ウォルトンズ・キャンディーのコマーシャルを覚えているだろうか。

今から8年ほど前、イギリス国内で人気を博した30秒ほどのテレビCMだ。晴れた空に、緑と花で溢れた公園。エプロンドレス姿の少女がブランコを漕いでいる後ろ姿のカットから始まり、少女がこちらに気づいてゆっくりと振り向く。そしてブランコを降りてこちらへと駆け寄って来ると、愛らしい笑顔を浮かべて鈴を転がすような声で言うのだ。「ねえ、キャンディーを頂戴!」 古ぼけたようなオルゴールのメロディーと共に、キャンディーの瓶とクラシックなカリグラフィーのロゴタイプが踊る。
何てことはない陳腐でありふれた構成だったけれど、出演している子役が稀に見る美少女だったことが話題を呼んだ。緩やかに波打ったブロンド。長い睫に縁取られた青い瞳、ふっくらとしたばら色の頬と唇。
こんなに可愛い女の子が居るなんて!────5歳のハリーは少女を一目見た瞬間、まるで雷に打たれたかのような衝撃を受けた。天使が空から落っこちてきたら、きっとこんな感じだ。

「今の女の子の目の色なんかより、うちのダッダーちゃんの方がずっと綺麗なブルーだわ。ねぇバーノン、この子が子役にスカウトされたらどうしましょう?」
「スカウトなんぞ受けるものか。ダドリーにこんな浮ついたことはさせんぞ」

1瓶分のキャンディーをガリガリと噛み砕き瞬く間に消費していくダドリーを挟んで叔父と叔母がそんな会話をしている間も、ハリーはその少女から視線を奪われたままだった。まるで魔法にかかったみたいに、彼女の顔が頭から離れない。
天使の笑顔に魂を抜かれたのは、ハリーだけではない。CMを見た視聴者達からあの子役は一体誰だと問い合わせが殺到し、キャンディーは売れに売れスーパーマーケットの陳列棚から消えた。
ワイドショーでも大きく取り上げられ、彼女は一躍人気子役となった。映画にドラマにCMにと引っ張りだこ。あるときはセル画のウサギやリスと無邪気に踊り、あるときは悪戯っぽい笑顔でアイスクリームを頬張り、あるときは澄ました顔でハイブランドのワンピースに身を包み、あるときは身代金目当てに誘拐され怯える少女を演じていた。当時イギリスに住んでいた人間────訂正、イギリスに住んでいたマグルならば、一度は彼女の顔と名前を目にしたことがあるだろう。
そんな人気絶頂の中、彼女は突然活動を休止した。

『デビューしたCMからはもう3年だったかしら?今は10歳になったのよね。どう?大人になっても女優を続けたい?』
『うーん……そうできたらいいけど、難しいかもしれない。そろそろ、ちゃんと学校に行って勉強しなきゃいけないから』

最後に彼女が出演したのは、映画の宣伝のためのインタビュー番組だった。鮮やかな色のスーツと赤い口紅が目立つインタビュアーが早口でまくし立てるのに対して彼女は戸惑った様子で、いつも明るくはきはきと話す彼女にしては珍しいことだった。そしてそれきり、メディアへの露出がぱたりと途絶えた。その後公開された彼女の最後の出演作となった映画は、その数年で1番の興行収入を記録したと言うのに、だ。しばらく経って、活動休止の知らせとファンへの感謝と別れを伝える短いビデオレターだけがテレビで報じられた。

「それが君の初恋ってわけかい?」
「まあね」

怪訝な表情を浮かべる親友に、やっぱり話さない方がよかっただろうかとハリーは後悔した。純然たる魔法界育ちのロン相手だから詳細な説明は省いたと言うのも一因だろうけれど、もしも話したのがディーンやシェーマスだったとしてもきっと反応は似たようなものだっただろう。どうせ理解されないのなら、ハリー1人だけの思い出にしておいた方がよかったかもしれない。

