どうしよう。

目の前には、とある魔法薬の入っている小さなクリスタルの瓶。これこそが、今私の頭を悩ませている元凶だ。これが今この部屋にあるとわかったら、私はきっとホグワーツ中の女の子から狙われてしまうだろう。入手難易度ランクAの危険で希少な薬品。ある意味毒物と言えるかもしれない。恋に悩む女の子なら一度はこれがあればと願っただろう────そう、愛の妙薬だ。それも、数あるその種類の中でも最も強力と言われるアモルテンシア。製薬会社に勤めている従妹が、悪ふざけで送りつけてきたものだ。

『せっかくのバレンタインなんだし、これで意中の彼のハートをゲットしちゃいなさい!』

そんな、どう考えても年下の親戚で遊ぶことしか考えていない馬鹿馬鹿しい手紙と一緒に送られて来たこれを、すぐに暖炉に放り投げてしまうことができなかったのは、私の今置かれている状況がこの薬の助けでもない限り打開できそうにないからだと思う。つまり、そう、恋をしている。私を好きになってくれそうにない人に。
仲は悪くない方だと思う。だって、同じ寮だから。顔を合わせたらおはようって挨拶してくれるし、食事の時に私の隣が空いていたらそこに座ってくれたりもする。でも、女の子で一番親しいかと言われたら答えはノーだ。たぶんアンジェリーナやアリシアの方が一緒に居る時間が長いと思うし、クィディッチのことで話も合うと思うし、何なら見た目だって……私より似合う。ああ、どうしよう。考えるだけで凹んできた。
そう。たぶん彼は────フレッドは、私の気持ちなんて気づいてないんだろうなあって思う。と言うか、気づいていなければいいなって思う。だって、気づいてて知らない振りされてるとか、それってつまり、面倒くさいとか、どうでもいいって思われてるってことだもの。そりゃあ今だって、そう思われてないって保証はないけれど。
クィディッチをやってるときの、生き生きした笑顔がカッコよくて好き。悪戯が成功したときの、得意げな顔が可愛くて好き。困ってる後輩が居たらさりげなく助けてあげる、案外優しいところが好き。
私はこうやってフレッドの好きなところを言えるけれど、この薬を使ってもフレッドが私を本当に好きになってくれるわけじゃない。ただ、「私のことが好き」って言う、理由も中身もない、空っぽの好意だけを植え付ける。それも、他のことなんて何も考えられなくなるくらい、強烈に。でもそれも、薬の切れ目が切れちゃえば、全部綺麗さっぱり忘れちゃう。性質の悪い風邪や、はしかみたいなもの。後には何も残らない。
だから、魔法薬の力で好きな人の心を手に入れたってむなしいだけだ。わかってる。って言うか、正直モテない人間のすることだなあって思う。事実そうなのだけれど、私モテないけど、それでも意地と言うかプライドと言うか、使ったら負けだって気持ちがあるのも確かだった。実際たぶん従妹も、使わないだろうって思って送って来たんだろうと思う。それで後から「あんたって本当度胸ないわよねー」なんてからかうつもりなんだろう。使ったら使ったで「モテない奴のすることよねー」なんて笑われる。この薬が私の手元に送られてきた時点で、従妹は私で遊べるようにできているのだ。何と言う理不尽だろう。考えたら段々腹が立ってきた。
ええ、ええ。どうせ私はモテませんとも。それに、どんな手段を使っても彼のハートを射止めてやろうって度胸もガッツもありませんとも。けれどそれが従妹に一体何の迷惑をかけたと言うのだ。

そもそもこれは、本当にアモルテンシアなのだろうか? ただ単に私をからかいたいから、適当な色水をそれらしい瓶に詰めて送って来ただけじゃないだろうか?

ゴミ箱へ垂直落下するはずだった瓶を手元に寄せて、瓶を傾ける。真珠貝みたいに、少し光沢を持った薄紫色の液体が緩やかに波打った。確かに見た目は教科書の記述と同じだ。でも、見た目だけならいくらでも似せる方法はあるのだから、まだ本物だって決まったわけじゃない。そっと小さなコルクの栓を開ける。鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、今まで嗅いだことのないような香りがした。ストロベリーのアイスや、チョコレート、朝露に濡れた薔薇、新鮮なオレンジや石鹸、干したばかりのふかふかのベッドシーツ。そんな、思わずうっとりしてしまうような、幸せを集めたみたいな香りが。
もう一度固く栓をして、テーブルの上へと下ろす。ほんの一滴すら口にしていないのに、香りだけで頭がぼうっとする。それを追い出すように、深く深呼吸を繰り返した。それでも、幸福感で胸の中が満たされて、ふにゃふにゃと口元が緩んでしまう。アモルテンシアの効用は恍惚と陶酔。ああ、うん。認めたくないけど、やっぱりこれは、本物みたいだ。
いよいよ本物だとなると、さっきまで胡散臭いとしか思えなかった瓶が、急にとても貴重で神秘的なものに見えてくる。捨ててしまうのはあまりにももったいない気がした。だって、アモルテンシアって、自分で煎じるのはものすごく難しくて時間がかかるし、そのぶん希少で、お店で買おうにも高価だもの。誰か、他に薬が欲しい子に譲るべきだろうか? それがいいかもしれない。でも、そうなるとしたら、後々面倒事に巻き込まれないよう相手を選ぶ必要がありそうだ。薬が原因でトラブルが起こって、レイチェルに譲ってもらいましたなんて言われたらたまったものじゃない。それに────それに、もしも誰かにあげてしまったとして、私は後悔しないだろうか?
キラキラとランプの灯りを反射するガラス瓶を、真剣に見つめた。これって、一体どれくらい効き目があるものなんだろう。いくら従妹がお調子者だからって、未成年相手にそこまで濃度の高い薬を送りつけてきたってことはないだろう。原液だと何時間、うまくいけば何日間も効果が出るらしいけれど、これはきっとせいぜい1時間かそこらのはず。そんな私の仮説を裏付けるように、手元にある瓶の中身は教科書に載っていたものより色が薄い。

