楽しげな話し声の重なり合ったざわめきが肌を撫でる。夜も更けて来たせいか、さっきからひっきりなしに客が出入りしているらしく、立てつけの悪いドアがギイギイと軋んでいる。その喧騒とは無関係に、私は一人ぼんやりと頬杖を突いて宙空を見上げていた。天井まで伸びる古めかしいチェスナットの棚には、大きさの不揃いな瓶が所狭しと並べられている。その隣に置かれた食器棚には、曇りなく磨きあげられたワイングラスやゴブレットが行儀よく並んでいた。その一つ一つが、淡いランプの灯りを反射してキラキラと星のように瞬いている。

「久しぶり、レイチェル

待ち人は時間ぴったりに現れた。とは言え、30分も前から店に居た私は既に彼を待たずに呑み始めてしまっている。数ヶ月ぶりに会う友人は、私の顔色とテーブルの上にいくつも置かれた空のグラスとを見比べて一瞬何か言いたげに眉を寄せたけれど、結局は何も言わず隣の席へと座った。

「それで?僕が呼ばれたってことは、また失恋したの」
「“また”は余計よ」

開口一番に紡がれた言葉に、思わず眉を顰めた。早くも回り始めたアルコールのせいか、妙に舌った足らずな口調になってしまったのがなんだか悔しい。

「今度の彼とはうまくいきそうだって言ってたじゃないか」
「……浮気を疑われたの。それが原因で振られたわ」
「おかしいな。前にも同じセリフを聞いたことがある気がする。前の彼……?いや、前の前の彼だったかな……」

私が注文したナッツを勝手に摘まみながら、真面目くさった顔でそんなことを言い出した友人をキッと睨みつけた。事実だけれど、と言うか正確に言えば前の前の前の前の彼だけれど、それがたった今失恋で落ち込んでいる人間にかける言葉だろうか。

「悪かったわね!と言うか、学生の頃振られたのは誰のせいだと思ってるのよ、ビル!」

 

 

メリー・ウィドウの夜

 

 

彼、ビル・ウィーズリーとの関係を聞かれたとき、私はこう答える。「ホグワーツ時代の友人なの」。もう少し詳しく聞かれればこう続ける。「私達、2人でグリフィンドールの監督生だったの」。
言葉にしてみればとても簡潔で、こう返せば周囲も訳知り顔で納得してくれる。ああ、2人とも学生時代は監督生に選ばれるほど優秀な学生で、2人で協力して監督生の責務を果たしたから信頼し合っているのね。美しい友情ね。そんな風に。
わざわざ説明することでもないけれど、その想像は多少事実とは異なっている。なぜなら、監督生が選出される4年生の終わり頃の私は、監督生に選ばれるような優秀な生徒ではなかったからだ。謙遜なんかではなく、客観的事実として。
正直、5年生の夏休みにホグワーツから届いた封筒から、教科書リストと一緒に監督生バッジが出てきたときは、何かの間違いなんじゃないかと思った。成績はそれなりにいい方ではあったけれど、あくまでもそれなりで────私は同学年の寮生の中で「1番成績のいい女子生徒」でも、「1番人望のある女子生徒」でもなかった。2番や3番ですら、私の名前は入らなかっただろう。平均よりもちょっと優秀なだけの、ただのグリフィンドール生。両親でさえ、どうしてうちの子がと不思議がっていたくらい。
けれど、思い当たる理由は1つだけあって。私のルームメイトは、何と言うか先生方の注意しにくい方向に素行不良で────要するに「交友関係」がかなり派手で、もっと直接的に言えば不特定多数と不純異性交遊をしまくっていたので、そのお目付け役になることを期待してマクゴナガル教授は私に監督生と言う権力を与えたのではないか、と。彼女は私の言うことだけは割と聞いた。私の顔が可愛がってくれた従姉に似ているかららしい。

「男子の監督生は僕なんだ。よろしく、レイチェル

新学期、9と4分の3番線のプラットホームでそうビルに声をかけられたときは、冗談抜きに残りの学生生活終わったと思った。
とは言え、ビルが監督生になっていたこと自体は意外でも何でもなかった。むしろビル以外の誰かが選ばれていた方が驚いただろう。ビルほど監督生に相応しい生徒なんてホグワーツには居ない。たとえ寮内でなく同学年の全生徒から代表を決めたとしても、満場一致でビルが選ばれたに違いない。
誇張でなく、当時のビルはそれくらい優秀で模範的な生徒だった。学年一の秀才で、教授陣のお気に入り。その温厚で誰にでも親切な人柄から、同級生ならず上級生や下級生からの人望も厚い。ついでに言うなら背が高くハンサムで、そしてそんな彼はとてもモテた。唯一スリザリン生が彼を中傷する糸口にできる生家の経済状況すら、女子にとってはむしろ親しみやすさとして好評価だったように思う。