「変なの!その女の子とは、会ったことも話したこともないんだろう?」

ロンの言う通り、確かにハリーと彼女の関係性はあまりにも一方的だった。同じ一目ぼれとは言っても、いつもバスで乗り合わせた女の子を好きになった、と言うのとは訳が違う。同じバスに乗っているのならば勇気を出せば話しかけることもできるけれど、ハリーは彼女の大勢のファンの1人に過ぎず、話しかけることも触れることも叶わない。ハリーがどんなに彼女の言葉や演技に一喜一憂し、ダドリーがゴミ箱に捨てたお菓子のおまけのブロマイドやペチュニアおばさんの読み終えた雑誌の切り抜きを大切にしていたところで、彼女にそれが伝わるはずもない。

もしかしたら、幼いハリーが彼女に向けていた感情は恋ではなく、ただの憧れだったのかもしれない。

けれどどっちにしろ、彼女は間違いなくハリーにとって特別な女の子だった。
ダーズリー一家やクラスメイト達に理不尽な目に遭わされても、彼女の笑顔を見れば気持ちが少し軽くなった。彼女が頑張っている姿を見ると、ハリーも頑張ろうと思えた。活動休止を知ったときはショックで、その日の夕食は喉を通らなかった。天使みたいだと思った第一印象は、彼女が画面の向こうで怒っていても泣いていても、ハリーの中でずっと変わらなかった。彼女はいつだって、夢のようにキラキラと輝いていて、そしてまさしく夢のように忽然と消えてしまった。

そして、彼女が「忽然と消えてしまった」ように見えるのは、ハリーがただのファンだからではなかった。

彼女の口から直接明かされる情報以外興味がなかったハリーは知らなかったが、元々彼女のプロフィールは謎が多かったらしい。たとえば、住んでいる場所。たとえば、両親の職業や経歴。たとえば、通っている学校。やり手のゴシップ誌の記者ならほんの数日で突き止められるはずのことが、彼女に関してはどれだけ調べてもさっぱりわからなかったらしい。どれだけ多くの記者が張り付いていても、いつも撮影が終わると、不思議と見失ってしまうのだと言う。
まるで最初から幻だったかのように、彼女は居なくなった。そのことが更に話題を呼び、下世話な噂や憶測が飛び交った。「学業優先のため」は表向きで、実は芸能界のストレスから精神を病んで入院したのだとか、あのビデオレターは合成で、本当は交通事故で死んでしまったのだとか。けれどそれすらも、結局確かなことが何一つわからない以上、時間と共に世間の関心は徐々に離れていった。次第に彼女の名前を聞くことはなくなり、彼女が出演していたはずのコマーシャルでは別の少女が微笑むようになった。
一体、彼女は今どこで何をしているのか。ハリーも気にならなかったと言えば嘘になるが、これだけ情報が出て来ないと言うことは、本人がそれを望んでいるのだろう。ハリーはゴシップ誌の噂なんて信じない。ハリーが知らないだけで、彼女はきっと元気で笑って過ごしているはずだ。もう彼女を見ることができないのは悲しいけれど、彼女には彼女の人生がある。彼女もどこかで頑張っているのだから、ハリーも頑張ろう。8歳のハリーは、決別の意味を込めてスクラップ帳をチェストの奥へとしまいこんだ。
あのときはただただ寂しくて悲しかったけれど、どうして彼女がマグルの芸能界から去ったのか、今ならばわかる。

「ハイ、ハリー。今日はもう授業が終わったの?」

人気絶頂の中突然姿を消し、誰一人としてその足取りを掴むことができなかった有名子役。かのレイチェルグラントは魔女であり、ハリーと同じホグワーツの生徒だからだ。

 

 

憧れの魔法使い

 

 

