ドラコとドラコに嫌われている無自覚わがまま甘ったれモンスターな幼馴染の話です

 

 

 

 

 

 

ドラコ・マルフォイには幼馴染が1人居る。
正確に言えば、幼馴染と呼ぶべき人間は吐いて捨てるほど居るのだが────名の知れた純血家系の子供は大抵入学前から付き合いがあるものだ────“友人”のカテゴリーに入れるのは抵抗があり、本来関わりたくない相手なのにしがらみから付き合いが断ち切れない、“幼馴染”と言う呼称に相応しいのはドラコにとってたった1人だけだった。母親同士が友人。たったそれだけで、幼少期のドラコはその人物の面倒を見ることを余儀なくされた。

そんなドラコの幼馴染の名前は、レイチェルグラントと言う。

見た目は砂糖菓子でできたような愛らしい少女だが、逆に言えば愛らしいのは見た目だけだ。初めて会ったその瞬間は、その無邪気な笑顔からレイチェルに好感を覚えたが、数時間後の別れ際にはドラコはレイチェルのことが大嫌いになっていた。もう2度とあいつは屋敷に立ち入らせないでほしいと両親に泣いて訴えたのは、後にも先にもあれきりだ。
屋敷に連れられてくる子供たちは“マルフォイ家のご子息”の機嫌をとろうと気を配るものだが、レイチェルはそうしない。そこまで回る頭がないからだ。躾だってろくにできていなかった。ケーキを与えれば食べこぼし、走って転んではドレスを泥だらけにし、ついでにチェストに激突して花瓶を割り、木に登ろうとしては落ちて脳震盪を起こし、ドラコが貸してやったおもちゃの箒は柄を真っ二つに折り、静かに本を読ませておこうと思えばページに皺や折り目をつける。大人達から見ればレイチェルは「のびのびとした」「子供らしい」「無邪気な」子供だったが、同い年のドラコの目に映るレイチェルはよく言ってどうしようもない馬鹿で、有り体に言えば美少女の皮を被った雌トロールだった。

「お前はどうしてそう馬鹿なんだ」
「僕はお前みたいなグズは嫌いなんだ」
「母上の言いつけじゃなければ、お前なんかと関わりたくないね」

レイチェルが母親に連れられて屋敷に来るたび、遊び相手を任されるのは当然ドラコだ。そうしてレイチェルのドジや不注意、失敗に巻き込まれ、その後始末をする羽目になる。レイチェル自身は痛いだの悲しいだのと泣くばかりで何の役にも立たないからだ。被害者であるドラコが苛立ってそう吐き捨てれば、レイチェルはますますビィビィ泣いて大人達に言いつける。そう言うところも嫌いだった。「ドラコがひどいこと言うの」────そのひどいことを言われるような原因を作ったのはお前で、泣きたいのはこっちの方だ。ドラコの宝物がレイチェルによって台無しにされたのは、1度や2度の話ではない。
不必要に顔立ちが整っているせいで、レイチェルが泣くと大人達はレイチェルを不憫に思ってレイチェルの味方ばかりする。レディにそんなひどい言葉をぶつけるのは紳士的じゃないと、レイチェルの愚かさを放置して、ドラコに彼女を許す寛容さを求める。馬鹿な子供を躾けるよりも、賢い子供に我慢させる方が大人達にとっては楽だからだ。ドラコにはうんざりだった。