ホグワーツ中の憧れだったビル。でも、意外にもビルに「友人」と呼べる女の子はそう多くはなかった。

前述の通り、ビルに淡い片想いをしている女の子は山ほど居たし、真剣に恋人の座を狙っている子ももちろん居た。そのステップとして友人から、と考えている子も多かった。けれど、ビル自身はちやほやと女の子に取り巻かれることよりも、弟達や友人との会話に時間を割くことに重きを置いていたし、第一彼は多忙だった。それはつまり、ビルの気を惹く────たった1人自分だけに注意を向けてもらうためには、ビルも周囲も納得するようなそれなりの理由が必要だと言うことだ。もしくは、周囲の目もビルの都合も気にしないと割りきれる、よほどの自信と積極性とタフネスと強引さを持ち合わせた女子でなければ抜け駆けは難しかった。確か4年生の頃ビルには恋人が居たけれど、それも1つ上の学年でも指折りの可愛い子でかなり積極的だった。そして、クリスマス休暇に2人で過ごしたがった彼女を「弟達が待っているから家に帰る」とビルが断ったことがきっかけでイースターの頃には破局したと聞いている。つまり、当時の彼はフリーだった。そんなタイミングでの監督生選出だ。
彼と同じく監督生になれば、いくらでも抜け駆けができる。“監督生の仕事”、と言うのはまさしく打ってつけの口実だ。そうでなくても仕事の上で関わりが多いから、「特別親しい女の子」になるきっかけはいくらでも転がっているだろうと────そんな風に考えて、密かに監督生のポジションを狙っている女の子はたくさん居たらしい。グリフィンドールにも、それ以外にも。
そんなこんなで、監督生の顔合わせには案の定他寮での争奪戦を勝ち抜いた優秀で意識の高い女子が揃っており、私は明らかに浮いていた。「え、なんであの子が?」と言いたげな怪訝な視線に、私はライオンの檻に放り込まれた子ブタになったような気分だった。そして、その疑問の答えだって同学年なら当然思いついてしまう。ちなみに、私が監督生になる原因を作った張本人は「レイチェルが監督生なんて素敵。従姉と同じね!」と美しい顔に無邪気に笑みを浮かべて喜んでいていた。人の気も知らずに呑気なものだ。

「場違いな監督生」────。そんなあだ名がつけられたのは、仕方ないことだと思う。

要するに、私が監督生に選ばれたことについて、周囲は“理解”はしていても、“納得”はしていなかったのだ。私自身が望んだことではないとわかっているからか、直接的に何か言われることは少なかったけれど、それでも向けられる視線はあまり好意的な物ではなかった。
「本当なら、私が監督生になるはずだったのに」「レイチェルよりも、あの子の方が優秀なのに」「レイチェルでいいなら、私でもよかったんじゃないの?」「いいわよね、運よくビルと一緒に監督生になれて」
平たく言えば、逆恨みと嫉妬。そんな状況に、大変ねと同情してくれる同級生も中には居た。けれど、それも私が場違いだと考えていると言うのは同じことなのだ。ただ、それを包んでいる感情の種類が違うだけ。本来なら、あなたはその苦労をするはずじゃなかったのにね。本来なら、監督生なんてなれるはずなかったのにね。本来なら、今頃ビルの隣に並んでるのはあなたじゃなかったのにね。そんな風に、言葉の裏を勝手に悪い方に読みとって、凹んでしまったりして。

