私の初恋の人の名前は、セドリック・ディゴリーと言いました。

私が彼に恋をしたきっかけは、この上なく単純明快です。一目ぼれ。残念ながら、その一言で説明がついてしまいます。組分けの儀式の後、寮まで引率してくれた姿が凛々しくて素敵だった。ただ、それだけ。
恋は盲目と言うけれど、そんな贔屓目を抜きにしても彼はハンサムでしたし、その上頭も良く、穏やかで親切で、皆の憧れの監督生でもありました。更に、クィディッチでは花形のシーカーでキャプテン。どれかひとつだけでも目を引くような輝かしい魅力を、溢れんばかりに与えられた人。神様に愛された人と言うのは彼のような人を言うのだろうと思ったものです。それなのに驕ることなく、上を向いて勤勉に努力し続ける人。ホグワーツと言う箱庭の中で、彼は眩いほどに光り輝いていました。
大人びた立ち居振る舞い。優しげな笑顔。話し声の落ち着いた響き。思慮深げな灰色の瞳。ようやくティーンの仲間入りをするかどうかの少女の柔らかい心臓が簡単に射抜かれてしまったとしても、無理もないことです。事実、彼の虜になった1年生は私の他にもたくさん居ました。私も、そのうちの1人に過ぎなかった。客観的に見れば、ただそれだけのこと。
それでも。

たとえ他にも似たような境遇の女の子がたくさん居たとしても、私にとっては唯一無二で、正真正銘の、初めての恋でした。

 

 

初恋

 

 

その頃の私の毎日は、ひどく単純でした。起きてから眠るまでに、彼の姿を1度も見かけられなかったらついてない日。彼を1度見かけたら普通の日。彼の姿を2度以上見かけられた日は、ちょっといい日。彼に話しかけられた日は、とてもいい日。
たまたま彼が朝食の時、私達の正面の空いた席に座ったりしようものなら、目の前の皿にスプーンを伸ばすことすら満足にできなくなってしまい、オートミールがふやけていくのを見守るばかり。

「ホグワーツにはもう慣れたかい?」

優しい彼がそう問いかけると、私達は真っ赤になって俯き、「ええ」とか「まあ」とか歯切れ悪く言葉を口の中で転がします。そうして彼が去った後、きゃあきゃあと黄色い声ではしゃぐのでした。恋心と言うスパイスがあれば、ぐずぐずになったオートミールさえ何だかおいしく感じるのだから不思議です。そうして、友人達にはセドリックと話したのよと、誇らしげに胸を張りました。
私も、幼かったから。今思えばとてもできないような大胆なこともしました。その全てに彼が気づいていたかどうかはわかりませんが────きっと少なからず迷惑をかけていただろうと思います。もっとも、今だからこそわかることで、当時はそんなこと考えすらしなかったのですが。
たとえば、彼の時間割を調べて、彼の通るだろう時間に合わせて廊下を選ぶこと。たとえば、彼が図書室でよく座る席の近くを陣取って、勉強する彼をこっそり見つめること。
競技用ローブ姿の彼を間近で見たいがために、おぼつかない箒捌きでチェイサーの試験を冷やかしたこともありました。
ダンスパーティーで彼が正装すると知れば────私達はまだ2年生だったのでパーティーへの参加資格がありませんでした────友人の姉である上級生に、何とかドレスローブを着た彼の写真を撮ってきてほしいと懇願しました。タキシードのような、すっきりとした黒いシンプルなドレスローブは、彼の背の高さや灰色の瞳を引きたてて、まるで王子様のように素敵でした。私はそれを手帳のカバーの間に挟み、肌身離さず持ち歩いてお守りにしていました。