「ドラコはどうしてそんなに意地悪なの?」

ドラコ以外の全てに甘やかされたこの少女は、その思慮の浅さから世界は自分の思い通りに回ると信じ込んでいる。大きな瞳を涙で潤ませて俯きさえすれば、誰かが手を差し伸べてくれる。誰かが助けてくれる。甘えた声で小首を傾げてみせれば、お菓子をもらえる。しおらしく声を震わせて謝れば、大抵のことは許してもらえる。
実際、ドラコから見てもレイチェルの周りの大人達は皆そうだった。娘可愛さに叱れないレイチェルの両親は元より、他人の子供になんて誰しもその場限りの興味しか持たないものだ。
ホグワーツに行けば、あの馬鹿も少しは変わるだろうと思ったが……何のことはない、10代の少年少女は大人達よりもよほど「可憐で無邪気な美少女」に甘い生き物だった。スリザリンに選ばれなかったレイチェルが組み分けられた寮のせいもあるだろう。お人好しのハッフルパフ生達は、レイチェルの愚鈍さを疎むことも、その足りない脳みそを蔑むこともなく、根気よくレイチェルの相手をし、ちやほやとマスコットよろしく可愛がっている。むしろ、例によってレイチェルの不注意────あの馬鹿はまたしても大鍋を爆発させたらしい────を窘めようとしたドラコからレイチェルを庇おうとさえするのだから、その底抜けの善良さにドラコは眩暈がしそうになった。
とは言えその可憐さも、さすがにホグワーツの教授達には通用しない。ドラコの予想通り、入学して早々レイチェルは授業でつまずいた。馬鹿だからだ。あまりに馬鹿だから、見かねてドラコは週に1度────幼馴染のよしみで渋々────勉強を見てやっていた。

……違う、そうじゃない。お前、僕の話を聞いてたのか? わからないならどうして途中で聞かないんだ。ああ、もう一体どこから……さてはお前、最初から僕にやらせるつもりだっただろう。少しは自分で何とかしろ、この馬鹿。全部写したって、何の意味もないだろう。

その日やっていた課題は何だったか、もう忘れてしまったが……確か、ドラコですら苦戦した魔法薬学のレポートだったと思う。当然、レイチェルにはその半分も理解できるはずもない。
人がせっかく貴重な時間を割いてやっていると言うのに、当のレイチェルは上の空で気のない返事ばかり。苛立ったドラコが声を荒げれば、「だって」とレイチェルは唇を噛み締めた。

「だって、難しいんだもの。何がわからないかって、全部よ。全部、わからないの! いいわね、ドラコは賢いから。そうやっていつも私を馬鹿にして、楽しい?」

涙目で睨んでくるレイチェルが、ドラコには心底理解不能だった。
いつものようにレイチェルが哀れっぽく泣き出したせいで、どこからか現れたハッフルパフの上級生がレイチェルを寮へと連れ帰ったが────例にもれずいかにもお人好しそうな男だった────その場に取り残されたドラコは呆然とその背中を見送るしかできなかった。たった今起こった出来事を整理できず、頭が混乱していた。

要するに、甘やかされることに慣れきったレイチェルにとっては、自分に厳しくするドラコを悪者だと考えているらしい。

確かに、イライラしていたから少し……かなり、口調はきつくなっていたかもしれないけれど……ドラコは勉強を教えてやっている立場なのだから、レイチェルの態度にだって問題があるだろう。確かに、嫌がったレイチェルを半分無理やり図書室に連れては来たけれど……そもそも課題がわからないと泣きついてきたのはレイチェルの方だ。提出できなければ困るのだって、ドラコではなくレイチェルだ。だから、どうにか時間を作ってやったのに……感謝されこそすれ、あんな風に詰られる覚えはない。
教え方が不満だったのか? もっと手放しに誉めそやして、ご褒美を与えればよかったのか? あいつの両親みたいに? 馬鹿馬鹿しい。周囲の大人がそうやって無責任に可愛がるばかりだったせいで、あいつは今ああなんじゃないか。いつだって泣けば許されてきたから、何もできないままでもいいと放置されてきたから、11歳になってもネクタイすら1人では綺麗に結べない。

『そのうちできるようになるから大丈夫だよ。やってあげる』

レイチェルが困っていれば、周囲の人間は手を差し伸べたがる。レイチェルはただ眉を下げているだけで、愛らしい顔を曇らせているその原因を取り除こうと、周囲が勝手に手を尽くすのだ。レイチェルは困り事が解決して、相手も笑顔で感謝されて満足する。レイチェルを叱らなかった大人達と同じだ。その場限りの、無責任な優しさ。そうやって代わりに結んでしまう誰かが居るから、レイチェルはいつまで経ってもネクタイの結び方を覚えない。
ドラコだって本当は、馬鹿なレイチェルに理解させようと何度も同じ説明を繰り返すより、自分が書いた答えを丸写しさせた方がはるかに楽だ。実際、恐らくドラコ以外の人間はそうしているのだろう。穴の空いたゴブレットに水を注ぎ続けるのは、どんなに善良な人間でも大抵は途中で嫌気が差して諦める。
ドラコがそうしなかったのは────馬鹿だから無駄だと見限らなかったのは、レイチェルを思ってのことだったのに。けれど、それすらレイチェルにとっては「またドラコに意地悪をされている」程度の認識でしかなかったのだろう。