同じ「監督生」でも、皆から信頼されて監督生に選ばれたビルと私は違う。

周囲に思われているのと同様に、私もそう思っていた。確かに私はビルほど賢くないけれど、同じバッジをつけているからと言ってそこまで自惚れられるほどおめでたい頭はしていない。監督生の仕事を一緒にするようになってからは、尚更強くそう思うようになった。
とにかくビルは何をするにつけてもスマートで、嫌みなくその優秀さを見せつけてくるのである。私は監督生の仕事と学業の両立にいっぱいいっぱいなのに、ビルはどちらも軽々と────本人は「いや、結構きついよ」とは言うものの私みたいに寝不足でクマを作っていたりはしない。私より3つも選択科目多いくせに!────こなした上に、そんな私を気遣う余裕まである。割り振られた仕事はいつもさりげなく多くやってくれるし、重い物は運んでくれるし、私が課題で苦戦していれば的確にアドバイスをくれる。
ビルはさすがの好青年ぶりで私に対して常に紳士的だったので、傍目から見れば私達は仲睦まじく監督生をやっているように見えていただろう。仕事がしやすいのはありがたいけれど、由々しき事態である。恋する乙女と言う生き物は嫉妬深いのだ。皆の王子様と親しくすることで妙なやっかみを受けるのも避けたかったので、事務的に、監督生の仕事上必要な最低限にしか関わらなかった。
それが今のように友人と呼べる関係に変わったきっかけは確か、6年の秋だった。

 

「うるさいな!偉そうにすんなよ!お前なんか、本当なら監督生になんてなれなかったんだから!」

どうして私がその下級生を注意することになったのかはもう覚えていない。確か、違反品を持っていたか何かだったと思う。私物を没収の上に減点されたことに怒った彼は、そんな捨て台詞を吐いて逃げて行った。たぶん、私のことは上級生の誰かから聞いたのだろう。言われ慣れてるからまあよいのだけれど、問題はビルがその場に一緒に居たことだった。追いかけて咎めようとするビルの袖を掴んで引き留める。

「気にしていないわ。事実だし」
「そんなことない!」
「いいの。ビルだって知ってるでしょ。私が皆に何て呼ばれてるか」

ね、とへらりと笑みを浮かべる。どっちかと言うと、あんな悔し紛れの捨て台詞よりも、今こうしてビルに同情されていることの方が私の精神衛生には悪いのだけれど。振り返ったビルは、まるで自分がひどいことを言われたような傷ついた顔をしていた。

「確かに……確かに、僕も最初は、君が監督生に選ばれたって聞いて驚いたけど」
「あー……うん」

思わず口元が引きつった。やっぱりビルもそう思ったんだ。初めて知らされた事実に、ズシンと胸に重いものが落ちたような気がした。いや、そうだろうとは思っていたからショックを受けるのもおかしいのだけれど、本人の口から言われると傷つくものがある。

「でも、今となっては監督生がレイチェルでよかったと思うよ」

けれど、続けられた言葉があまりにも予想外で、私は思わずぽかんと口を開けてビルを見返した。同情で心にもない慰めを言ってくれているのだろうかと思ったけれど、私を見つめるビルの表情は真剣そのものだ。

「僕も一緒に仕事をするようになって気づいたから、皆もたぶん知らないんだろうけど……君は、監督生に向いてると思う。監督生の仕事って、何だかんだ一番多いのは今みたいな問題行動の注意や生徒間の揉め事の注意だろう?」

ビルの問いかけに、小さく頷く。そうなのだ。夜中の見回り当番とかレポート集めとか教授の手伝いなんかもあるけれど、一番多いのは生徒間の風紀を取り締まることだ。下級生の頃は、廊下で「スリザリン、減点!」なんて注意している姿を凛々しいと憧れたりもしたけれど、実際自分がやる立場になるとなかなか大変である。廊下での些細な魔法使用なんかも注意の対象なので、監督生になってからは廊下を歩くのに以前の10倍時間がかかってしまう。

「君は、喧嘩している片方が仲の良い後輩だったとしても、ちゃんと事情を聞いて判断する。親しい人間だからって、見て見ぬ振りもしない。監督生としては当たり前のことだけど、案外できる人は少ないよ。僕はまあ、兄弟が多いから慣れてるって言うのはあるけど……それでもやっぱり難しいなと思うことも多い。でも君はごく普通に、自然体に、それができる。それってたぶん、君が思ってるよりすごいことだよ」

君にとっては普通のことだから、自分ではわからないだろうけどね。そんな風に付け足して、ビルは微笑んだ。

「それに、君みたいにその気があったわけじゃないのに監督生に選ばれたら、大抵の人は『好きでなったわけじゃない』って適当にやると思う。監督生の仕事って言うと聞こえはいいけど、ほとんど雑用や先生達の小間使いや下級生の世話なんかで、目立たないし、そんなに楽しいものばかりじゃないしね。そうじゃなきゃ、やってやってるって態度で権威を振りかざすか。でも、君はむしろ『なるべくしてなったわけじゃないから』って、監督生らしく振る舞おうと努力してる。僕は、その誠実さは君の美徳だと思う」