あの頃の私にとって、彼は世界の中心で、全てでした。

とは言え、別に本気で彼の恋人になりたいとか、自分が彼に異性として好きになってもらえるとか思っていたわけではありません。それを望むには、私は彼と年が離れすぎているのはわかっていましたし、その事実に対して深い悲愴感を抱くこともありませんでした。同じ学年だったらもっと親しくなれたのにとか、彼よりも上級生だったらもっと気軽に話しかけられたのにと言う不満は多少ありましたし、あと5年経てばたったの4つ差なんて大したことないと言い合うこともありました。もしも自分が彼の同級生で授業を一緒に受けられたらとか、もしも彼が自分の恋人だったらと言う夢想を膨らませて友人達とはしゃいだりもしました。けれど、私達の中の誰一人として、今の11歳の自分と16歳の彼が恋人同士になることは求めていませんでした。
幸福な想像の中での私は、すらりと背が伸び、顔立ちも大人びた、美しい少女となって彼に愛を囁きます。彼の隣に似合うのは、そう言う少女です。ぺたんこの胸も、彼の肩にすら届かない小さな体も、彼には相応しくないのです。
別に、悲しくはありません。少し、寂しいけれど。でも、彼を見たときに胸に溢れる幸福の方が、ずっとずっと大きいから。だから、いいのです。
廊下でふいに彼とすれ違って、時々、おはようと笑いかけられて、談話室で彼が友人達と笑い合っているのを見かけて。それで、満足でした。
憧れと言う言葉で飾れば健気で美しく聞こえますが、今にして思えば、結局は優しくてハンサムな彼に理想の王子様を投影していたのでしょう。雑誌のピンナップで美しく微笑むハリウッドスターを追いかけるような、ある種の偶像崇拝。その証拠に、彼の好きな色や贔屓のクィディッチ選手の情報を蒐集することはあれど、誰も本気で彼の内面を知ろうとはしていませんでした。
私達は、彼に多少の関心を寄せられることに喜びを見出す一方で、彼に近づくことで私達の考える「セドリック」の像が崩れることを嫌いました。上級生に話しかけるは気が引けるとか、セドリックは監督生で忙しいからとか、もっともらしい理由をつけてはいましたが────まあそれは確かに紛れもない事実だったのですが────自分達の理想とする彼の虚像が壊れない程度の距離を保っているのが、私達にとって都合がよかったから。彼は、私達にとって理想で居てくれなければいけません。バービー人形の恋人と同じです。美しいバービーが幸福であるために、彼は他の誰よりもハンサムで素敵でなければいけないのです。

思えば、あの頃の私は、ただ恋に恋をしていたのだろうと思います。

恋をしていることそのものが、たとえ相手が虚像に過ぎないとしても、好きな人が居る毎日が楽しかったのです。恋と言う麻薬がもたらす世界の鮮やかさは、幼い少女にとっては抗いがたい魅力でした。
今更取り繕っても仕方がないので、正直に言いましょう。稚拙で、独り善がりで、傲慢な、人形遊びの延長。私の初恋なんて、きっと、そんなものでした。
けれど、11歳の無知で幼かった私は、それに気付けるほど聡明ではありませんでした。
自分は本当に彼のことが好きなのだと、これはきっと一生に一度の恋に違いないと────そんな浅はかなことを考えていました。

「セドリック!」
レイチェル

自惚れかもしれませんが、私は比較的、後輩として彼に可愛がられていたと思います。
同学年の子達に比べて背が低く、幼く見える容姿。彼と同じ黒髪で、顔立ちも彼の血縁だとしても違和感がない程度には整っていたので、兄妹みたいねと上級生の女の子達に微笑ましそうに言われることもありました。

「妹が居たら、こんな感じなのかな」

いつだったか、そう言って彼が微笑んでくれたときには、この容姿に生んでくれたことを両親に感謝しました。
ねえ、セドリック。セドリック。私はいつも彼を見つけると、甘えた声で彼の名前を呼びます。彼が気づいて立ち止まると、駆け寄ってその勢いのまま彼に抱きついて。反射神経のよさから、彼はいつも危なげなく私を抱きとめてくれて、危ないよと困ったように溜息を吐く、その瞬間がいっとう好きでした。本当の兄妹だったならこうも顔を合わせる度ベタベタしないでしょうけれど─────事実、私は血縁上の兄にはこんなことしたことがありません────1人っ子の彼はそれを不自然と感じることはないようでした。