『ねぇドラコ、どうしよう。課題が全然わからないの』

わからないと言うから、わかるようにしてやろうと思った。それだけだ。でも、レイチェルが望んでいたことはそうではなかったらしい。ネクタイの結び方くらい、いくらレイチェルが馬鹿でもそのうち覚えるだろうと見過ごしていたが────ようやくわかった。レイチェルはできないのではない。できるようになる気がないのだ。レイチェルはいつだって、自分の代わりにネクタイを結んでくれる人間を探している。
ドラコが認識していた以上に、あの馬鹿は他人が助けてくれることを前提に生きているのだ。つまずいて転んだら誰かが手を差し伸べてくれる。だから自分で立ち上がる気がない。また転んでも、誰かが助けてくれるから。周囲の環境がそうしてしまったとは言え、いくら何だってあそこまで自立心のない人間だったなんて。
知らず、ドラコは深く溜息を吐きだしていた。……もう、レイチェルに関わるのはやめよう。無意味だ。関わるだけ、ドラコが消耗する。
レイチェルが困っていようが落ちこぼれようが、ドラコには関係ない。寮も違うし、性別も違う。さすがの母上も、ホグワーツでまでレイチェルの遊び相手をしろとは言わないだろう。もうドラコもレイチェルも小さな子供じゃないから、レイチェルが母親に連れられてマルフォイ家に足を踏み入れることもない。
そう。もう関係がないのだ。“母親同士が友人”なんて、他人もいいところだ。元々、ドラコがレイチェルの世話を焼いていたのは善意からとは言い難かったし、他人が自分に優しくしてくれるのが当然と思い込んでいるあの馬鹿に感謝されると思っていたわけでもないが、できるようになろうと言う気すらない人間に付き合うほどドラコだって暇じゃない。同じ校内に居る以上、顔を合わせることはあるだろうけれど、それだけだ。
それに、ドラコが手を離したところで、レイチェルはきっと困らない。レイチェルが信じている通り、レイチェルに手を差し伸べたがる人間はいくらでも居るのだから。

レイチェルはきっと、これからもああやって生きていくのだろう。

美しく無邪気で素直。まるで童話の中の姫君のように振る舞うレイチェルは周囲に愛される。馬鹿なレイチェルが泣いていれば、誰もが手を差し伸べて慰める。むしろ、周囲からすればお姫様は少しくらい馬鹿な方がいいのだろう。困っていなければ助けられないし、感謝されることもないから。

 

 

 

グッバイブルーバード

 

 

 

「ハッフルパフのさ、レイチェルグラント? あの子、可愛いよなあ」

夕食時、すぐ後ろのレイブンクローのテーブルから聞こえてきたそんな会話に、ドラコは思わず眉根を寄せた。振り返って見てみれば、声の出どころは上級生らしき男子生徒達だった。その中の1人の顔には見覚えがあった。あれは確か────。

「入学したときから目立ってたけどさ、何て言うかまだ子供って感じだっただろ?この間、ハッフルパフとの合同練習の見学に来てて久々に見かけたんだけどさ。すっかり大人っぽくなってて……誰だあの美少女!ってチーム全員色めき立ったね」

そうだ。レイブンクローチームのビーターだ。
すっかりレイチェルに魅了されたらしいその少年は、尚も友人達に向けてレイチェルのことを語り続ける。笑った顔が可愛い、甘えたような舌ったらずな口調が可愛い、ちょっと小首を傾げて上目づかいに見上げてくるのが可愛い、守ってあげたくなる、手足が華奢、髪が綺麗で触りたくなる────。1つまた1つとレイチェルの容姿の美点を上げ連ねるその声に、ドラコの眉間の皺も深くなっていった。