かつてマスメディアが血眼になって欲しがっていたレイチェルのプロフィールに関して、今のハリーはある程度ならばその答えを知っている。
父親は魔法省勤め。両親ともにホグワーツの卒業生で、母親はマグル生まれの魔女らしい。マグルの記者達が彼女を追い回すことができなかったのは、恐らく移動手段に姿くらましを使っていたからだろう。そして、レイチェルの芸能活動休止は、ちょうど新入生宛てに入学許可証が届く時期と一致する。
現在のレイチェルと言えば、ホグワーツに在学中で、寮はハッフルパフに所属している。学年はハリーより2つ上。つまり今は5年生だが、彼女のローブの胸にピカピカに磨かれたバッジはついていないし、クィディッチの寮代表選手でもない。レイチェル曰く「今はただの平凡なホグワーツ生」だ。

本来ならこれと言った接点のないはずの彼女とハリーの間にどうして交友があるのか────その理由をあえて言葉にするのなら、やはり「彼女がかの有名なレイチェルグラントだから」に他ならない。

あれは確か、ハリーが入学して1ヶ月くらい経った頃だったと思う。真新しい教科書にも折り目がついて、ようやく学校生活にも少し慣れてきた時期だ。
初めて彼女に会ったとき────正確には彼女が廊下の向こうから歩いてくる姿を認識したとき、ハリーは驚きのあまり金縛り呪文にあったかのようにその場で立ち尽くした。抱えていた教材は全て腕の中を擦り抜け、地球上の万有引力にしたがう。不幸なことにその日の時間割にセブルス・陰険・スネイプの魔法薬学が含まれていたため、錫製の鍋とこれまた金属製の秤が床のタイルへと叩きつけられ、凄まじい不協和音を奏でた。突然の騒音に、その場に居た全ての人間が驚いた顔でハリーに注目する。耳をつんざくような鈍い金属音がわんわんと反響し、足元では分銅や薬匙が飛び跳ねているが、ハリーにはそれがどこか遠い出来事のように聞こえていた。

「大丈夫? すごい音がしたけど……大鍋、凹んでない?」

テレビやラジオのスピーカー越しに何百回と聞いた声が、ハリーの鼓膜を直に震わせる。
石のように固まったままのハリーのすぐ側で、憧れの天使そっくりな少女が膝を折って床に散らばったハリーの教材を拾い集めている。彼女のつけているピアスがキラキラと光っている。肩を流れる髪の、伏せた睫毛の一筋までが見える。

「どうしたの? 気分でも悪い?」

差し出した教科書を受け取らないハリーを不思議に思ったらしい。少女が心配そうにハリーを覗き込んだ。これは夢だろうか、とハリーはぼんやりと考えた。どんなに憧れたところで決して目が合うことがなかった、いつだってブラウン管やプリント紙の向こうにあった瞳が、ハリーを映している。肩が、指先が、ほんの少し手を伸ばせば触れられる位置にある。

冷静に考えて、あのレイチェルがこんなところに居るはずがない。

ただの他人のそら似ではないかと考えてみたものの、ハリーはすぐさまそれを否定した。記憶にあるものよりいくらか成長しているとは言え、レイチェルの顔はドラマや映画で、あるいはブロマイドやスクラップした雑誌の切り抜きで散々見てきたのだ。見間違うはずがない。信じられないことに、彼女はレイチェルグラントだ。呼吸をするのをすっかり忘れていたせいで詰まった喉をこじ開けて、ようやくハリーは言葉を絞り出した。

「な、なんで、どうして、君がここに……?」
「どうしてって……ここを通らないと、魔法史の教室に行けないから……」

困ったように微笑みを浮かべるレイチェルに、ハリーは耳が熱くなるのを感じた。首元のネクタイの色こそ違えど、目の前に居るレイチェルはハリーと同じ制服のローブを着ているのだから、彼女がホグワーツ の生徒であることは明らかだ。あまりにも馬鹿馬鹿しい質問をしてしまった。けれどその問いかけによって、レイチェルはハリーの反応の理由を思い当たったようだった。