「どうしたの?」
「魔法薬学のレポートがわからないの。セドリックに教えてほしいなって」
「また? たまには自分でやらないと、宿題の意味ないだろ」
「考えたもの。考えたけど、ちんぷんかんぷんなの。スネイプに聞きにいったりしたら嫌味言われちゃうに決まってるし……ねぇ、お願い!」
「……仕方ないなあ。ヒントだけだよ」
「ありがとう!大好きよ、セドリック!」
「調子がいいなあ」

彼は私のことを手のかかる妹分だとしか思っていなかったでしょう。私もそんなことはわかっていましたけれど、彼の思い違いに甘んじました。恋心を曝け出して彼に距離を置かれるよりも、その方が側に居られるから。そんな少女らしい打算。彼の困ったような笑顔を向けてもらえる特等席を、手放したくなかったのです。

レイチェルも、もうすぐ3年生になるんだし。僕だって2年後には卒業しちゃうんだから、自分でも頑張るんだよ」
「…………はぁい」

気づけば、彼に出会ってから2年近くの月日が経とうとしていました。
その頃になれば、私もさすがに、いつかはこの恋に終わりが来ることは理解していました。実る見込みもなければ、どうしても実らせたいと強く願ってもいなかったのですから、当然でしょう。彼が好きだけれど、好きなだけです。今はセドリックを好きでなくなった自分なんて想像がつかないけれど、かと言って、自分が一生彼を想い続けられるほど、強い意志の持ち主だとも思えませんでした。何かしらのきっかけが訪れて、風船みたいに膨らんだ私の恋心は、いつか破裂するか、空気が抜けて萎むかするのでしょう。たとえば、そう。彼に相思相愛の素敵なガールフレンドができるとか。彼が卒業して、会えなくなってしまうとか。きっと、そんな風にして失恋するのだろうと思っていました。
ありふれた始まりだったのだから、きっと終わりもありふれているのだろうと。そんな、予想とは裏腹に。結末はそのどちらでもなく、けれど唐突に、私の初恋は断ち切られました。

彼が、死んだからです。

 

 

 

どうして、彼が命を落とすことになったのか。
その経緯については、改めて語るまでもないでしょう。第三者に過ぎない私の拙い説明よりも、ここ最近書店に並んでいるエッセイやドキュメンタリーを読んでもらった方がよほどわかりやすいに違いありません。そもそも説明しようとしたところで、あの日のことを、私はうまく思い出せないのですが。
だって、本当に、突然だったのです。危険があるとは知っていたけれど、でも、だって、そんなのクィディッチの試合だって同じでしょう? 課題は先生達の目の前で行われるのだから、何かあったら助けてくれると、きっと大丈夫だと、誰もがそう信じていて。でも。なのに。

暗い迷路から戻ってきたのは、彼であって彼ではありませんでした。

昨日まで、息をしていた人。甘えてわがままを言う私に、仕方ないなって笑ってくれた人。「優勝杯を手に入れたら見せてね」「もし僕が優勝できたら、その賞金で寮の皆でパーティーをしようか」なんて。そんな、他愛ない約束をして。頭を撫でてくれた、その手のひらの温かさを、まだ覚えているのに。
まるで現実味がありませんでした。出来の悪いコメディのよう。目の前で起こっていることと、私の思い描いていた未来図が、あまりにもちぐはぐで。あっと言う間に日々は過ぎ、気づけばホグワーツ特急に乗っていました。夏休みに入っても、その違和感は膨らむばかりでした。
周囲には魔法族の居ない街で暮らし、自分用のふくろうも飼っていない私にとっては、家に帰ってしまえばホグワーツの友人達とは顔を合わせることはおろか、連絡を取ることすらなかなかできません。だから、家に泊まりに行ったり、一緒に買い物に行く日程を合わせたり────そう言った特別な約束をしない限り、夏休み中に家族以外の誰とも会えないのは私にとっては当たり前のことでした。いくら学校では親しくしているとは言え、彼とはそんな約束はしていません。だから、会えないのは当然で。下級生も上級生も友人も、今私の周囲に居ないのは皆同じです。私の目の前に居ないだけで、皆それぞれに楽しい夏休みを過ごしているはずです。その中で特別に、彼だけがもう二度と会えないと言うのは、まったく奇妙で不可解なことに思えました。
もしかしたら、私、何か考え違いをしているのかも。きっとそうね。だって、彼が   はずなんてない。あれは、何かの間違いだったんだわ。いつもの、フレッドとジョージの悪ふざけだったのかも。そうよね。きっと、新学期になったら、何事もなかったみたいに、また会える。