私はそんなに褒められるような人間じゃない。ビルが優しいからそう見えるのだ、とは思うけれど。あまりにもビルの声が心地いいから、そんな可愛げのない言葉は喉の奥に引っ込んでしまう。

「僕達の学年の間で君が何て呼ばれてるかは僕も知ってる。言い訳じゃないけど、僕はその度に否定してきたよ。僕は君が監督生に相応しくないとは思わない。適任だと思う。君は監督生として立派に責任を果たしてるし、下級生の女の子達なんかは、君に憧れてる子も多いと思うよ」

目頭が熱くなって、視界が滲んだ。そうしてそのまま、とめどなく溢れて頬へと流れ落ちていた。ずっと私の中で張りつめていたものが、緩んだ気がした。
嬉しかった。私でいいのだと、私がいいのだと認めてくれた人が居たことが、しかもそれが一番側で見ていてくれた、優秀なビル・ウィーズリーだったことが。

「ありがとう、ビル」

親しくなり過ぎないようにと、一線を引いていた。それだけでなく、きっとそもそも心を許せていなかった。ビルは優しいから態度に出さないだけで、内心ではきっと皆と同じように思っているんだろうと疑っていた。ビルも、監督生に選ばれたのが私だったことにがっかりしたんじゃないかと。
ううん、違う。ビルの隣に並んでいるだけで、勝手に引け目や劣等感を感じていたのだ。もっと他の女の子がビルの仕事が楽だったんじゃないか、とか。私のせいで、ビルの負担が増えてるかも、とか。

「私も、一緒に監督生がやってくれるのがビルでよかった」

涙はまだ止まりそうになかったけれど、精一杯微笑んだ。そして、これからもよろしくねと手を握って。
その言葉通り、卒業後も私の友人関係は続いている。

 

 

「本当なら今頃、彼の両親と一緒にディナーのはずだったのよ」

飲み干したジョッキをテーブルへと叩きつけて、テーブルへと突っ伏した。両親に紹介すると言われて、もしかしてそろそろプロポーズされてしまうかも?なんて浮かれていたのに、どうして私はこうして行き慣れたパブでやけ酒をする羽目になってしまっているのだろう。

「ああ、それで」

ビルが納得したように呟いたのは、私のこの服装のせいだろう。彼がプレゼントしてくれた、よそゆきのワンピース。せっかく新調したし、このまま袖を通さずにクローゼットにしまってしまったら見る度に辛くなりそうなので着てきたけれど、ガヤガヤと騒がしい漏れ鍋の店内ではちょっと浮いている気がしないでもない。

「そもそも、どうして浮気を疑わるようなことになったの」
「……信じてくれるの?」
レイチェルを知ってたら、浮気なんてあり得ないのはわかる。君の居る魔法事故惨事部が忙しいのは僕でも知ってるし。それに君、恋人が居る時はどんなに好みの男が居ても見向きもしないだろ」

そうなのだ。自分ではむしろ浮気とは一番縁のないタイプだと自負しているのだけれど、どうしてか毎回浮気を疑われて別れることになる。学生時代はビルと2人で居る時間が多いのが原因だったけれど、卒業した今ではそれもないのに。おまけに、今回の彼はマグルだからビルに会ったことすらないのに。

「エリック、わかるでしょ。うちの寮の」
「ああ、僕らの2つ下の学年の?」
「そう、マグル生まれの。彼、魔法省志望で、私の部署にも興味があるって言うから、時々手紙のやり取りをしてたの。彼のおばあさんが私の家の近所に住んでるんだけど……この間急に体調を崩して、漏れ鍋から向かいたいから暖炉を貸してくれないかって言われて。勿論快く承諾したわよ、心配に決まってるもの」

言葉を切って、マスターのトムが出してくれたグラスを煽れば、蜂蜜酒の優しい甘さが口の中に広がった。アルコールが熱と共にじんわりと喉から胸を過ぎていって、こみ上げてくる悲しさを一緒に胃へと押しやってくれる。