「相変わらず、彼女の名前が出ると急に不機嫌になるな、ドラコは」
「うるさいぞ、ノット」

からかうようなノットの口調に、ドラコは冷たく言い放った。
別に、レイチェルの名前が出たから気になったわけじゃない。向こうの声が馬鹿でかいから勝手に耳に入ってきただけだ。それに、あんなくだらない話題は本来なら自室か、せいぜい談話室でするべきものだ。大広間の真ん中で無神経に騒いでいる馬鹿さ加減には呆れるのも当然だろう。レイチェルの話だから不機嫌になったわけじゃない。

「あいつの馬鹿さ加減を知らないから、見てくれなんかに惑わされるんだ。知ったら、大抵の男は裸足で逃げ出すさ。お前だってそう思うだろう」
「さあね。僕は元々君ほど彼女と関わりないし。でも、あの容姿は魅力的だとは思うよ」

肩を竦めたノットの言葉に、ドラコは眉根を寄せた。確かに、レイチェルは夏休みの間に多少背が伸びたようだが……ドラコの目にはさほど劇的な変化があったとは思えない。あの馬鹿の容姿が不必要に愛くるしいのは今に始まったことではないのだ。

「まあ、とは言え僕が彼女と恋人同士になる可能性はないから安心してくれ。君を敵に回したくないし」
「そうだな。そうなった場合、お前への対応はポッター以下になる」
「それは遠慮したいな」

クツクツと喉奥で笑うその声が妙に神経を逆撫でして、ドラコは黙って手元のマッシュポテトを口元へと運んだ。一体何がそんなにおかしいのかは知る由もないが、ドラコにとっては不愉快でしかない。ノットの存在を無視することにして黙りこんだドラコを気にした様子もなく、「それに」とノットが微笑んだ。

「僕が気になるのは彼女自身よりも、どうして彼女と君が絶交したかの方だしね」
「何度も言っただろう。お前には関係ない」

あの図書室での一件以来、ドラコは一度たりともレイチェルと会話をしていなかった。クリスマスカードはレイチェルからは送られてきたが、ドラコからは送らなかった。イースター休暇だけは、母上がレイチェルの分のイースターエッグもふくろうで贈ってきたから、仕方なくレイチェルの友達に渡すよう頼んだ。そうこうしているうちに学期末が来て、夏休みになったが、予想通りマルフォイ家にやって来たのはミセス・グラント1人きりだった。手紙が何通か来ていたが、全て封をしたまま送り返した。2年生になった今では、ドラコとレイチェルが入学前に面識があったことを知っている人間の方が少ないだろう。
時折、何か物言いたげな視線を向けられているのを感じることはあるし、廊下で顔を合わせれば多少気まずそうな表情になったりもするが……ドラコはレイチェルを無視しているし、レイチェルの方からもドラコに話しかけてくることはない。

「知ってるかい、ドラコ。“好き”の反対は“嫌い”じゃない」
「知っていたら何だ? くだらない」

好きの反対は無関心。嫌いと言う感情は、相手に興味があるからこそ生まれるもの。
そんな馬鹿げた言説はドラコも知っているが、レイチェルにしろ、ハリー・ポッターにしろ、あれだけ目立つ人間に無関心を貫くのは不可能だ。嫌いなものはただ嫌いなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。まして、好意の裏返しなんかじゃない。
ドラコははっきりとレイチェルの愚かさを軽蔑しているし、レイチェルもドラコに対して苦手意識を持っていることは疑いようのない事実だ。どうしたって折り合いの悪い人間と言うのは存在するし、それがたまたま、早く出会ってしまっただけ。子供だったから────親と言う絶対的な存在に引き合わされたから避けると言う選択肢がなかっただけで、所詮は他人同士だ。

たぶんもう、このまま関わることもないだろう。卒業までも、その先も、ずっと。

 

 

 

「ドラコ! ねえ、ドラコったら! ……もう、待ってって言ってるのに!」

……そう思っていたのに、どうして今自分は背後からレイチェルに肩を掴まれているのだろう。ドラコを見つけて走ってきたのか、肩で息をしているレイチェルは鞄の中から何かを取り出すと、それをドラコに向かって差し出してきた。

「あのね、これ、見てくれる? さっき返却された呪文学のレポート……私、初めて『良』の評価もらったの!」

半年ぶりに会話する幼馴染に対して、そう言って羊皮紙を能天気に押し付けてくる心理が全くもってドラコには理解不能だが、それ以上に今のレイチェルの言葉には耳を疑う情報が入っていた。……レイチェルのレポートの評価が、『良』だって?

