たとえば、私はバニラの香水が嫌いではありません。元々お菓子作りも好きですし、可愛らしくデコレーションされたカップケーキを思い出すような甘い香りはむしろ好きな部類だと言えるでしょう。10歳の誕生日に従姉がくれた私にとって初めての香水も、バニラのトワレでした。もう随分前に使いきってしまいましたけれど、今でも鮮明に思い出せます。飴細工のように繊細な彫刻のされたキラキラ光るガラス瓶。淡いピンクに色づいた液体は、見ているだけで気持ちが華やぎました。とっておきの日にだけ纏う、見えない甘いベール。私にとってバニラのトワレは、幸せの香りでした。
さて、一方で私のルームメイトはそう言った甘ったるい香水を苦手としています。自分がつけるなんて以ての外。他人がつけているだけでも、強く香ると胸焼けがして気分が悪くなってしまうのです。以前彼女にそう打ち明けられてから、私はバニラの香水はつけません。少なくとも学校や、彼女がいる場所では。
我慢と言うわけではないのです。不満もありません。素敵な香水を見つけたときに、ラベルにその文字が入っていると棚に戻さなければいけないと言うのは、確かに少しも不便さや残念さを感じないと言えば嘘になりますけれど。けれどその不便さを許容できる程度には私は彼女のことが好きですし、彼女の気分や体調を悪くしてまでその香水をつけたいと言う強い思い入れもない。ただそれだけのことです。

レイチェルは薔薇の香りが好きなんだな」

ゆらゆらと揺れる炎に、整えられたプラチナブロンドの波を鈍い光がうつろいます。暖炉の前に据えられた、一番温かくて座り心地の良いソファ。彼の特等席でもあるそこにゆったりと座ったドラコは先程から何か思索に耽っていた様子でしたが、ふいに近くを通りかかった私にそんな風に声をかけました。

「いつもその香水をつけてるだろう?」

今使っている香水は、件の友人がお詫びにと誕生日にくれたもの。特別惹かれる香りと言うわけでもないけれど、いい香りだとは思います。せっかくの友人の気持ちを無下にするのは申し訳ないですし、万人受けして使いやすいのでよく使っている。ただ、それだけ。

「ごめんなさい。少しつけすぎているかしら?」
「いや……そんなことはないが……」
「そう?それならいいんだけれど」

説明も面倒なので、ただ微笑みました。だって、どれほど懇切丁寧に説明したところで、彼のような人種には共感を得られるはずもないでしょう。入学時からこのスリザリンにおいて王様のように振る舞うことを許され、常に他人が自分の思い通りに動くのを当然だと考えている彼からすれば、私のような考え方は理解できないに違いありません。もし説明したとして、「なぜ他人に遠慮する必要がある? 君の好きな香りをつければいいじゃないか」と怪訝そうな顔をする様子が容易に想像できます。

「……ハッフルパフの奴らが、君の話をしていた」
「え?」

そんなことを考えていたせいで、彼が小さく呟いた言葉への反応が遅れました。
憮然とした表情で呟くドラコは、ひどく機嫌が悪そうに見えます。私の反応が気に入らないのか、咎めるような視線をくれた彼は、焦れたように苛々とした口調で続けました。

「あまり誰彼構わず愛想を振りまくのは、君のためにならない。下世話な奴らの間でくだらない噂が立ったりすれば、困るのは君だ」
「……ええ。そうね。気を付けるわ」
「わかればいい」

忠告に対し、ありがとうと微笑めば、照れたように視線は逸らされました。とは言え、私が素直にドラコの言葉を受け入れたことに満足したのか、ドラコの機嫌は幾分か上昇したようでした。深々とソファへもたれかけ足を組み直すと、彼はその向かいのソファを顎で示しました。

「屋敷しもべに紅茶を用意させる。君もどうだ?」
「ええ。頂くわ」

本当は寮の外へ出るつもりで談話室に降りて来たのですが、断ればせっかく直った彼の機嫌はまた悪くなるでしょう。図書室に行く予定だったのですが、幸いにもまだ夕方ですし、ドラコとのお茶に付き合ってからでも間に合わないことはありません。
スリザリン生の中では、穏健派とでも言うのでしょうか。マグル生まれと進んで関わる気はありませんし、馴れ合いをするわけでもないけれど、かと言って彼のように進んで軋轢を生もうと言う気もありません。