「……よし」

せっかくの機会なので、私はこの薬の存在を自分に都合よく考えることにした。
つまり、そう。どうせすぐ効き目は切れちゃうんだし、せっかくのバレンタインだ。ほんのちょっとだけ、夢を見たっていいんじゃないかしら。これを使ってフレッドと恋人になる言質をとったりだとか、キスをしてもらったりだとか、そう言うフレッドが損するような、ずるいことをしなければいい。
どうせ望みの薄い恋なのだ。束の間でも情熱的な目で見つめてもらって、甘い言葉を囁いてもらって、お姫様みたく扱ってもらったら、満足して、いい思い出にして諦めよう。
恋する乙女なら、誰だって考えつく選択肢だ。私は悪くない。悪いのはこんなどうしようもない薬を送って来た従妹だ。そんな都合のいい言い訳をして、私は小さな瓶をポケットの底に入れる。

「そうと決まったら、フレッドを探しに行かなくちゃ」

ちょうどもうすぐ夕食の時間だから、大広間に居るだろう。そう考えて、私は足取りも軽く部屋を後にした。
後から考えてみると、どうしてあのときあんな行動に出てしまったのかわからない。たぶん、ほんの少しとは言えアモルテンシアを嗅いでしまった影響で、普段よりもずっと前向きに、楽天的なっていたんだと思う。

そう。要するに、全部従妹が悪いのだ。

 

 

 

扉の陰から首だけ出して、そっと中の様子を覗いてみる。
意を決して向かった大広間では、やっぱり予想通り、フレッドとジョージはもうテーブルについていた。この二人のどちらがどちらかを見分けるのは至難の技だけれど、アンジェリーナやアリシア達と一緒に居るときだと比較的簡単だ。ぽんぽんとジョークを飛ばすのがフレッドで、それを茶化したり手助けをするのがジョージ。アンジェリーナと軽口を叩いているのがフレッドで、アリシアと一緒にそれを笑って見てるのがジョージ。そして私にとっては都合のいいことに、今はフレッドの隣の席が空いている。私は扉の影に隠れて、すうっと1回深呼吸をした。そうして、たった今偶然夕食をとりに来たのだと言うフリを装って、ゆっくりと彼らのところへと向かった。

「ねえ、フレッド。ここ、空いてる? 隣、いいかしら?」
「ああ、レイチェル。勿論さ」

愛想よくそう答えると、フレッドはまたアンジェリーナ達の方に向き直る。私は目の前へと現れたパンプキンスープの皿をつつきながら、じっと彼らの様子を窺った。どうやら、来週のクィディッチのハッフルパフ戦の話で盛り上がっているようだ。
リーがあまり品のいいとは言えない冗談を言って、アンジェリーナ達がやいやいと文句を言う。それに対して、フレッドとジョージがリー責めてるんだか庇ってるのかよくわからないようなフォローを入れる。今なら、彼らの注意は、私からは外れている。
────よし、今がチャンスだ! 私は、テーブルの下で、音を立てないように瓶の栓を抜いた。そうしてそのまま、誰にも見られていないうちにそっとフレッドのゴブレットの上で瓶を傾ける。いや、傾けようとした。けれど────手首を掴まれて、止められた。

「おいおいレイチェル、俺は君に毒を盛られるほど恨まれるようなことをしたかい?」
「してるでしょ、山程!ねえ、レイチェル!」
「ひどいな、アンジェリーナ」
「何言ってるのよ、カナリヤクリーム入りのビスケットをばらまいたのはどちらさまだったかしら?」