「……お前、本当にレイチェルか?」
「失礼ね、レイチェルよ。他の誰に見えるの?」

ムッとしたように頬を膨らませてみるその表情は、確かに間違いなくレイチェルだ。12歳にもなってそんな幼稚な仕草をする人間を、ドラコは他に知らない。とは言え、やはりどうして急にこんな風に話しかけてくる理由は思い当たらず、ドラコはぼんやりとレイチェルのその表情を見返した。

「……用件はそれだけか? よかったな。じゃあ、もう僕は行く」
「あっ……ダ、ダメ! 違うの。そうじゃなくて……」

数秒の沈黙の後、痺れを切らしてドラコがそう問えば、レイチェルはハッとしたような表情になった。この短い会話の間に、すっかり本題を忘れていたらしい。やっぱり馬鹿だ。踵を返そうとしたドラコを引きとめたレイチェルは、戸惑ったように視線を泳がせたが、意を決したようにドラコを見つめた。

「あのね、私、謝りたくて……前に……1年生のとき、せっかくドラコが勉強を教えてくれようとしてたのに、私、ドラコにひどいことを言ったでしょう」

そうしてレイチェルが言い出した言葉に、ドラコは目を見開いた。けれど、そんな驚きは一瞬で萎んで、スッと気持ちが冷めていくのを感じた。レイチェルが言わんとしているのが、自分達が決別した原因のあの図書室での一件だと言うことは理解できる。今更何だと、ドラコは無感情な視線を向けた。
今更謝られたところで、何も変わるはずがないのだ。レイチェルが謝って、ドラコが許す。そんな「いつも」のやりとりに、ただドラコの怒りを収めるためだけに紡がれる空っぽの謝罪ばかり繰り返されることに嫌気が差したから、距離を置いたのだ。どうせ今回も同じだろう。用件がそれだけなら、やっぱりドラコにとっては無意味な時間でしかない。

「ずっと、謝りたかったの。でも、それだけじゃなくて……たた謝るだけじゃ今までと同じだから……私がこれまでのこと、反省したんだって、ドラコに知ってほしくて……。レポートで良い評価とれたら、心を入れ替えて頑張ったんだってわかってくれるかもって思って……本当なら『優』が取れてからがよかったんだけど、それだといつになるかわからないし……」

言いながら、レイチェルが恥じ入るように視線を落とした。なぜ今このタイミングで声をかけてきた理由と、予想もしなかったドラコの手の中にある呪文学のレポートの意味を明かされて、ドラコは思わず虚をつかれた。努力したと言うのは、嘘ではないだろう。ドラコの知るレイチェルの成績からすると、『良』が取れた時点で奇跡だ。正直、今現物を前にしてもこのレポートの採点をしたときにフリットウィック爺さんが寝ていたか、誰か他人のものと取り違えた可能性を疑っている自分が居るくらいだ。

「私、馬鹿だったから……今も馬鹿だけど、何て言うか、周りの皆が優しくしてくれるのは当たり前だってどこかで思ったの。だから、ドラコに怒られると反発してたわ。ドラコは私が嫌いだから、優しくしてくれないんだって……ドラコは私が間違えたら、次は間違えないようにどうすればいいかって教えようとしてくれてたのに、全然わかってなかったの。……ドラコに愛想を尽かされるのも、当然だって思ったわ」

レイチェルの言葉は、今までドラコとレイチェルの間で交わされた会話の中では最も理路整然としているはずなのに、何だか頭がひどく混乱していた。
あの一件以来、ドラコがレイチェルを見放したことに対してレイチェルが戸惑っているのは感じていた。仲直りしたいと考えているだろうこともわかっていた。けれど、レイチェルのことだから単純に「ドラコを怒せたみたいだから仲直りしたい」「謝れば許してもらえるだろう」程度にしか考えていないのだろうと────まさか、自分の言動を反省して謝罪をするなんて、ドラコにとっては全く予想外のことだった。