けれど、夏が終わってまた城に戻っても、そこに彼は居ませんでした。

監督生も、クィディッチのキャプテンも、シーカーも。彼の代わりに、他の誰かの名前に書き換わりました。彼以外の人達は皆居るのに、彼だけが居ませんでした。誰よりも輝いていた、彼だけが。
彼はその人柄も才能も優れていたので、彼が居なくなって空いた穴はとても大きいものでした。最初は誰もが戸惑っていたのに、次第に周囲も慣れてしまって。嘘みたいに、簡単に彼の居ない穴は埋められていきました。

彼の存在が、匂いが、塗り潰されていくのです。古いカンバスの上に、まるきり違う絵を描くみたいに。
まるで最初から、彼なんて居なかったみたいに。

手帳を開くと、彼の写真が目につきます。ほんの少し前までは、開くたび胸をときめかせ、幸福な気持ちになりました。落ち込んだときも、この写真を見れば元気をもらえました。彼が居なくなってからは、手帳を開けなくなりました。胸が締め付けられて、悲しい気持ちになるからです。
けれど、近頃はそれもありません。用があれば手帳を開けるようになりました。そうして、この写真を視界に留めると、ああ、そう言えば写真を挟んでいたんだったなと、どこか他人事のように思い出すのでした。

思い出すと言うことは、忘れていたと言うことです。

私は段々と、彼を思い出せなくなっていました。
あれほど頭の中が彼で一杯だったのに、彼のことを考えることが少なくなりました。最初のうちは、悲しくなるから思い出さないようにしていました。けれどいつからか、無理矢理頭の中から追い出そうとしなくとも、彼の顔が浮かばなくなりました。
彼の名前を口にする数が減りました。彼を思い出して泣くこともなくなりました。
私の中を満たしていた彼が、零れ落ちてゆく。手のひらに掬った水が、指の間から浸み出すように。櫛の歯が欠けるみたいに。

レイチェル

彼の声が、彼の体温が、うまく思い出せないのです。
あんなに、優しくしてくれたのに。好きだったのに。大事な人だったのに。
初恋、だったのに。

レイチェル。まだ、セドリックの写真持ち歩いてるの?」

そんな上級生の問いかけに、ぎくりとしました。まるで、責められているような気がして。けれど実際に私を見る彼女の瞳はどこか痛ましげで。そう感じたのは、ひとえに私に後ろめたさがあったからでしょう。兄のように慕っていた先輩を失くした、可哀想な少女。私に対してそんな同情を向けるのは彼女だけではありませんでした。周囲の視線に、足元から居心地の悪さが這い上がります。こんなにもあっさりと彼を忘れつつある私が、まるで彼への恋に殉じる聖女のような扱いを受けていいはずがありません。
私は、あの写真を手帳から取り出すことにしました。
これのせいで私が無垢な悲劇のヒロインであるような誤解を生んでいるのなら、それは正すべきだと思ったのです。それに、死んだ人の写真を────それも、本人に内緒で隠し撮りしたものを持ち歩いていると言うのは、「よくないこと」な気がして。
とは言え、捨てたり燃やしたりするのもやっぱり「よくないこと」な気がして。
だから、彼の写真を取り出して。適当に開いた聖書のページに挟み込みました。両親の言いつけで学校に持ってきてはいましたが、ほとんど目を通してはいなかったので、ちょうどいいと思ったのです。