「……ああ。そっか。あなたって確か、マグル育ちなんだっけ」
「アー……うん」

────何てことだ。あのレイチェルグラントが自分のことを知っている。
ハリーは頭がクラクラするのを感じた。レイチェルがハリーを見つめている。やっぱり本物だ。テレビで見たのと同じだ。ものすごく可愛い。どうしよう。何か気の利いたことが言えたらいいのに。混乱のあまり言葉が出て来ないハリーに、レイチェルはクスクス笑ってみせた。

「そう言う反応、何だか久しぶり。そんなに緊張しなくたっていいのに」
「緊張するよ……だって、君は有名だし……」

もう2度と顔を見ることすらできないだろうと思っていた憧れの存在が、突然目の前に現れたのだ。驚くに決まっているし緊張もするし、正直今自分か何を口走っているのかもよくわからない。ぼそぼそとハリーが呟くと、レイチェルは無邪気な美しい笑みを浮かべた。5歳のハリーの魂を抜いた、あの笑みだ。

「ここでは有名なのはあなたの方でしょ? 『魔法界の英雄』さん」

悪戯っぽく紡がれた言葉は、実際その通りだった。
「生き残った男の子」の仰々しい肩書きに加えて、学校内でもトラブルばかりの自分にも理由はあるのだろうけれど────もっとも、好きでトラブルに巻き込まれているわけじゃないのだが────ホグワーツにおいては、レイチェルよりもハリーの方がよほど有名人扱い、と言うか珍獣扱いされている。

「ハリー、君、さっきの女の子と知り合いなの?」

大鍋の中身をばら撒きさえしなかったものの、ハリーと同じく彼女を見て固まっていたので、てっきりロンも彼女がここに居ることに驚いていたのだと思ってけれど────単純にレイチェルが美少女だからポーッとなっていただけらしい。気持ちは痛いほどわかるので、それに関してはハリーは何も言えない。
同学年にフレッドとジョージと言うある意味彼女よりよほど目立つ生徒が居ることもあってか、彼女は平穏な学校生活を満喫しているようだった。何も知らないロンでも見惚れる程度にレイチェルは可愛いが、可愛いだけの女の子なら他にも居る。容姿の珍しさで言えば、パチル姉妹の方がよほど目立つだろう。
入学したときはやはりそれなりに騒がれたらしいし、毎年新入生が入ってくるたびに驚かれたりヒソヒソ噂されたりはするらしいけれど────結局は「元」芸能人だからか、割と短期間で収束するらしい。せいぜい一緒に写真を撮ったり、サインや握手を頼まれて終わり。そもそもホグワーツ生全体から見れば、テレビを所有している家庭は少ない。彼女がマグルの世界で“ちょっとした有名人”だったからと言って、だから何だと言うのだ────ハリーには信じがたいことに、それが大抵のホグワーツ生にとっての認識らしかった。整った容姿は人目を引くものの、学校内における価値基準で言えば、レイチェルはこれと言って家柄や成績がいいわけでもない、いたってごく普通の女子生徒だ。

「ここ、座ってもいい?」
「ええ、勿論」

そして、今のハリーにとっては友人でもある。
湖のほとりから少し外れたところにあるこの木陰は、レイチェルの好きな場所だ。図書室や大広間と言った主だった場所で彼女を見つけられないとき、忍びの地図は大抵はこの場所を指し示している。
かたや魔法界の英雄、かたやマグル界の有名子役。立場は正反対だけれど、9と4分の3番線を境に自分の評価ががらりと変わると言う本質は同じで、レイチェルはホグワーツの誰よりもハリーの気持ちに共感してくれる。今でこそ慣れてしまったが、新入生の頃のハリーにとって周囲の視線はひどくストレスで、よくレイチェルに愚痴を聞いて慰めてもらった。