「たくさんの人に迷惑をかけたけど、その中でもたぶん、ドラコには1番迷惑をかけちゃったと思うから……図書室でのことだけじゃなくて、小さい頃のこととか……私がもう覚えてないこともたくさんあるだろうから、こんな謝罪じゃ足りないだろうけど……今まで本当にごめんなさい」

これは何だ。目の前のこの少女は一体誰だ。
これでは、ドラコの知るレイチェルと言う少女とはまるで違う。ドラコの知るレイチェルは、馬鹿で、わがままで、どうしようもない甘ったれで────。

「……信じられないって顔ね。無理もないけど……」

レイチェルが困ったように眉を下げたが、実際信じられなかった。ホグワーツに入学するまでの数年、散々辛酸を舐めさせられていたのだ。それがたった半年かそこらでこうも変わるなんて、一体レイチェルに何が起こったと言うのだろう。妙な魔法薬でも誤飲したのだと言われた方が納得できる。

「覚えてる? ドラコと図書室で最後に勉強したとき、私のこと寮まで送ってくれた人。……セドリックって言うんだけど」
「いや……」

急に出てきた知らない名前に、ドラコは眉を寄せた。レイチェルに言われて記憶を反芻してみるも、一瞬のことだったから薄っすらとしか覚えていない。ただ、ネクタイの色がレイチェルと同じカナリアイエローだったこと、そしていかにもハッフルパフ生らしくお人好しそうな印象を抱いたことだけは覚えている。

「その人にね、言われたの。言い方はよくなかったけど、ドラコの言ってたことは正しいって……『君の言う通り、彼が本当に意地悪なら、君が勉強でつまずいていても放っておくはずだよ』って。困った時に人に頼るのは大切だけど、そればかりじゃダメだって。自分で頑張らないと力にならないから心配だって」

レイチェルの口元に、はにかむような笑みが浮かぶ。伏せた睫毛から覗く瞳は潤んで、白い頬が薄っすらと桃色に染まっていた。ドラコはレイチェルのそんな表情を見たことがなかった。囁くようなその声も、ドラコの聞いたことのない柔らかで甘い響きを持っている。まるで、宝物について語るかのように。

「それからセドリックに、勉強教えてもらってて……ドラコと同じ。答えは教えてくれないけど、私が自分でできるようにって一緒に考えてくれるの。そうしたら、少しずつだけどわかるようになってきて……セドリックのおかげで、私、最近勉強が楽しい」

────レイチェルは、その上級生のことが好きなのだ。
そうと気づいた瞬間、まるで氷水でも浴びせられたかのように全身の熱が引いていくのを感じた。指先は冷たいのに、頭の中はどうしてか赤く染まって、燃えるように熱い。

「僕が、」

僕が、何百回繰り返したって聞かなかったくせに。聞こうともしなかったくせに。好きな奴の言うことなら、簡単に聞き入れるのか。そんな、ホグワーツに来てから知り合っただけの奴の言葉なんか────。
そんなドロリとした感情が胸に渦巻く。けれど、ドラコはせり上がってくるその吐き気に似た衝動を喉のところで押し止めた。

「……お前の馬鹿が、そんなに簡単に治るもんか」

好きな男の言葉だから聞き入れたのか。その言葉があったから好きになったのか。ドラコにはわからないし、知りたいとも思わない。
レイチェルは馬鹿だ。どうしようもない馬鹿だ。

馬鹿だから────たった1度助けられただけで、その相手を王子様だと信じ込んでしまった。

お前はどうしてそう愚かなんだ。僕が一体、今までどれだけお前のせいで苦労したと、何百回お前のことを助けてやったと思ってるんだ。いつもビイビイ泣いてばかりのお前を笑わせてやったのは、涙を拭いてやったのは、いつだって僕だったじゃないか。
お前は馬鹿だ。僕はお前みたいなグズは嫌いだ。お前なんか、大嫌いだ、ずっとずっと昔から。

「ドラコは相変わらず意地悪ね!」

ドラコの皮肉に傷ついた素振りもなく、レイチェルが無邪気に笑う。
幼い頃からいつもドラコを苛立たせた、あまりにも聞きなれた言葉。けれどそこに、以前のようなドラコを責める響きはない。