「それで……それで、おばあさんは命に別状なかったらしいんだけど。エリックが帰るときに、私の家に入って行ったのを、偶然彼に見られてたらしいのね」
「うわ」

泊まりがけの出張だったはずの彼は、予定外にその日の内に帰って来ることができたらしい。ちょうど私が休みだと知っていた彼は、映画でも行かないかと誘いに来てくれのだと言う。伝聞なのは、全部後になって彼から聞いたことだからだ。

「しばらく待っても男は出てこなかったけど何してたんだって言われて……出てくるわけないじゃない、暖炉から帰ったんだから!でも、それをマグルの彼にどう説明したらいいのよぅ!」

おまけにエリックが帰ったあとに私もすぐ出掛けたから───もちろん彼の見ていたドアではなく姿くらましで────彼の視点からすると、私とエリックが家に入ってすぐに灯りが消えたことになる。彼にとって私は完璧なまでに「恋人の不在をいいことに他の男を家に連れ込む女」と映ってしまったのだ。それまで仕事のせいで会えなかったのも「あの男と会っていたのでは」と疑われてしまって、もう何を言っても信用してもらえなかった。

「忙しくて彼をほったらかしにしたのも悪いのよね……マグル製品不正使用取締局に異動願い出そうかな」
「失恋が理由で?僕らの年でキャリアを捨てるのは、まだ早いんじゃないの」
「自分の父親の部署に対して、その言い草はひどいんじゃない?」
「父さんは出世に興味がないからね。あれは仕事と言うよりは趣味であり生きがいなんだよ」

琥珀色のウイスキーが入ったグラスを優雅に傾けながら、ビルがしれっと言う。確かに、以前夏休みに遊びに行ったときにビルの家族には会ったことがあるけれど、アーサー氏のマグル製品への入れ込み用は、ちょっと常軌を逸していた。私も、今の仕事は好きなのでできるなら異動はしたくないけれど。反省する点は他にもまだある。

「やっぱり、ぐずぐずしてないで早く打ち明けるべきだったんだわ。そうしたら、余計な嘘は吐かなくて済んだのに」

魔女だと言うことさえ彼が知っていてたのなら、仕事のことだって暖炉や姿現しのことだって説明できたはずなのに。こんな風に拗れてしまうくらいなら、打ち明けて受け入れてもらえなかったらどうしようとか悩まずにさっさと言ってしまえばよかった。

「失敗した原因がはっきりわかってるのなら、次に活かせばいいじゃないか」
「次なんていらない。私、彼と結婚するつもりだったのに………」
「付き合って確かまだ3か月じゃなかった?結婚相手を見極めるのはもうちょっと慎重になった方がいいと思うけどな」
「今度こそ運命だって思ったの!」
「そう言えば昔チャーリーが言ってたな。レイチェルの運命は一体何回あるんだって」
「何よぅ!」

ビルがひどい、とぐすぐすと泣き出した私に、ビルは一瞬困った顔をした。大抵のことは涼しい顔でこなしてしまうビルなので、困った顔と言うのは珍しい。そんなことを思いながらぼんやりしていると、ビルは小さく溜息を吐いた。

レイチェル、そのファイアウイスキーの瓶は僕に渡して。これは予言だけど、それ以上飲んだら君は絶対に悪酔いする。と言うか既に若干してる」
「やーだー。まだ飲めるもん」

子供じみた駄々をこねて抵抗してみるものの、胸に抱きしめたファイアウイスキーの瓶はビルの杖の一振りで取り上げられてしまう。アルコール類の代わりに私の手にミネラルウォーターの入ったコップを握らせて、ビルはちらと壁に掛けられた時計に視線をやった。

「そろそろ帰った方がいいと思うけどな。明日仕事だろ」
「まだ9時じゃない。それに、明日は元々非番だもの。帰りたくない……1人になると暗いことばっかり考えちゃうし」
「朝まで付き合うよって言いたいところだけど、さすがに無理だ。僕も仕事があるし」
「ビルの薄情者」
「はいはい」

まるで小さな女の子にするみたいに私の頭をポンポンと叩くビルに、ぐすと鼻を啜った。もしかしたらジニーと同類項だと思われているのかもしれない。
ビルが薄情だったら、世界のほとんどの人が薄情だ。今日だって、失恋したと言ったらこうしてわざわざエジプトから駆けつけてくれた。日曜日だから予定や約束もあったかもしれないのに、恩着せがましいことは言わない。しかも、毎度こんな風に酔っぱらって絡まれて、私ならとっくに帰っている。どうしようもなく優しいのである。