「そうだ、ハリー。これ、よかったらもらってくれない? 家から送られて来たんだけど、たくさんあるから」
「いいの? ありがとう」
「どういたしまして」

そう言ってレイチェルが取り出したのは、小さな紙袋だった。中には、カラフルな包装紙に包まれたお菓子の袋がぎっしり入っている。ハリーにも馴染みのある、マグルのスーパーマーケットならどこでも売っているようなありふれたものだ。成長期のハリーにとって、甘味はいくらあっても困ることはない。ハリーはありがたく受け取って、鞄の中へとしまった。

レイチェルの学校生活が平穏なのは、彼女のこの性格によるところも大きいのだろうとハリーは思う。

ロンに言わせれば、レイチェルがイギリス中のマグルに名前を知られた有名人だなんて言うのは、到底信じられないことらしい。確かにハリーから見ても、レイチェルの言動はまるきり普通の女の子だ。課題の山に埋もれてウンザリした顔をしているときもあるし、スネイプに減点された後には難しい顔をしている。フレッドとジョージのジョークに声を上げて笑うし、大広間で爆発スナップをしてはしゃいでるところも見かける。
テレビを見たことのない生徒達が彼女を特別扱いしなくても、一方でマグル育ちの新入生が馴れ馴れしく話しかけてきても、生意気なスリザリン生に「穢れた血の奴らが騒いでるからどんなものかと思ったら、大したことないな」なんて面と向かって言われようとも────特に最後のは怒って然るべきだとハリーは思うのだが────レイチェルは嫌な顔をしない。そもそも、こうして友人になることができたのも、初対面であれだけ派手な失態をやらかしたハリーに対しても、気まずくならないよう普通に接してくれたからだ。自分が魔法使いだと知らされてから、レイチェルの芸能活動期間より長い時間が経ったけれど、ハリーには到底レイチェルのように振る舞えそうにない。知らない女の子にヒソヒソされるのも居心地が悪いし、ちょっとしたことで騒がれるのもウンザリするし、急いでいるときに用もないのに話しかけられればイライラしてしまう。

「ハリー?」
「あ……ううん、何でもないよ」

どうかしたのと不思議そうに問いかけられて、ハリーはハッとした。自分がさっきからずっとレイチェルの顔を見つめてしまっていたことに気がついて、慌てて視線を逸らす。何か会話の糸口を探していると、レイチェルの足元に色とりどりの羊皮紙が散らばっていることに気がついた。

「えっと……これ、どうしたの?」
「ああ……再来週、進路相談があるのよね」

レイチェルの言葉通り、芝の上に広がっているのは、よく見てみればどれも就職先案内のリーフレットだった。なるほど、OWL試験をすぐそこに控えているレイチェルにとっては重要な問題なのだろう。
そして今レイチェルが手にしている、1番たくさん付箋が貼られているものは────。

「魔法省に行きたいの?」
「それが1番無難かなって。私の成績だとあんまり倍率の高い部署は無理だし、出世も難しいだろうけど。でも、どの部署も今ひとつピンと来なくって」

レイチェルが憂鬱そうな溜息を1つ吐き出す。ハリーはパチパチと瞬きをした。
────レイチェルが魔法省に。まだ3年生のハリーには魔法界の就職事情については詳しくないが、その選択肢はあまりにも意外だった。

「また、昔みたいにテレビや映画に出るのかと思ってた」
「まさか」

レイチェルにちっともその気がなさそうなことの方が、ハリーにとっては“まさか”だ。夏休みにダーズリー家に帰ったとき、彼らが出掛けている隙を見てテレビをつけると、大抵1度は彼女が昔出演した映画の再放送をやっている。レイチェルの活動休止がホグワーツ入学のためだったのは明らかで、だからこそ卒業したらまた遠い世界の人になるものだとばかり思っていたのに。