レイチェル。あなたって優しすぎるわ」

ルームメイトのパンジーなどはそう言いますが、自分ではそう思いません。私の本質は、単に怠惰なのだと思います。両親がそう望んでいるのを知っていたので、スリザリンを選びました。両親が嫌がるだろうと想像がついたので、マグル学は選択しませんでした。パンジーのことは好きですが、彼女がハーマイオニー・グレンジャーを嫌っているからと言って、一緒になって嫌がらせをすると言うのも億劫で。それに、ホグワーツでの人間関係と言うのは卒業した後も続いていきます。今の世の中では後々マグル生まれが要職に就くこともあるのですから、不必要に敵対するのは得策ではありません。
何でもパパとママの言いなりなのねと揶揄されたこともあります。いい子のミルク飲み人形。傍から見ればそう見えるのかもしれませんが、かと言って闇雲に反抗するのはそれこそ愚直に過ぎるでしょう。
足元にレールが敷かれていることに気づかずにいられるほど、私は純粋ではありません。しかし、逆らってまでやりたいこともないのです。平坦に均された道がそこにあるのに、わざわざ避けて歩きにくい道を探す必要もないでしょう。いつかその行き先が私の望まない場所になったなら、そこから抜け出す日もあるかもしれません。けれど今はまだその時ではない、ただそれだけのこと。

狡猾な蛇に唆されるまで、アダムとイブが箱庭の世界を享受していたように。全てを投げ打ってまで手に入れたいと渇望するものが、少なくとも今の私にはないのです。

 

 

ロストエデン

 

 

血筋こそそれなりに古いもののパッとしなかった家柄を、今のようにそれなりに名の通るものへと押し上げたのは、その商才により一代で財をなした曽祖父の功績によるものでした。私が生まれる少し前に亡くなってしまった人ですが、「今聖28族を編纂し直したら、間違いなくグラント家の名前が入るだろうに」とぼやくのが曽祖父の晩年の口癖だったと聞いています。会ったことがないとは言え、血族の中でも殊更に純血主義と権威主義が強かった彼の痕跡は、グリンゴッツの金庫の中でうなる金貨のみならず、屋敷のそこかしこに残されていました。玄関ホールに飾られた厳めしい肖像画。廊下に敷かれた華々しいペルシャ織りの絨毯。応接室の天井に吊るされた、以前はどこかの宮殿で使われていたと言う豪奢なシャンデリア。暖炉の上に置かれている、たくさんの宝石が埋め込まれた純金製の燭台。
とりわけ幼い私の目を引いたのは、祖父が晩年作らせたと言うゴブリン製のブローチでした。しなやかな肢体を絡めている銀の蛇が抱いているのは、親指の爪ほどもあるエメラルド。100年に一度採掘できるかどうかと謳われるほどに希少だと言うそれは、宝石の良し悪しなどわからない子供の私でさえも虜になるほど美しい代物でした。どこまでも透んだ、深く艶やかな緑色。光の加減でキラキラと星のように瞬く様は吸いこまれそうで、何時間見ていても飽きないだろうと溜息が出ました。
我が家にある品々の中でも一番価値のあるそれは、普段は両親の寝室の宝石箱の中に厳重にしまわれていて、子供の私には触れることはできません。目にすることさえ、許されるのは特別なお客様が来た時や、大切なパーティーのときにだけ。けれど、両親にひどく叱られた日や、悲しいことがあった日には、父は特別に私の手にそっと握らせてくれるのでした。

レイチェル。大人になったら、これはお前のものになるんだよ」

祖父や父の言う「大人になったら」が「彼らの期待通りに育ったら」と同義だと気づかないわけではありませんでした。我を通さず、反抗せず、従順で、賢しすぎず、けれど自分の頭で何も考えられないほど愚かすぎてもいけない。女なのだから、貞淑に、出しゃばらず、無垢な少女のように、何も知らず微笑んでいればいい。
カビの生えたような前時代的な価値観に忌避感を覚えなかったと言えば、嘘になります。けれど、そんなことすらどうでもよいと思えるほどに、そのエメラルドの輝きは魅力的でした。鮮やかな緑のきらめきは、他のどんな魔法よりも私の中から濁った感情を綺麗に消し去ってくれるのでした。無心にブローチを見つめる幼い私に、両親が決まって言うのはいつも同じ言葉でした。