「時差ばっかりはどうしようもないんだから、仕方ないだろ。嫌なら他の友達を呼べばよかったじゃないか」
「やだ。ビルがいいの」
「光栄だよ」

乾いた声でそう返すビルは言葉とは裏腹に全く光栄に思ってなさそうだけれど、私だって別に適当を言っているわけじゃない。ビルなら恋人も居ないし暇だろうとか考えているわけでもない。ビルが忙しいことも疲れてることもわかってるから、申し訳ないとも思っているけれど。

「ビル、ただ隣に居て、はいはいって聞いてくれるでしょ。女友達に愚痴ったら、皆慰めてくれるし同情してくれるけど……見る目や理解のない男だって彼のこと悪く言ったり、失恋には新しい恋だって別の男を紹介しようとするんだもの。私のためを思って言ってくれてるのはわかってるけど……っ」

まだ彼のことが大好きなのに悪口なんて聞きたくないし、新しい恋なんて今はまだ考えられない。こうして話している間にも、楽しかったデートの思い出や彼の顔ばかりが頭に浮かんでしまう。じわりとまた目尻に涙が浮かんできてしまったので、慌てて手の甲で拭った。

「……まあ、レイチェルは昔から恋人ができると尋常じゃないくらい盲目的になる傾向があるのは確かだと思う」

考え深げな口調でそう言ったビルに、思わず「えっ」と声が出た。いつもなら恋愛観は人それぞれだからと批判やお説教じみたことは言わないのに、ビルまでとうとうそんなことを言うなんて。驚いて顔を上げれば、ビルはじろりと非難めいた視線をくれた。

「だってそうだろ。恋人ができると、2人で会うのは無理って言って来るくせに、別れるとこうして僕を呼びつけるんだから。薄情なのはむしろレイチェルの方だ」
「うっ……それは、悪いと思ってるけど!でも、手紙はこまめに送ってるでしょ!仕方ないじゃない、学生の頃で散々懲りたんだもの。もしビルと2人で会ってるとこ見られたりしたら、それこそ浮気だって思われるじゃない!」

それもこれも、ビルが不必要にハンサムだから悪いのだ。男友達が居ることや、2人で食事に行くことくらいは理解してくれるとは思うけれど、その相手がビルだと知ったら話は別だろう。私だって、彼が美女と頻繁に出掛けるとなったら気が気じゃない。

「まあ僕がレイチェルの恋人でも、男と2人で飲みに行ってここまで酔っ払われるのは嫌だけど。相手が僕じゃなかったら、何か間違いがあってもおかしくないよ」

呆れたように呟くビルに、私は気まずくなって視線を逸らした。そりゃあ私だって、今のこの状況が褒められたものではないのはわかっているけれど。仕方ないじゃないか。失恋したばかりだし、久々に友人と会えたのだし、酔っぱらいたかったんだもの。

「ビルだって……ビルだって恋人ができたら、『彼女に悪いから』って私とは会ってくれなくなるでしょ?」
「僕はそんなことしない。付き合うなら僕の交友関係に理解のある女性を選ぶ」
「うー……わからないわよ。好きになった人がものすごく嫉妬深いかも」

6年生の半ばくらいに付き合っていた彼女と別れてから、ビルは恋人を作らない。私が知っているだけでも何人もアタックしたと聞いているけれど、ビルはその中の誰も選ばなかった。進路がエジプトに決まったせいかな、とも思ったけれど、卒業してからもやっぱりビルに恋人ができたと言う話は聞かない。

「どうして彼女作らないの?よっぽど理想が高いの?」
「まあね」

淡々と返すビルは、これ以上この話題は続けてくれなさそうだったので、私は口を閉じてミネラルウォーターを口に含んだ。自分でもかなり酔っぱらっている自覚はある。ビルの言うことは大体いつだって正しいし、耳が痛いことも私のためを思って言ってくれているのだ。

「……いつもありがとう、ビル」
「どういたしまして」

いつも、と言う単語が使えるほどに頻繁に失恋を繰り返してることは情けないけれど、ビルに感謝しているのは本当だ。私にとっては一大事だけれど、たかが友人が失恋しただけでエジプトから飛んで来てくれる人なんて、この先の人生でも何人巡り合えるだろう。そんな友人と、異性だからと言うだけで会わないようにして、誠実に付き合ってきたつもりだったのに。それなのに、この結果だ。