「それなりの顔に産んでもらったとは思うけど、別にヴィーラの血が入ってるってわけじゃないしね。背もあんまり伸びなかったし、15歳になった今では私より綺麗な子はいくらでも居るもの。芸能界に入ったのだって、軽い気持ちだったし。仕事は楽しかったけど……厳しい世界だもの。子供の頃ちょっと売れてたってだけで簡単に戻るなんて無理よ」

そんなものなのだろうか。ハリーはぼんやり考える。芸能界なんてハリーには遠い世界のことで正直よくわからない。肯定にしろ否定にしろ、ハリーの意見なんて参考程度にすらならないだろう。
それに、とレイチェルが続けた。

「もう今の私を見てあの『レイチェル』だって気づく人も、ほとんど居ないと思うし」
「そんなことないよ」
「そんなことあるの。もう世間は私のことなんてとっくに忘れてるわ。忘れてるから、時々思い出すの。この間も『突如芸能界から姿を消した天才子役は今……』なんて、面白おかしくやってたけどね」

その番組ならハリーも見た。レイチェルが最後に出演した映画の監督が「今は一体どうしているのか……連絡が取れない。できるなら、あの子とまた一緒に映画を作りたいよ」なんて、まるで彼女が死んだかのように鎮痛な面持ちで語っていて、ちょうどその日の朝にレイチェルからのふくろう便を受け取っていたハリーは何とも言えない気持ちにさせられた。

「死んだとか、不幸な目に遭ったって誤解されてるのはファンで居てくれた人達に申し訳ないとは思うのよ。でもね……だからって実際顔を出したら『子供の頃はあんなに可愛かったのに!』なんて失礼なこと言われるに決まってるんだから!」

想像したのか、レイチェルは不愉快そうに眉を寄せた。くるくると彼女が指先で弄ぶ髪は、初めてハリーが目にしたときと同じに柔らかそうなウエーブではあるものの、ハリーの目を奪ったブロンドではない。知り合ってしばらくした頃、「あれ実は染めてたのよね。その方がオーディション受かりやすいから」とあっさり教えてくれた。正直に言えば最初の頃は違和感があったけれど、見慣れてしまえば華やかなブロンドよりも彼女の柔らかい雰囲気には合っている気がする。

「でも、何て言うか……もったいないな。また君が映画やテレビに出たら、喜ぶ人もきっとたくさん居るのに」
「ありがとう、ハリー」

レイチェルが微笑んだ。その顔は、やっぱり綺麗で可愛いと思う。
背が伸びて、髪の色が変わって、顔立ちが大人びたとは言っても、レイチェルには幼い頃の面影がある。たとえば瞳の形。笑ったときの口元。横顔。

「……言っておくけど、僕、本気で言ってるんだよ」

レイチェルの言う通り、今の彼女はもう「芸能人としては通用しない、ただの女の子」なのかどうか、ハリーにはよくわからない。だって、ハリーがあれほどまでにブラウン管の中に焦がれたのは、後にも先にもレイチェル1人だけだ。レイチェルレイチェルだと言うただそれだけで、ハリーにとっては特別な存在で、どうしようもなく輝いて見えるのだから。

「僕、ずっと、君に憧れてた」

初めて会ったときの反応でとっくにバレているだろうけれど、言葉にするのは初めてだった。
友人になって、レイチェルは天使じゃなく1人の女の子なんだと、ハリーはそんな当たり前のことを知った。そして、「有名人扱い」されることがどんな気分かもよくよくわかったから、ハリーはレイチェルに対してできるだけ同じように他の女の子と接しようと決めていた。一方的な幻想を押し付けて、彼女を困らせることはしたくなかったからだ。