アンジェリーナがケラケラ笑い、アリシアも口元を押さえていたけれど、私は一緒になって笑うことはできなかった。
フレッドの表情は怒っているわけではなさそうだったけれど、さあっと血の気が引いていくのがわかった。ひくりと頬が引きつる。思わず緩めてしまった手からすり抜けた瓶を、フレッドがいとも簡単そうにキャッチする。そうして鼻先へと瓶を持っていって匂いを嗅ぐ。それだけで、聡明な彼はこれが一体何の薬なのか理解したらしかった。

「あ……の……」

どうしよう。薬を使うかどうかで悩みすぎていたせいで、バレたときのことなんてちっとも考えていなかった。
どうしよう。自分に一服盛ろうとした女とか、気持ち悪いに決まってる。ジョークグッズならまだ笑って許してくれたかもしれないけど、これ、惚れ薬だもの。って言うか、私がされたら気持ち悪いって思うもの。絶対嫌われる。
──────きっと 大して好かれてもいないのに、嫌われてしまう。

「ご、ごめんなさい……」

震える唇の間から零れたのは、ありきたりな謝罪だった。なんてない情けない声だろう。フレッドの顔が真っ直ぐ見れなくて、顔はテーブルへと俯いてしまう。どうしよう、泣きたい。何か弁解しなきゃと思うのに、頭が真っ白で、ちっとも言葉が出て来ない。

「ごめんなさい……私……」

ごめんなさい。ごめんなさい。馬鹿みたいに繰り返すしかできない。それ以外にどうしたらいいのかわからなかった。
どうしよう。フレッドに嫌われちゃう。軽蔑される。こんなことしておいて虫が良いってわかってるけど、嫌われたくない。
ただ、好きなだけなの。だから、ちょっとだけ夢を見たかっただけなの。嘘でもいいから、ほんのちょっとの間だけでもいいから、貴方に好かれたかった。そんなのひとりよがりだってわかってるけど、でも、本当にそれだけなの。
お願い。嫌わないで。好きになってくれなくてもいいから、せめて嫌いにならないで。
頭の中を回るのそんな身勝手な言い訳ばかり。じわ、ととうとう滲んできた涙のせいで視界が歪んだ。

「おい、相棒。こんな人気のないところで女の子を泣かすのは趣味が悪いぜ」

ジョージがおおげさに顔を顰める。私はぐっと唇を噛みしめた、
まだかろうじて泣いていない。けれど、泣きそうなのは事実だ。だって、きっとフレッドどころか、アンジェリーナ達すらドン引きしてる。穴があったら入りたい。と言うか今すぐ部屋に戻って布団に閉じこもって泣きたい。明日からどんな顔して彼女達と授業を受けたらいいのかわからない。
でも、フレッドが私の手を掴んだまま離してくれないから逃げられないし、皆の視線が私に向けられているのがわかるから、顔を上げられない。いよいよ瞼から零れてしまいそうになる涙をこらえていると、フレッドが手の甲に何かを────唇を落とした。

「フ、フ、フ、フレッド……?」

今、一体何を。わけがかわからず、金魚みたいに口をぱくぱくさせていると、フレッドもう一度、今度は私に見せつけるように手の甲にキスをする。そして、王子様みたいな動作とは不釣り合いな、私の好きな不敵な笑みを浮かべた。薄い唇から紡がれた声は、溶けてしまいそうなくら甘い。

「こんなもん使わなくたって、俺はとっくに君に夢中さ」

────つまり、それってどう言うこと。
さっきとは打って変わって、頬に熱が集まって来るのがわかる。私は今もしかして、ものすごく自分に都合のいい夢を見ているのだろうか。幻聴? そうじゃないなら、また、いつもみたいな冗談?それとも、やっぱり、フレッドも薬の香りのあてられてしまったたのだろうか? だって、そんな、ありえない。
フレッドも、私のことを好き、だなんて。

「ああ、もう、やっとなのね! 見てるこっちがやきもきしたんだから!」
「フレッドってばわかりやすいのに、レイチェルったら全然気づかないんだもの」

アンジェリーナやアリシアの弾んだ声に、私ははっとして顔を上げた。夢じゃ、ないんだろうか。と言うか、もしかして、私以外は皆知っていたんだろうか?
自分のことみたいにはしゃいで祝福してくれる友人達に、ジョージとリーの冷やかしや花火も加わって、一足早くイースターがやって来たみたいな騒がしさに、何だ何だと周囲の視線が集まるのがわかる。遠巻きにひそひそと噂されているのを感じて、私はまた羞恥に俯いてぎゅっと膝の上でスカートを握り締めた。
ああ、もう。頭の中も、胸の中も、誰かにスプーンでかき混ぜられたみたいにぐちゃぐちゃだ。恥ずかしい。けれど、それ以上に、嬉しい。さっきの、薬のもたらしてくれた幸福感なんかよりも、ずっと。
ちらりと横目でフレッドを見上げる。私の視線に気がついた彼は余裕たっぷりにニッコリ笑ってみせた。そして、そっと私の頬にキスをして、耳元で小さく囁いた。今日この日に相応しい、特別な愛の言葉を。

 

 

Be My Valentine


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