「好きです、先生」

もう何度目かわからない告白を、今日もまた繰り返す。
私を振り向かない人の、椅子に座った背へと身を寄せる。柔らかなローブへ指を沈ませて、彼の肩へと額を寄せる。彼の聴覚が私の声を取りこぼさないように、耳元へと注ぎこむようにして囁いた。

「好きです」

ねえ、先生。こっちを向いて。私を見て。私に答えて。
聞こえているでしょう。わかっているでしょう。それなのに、どうして振り向いてくれないの。
子供の戯言なんかじゃないのに。どうして、取り合ってくれないの。本気にしてくれないの。私の気持ちなんて、とっくにわかっているでしょう。

「……好きです」

貴方の芯へと届いてほしい言葉が、皮膚の上を滑り落ちて行く。肌の温度は間近にわかるのに、視線すら絡むことはない。せめて彼の心臓の鼓動を感じたくて、静かに瞼を閉じた。今日もまた、届かない。
────やっぱり、駄目なのだろうか。最初から、純粋な気持ちで、貴方を想っていたわけじゃないから。

綺麗な恋じゃなかったから、仕方ないのだろうか。

 

 

水底に眠る星

 

 

始まりは、本当に、ロマンチックさの欠片もなかった。

「ねえ、あの新任の先生、どう思う?」

放課後の談話室はいつだって、他愛のないおしゃべりで溢れている。
他の寮はどうなのかは知らないけれど、少なくとも私達グリフィンドール生にとっては、談話室は勉強よりもその場に居合わせた人間同士の情報交換に使われるのが常だった。ここでは教授達の目が届かないから、何だって言える。友人関係の悩みも、彼氏の愚痴も、甘酸っぱい恋の話も。
もちろん、先生の悪口も。

「ああ、スネイプ教授?」
「私、割といいかもって思った。説明結構わかりやすいし」
「板書綺麗だよね。スラグホーン教授、癖字だったからそれに比べるとかなり見やすい」
「えー、あたしスラグホーンのがよかった! 暗くない? 息詰まりそうだったもん。喋り方もボソボソしてるしさー」

新入生の頃の私達は、親鳥の後を追うヒヨコみたく、教授と言う生き物はいつだって絶対的に正しいのだと信じこんでいて、羊皮紙の上に赤インクで記される彼らからの評価に一喜一憂していた。けれどそんな生徒達も、NEWT学生ともなれば、彼らを評価し返すになる。彼らは間違いなく、私達よりも多くの知識と経験を持ち合わせた優秀な魔法使いだけれども、完璧ではない。考えてみれば、当たり前のこと。人格者も居れば、そうでない人も居る。知識が豊富でも、それを伝える方法が拙い人も。それが新米の教授ともなれば、その目は一層厳しくなると言うものだ。

「って言うかさ、まだかなり若そうだよね」
「え、そう?」
「眉間にしわ寄せてるから老けて見えるけど、声とか若いよ」
「正直さ、私達とそんなに年齢変わらなそうじゃない?」
「変わらないと思うよ。7年生が言ってた。1年生のとき、上級生にスネイプって居たって」
「ってことは22か……23?」
「若っ! えっ? うちの教授ってそんな年齢でもなれるの?」
「ダンブルドアが年齢なんか気にする? まあ、魔法省とか理事なんかもうるさいからそこそこの経歴は必要なんだろうけど」
「へー……ってことは、ああ見えてめちゃめちゃ優秀なんだ」
「スラグホーンのお気に入りだったらしいしね。スリザリン出身だって」
「うわっ……元スリザリンなの? 私ダメ。絶対仲良くなれない」
「じゃなきゃ寮監になんてなるわけないじゃん。教授職だけならともかく、寮監もとかヤバい激務だよね。 軟弱そうだし、そのうちぶっ倒れそう」
「激務もだけど、学校に住みこみってキツくない? プライベートないしさー」
「確かにねー……休暇しか恋人と会えないとか、無理だわ」
「居ないんじゃないの?居たら流石にもうちょっと幸せそうなオーラ出てるでしょ」
「遠距離で会えない寂しさのせいって可能性も……」
「ないない! 絶対あの陰気さは居ないって!賭けてもいい!」

────ねえ、レイチェル。聞いてみてよ。
ふいに名前を呼ばれて、パラ、と中途半端にページを捲ったままの体制で顔を上げる。しかし、そのときの私にとっては、新任教授の恋人の有無よりも、贔屓にしているアップルビー・アローズの今季の戦績についての方が関心が強かったので。唐突に話の矛先を向けられたことへ眉を寄せて、また誌面へと視線を落とした。