「そんな言い方ばかりするから皆に誤解されるのよ。……本当はすごく、優しいくせに」

顔も声も、よく見慣れているはずなのに。目の前の少女は、ドラコの知らない大人びた笑みをドラコに向ける。まるで母親が小さな子供に語りかけるようなその響きに、ドラコの胸の中の感情がまたドロリと粘度を増すのがわかった。

「ありがとう。私のために怒ってくれて。それなのに気づけなくて……ドラコを悪者にして、本当にごめんなさい」

いつか、こんな日が来ることを望んでいたはずだった。
結局ドラコにも我慢の限界が来て、途中で手を放してしまったけれど。馬鹿な幼馴染が、いつか自分の幼さや考えの甘さに気づくこと。それは、ドラコが望んでいたことのはずだった。

「すぐに許してもらうのは無理だと思うけど……もしも、この先ドラコが私ともう一度仲良くしてもいいって思える日が来たら……そうしたらまた、クリスマスカードを贈ってくれたら嬉しい」

……何を言っているんだ、こいつ。ドラコは思わず顔を歪めた。
僕とお前の仲が良かったことなんて、一度だってないだろう。ただ、放っておけなかっただけだ。母上の言いつけだったから。僕に比べて、お前があまりにも馬鹿だから。無責任に甘やかすばかりの大人達から僕がお前を遠ざけないと、お前はどんどんダメになるに違いないと思ったから。
いくらレイチェルが馬鹿だって、いつか気づくだろうと思っていた。今はまだわからなくても、繰り返せば届くだろう。いつかはりぼての夢から覚めて、ずっと側に居てドラコが手を引いてくれていたことに気づくだろうと。
だって、ああもわがままで泣き虫でさえなければ、レイチェルは────。

「それだけ、伝えたかったの。じゃあ……話を聞いてくれてありがとう」

黙りこむドラコに気まずくなったのか、レイチェルはドラコの横を通り過ぎて足早に駆けていった。
ドラコも早く行かなければ、次の授業に遅れてしまう。頭ではそう思うのに、足が動かない。遠ざかっていくレイチェルの足音が小さくなって、聞こえなくなっても、ドラコはそこから立ちつくしていた。いつの間にか握りしめていた拳のせいで、爪が食い込んだ掌に痛みが走る。
一体、何を苛立つことがあるんだ? あの馬鹿が成長したのなら、喜ばしいことじゃないか。ドラコが手を尽くし骨を折らなくても、他人の言葉でレイチェルが変わったのであればむしろドラコにとっては好都合のはずだ。ドラコは何も喜んでレイチェルの世話を焼いていたわけではない。
これでもう、レイチェルに手を煩わされることはないのだ。レイチェルは変わった。ドラコが許す気がないと言えば、きっとそれを受け入れるだろう。どうして許してくれないのかと追い縋ることも、ドラコを非難することもないはずだ。今度こそ、ドラコはもうレイチェルに関わらなくて済むのだ。よかったじゃないか。だって、ドラコはレイチェルのことなんて大嫌いなのだ。今までも、出会ったその日からずっと大嫌いだった。────本当に?
レイチェルは馬鹿な子供だった。わがままで、甘えたで、泣き虫で。可愛がられることに慣れきっていて、泣けば許されるとわかっている。世界は自分の思い通りに回ると本気で信じ込んでいる、愚かな子供。
レイチェルは馬鹿な子供だった。でも、ドラコもレイチェルより少し賢いだけで、子供だった。

『あなた、ドラコ? 私、レイチェル。仲良くしてね!』

よそゆきのワンピースに身を包んで無邪気な笑みを浮かべていた、砂糖菓子でできたような少女。好奇心でキラキラと輝く瞳をどうしてか真っ直ぐ見られなくて、心臓がドクドクと跳ねて、頬が熱くて。差しだされた手を握り返すのを、躊躇ってしまった。
あの日胸に浮かんだ感情の名前が何だったのか、ドラコは知らない。知りたくもない。

ドラコ・マルフォイには幼馴染が1人居た。馬鹿でわがままで、どうしようもなく愚かな少女。
ドラコはそんな幼馴染のことが大嫌いだ。今までも、そしてこれからも。


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