「私達の言う通りいい子にしていれば、お前は必ず幸せになれる」

両親の言う「幸せ」に私が真に幸せを見出すことができるかはさておき、彼らの言う「幸せ」がどう言ったものなのかについては、長じた今ではおおよそ理解しています。
ホグワーツを卒業したら2、3年、魔法省のさほど忙しくない部署で事務仕事などをして「社会経験」を積み、「仕事ぶりや人柄に惹かれた」と言う名目で、我が家よりも家柄がよく、我が家ほど裕福ではない純血名家の男性と結婚する。私は一人娘なので、できれば相手は次男以降で、御しやすい温和な男が望ましい。さすがにはっきりと口に出されたことはありませんが、想像するにこんなところでしょう。
夢に溢れた輝かしい未来とはいきませんが、さりとて他に何かしたいことがあるわけでもなければ、「生家の状況や己の能力を考えれば妥当なところだろう」と言う諦めに似たものがあるのも確かで。このまま行けば、両親が描く青写真は遠くない未来に現実になるだろうと言うのが私の見解です。
私の望みと言えば、定められた未来を変えようと足掻くことよりも、今のこの学校生活を平穏無事に過ごすことだけ。そして、そのために努力もしてきました。
家柄もまあまあ、成績もそれなり。どちらかと言えば容姿も恵まれている方だと自覚しています。とりたてて謗られるような欠点もなく、かと言って周囲から過度に祭り上げられるような秀でたところもなく。スリザリン内での評価は「争いごとが苦手な温厚な少女」として、他寮生からは「スリザリン生の割にはまともな奴」として。両親の言いつけを守るためと言うわけでもありませんが、単純に面倒なのもあり不純異性交遊の誘いは断っています。嫌われ者のスリザリン生にしては、他寮の友人も多い方です。
卒業までのあと少し、私のホグワーツ生活は穏やかに過ぎていくはずでした。

「また貴方なの」

寮生活をして人に囲まれていると、どうしても1人の時間が欲しくなる瞬間があります。自室にしろ、談話室にしろ、図書室にしろ。静かに過ごしたい気分のときも、誰かに話しかけられれば無視するわけにもいきません。だから、最低でも週に1度────塔のてっぺんにある小部屋や、今は使用されていない温室や箒小屋、時計塔の裏、空き教室。そう言った誰も通りかからないような人気のない場所で、こっそり息抜きをするのが入学以降の私の習慣だったのですが、最近ではそこに招かれざる客が現れます。

「僕にだってここを使う権利はあるしね」

ホグワーツきっての有名人でありトラブルメーカー、ハリー・ポッター。それが、今私の目の前に立っている青年であり、私の頭を悩ませている元凶でもありました。
無邪気な笑顔で紡がれた言葉は、腹立たしいことに正論です。彼を避けるために何度か場所を変えてみたこともありましたが、どんなに見つかりにくい場所を選んだつもりでもどうしてか結局はいつもポッターが現れるので、あまり意味はありませんでした。彼が占い学が得意だと言う話は耳にしたことはありませんが、もしかしたら千里眼の持ち主なのかもしれません。
何にしろ、彼が来てしまったのなら、私の憩いの時間も今日は終わりです。

「何読んでたの?」
「あ……ちょっと!」

彼が立ち去る気配がない以上、私がここを離れるしかありません。さっさとその場から腰を上げようとすれば、ポッターは私の手にあった本をするりと取り上げました。無視してその場を立ち去ることもできましたが、借り物の本なのでそうもいきません。このまま彼の手に本を預けようものなら、余計面倒なことになるのは目に見えています。大広間の真ん中で「はい、レイチェル」なんて手渡されようものなら、同級生からの追求は免れません。
私が仕方なく苛々と元の位置に座れば、彼は当たり前のようにその隣へと座りました。まるで親しい友人のような距離感に、思わず眉を顰めます。

「ポッター。私、以前も言ったわよね。貴方と馴れ合う気はないって」
「そうだね、何度も聞いた。でも君はいつもそうやって友達にはなれないって繰り返すばっかりで、ちっとも理由を教えてくれないじゃないか」
「そんなこと、わざわざ言わなくてもわかるでしょう」
「わからないよ」