「次の恋なんてまだ無理……あのときああしてればよかった、とか、どうしたら彼の心を取り戻せるのか、とか……そんなことばかり考えちゃう」

お前には何度運命があるんだ、とは、チャーリーだけでなく他の友人達にも言われるけれど。でも本当に、今度こそはと思ったのに。今度こそは最後の、運命の恋だとそう信じたかったのに。誠実に向き合って、努力すればそうなると思ったのに。

「誤解なのに。私、浮気なんてしてないのに……話も聞いてくれなかったし、目も合わせてくれなかった。そんなに急に大嫌いになってしまえるものなの?私は、浮気されたってきっと彼のこと嫌いになんてなれないのに……」
「まあ、確かに理解はしがたいよ」
「そうよね?やっぱりそうよね!?」
「いや、僕が理解できないのはレイチェルのことだよ」
「私?」

予想外の言葉に、ぱちぱちと瞬きをする。グラスを置いて横へと視線を向ければ、テーブルに頬杖をついたビルと目が合う。言葉通り、心底不思議だと言いたげな表情で私を見ていた。

「こんなにいい男が目の前に居るのに、どうして余所見するかな」

静かに紡がれた言葉は妙に耳に響いて、周囲の喧騒が一瞬遠くへ行ってしまったような気がした。
酔ったせいの冗談にしては、ビルの表情はあまりにもいつも通りだ。それに第一、ビルは今日ほとんど飲んでいない。何か言葉を出そうとして失敗した結果、声にもならない音が喉の奥で潰れた。

「君がどう思ってるか知らないけど、僕はただの友人のためにわざわざ海を越えて慰めに来るほど優しくないよ」

確かに、学生時代から付き合っていた恋人と卒業してすぐ別れた時に、今日みたいにビルが心配してはるばるエジプトから来てくれたことには驚いた。でも、別に私だけが特別なわけじゃなく、きっと他の友人にもそうするのだろうと────ビルほど人間ができていればそう言うものなのかなと思っていた。

「ついでに言うなら、女の子を家に招待したのだって、君だけだし」
「だってそれは……ジニーが会いたがったからって……」
「どうしてジニーが君を知ってたと思う?僕が家族に君の話をよくしてたからだって、考えなかった?」

そう言われてみれば、疑問に思わないでもなかったけれど。でも、監督生は2人しか居ないのだし、話題に上ることもあるだろうと深く考えなかったのだ。そんな私の考えを読みとったのか、ビルはまた小さく溜息を吐く。

「そう言う鈍いところも含めて好きだけどね」

今度こそはっきりと言葉にされて、私の頭の中はパニックだった。ただでさえビルよりも回転の遅い脳みそは、まだ体に残っているアルコールのせいでうまく回らない。

「さっき、どうして恋人を作らないかって聞いただろう。卒業後の進路を決めてたからとか、今は仕事が楽しいって言うのもあるけど。1番の理由は、好きな子が居たからだよ」

『好きな子が居るから』────そう言えば、その言葉は以前にも聞いたことがある気がする。ビルが他の女の子への断り文句でそう言ったと、噂で耳にした。ビルでも片想いするんだなあなんて妙に感動したけれど、まさかその相手が自分だったなんて。

「だっ……だって、ビル、私のこと好きだって素振りなんて、全然見せなかったじゃない!」

私だって、人並み……かはわからないけれど、それなりに恋愛経験はあるつもりだ。「この人、私に気があるっぽいな」と言うのは何となく察しがつくし、実際それは大体当たっていた。でもビルからは、そんな雰囲気一度だって感じたことがないし、それらしい言葉を口にされた覚えもない。

「だって君、仮に学生時代に僕が君を好きだって気づいたとして、絶対オーケーしなかっただろ。それなら、焦って振られて気まずくなるよりも、卒業するまで待とうと思って」
「そ、それは、確かにそうかもしれないけど……」

学生時代の私は、意図的にビルを恋愛対象から外していた気がする。だって、「場違い」のくせに監督生の立場を利用してビルの恋人に収まるとか、ホグワーツ中の女子を敵に回しかねない。むしろ誤解されないためにも、ビル以外の男の子に目を向けるようにしていた。それにしたって、だ。

「エジプトに行くことだって、何の相談もなく決めちゃったし……!」

当時から私のことを好きだったと言うなら、一言くらい相談があってもよかったんじゃないかと思う。それなりに親しいつもりだったから、ある日急にそう告げられたときは結構ショックを受けた。じろりと冷たい視線を向けると、ビルはばつが悪そうな表情を浮かべた。