「あのキャンディーのコマーシャルで、笑ってる君を見たときから、ずっと」

ハリーは時々、レイチェルがもっと、わがままで傲慢な女の子だったらよかったのにと思う。
ゴシップ誌に好き勝手書き立てられていた彼女はそれこそ、ドラコ・マルフォイをそのまま性別だけ変えたような性格だったのに。もしそうだったなら、ハリーは初恋の天使は自分の頭の中の幻に過ぎなかったのだと思えただろう。でも、実際のレイチェルはいつだってハリーに親切で、かつて手の届かなかった頃と同じにハリーに笑いかけてくれる。その気取らなさはレイチェルの魅力で、だからこそハリーは彼女のことをますます好きになったけれど、反面いつまでもレイチェルにかつての少女だった頃を重ねてしまう。

「君が、初恋だったんだ」

過去形で言葉を紡ぎながらも、ハリーには自分の感情が終わったものなのかどうかよくわからない。
ハリーが憧れていたのはあくまでも偶像の天使で、今のレイチェルのことは友達だと思っていた。けれど、本当にそうなのだろうか?
レイチェルのことは好きだし、笑っていてほしいと思う。────それは、友達として?そもそも、ロンが言ったみたいに、5歳のハリーがレイチェルに向けていたものは最初から恋なんかじゃなかったのかもしれない。

「ハリー。……ハリー、あの……私……」

遠く見える湖面が、宝石のようにキラキラと輝いている。
レイチェルが、ハリーの名前を呼んでいるけれど、照れくささでレイチェルの顔が見られない。その声に戸惑ったような響きがあるのがわかって、ハリーは申し訳なく思った。急にこんなことを言われて、レイチェルには迷惑だったかもしれない。

「あのね……私も、憧れてたの。『生き残った男の子』に」

予想外の言葉に、ハリーは思わずレイチェルを振り向いた。
レイチェルもまた、ハリーを見てはいなかった。頼りなげに下がった眉は、ハリーの目には困っていると言うよりも照れているように見えた。伏せた睫毛の下で、その瞳が潤んでいるのがわかる。

「だって……私より年下で、しかもまだ1歳だった貴方が、どんな映画のヒーローよりも素晴らしい偉業を成し遂げたのよ? 映画のヒーローが皆を救うのは脚本通りの予定調和だけど……貴方は実際にたくさんの人の命を救ったんだもの」

言い終えて、レイチェルは小さく息を吐き出した。そうすることで少し気持ちが落ち着いたのか、視線を上げて真っ直ぐにハリーを見つめる。眩しいものを見るような瞳を細めてはにかむその表情は、ハリーの見たことのないレイチェルだった。

「パパやママから聞かされた話で、貴方に憧れて……だから私、芸能界にスカウトされたとき、やってみようって思ったの。貴方ほどじゃなくても、ほんの少しなら自分の名前を残せるかもって……まあ、結局は寮生活との両立はとても無理で、中途半端で終わっちゃったけど。何て言うか……貴方は私にとって、特別な人なのよ」

ここが外でよかった、とハリーは思った。辺りを金色に染めはじめた夕焼けが、きっとハリーの頬の熱さも隠してくれる。風に揺れる木々のざわめきがなければ、きっとハリーの心臓の音がレイチェルにも聞こえてしまっていただろう。
だって、今まで考えたことすらなかった。憧れの人が憧れの人になったきっかけが、自分だったなんて!

「実際に会ってみた貴方は、想像してたのとは少し違ったけど」
「ガッカリした?」
「んー……ガッカリって言うより、ビックリした」
「……どうして?」

出会った頃の自分は、何かレイチェルを驚かせるようなことをしただろうか。ハリーが首を傾げると、レイチェルは何かを思い出すかのような懐かしそうな目をした。伸びてきた白い指が、そっとハリーの額の傷跡に触れる。

「だって、あのハリー・ポッターだもの。何て言うかこう……自信満々で堂々としてて、周りとは違うんだろうなって思ってたの。でも、実際に会った貴方は、どこか心細そうにしてて、まるで普通の男の子みたいで……」
「やっぱり、ガッカリしたんじゃないか」

会ってみたら期待外れだったと言われているようにしか聞こえなくて、ハリーはムッとした。確かに、ハリーは今でも自分のことを特別だなんて思っていないけれど、だからってその言い方はないんじゃないか。思わず眉を寄せたハリーに、レイチェルが静かに首を振る。