不思議そうに唇を尖らせる姿に、何だか頭痛がしてきました。彼は思っていたより馬鹿なのかもしれません。とぼけているのか、それとも本当にわかっていないのか。どちらにせよ、彼にははっきり言葉にするしかないのでしょう。この不毛なやりとりも、いい加減に終わりにしたいのです。

「あなたがグリフィンドールで、私がスリザリンだからよ」

グリフィンドール生とスリザリン生の男女が、人気のない場所でこっそり2人で会っている。
それだけでも十分意味深だと言うのに、相手は「あの」ハリー・ポッターです。ただでさえ注目されがちな彼の話題とあれば、噂は瞬く間にホグワーツ中を駆け巡ります。今こうしているところを誰かに見られれば、明日の朝食の時間には私とポッターが恋人同士だと言う話になっているに違いありません。勿論実際には私は彼と会いたくてここで待っていたわけではありませんが────むしろ会いたくないのですが────第三者の目から見ればそうとられるだろうことは想像がつきます。

「ポッター。貴方は猫アレルギーの友人がいるとわかっていてわざわざ猫を飼う?」
「マルフォイやパーキンソンは、マグル生まれの髪がローブにつくとくしゃみが出るの?」

私の比喩をすぐさまそんな風に茶化してみせるあたり、やっぱりポッターだって理解しているのです。
私の周囲の友人達は、私とポッターが今こうして会話していることを知れば激昂するでしょう。そしてそれは、私だけでなく、彼の友人に関しても言えるはずです。

「まあ、ロンはスリザリン生のことが大嫌いだし、僕が君と友達になったら反対するだろうけど。まあでも、僕の決めたことならって最終的には渋々納得すると思うよ。渋々ね」
「貴方もご友人もお互いを尊重しているようで羨ましいけれど、全ての人がそうではないわ」
「まあ、そうだね」

あっさりと肯定してみせるものの、ポッターはやはり私の言葉などさして気にしていない様子でした。相手を言い負かそうとムキになるドラコとやパンジーの相手にも苦労するときがありますが、これはこれで違う意味で対処に困ります。私は痛む額を押さえて、溜息を吐き出しました。

「私はスリザリン生で嫌な奴よ。それでいいでしょう?ポッター」
「君は嫌な奴なんかじゃないよ」
「たった一度気まぐれに助けられたくらいで、そこまで盲目的になるのは愚かよ」

元々は同学年とは言え、私とポッターにほとんど関わりはありませんでした。私の一番親しい友人は、彼や彼の親友であるハーマイオニー・グレンジャーと敵対しているパンジーなのですから当然でしょう。彼女が彼らに向かって嫌味を中傷をぶつけているとき、私は一緒になって口撃こそしないものの、常にその場には居たのです。ポッター達が私に好印象を持つはずもありません。私にとっても、ポッターは関わり合いになりたくない存在でした。彼自身に何かされたわけではないですが、彼と顔を合わせるたび荒れるドラコの機嫌をとるのに骨を折るのは楽しいことではありませんでしたから。だからまさかこんなことになるなんて、つい半年前の私は想像もしませんでした。

 

 

きっかけは、些細なことでした。
その日も、私はいつもと同じように1人で本を読んでいて。いつもと違ったのは、誰も通りかからないような廊下に、バタバタと騒々しい足音が聞こえて来たことでした。一体何事かと、隠し扉を少しだけ開けて覗いてみれば、見知った顔がこちらに向かって走って来ているのが見えました。その更に遠くから追いかけているのは、曲がり角の向こうで姿は見えないものの、声から察するにホグワーツの管理人たるフィルチです。どうやら何かまたトラブルを起こしたらしいと察して納得し、そのまま無関係を決め込もうかと思いましたが────一瞬見えたポッターの顔があまりに疲労困憊と言った様子だったので、何だか気になってしまって。それに、こうもうるさくては読書に集中はできません。

「こっち」

ポッターの足音がすぐ近くまで近づいて来たのを確認して、扉を開けました。中から手だけを出して入るように促せば、ポッターは一瞬戸惑ったようでしたが、結局はそれしかないと意を決して扉の中へと飛び込んできました。そして、中に居るのが私だったことにひどく驚いた様子でした。