薄情なものです。一生に一度の恋だと思いこんだくせに、私は彼の写真を薄っぺらな紙の間に挟んで、トランクの奥底へとしまいこんだのです。彼の、存在ごと。

 

 

 

レイチェル

彼は私にとって初恋の人ではあったけれど、最後の恋ではありませんでした。
凡庸な私には、敬虔な聖女のように彼への恋を貫くことはできませんでした。彼への恋が終わってしばらくして、私は別の誰かに恋に落ちました。2番目の恋は確か、落ち込んでいる私をなぐさめてくれたことがきっかけだったような気がします。終わった理由は思い出せません。きっと、記憶に引っ掛かることもないほどの他愛のない理由だったのでしょう。
その後も、私は同じように些細なきっかけで恋に落ち、些細なきっかけによってそれを終わらせてきました。言い訳をするならば、私が特別惚れっぽい性質だと言うわけではありません。自分で言うのもどうかと思いますが私は容姿が優れていたので、男の子たちが放っておかなかったのです。私に好かれようと紳士的に振る舞ってくれるのですから、好きになるのは自然なことでしょう。その中には、彼と同じカナリアイエローのネクタイも、監督生も、クィディッチのシーカーも、キャプテンも居ました。

「今日も美人だね。レイチェル
「ありがとう」

次から次へと人気のある男子生徒を乗り換えている────自分ではそんなつもりはないのですが、向こうからアプローチされて、振るのは私なので第三者から見るとそう言うことになるようです────と陰口を叩かれているのは知っていますが、弄んでいると言われるのは心外でした。
浮気や2股などの不誠実はしたことがありませんし、私は私なりに彼らにちゃんと恋をしています。甘い言葉を囁かればときめきますし、情熱的なキスをされれば胸が高鳴ります。ただ、他人より少し1つの恋のスパンが早い、それだけなのに。

「そう言えばさ。俺が君と付き合ってるって従弟のジョンに言ったら、これを渡してほしいって言われたんだ。知ってる? もう卒業した……俺達より4つ上の学年で、君と同じハッフルパフだったんだけど」
「私に?」

彼の口にした名前には覚えはありましたが、特別親しかったと言う記憶はありません。少なくとも、こんな風に、卒業後に前触れもなく贈り物をされるほどの関係ではなかったはずです。何の変哲もない羊皮紙の封筒。それから、ラッピングされた小さな包み。それに、メッセージカード。
怪訝に思いながら、まずは封筒を開けた私の目に入ったのは、思いもよらない内容でした。

“彼”が居なくなったあの夏に、寮の部屋を片付けていたら、“彼”の荷物の中からこの包みを見つけたこと。私宛てだとわかっていたのですぐに渡せばよかったのだけれど、自分も“彼”の死に混乱していて渡しそびれて夏休みになってしまったこと。新学期になったら直接渡そうと思っていたのだけれど、私がひどく落ち込んでいる様子だったので、かえって悲しませるのではないかと考えて躊躇ったこと。そして、機会を逃したまま卒業してしまったこと。そのまま忙しくて包みのことはすっかり忘れていたけれど、従弟が付き合っているのが私だと聞いて思い出したこと。そして、これも何かの運命だろうと、私に渡そうと決めたこと。

────読み進めるにつれ、私は自分の心臓の鼓動が早くなっているのを感じていました。
手紙の差出人の名前に覚えがある? 当然です。だって、彼は“彼”のルームメイトだったのですから。
と言うことは、この包みは。このカードは、“彼”からの。

レイチェルへ13歳の誕生日おめでとう。
女の子の喜ぶものはよくわからなかったから、人に一緒に選んでもらったんだ。
気に入ってくれるといいんだけど。
君の1年が、素晴らしいものになることを願って。

