング。お気に入りのお店でのおいしいランチ。

そこまでは本当に、最高の休日だったのに。

どうして、気づいてしまったんだろう。どうして、このタイミングでこの場所を通りがかってしまったんだろう。ほんの少しだけ何かがズレていれば、きっと今日も明日も知らないままで済んだはずなのに。神様は意地悪だ。

「ビル……?」

昼食を終えて、ふと思い立って予定にはなかった市場に向かってみた。観光客にも人気の、何でも揃っている大きな市場。特に何かを買う予定はないけれど、見ているだけでも十分楽しい。珍しい品々を楽しく眺めていたら、ふと視界の隅に見覚えのある赤が横切った気がした。私の好きな、燃えるような鮮やかな赤い髪。遠目に見えるその姿は、やっぱりビルだった。
声をかけようと、近づこうとして。ビルが1人じゃないことに気がついた。誰かと一緒だ。ビルよりも小柄で、ビルよりも華奢なシルエット。綺麗な女の人と。

そしてその人が────ビルの頬にキスをするのが見えた。

それを見た瞬間、自分の全身から血の気が引いて行くのがわかった。
蹲って泣き出したいような、今すぐ怒りで叫び出したいような。胸の中の感情はミキサーにかけられたみたいにこれ以上なくぐちゃぐちゃなのに、体は金縛りにあったかのように動かなかった。足を動かすことや、声を上げることどころか、目をそらすこともできない。ただ、2人の姿を映画か何かのように眺めていることしかできなかった。

仕事の同僚なのかもしれない。

たかが、頬にキスをしていただけだ。友達同士だって、中が良ければそれくらいする。それに、ビルからキスしていたわけじゃない。でも、ただの同僚にしては、随分と親しげに見えた。
あの人が、ビルの浮気相手? イギリスじゃなく、やっぱりこの国にも居たの? それとも、イギリスの彼女がここまで遊びに来たの? そうでなければ、彼女も私と同じで、浮気相手なの?
可能性として考えてはいても、やっぱり実際に自分の恋人が他の女性と親しげにしている場面を見るとショックだった。その人が、ビルの大切な人なの? 私と会う約束がない日は、その人のところに行っていたの?そんな嫉妬と不安が、ぐるぐると胸を渦巻く。
わかっている。真実が知りたいのならば、今すぐ彼らのところに歩いて行って、話しかけてみればいいのだ。それで全てがはっきりする。

『ビル! 嬉しい、こんなところで会えるなんて。……あら、その人はどなた?』

そんな風に、何も知らないフリをして能天気に笑いかけてみればいい。私はビルの「恋人」なんだから、何もおかしいことじゃない。そうわかっているのに、できない。足が鉛のように重い。自分の方こそがビルにとっては浮気相手なんじゃないかと、その答えを知るのが怖い。

見なかったことにすればいい。頭の中で、誰かがそう囁く。

そうすれば、なかったことにできる。ビルは私がここに居ることに気がついていないんだから。
次に会うときも、たぶんビルは変わらずに優しい。変わらずに私を抱きしめてくれて、私に笑いかけてくれるだろう。見なかったことにして、忘れてしまえば、この先も変わらず穏やかで優しい時間を過ごすことができる。
どうしても気になるのなら、次に会ったときに尋ねてみればいい。あの人は一体誰なの?って。
そうしたら、ビルはきっと答えてくれるだろう。怒ることも焦ることもなく。私が納得できるような、理路整然とした、耳触りのいい言葉を。それを聞いて、私はビルの言葉を信じることができるのだろうか。

「馬鹿みたい……」

あの2人のところまで、踏み出す勇気が持てない。自分こそが彼の恋人なのだと、そんな自信がない。ビルがそう言ってくれても、私はきっとそれをまた、彼の優しい嘘なんじゃないかと疑ってしまう。
答えなんて、とっくに出ていた。それなのに今この瞬間ですら、全て私の考え過ぎなのだと、そんな風に期待を捨てきれない自分が居る。矛盾だらけだ。

ああ、もうとっくに潮時だったのだと、嫌でも理解してしまった。

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