「あの……」
「静かにして。フィルチに見つかりたいの?」

冷たい視線を向ければ、ポッターは大人しく口を閉ざしました。元々この隠し部屋は城の外れにある上、長ったらしい合い言葉を唱えなければ外からは扉すら見えないので、存在を知る人も少ないのです。私も、仲の良かった上級生が卒業する時にこっそり教えてくれたことで、初めて存在を知りました。管理人であるフィルチならばこの部屋のことは知っているかもしれませんが、知っていれば余計に、この一瞬でポッターがこの部屋に隠れたとは考えもしないでしょう。

「あ、ありがとう」
「別に。……感謝する気持ちがあるなら、頼むから私に助けられたなんて誰かに言ったりしないでね」

パンジー達に知られると面倒だから。彼の前で取り繕う必要性も感じなかったので、溜息混じりに呟けば、ポッターは困惑からか目を白黒させていました。そんな会話をしているうちに、ドタドタと騒々しい足音と、ポッターの名前を呼ぶ声が扉の前を通り過ぎていいきました。

「フィルチは行ったみたいね。もう大丈夫じゃない?」
「あの……君、いつもここに居るの?」
「いつもじゃないし、そうだとしても貴方に関係ないでしょ。私、静かに本を読みたいの。邪魔だから早くどこかへ行って」
「あ、うん。わかった」

ポッターは私の返答に面食らったような顔をしましたが、結局は助けられた負い目からか何か言い返してくることはありませんでした。元々、彼からしたって私と同じ場所に長居したいはずもないのです。私は廊下へと出て行こうとするポッターの背中をぼんやり眺めていましたが、ふいにドアノブへとかかった彼の手に視線が縫い止められました。

「ちょっと待って」
「え?」
「これ、あげるから使ったら。いくら薬を塗っても、そんな傷、そのままにしておいたら治るものも治らないわよ」

彼の手の甲には、ペンで引っ掻いたような、何か文字のようにも見える痛々しい傷がありました。元々はきちんとハンカチか何かを巻いてあったのかもしれませんが、走っているうちに取れたのでしょう。ローブのポケットから出したハンカチをポッターに渡そうとして────片手だと自分では巻きづらいかと気づき、ポッターの手を取って患部を覆うようハンカチを縛りました。

「……何?」
「あ、ううん、何でもない。……ありがとう」

ハンカチを巻いている間、妙に視線を感じたので思わず眉を寄せれば、ポッターは何でもないと首を振り、慌てた様子で部屋を出て行きました。嫌いな相手に対してああも屈託なく「ありがとう」が言えるのはさすが英雄殿は違うなと────そんな感想を抱きつつ、私もまた読書へと戻りました。
私の中ではそれで終わったはずの出来事でした。

「あ、見つけた。レイチェル

次に私が1人でその部屋で読書に耽っていたとき、ポッターはまた現れました。今度はフィルチ抜きで。
私の顔を見るなりぱっと顔を綻ばせ、それだけでなくまるで友人のように親しげに名前を呼んできたポッターに、私は困惑しました。確か私は彼にグラントと呼ばれていたはず、だとか。いや、そもそも名前を呼ばれるような機会すらほとんどなかったような、とか。ぐるぐるとそんな疑問が頭の中を回っている間に、ポッターは今日と同じに私の隣に座り、授業のことだとかクィディッチのことだとか、他愛のない世間話を始めました。呆気にとられていた私はろくに相槌を打つことすらしなかったのですが、気にした様子もなくポッターはひとしきり喋り終えると「またね」と手を振って去って行きました。嵐のような出来事に、私はてっきりOWLの試験勉強のストレスのあまり白昼夢を見たのかと思っていたのですが、そうではなく、次の週も、その次の週も、ポッターはまた現れて、そして友人のように話をしていくのでした。
もしも過去に戻れるとしたら、間違いなく私は、あの日の私に「ポッターを放っておけ」と忠告するでしょう。私にとっては喜ばしくないことに、あの日以来、ポッターは私と友人になることを決めたようでした。

 

 

「そもそも、貴方と親しくなって私に何のメリットがあるの?」

ポッターが本気では私と友人になることを望んでいるのならば、彼にとってはその関係性に何かしらのメリットを感じているのでしょう。けれど、私にとってはわざわざグリフィンドールの、それもその象徴とも言えるハリー・ポッターを友人に持つことなんて、デメリットしか感じられません。
バニラの香水をつけないようにすること。ハリー・ポッターと関わらないこと。私にとってはどちらも同じ。
それ自体が私の考えや価値観から生じるものでなくとも、周囲と不和を生みたくないと言うのは私の意思です。彼自身と個人的な確執はなくとも、私の友人達が彼を嫌っている。それだけで、私にとっては彼を避けるには十分な理由なのです。