君の友人 セドリックより

鮮やかなレモンイエローのカードに書かれていたのは、懐かしい彼の筆跡でした。震える指でリボンほどくと、包みの中に入っていたのは、可愛らしいヘアゴム。キラキラ光るビーズの花飾りは、少し子供っぽいように思えます。それもそのはずでしょう。だってこれは、彼が13歳だった私のために選んでくれたものなのですから。夏休みが始まってすぐの、私の誕生日のために。
私にとっては少し不本意でもあった、私の年上の“友人”として。

レイチェル

ふいに、思い出せなかったはずの彼の声が耳に甦りました。私を呼ぶ、柔らかなその響きが。
彼の手のひらが、私の頭を撫でる温度。私に向けてくれるそのまなざしが。水底から浮き上がって来たように、鮮やかに。

レイチェル。君、泣いてるの?」
「え?」

言われて頬に触れると、確かにそこには濡れた感触がありました。ごめんなさい、と短い謝罪を口にして、不思議そうな様子の彼を残したまま、その場を後にしました。
心臓が、うるさいくらいに音を立てています。はやる気持ちのまま、私はただひたすらにハッフルパフ寮を目指しました。どうやって自室まで辿りついたのかも、よくわかりません。私の頭の中にあったのは、ただ1つのことだけでした。あれを探さなければいけません。一刻も早く。そんな使命感に突き動かされるままに、私はベッドの下からトランクを引っ張り出し、中の荷物を手当たり次第に引っ掻きまわしました。

「……あった」

トランクの底の片隅。もう着ないからと片付けた夏物のスカートの下に隠れて、それはありました。
兄のお下がりの古い聖書の途中のページには、写真が挟まっていました。あの日隠したそのままに、色褪せることなく。私の初恋の人の────セドリックの写真が。
切り取られた世界の中で動く彼を見て、胸が締め付けられました。ああ、そうね。こんな顔だった。よかった。私、まだ覚えていた。ちゃんと、私の記憶にある彼と何も違わない。穏やかで優しげな微笑みを浮かべた口元も。透き通った灰色の瞳も。眉も、鼻筋も。私と同じ黒髪も。
彼への恋が破れたあとも、私は恋をしました。その中には、彼と同じカナリヤイエローのネクタイも、監督生も、クィディッチのシーカーも、キャプテンも居ました。
けれど、黒髪の男の子だけは、居ませんでした。

「セドリック」

久々に口にした名前は奇妙なほどに乾いていて、静かな部屋の中でむなしく空を震わせるばかりでした。返事など返って来るはずがないことなんて、わかりきっていることなのに。それでも、そのことがどうしようもなく悲しくて、私は彼の写真をきつく握りしめました。

『どうしたんだい、レイチェル。何かあった?』

もう、そう言って私を抱きとめてくれる彼は居ません。困ったように微笑を浮かべる彼の瞳に、私が映り込んでいるのを確かめることもできません。
彼はもう、どこにも居ないのです。この、古ぼけた写真の中にしか。この世界のどこを探しても、20歳のセドリックは存在しません。かつて私の頭を撫でて微笑んでくれた、あの青年はどこにも居ないのです。
死と言うのは、そう言うことです。
彼は、死にました。もう、二度と会えないのです。
もう、二度と。