「違うわ。私が思ってたよりも、ずっと優しくて繊細な男の子だったから、嬉しかったの」

────それで居て、貴方ったらやること為すこと型破りで、やっぱりヒーローなんだもの。
その言葉に、ハリーはどうしてレイチェルの側は居心地がいいのかわかった気がした。“立場が同じだから、ハリーの気持ちをわかってくれる”。“レイチェルも有名人として扱われることに慣れているから、それに対する愚痴や不満も素直に言える”。たぶん、それもあった。
けれど、それ以上に。

「ねぇ、ハリー。私ね」

生き残った男の子。魔法界の英雄。レイチェルはハリーが背負ってしまった肩書きを知っていて、それでもいつだって目の前に居るハリーを見ようとしてくれていた。ハリーが弱音を吐いても、傲慢なことを言っても、ハリーを否定しなかった。ハリーがレイチェルを1人の女の子として扱おうとしたように、レイチェルもまたハリーを1人の男の子として扱ってくれた。

「私、小さい頃に頭の中で想像していた男の子よりも、今目の前に居るあなたの方がずっと好きよ」

ずっと憧れていたから、特別で。その感情は切り離すことも、忘れることもできないけれど、でも、初恋をそのまま引きずっているわけじゃない。
たぶん、ハリーは2度目の恋をしたのだ。理想通りの天使じゃなくたって、レイチェルが好きだ。
写真の中で微笑んでいた彼女も好きだったけれど、それよりもずっと。偶然この場所で彼女を見つけた、まだ11歳だったハリーに「こんにちは」と優しく笑いかけてくれたレイチェルが好きだ。

レイチェル。僕……」

僕も、と言おうとした言葉は続かなかった。すぐ目の前にレイチェルの顔が迫っていた。何か柔らかなものが唇に触れていて、ハリーは数秒経ってからそれがレイチェルの唇だと気がついた。ざわめく木々の葉音と、自分の心臓の鼓動が妙に耳に響く。辺りが静寂を取り戻したのとほぼ同時に、突然のキスは終わった。

「……不意打ちはズルいよ」

ハリーは思わず口元を押さえて、視線を逸らした。心臓が破裂しそうにうるさい。風で乱れた髪を整えるレイチェルは、ハリーの非難を微笑むことで受け流してしまう。そして、悪戯を思いついたように目を細めたかと思うと、一度は離れたはずの距離がまた近づいた。

「じゃあ、今度はハリーからキスしてくれる?」

思いもよらない言葉にハリーは驚いたが、返事をする前にレイチェルは目を閉じていた。
意を決してレイチェルへと向き直ったハリーは、ふと眼鏡の存在が気になった。外さないと邪魔だろうか。でもさっき、レイチェルはハリーが眼鏡をかけたままでもキスができていた。外すのもかっこ悪い気がするけれど、外さずにうまくできないのもそれはそれでかっこ悪い────。
長い沈黙にハリーが戸惑っているのに気づいたのか、レイチェルが俯いてクスクス笑った。馬鹿にされているのだろうかと思ったけれど、顔を上げたレイチェルがハリーを見るその瞳は優しい。

「映画の撮影じゃないんだから、何度失敗したって誰も怒らないわ」

小さく囁いて、レイチェルがもう一度目を閉じる。誘われるがままに、ハリーはそっとその頬に手を添えた。指先から伝わって来る体温の熱さに、レイチェルも緊張しているのだとわかって何だか少しホッとした。
触れている。触れられる。レイチェルは確かにここに存在していて、ハリーの頭の中だけの幻想じゃない。

それでもやっぱり、ハリーにとっては初恋で、憧れで、特別な女の子で────この先もきっと、彼女には敵わないのだろう。


    お返事が早いのはこちら ⇒ Wavebox