「うーん、そうだな。たぶん、自慢できるよ。僕、今は『選ばれし者』らしいから」
「冗談でしょう? 貴方と友人になったなんて言ったら、両親が卒倒するわ」

冗談めかして言うポッターの言葉を鼻で笑ってみせたものの、これは自分で言っていて半信半疑でした。魔法界における彼の存在の影響力を考えれば、私と彼が友人になれば両親は喜ぶかもしれません。とは言え、素直にそんなことを口にして彼の言葉を肯定するのは得策ではありません。

「じゃあ、君はどうやっても僕と仲良くする気はないんだね?」
「ええ、そう。ようやく理解してもらえたようで嬉しいわ」

ポッターの問いに、私はわざとらしいほどにニッコリ微笑みました。数ヶ月にも渡って繰り返して来たこの攻防にもとうとう決着がつくのかと思うと感極まりそうになりますが、油断は禁物です。あともうひと押しとばかりに、私は愛想よく小首を傾げました。

「わかってくれたなら、もう私に会いに来たりしないでくれるわね?」
「うーん、それはできない相談かな」
「は?」

甘ったるい作り声は喉の奥に引っ込んで、代わりにワンオクターブも低い声が飛び出しました。思わず顔を引きつらせる私とは対照的に────全くもって腹立たしい限りですが────ポッターは悪戯っぽく微笑みを浮かべてみせました。

「撤回するよ。僕、本当は別に君の友達になりたいわけじゃないんだ」

あまりにも予想外の言葉に、一瞬何を言われたのかわかりませんでした。それならば、どうしてこうも頻繁に私に会いに来ていたのでしょう。まさか、私の嫌がる反応を楽しむために?
一体どう言うことかと見返せば、真剣そのものの表情が私を見つめていました。

「君と友達以上になりたい」

何を言っているのと、言葉にすることはできませんでした。私の口は彼の唇によって塞がれてしまったから。軽く触れるだけのキスは、すぐにまた離れましたが、突然の出来事に頭が真っ白になった私には時間が止まったかのように感じました。目を見開いたまま固まった私の反応を奇妙に思ったのか、ポッターが不思議そうに首を傾げました。

「今まで誰かとキスしたことある?」
「あっ、あるわよ!」
「あ、ないんだ」

焦りから言葉がつっかえた私に、ポッターは無邪気に笑いました。その嬉しそうな声が腹立たしいのと、とっさの見栄が見透かされて悔しいのと、いきなりキスをされたことによる動揺と。感情がぐちゃぐちゃになって、どうしてか泣きたくなりました。

「いい香りだね。これ、シャンプーか何か?」
「あ、貴方が好きな香りならっ、もう、二度とつけないわ!」
「ひどいなあ」

無遠慮に私の首筋に顔を埋めたポッターは何が可笑しいのか、くすくすと笑っています。吐息が髪を揺らす感覚に、無意識に息を詰めました。異性にこんな風にされるのは初めてで、羞恥に胸が締め付けられます。知らず随分と肩に力が入っていたことに気づいて、ゆっくりと息を吐きだしました。

「…………他に、いくらでも、私より可愛くて優しい女の子が居るでしょう」

どうして彼が、こんなにも私に興味を持つのかわかりません。
生き残った男の子。魔法界の英雄。選ばれし者。炎の雷をも乗りこなす素晴らしいシーカー。クィディッチチームのキャプテン。わざわざスリザリンなんかの、愛想も可愛げもない女なんかに構わなくたって、彼ならいくらでも相手を選べるでしょうに。素っ気ない態度を取り続けていれば興味を失って離れて行くだろうと思ったのに、彼は私がどんなに意地の悪い言葉をぶつけても、言い過ぎたかなと思っても、また当たり前のように会いに来るのです。