「……あのね。プレゼント、ありがとう。とっても可愛くて、気に入ったわ。大切にするね」

写真の中の彼に向けてそう呟いて。言葉とともに、また、涙が溢れだしました。
本当なら、きっとこの言葉は13歳の私が紡ぐはずだったのに。他の人の手からではなく、あなたが私に贈ってくれるはずだったのに。
会いたい。会って話がしたい。声が聞きたい。貴方の灰色の瞳に、もう一度私を映してほしい。
ねえ、セドリック。あなたが今の17歳の私を見たら、きっと驚くわよね。大人っぽくなったねって、照れたように笑ってくれるはず。そんなあなたに、私は「“綺麗になった”じゃないのね」って拗ねてみせるの。
いつかあなたが結婚するときに、笑って伝えるつもりだったの。私、あなたが初恋だったのよって。あなたはきっと「全然気づかなかった」なんて残酷なことを言ってみせるんでしょう。あなたの隣に私ではない綺麗な花嫁さんが立つのを見て、私は泣くのよ。でも、あなたがあまりにも幸せそうに笑うから、私はこれでよかったのだと納得できる。ちゃんと、おめでとうって祝福できるの。
いつか私も結婚をして、おばさんになっても、おばあちゃんになっても、時々あなたのことを思い出したかった。1人きりのときにあなたの写真をこっそり取り出して、少女の頃に浸りたかった。もしも誰かに初恋のことを尋ねられたら、素敵な人だったのよとはにかんで笑いたかった。
宝石箱の中にしまった、子供の頃の宝物みたいな。そんな存在で居てほしかった。
私の隣でなくてもいいから、どこか遠くでいいから、幸せでいてほしかった。いつまでも、憧れの初恋の王子様として。ううん、王子様なんかじゃなくたっていい。皺が増えたって、髪が薄くなったっていいから、生きていてほしかった。
生きていて、ほしかった。

レイチェル!一体どうしたの?」

ぎょっとしたようなルームメイト達の声に、はっとしました。彼女達が驚くのも当然でしょう。部屋に戻ってきたら、床にはトランクから放り出された物が散乱し、その真ん中では私が座り込んで泣いていたのですから。けれどそのときの私には、彼女達の前で取り繕えるだけの余裕がありませんでした。

「どうしよう。セドリックが死んじゃった」

小さな子供みたいに泣きじゃくる私に、ルームメイト達は戸惑っていました。
私はたぶん、彼の死から3年が経った今ですら、きちんとそれを受け止められていなかったのです。ただ、理解している振りをしただけ。乗り越えられている振りをしていただけ。本当は、心の奥底では、どこか遠いところに行っているだけだと、今は会えないだけだと、そんな風に思いこもうとしていました。
あの日しまいこんだ、彼の写真と同じ。トランクの奥底に隠して、蓋をしていました。彼の死と言う事実から目を逸らして、逃げていたのです。他の誰かと恋をして上書きしてしまえば、彼への想いと向き合わなくて済むから。
“死”と言う、得体の知れない恐ろしいものを受け入れるには、13歳の私にはあまりにも難しすぎました。17歳になった今でも、きっと正しく受け入れることなんてできないでしょう。
けれど、もう。稚拙な嘘で自分を騙すのも限界なのだと────数年越しに私の手に渡った彼からのプレゼントに、思い知らされました。
彼は永遠に17歳のままだけれど、私はもう、彼に無邪気に恋をしていた13歳の少女ではないことを。
私と彼の時計が同じ時を刻んでいたのは、もう過去に過ぎないことを。

彼から贈られたものだと言うだけで、あんな、小さなカードに書かれてたった数行のメッセージが、どんな熱烈な愛の言葉よりも心を揺らすことを。

彼の死を受け入れられなかったのは、私が馬鹿な子供だったからです。ふいに目の前に降りかかってきた死の恐怖を前に足が竦んで、逃げ出すことしか私にはできなかったから。
けれど、きっと、それだけではなくて。認めたくなかったのです。彼の死は、私の恋の死でもあったから。
恋に恋をしていただけだったかもしれないけれど。子供じみていて、夢見がちで、独り善がりで、傲慢だったかもしれないけれど。一生に一度きりの恋でも、なかったけれど。
それでも、本当に、好きだったから。姿を見るだけで、声を聞くだけで世界が輝くような。あんな恋は、もう2度とできないから。
私の知る中で、誰よりも素晴らしい人。王子様のようでもあり、優しい兄のようでもあった、憧れの人。眩いほどに輝いていた人。神様に愛された人。愛されすぎた人。

私の初恋の人の名前は、セドリック・ディゴリーと言いました。


    お返事が早いのはこちら ⇒ Wavebox