「……何で私が?興味ないんだけど」
「うちらの中じゃ一番薬学の成績良いしさ。質問ありますーとか言って」
「この間の授業のときも、レイチェルが質問答えた時ちょっと感心してたっぽかったし、いけるって」

大丈夫大丈夫と、根拠のない軽口で私を丸めこもうとする友人達に眉を寄せる。はっきり言って、全く気が進まなかった。興味がある人が聞きに行けばいいじゃないと言うのが、ごく真っ当な私の主張だ。けれど、既に彼女達の中では満場一致で私が行くことが最善だと言う結論になってしまっていた。友人達が楽しげなのに1人で頑なな態度を取るのも角が立つと言うもので。

「スネイプ先生。質問いいですか?」

そうして、渋々ながら彼女達の頼みを承諾した私は、早速魔法薬学の教室へと急きたてられた。何だかなあと、釈然としない気持ちでそっと息を吐く。まあ私だって、こんな用事を長い間引きずりたくはないけれど。
私が用意した適当な質問を解説する声や、淀みなく動く羽根ペンなんかに意識を向けながら、意外と丁寧な対応だな、なんてぼんやりと考えた。正直、答えなんてわかっているものだから、真剣に聞く必要もないのだ。
確かに、こうやって話すのを聞いていると、声がまだ若いような気がする。そんな感想を抱いていると、ふいに羽根ペンの動きが止まった。

「質問は以上か、ミス・グラント
「いいえ、もう1つあって。……教授、恋人は居らっしゃるんですか?」

ふふ、と愛想良く笑みを浮かべてみせると、スネイプ教授は虚をつかれたような顔をした。
……ああ、確かに。眉間の皺が取れると私達とそう年が変わらないのがわかる。むしろ、どちらかと言えば童顔かもしれない。けれどそんな表情が見れたのも、ほんの一瞬のことで。すぐにまた元通り深く皺が刻まれてしまう。冷え冷えとした視線が私を見下ろした。

「教科に関係ある質問以外には答えかねる。あいにくだが私のプライベートは君達生徒の暇潰しのためにあるわけではない」

淡々と吐き捨てられる。正論だ。そして、興味本位だと言うことまで見透かされてしまっている。
意外と鋭いなと感心したけれど、そうですねと引き下がるわけにもいかなかった。このまま答えをもらえずに帰れば、友人達のブーイングを受けることは間違いない。

「関係あります。私、教授のことが好きなんです」

咄嗟に口をついて出たのは、勿論その場しのぎの出まかせだった。
言葉にしてしまった後で、しまったと思った。本気にされてしまったら、どうしよう。何と言うか、あまり────女性慣れしているようには思えないし、冗談が通じるタイプにも思えない。困った。本気にされてしまうと、面倒くさい。けれど今更、嘘だとも言えない。何たって相手はいくら新米とは言え“教授”なのだ。
どうしようと、わずかな焦りを隠して押し黙る。静寂を破ったのは、小さな溜息だった。

「馬鹿馬鹿しい」

本気にされれば面倒だ。だから、その言葉は私にとって、好都合だった。彼が、私の言葉を真に受けなかったことに、私は安堵するべきだった。
好都合だった、はずなのに。────ひどく、プライドが傷ついた。
自分で言うのもどうかと思うけれど、私は容姿に恵まれていて。周囲には美人だと褒められることも多かったし、男の子に告白されたことだって何度かあった。自分の外見にはそれなりに自信があった。
だから、そう。少なくとも、いくら私より年上で優秀な“教授”だからって、こんな、カビ臭い地下牢で一人大鍋をかき回している、鬱陶しい髪の、土気色の顔をした────どう見てもモテなさそうな男に鼻であしらわれることは、屈辱だった。
それからだ。私が、魔法薬学の教室に、頻繁に通うようになったのは。

「ね、先生。今度の土曜日のホグズミード、一緒に行きましょ?」

プライドを傷つけられたから────だから、その代償を払ってもらおうと思った。
私に振り向かせて、夢中にして、そうしたら捨ててやろうと思った。『本当は貴方のことなんて全然好きじゃないの』。『貴方からの好意なんていらないわ、気持ち悪い』。思いつく限りの酷い言葉で罵って、傷つけてやろうと思った。

「私、真面目な生徒で通ってるんですから。悲鳴上げられたくなかったら大人くしててくださいね?」

ローブの襟を引いて、唇を重ねた。貴方は私に合わせて屈んではくれないから、つま先立ちで。恋人同士みたいに甘ったるく舌を絡めても、貴方は不愉快そうに眉を顰めてローブの袖で唇を拭うだけで、私と目を合わせようともしてくれなかった。