「確かに、そうだろうね」
「なら、」
「でも、あの日僕を助けてくれたのは、その女の子達じゃないよ」

ただの気まぐれです。疲れきった表情にほんの少し同情したから、たまたま私と貴方の2人だけだったから、ただそれだけ。私は貴方が思うほど、優しい女の子なんかじゃない。パンジーが、ドラコが側に居たら。他の誰かに見られていたら、私は絶対に貴方を助けたりしなかった。
前にもはっきりとそう言ったのに、ポッターは屈託なく笑うだけでした。「君にとっては気まぐれだったとしても、僕が嬉しかったからそれでいいんだよ」なんて。

「こうやって僕にキスされたことも、君はきっと誰にも言わないんだろうね」

俯いた私の頬に、ポッターの手が触れました。男の子にしては細くて長い指はひんやりと冷たくて、自分の頬の熱に嫌でも気づかされます。ポッターの視線が私に向けられていることはわかっていましたが、私はせめてもの抵抗とばかりに視線を合わせることはせず、彼の首元のネクタイばかり見つめていました。

「……どうしてそう言えるの?皆に言いふらして、貴方を笑いものにするかもしれないでしょう」

無関係の第三者ならばともかく、私が訴えれば、少なくとも友人達や同級のスリザリン生達は私の言い分を信じてくれるでしょう。そうして、面白がって彼を侮辱するに違いありません。嫌がっている相手をしつこく追いかけるみっともない男だと言う評価は、彼にとって決して居心地のいいものではないはずです。

「だとしたら、マルフォイの奴は怒るだろうな。あいつも、君のことを気に入ってるみたいだから」

からかうような口調で紡がれた言葉に、ぎくりとしました。
ポッターの言っていることは事実です。あれほどわかりやすくドラコに好意を示しているパンジーよりも、どうしてかドラコが気にしているのはその隣に居る私の方で。恐らく、パンジーも気づいているでしょう。気づいていて、私も彼女も知らないフリをしています。

「今は君に対しては随分紳士的に振舞ってるみたいだけど、君が大嫌いな僕なんかにちょっかいをかけられてるって知ったら、独占欲と嫉妬を剥き出しにするだろうね。それって、君にとっては僕とこうやって会うことよりもずっと面倒なことなんじゃない?」

それは、確かにその通りで。ドラコに今以上に干渉されることは元より、せっかく築き上げたパンジーとの友情は崩れるでしょうし、両親の耳に入ればせっかくマルフォイ家のご子息に気に入られたのだからと色めき立つことは間違いありません。打ち明けた後に何が起きるかを考えれば、私は決して今日のことを口にすることはないでしょう。

「君は言わないよ、レイチェル

唇がまた触れそうな位置で、ポッターはひそやかに囁きました。まるで、子守唄でも歌うような優しげな響きで。レンズの隙間から覗きこむようにして、真っ直ぐな視線が私を見つめます。睫毛の間から覗く、吸い込まれそうな澄んだ深い緑。心臓が破れそうに早鐘を打つのに、どうしてか視線が逸らせません。
あのブローチと同じ、エメラルドの瞳。彼の方が私よりもよほど、狡猾な蛇のよう。

「だからこれは、僕たち2人だけの秘密だ」

やめて、と呟いた声は自分でも驚くほどに弱々しく響きました。彼の声が揺らした鼓膜から、段々と熱が浸食していくようで。耳を塞いで、振り払うように首を振れば、そんな私の様子にポッターは楽しげに微笑むばかりでした。
ああ、もう、何てことなの。私達はただの同級生なのに。2人きりの秘密、なんて。そんな、まるで、特別みたいな。私達の間にあるものは、そんな甘ったるいものじゃないのに。
私と彼が想い合うことなんて、ありえません。だって彼はグリフィンドールで、私はスリザリンなのですから。ましてや彼は、純血ですらありません。彼の親友は「血を裏切る者」や「穢れた血」。そうでなくても、彼の周りには何かとトラブルが絶えません。私の望む平穏とは、対極に位置するような人間です。
ありえないのです。私と彼が恋に落ちても、うまくいくはずがないのですから。私は、面倒事は嫌いなのに。ありえないのです。だから、仮定や可能性なんて、考えたところで無駄なだけ。

もしも彼がグリフィンドールでなければ好きになっていたかもしれない、なんて。
いいえ、それどころか。彼がグリフィンドールだと知っていても惹かれかけているかもしれないなんて、そんなこと。


    お返事が早いのはこちら ⇒ Wavebox