初めてビルに会った日のことは、よく覚えている。
高校を卒業する年の春、叔父から卒業したら自分の店で働いてくれないかと頼まれた。会う機会はそう多くはなかったけれど、叔父は陽気で楽しい人で、私をとても可愛がってくれていた。子供の頃からピラミッドやミイラが大好きで、エジプトで暮らしたいあまりとうとうカイロにレストランを開いてしまった叔父。繁盛しすぎてもう少し人手が欲しいと言う景気のいい話だったし、「外国暮らし」と言う響きには憧れもあった。大学に進学するのか、それとも就職するのか。そんな風に進路に迷っていた頃だったから、叔父の提案はとても魅力的だった。カフェやアイスクリーム店でバイトをしたこともあったし、接客は好きだったから。両親も叔父のところならと許してくれたので、高校を卒業すると同時に意気揚々とエジプトへと渡った。
「あっ」
とは言え、そんな小娘の甘い考えで上手くやっているほど、世の中は甘くない。
今思えばたぶん、ちょうど夏休みで旅行客が多い時期と重なってしまっていたことも原因だったのだろう。目が回るようなランチタイムが終わって、少しお客さんもまばらになってきた頃だった。疲れと安心が出たのか、手を滑らせたとわかった次の瞬間パリンと耳触りな高い音が響いて────その日、私はその週3個目のグラスを割ってしまった。
「すみません!!大丈夫ですか!?」
グラスの中の水がかかったかもしれない。いや、それよりもガラスの破片で怪我をしていないだろうか? ギョッとして、慌てて目の前のお客さんに声をかけた私は、こっちへ視線を上げた相手の顔を見てこれまた驚いてしまった。燃えるような赤毛に、明るいブルーの目。鼻筋のスッと通った────ものすごいハンサムだった。
「大丈夫。それに、割れてないよ。ほら」
「えっ……本当に?」
そう言って、その美青年は手の中に握ったグラスを私へと差し出した。中身は空っぽになってしまっていたけれど、確かに薄いガラスは何事もなかったのように欠けすらも見当たらなかった。絶対に、ガラスが砕ける音がしたと思ったのに。……また割ってしまうかもしれないと言う不安のせいで、幻聴を聞いたのだろうか? 不思議に思いつつも、私はほっと肩の力を抜いた。
「よかった……」
「誰でも最初は失敗するよ。今日は特に忙しかったみたいだし、気にしないで」
これで叱られずに済むね、と青年が微笑んだ。
ずっと気が張り詰めていて自信をなくしかけていたから、優しい気遣いの言葉に思わず胸が温かくなって、涙腺が緩みそうになった。しかも、その笑顔があまりに爽やかでまるで映画のポスターみたいだったので、私は胸だけでなく頬までが熱くなるのを感じた。
「それもだけど……貴方に怪我がなくて、安心しちゃった」
へら、と思わず営業スマイルとは違う気の抜けた笑みが浮かぶ。
ミスをして叱られると落ち込んでしまうし、たとえ厳しく叱られなかったとしても、ミスをしたこと自体に自信を失くしてしまう。でも、もしも私が割ったグラスのせいで、お客さんに怪我をさせてしまったとしたら────それこそ、これ以上ないくらいの自己嫌悪に陥っただろう。本当によかった、ともう1度胸を撫で下ろして、彼に向かって微笑んだ。
「素敵なピアスね」
改めて見てみると、彼は変わったピアスをしていた。以前、博物館で見た恐竜の爪みたいな────でも、化石みたいに古くはなくて、まだ真新しくツヤツヤしている。グリズリーの爪みたいにも見えるけど、それにしてはちょっと大きすぎるような気がした。
「これ?ドラゴンの牙でできてるんだ」
「ドラゴン? ふふ、すごい。初めて見た」
予想外の返事に、くすくす笑ってしまった。
ドラゴンだなんて! 私を笑わせようとして冗談を言ったのだろうとわかっていたけれど、大人びた雰囲気の彼がそんな子供みたいなことを言ってみせるのが、何だかおかしかった。
たぶんほとんど、一目ぼれだったのだと思う。
とは言え、レストランに来るお客さんなんて、そのほとんどが一期一会だ。どんなに素敵な人だと心惹かれて印象に残ったとしても、2度と会えない確率の方が高い。特にこんな観光地の、旅行客の多い立地にあるのなら、なおさら。だから、素敵な思い出として忘れようと思っていたのだけれど────私にとって幸運なことに、その次の週も彼はまた現れた。
「ああ、それはビルだな。いやー、彼は見た目はちょっと軽薄そうだが、礼儀正しい好青年だぞ」
叔父さんに聞いてみたところ、彼は旅行者ではなく常連客だった。
職場が近いのか、週に1回くらいの頻度でランチを食べに来てくれるお得意さんらしい。3度目に現れたときに改めてお礼を言って、どうしてこの店を気に入ってくれているのかと尋ねてみたら、「好みにぴったりの紅茶を飲める店は貴重だから」と笑っていた。エジプトの街は好きだけれど、紅茶だけはイギリスの味が恋しくなるのだと、とも。
とは言え、名前を知って多少のおしゃべりをしたところで、やっぱりウエイトレスと常連客と言う関係はあまりにも遠い。淡い憧れを抱いていたところで、私にできるようなことはほとんどない。私が彼に恋をするきっかけになった出来事だって、彼にとってはただのちょっとした親切心だったことはわかりきっている。彼の迷惑も考えずに積極的にアピールして、せっかくの常連客がこの店に来づらくなってしまったら叔父さんにも申し訳ない。
それでも────憧れの人が現れるかもしれないと、そう思うだけで背筋が伸びる。
ドアベルが鳴るたびに、彼が来るんじゃないかとほんの少し期待して。彼が次もまた来たいと思ってくれるような、そんな店にしたいと目標ができると、忙しさにも挫けずにいられたし、仕事にも徐々に慣れた。グラスも割らなくなった。
彼が来てくれたあとは嬉しくて意識しなくても勝手に笑顔になってしまうし、鏡の前で格闘してヘアアレンジがうまく行った日に彼が来てくれないと少しがっかりもした。
忙しいランチタイムは無理だけれど、時々、彼がお客の引けた時間帯に来てくれることがあって。そんなときは、他愛のない世間話をした。彼の好む紅茶の濃さを覚えた頃、デートに誘われた時には夢でも見ているんじゃないかと思った。
「仕事は秘密」
そんな風に冗談めかして笑う彼に「MI6のスパイでもやってるの」なんて笑い返したのが遠い昔のことに思える。あの頃はまだ、恋人になったばかりだからだろうと────信頼が深まっていけば、いつか教えてくれるだろうと思っていた。
このまま待ち続けていれば、その「いつか」は来るのだろうか。本当に?