「まあ……それに関しては、君が寂しいって思ってくれることをちょっとは期待してた」
「寂しいって思ったわよ……寂しいに決まってるじゃない……本当は行かないでって言いたかったけど……」
「どうしてそれが恋かもしれないって疑わないかな」
「だって……」

当時は恋人が居たから、彼のことしか見えてなかったのだ。
ビルにとっては私はきっと相談する価値のない相手なのだなあ、とか思って落ち込んだし、せめてもう少し早く知りたかったなあとか、仲良いと思ってたの私だけだったのかなあとか、色々考えたら知らされた日の夜は実は泣いてしまったけれど、それを今言ってしまうのはよくないような気がした。

「まあ、レイチェルらしいけどね」

呆れたような、仕方ないなと言いたげな、けれど優しい笑みに、何も言えなくなってしまう。まるで子猫や子犬みたいな、可愛くってたまらないものを見るようなそんな眼差しが自分に向けられているのが、何だか信じられない。今まで付き合ってきた恋人達だって、こんな風に私を見たことはあっただろうか?

「何でも話せる親友、も悪くなかったけど。待ってるだけじゃ君、いつまで経っても気づきそうにないし。次に恋人ができたらそれこそ出会ったその日にプロポーズを受けかねない」

いくら何でも、さすがにそこまで馬鹿なことはしない。そう反論したいけれど、絶対と言いきれないところが我ながら情けない。いや、でも。何と返したらいいものかわからず言葉に詰まっていると、それに、とビルは言葉を続けた。

「僕なら、君の仕事が多少忙しくたって気にしないし。イギリスとエジプトは遠いけど……まあ、何とかなるよ。それはこうして僕が証明してるだろ?」

天井に吊るされたランプの灯りが、青い瞳の中に星のように光っている。吸い込まれそうな美しさに、頭がくらくらした。まるで、幻を見ているみたいだ。もしかしたら、これは酔い潰れた私が見ている夢なのかもしれない。きっと、そうに違いない。

「だから、僕を次の恋にするといいよ」

だって、信じられない。あのビルが、私のことを好きだなんて。
誰にでも向けられていると思っていた優しさが、私1人だけのものだったなんて。

レイチェル?」

ビルに名前を呼ばれても、私はまだ金縛り呪文にでもかけられたかのように呆然とその場に固まっていた。ビルの長い指が、私の額を軽く弾く。痛くはないけれど、しっかりと感覚があった。どうやら、これは現実らしい。反射的に額を押さえてビルを見れば、ふ、と可笑しそうに目を細める。

「今はまだそんなこと考えられないって感じかな。でも、僕のことをこれまで通り友人としては見れなくなりそうで、戸惑っている」
「何で……」
「言葉にしなくても、レイチェルはすぐ顔に出るからね」

整った顔が、穏やかに微笑する。急がないからゆっくり考えてと、優しい響きで紡がれた言葉に私はぎこちなく頷いた。何か言おうにも、ビルの言う通り頭が混乱していて言うべき言葉が全く思いつかないのだ。
いつものように友人に失恋の傷を慰めてもらうはずだったのに、どうしてこんなことになったのだろう。

「送れなくて悪いけど、家まで行ったら紳士で居られる自信がないから、今夜はこれで。そのワンピース、よく似合ってる。次会うときは、僕のために着てくれたら嬉しいけど」

────おやすみ、レイチェル
長い指と手のひらが髪を撫でる。またあの慈しむような眼差しを最後に、ビルは帰っていった。
1人店の中へと残された私は、力なくテーブルへと突っ伏した。気分が悪いのかと心配したトムが駆け寄ってきてくれたけれど、顔を上げることはできそうになかった。今の自分の顔を、誰かに見られたくない。
頭がくらくらする。頬が熱い。ビルの手が触れたところだけ、まだその感触が残っているような気がする。心臓の鼓動が破れそうに早いのは、まだ残っているアルコールのせいだけだろうか。

確かなのは、さっきまであんなにも胸を占めていた悲しみも、頭に浮かんでいた彼の顔も、すっかりどこかへ消えてしまったこと。そして、次にこのワンピースに袖を通す時に私が思い出すのは、間違いなくこれを買ってくれた彼ではなく、ビルの顔だろうと言うことだ。


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