「ねえ、先生。大好きです」

その視線を、こっちに向かせたかった。その目が私を見て、そうして、その視線に甘いものが混ざるようになれば。そうすればきっと、気が晴れるだろうと思った。
ねえ、先生。早く私のこと好きになって。そうしたら、思いきり、傷つけてあげるから。ねえ、早く。
そんな、不純な動機で。最低の理由で、甘い言葉を囁いた。

「本気ですよ?」

嘘。嘘。嘘吐き。全部、嘘。
ごめんなさい。あの頃の私が口にした好意は、全部嘘だった。罪悪感と後悔で、胸が潰れそうになる。
本当に、馬鹿だった。だって、こんなことになるなんて、思わなかったんだもの。
どうして私を好きにならないのと、苛立った。一体彼が何を考えているか、わからなかった。わからないから、知ろうと思った。わからないから、知りたくなった。

知りたくて、ずっと、見ていたから。だから、気づいてしまった。

ローブの袖から覗く手が、意外にも大きくて、私の手なんて簡単に包めてしまうこと。薬品で荒れているけれど、男の人にしては節の目立たない、長い指。柔らかくて、甘く響く声。目を伏せたときの睫毛の長さ。憂いを帯びた横顔は、ひどく大人びていて。大人の、男の人で。

本当に好きになってしまったの。自分でも馬鹿みたいって、思うけど。

 

 

 

「先生」

小さな明かり取りの窓から差し込んだ夕陽が、部屋の中をオレンジ色に染め上げている。
薬品棚の前に立って、材料の補充をする先生の背中をじっと眺める。何をするでもなく、ただ見ているだけ。手伝おうとしたら、前に断られたから。
こうしているのが好き。こうしているときのこの人の横顔は、私だけのものだから。閉じ切られた静かな部屋の中に居ると、まるで世界に私と先生だけしか居ないんじゃないかと錯覚できるから。

「先生って、好きな人居るでしょ」

質問と言うよりは、確認だった。確かな証拠や言葉なんてなくても、わかってしまった。ふとしたときに、憂いを帯びる表情に。懐かしそうに、細められる瞳に。
この人には、好きな人が居る。いつから好きなのかなんてわからないけれど、きっと、とても長い間。
途方もない、恋をしている。きっと、もう手の届かない人に。

「私より美人だった?」

冗談めかした問いかけには、勿論答えなんて返ってくるはずもなくて。けれど問いかけ自体は、きっと聞こえていただろうとわかっているから、沈黙はまるで肯定のようで面白くない。
椅子を蹴って、立ち上がる。駆け寄って距離を詰めると、振り返ったローブの襟を引いてキスをした。無作法なことに、先生はいつも目を閉じない。それを知っている私も、似たようなものだけれど。
ただ、探してしまう。その黒い瞳の中に、私への熱が灯っていないか。
結果なんて、わかりきっているのに。

「ねえ、先生。好き」

情熱的なキスの後の告白にも、先生は動じてくれない。
私を見返す冷淡なその視線に、眉を寄せた。私は、真剣なのに。どれだけ甘い声を出しても、戯曲のような美しい愛の言葉を囁いても、先生の反応はいつも同じだった。
私の言葉は何一つ、先生にとって信用に値しないのだ。始まりが始まりだったから、仕方がないのだろう。先生は悪くない。悪いのは私。けれどもう今更、過去も記憶も変えられない。こう言うのを、自業自得と呼ぶのだろう。

もっと純粋な恋ならば、届いたのだろうか。

たとえば、そう。一目見た瞬間、恋に落ちてしまったとか。打算でも、口から出た出まかせでもなくて。心の底から、貴方が好きだと言えたなら。
そう考えて、口元に緩く笑みを浮かべた。
駄目ね。そんな仮定を考えたところで、何の意味もない。
だって私がそんな風な女の子だったら、きっと、貴方を好きになることはなかっただろうから。

「最初は全然好きじゃなかったの。むしろ、どっちかって言うと苦手だった。私、本当はもっと優しくて、穏やかな人が好きなの。先生なんて、全然タイプじゃないのよ。なのに……なのに、先生の傍で見てたら、いつの間にか好きになってた」

どうしてあんな人好きになったのと、友人達には不思議がられた。
レイチェルって別に、年上が好きってわけでもなかったでしょう。自分を好きになってくれない人なんて、追いかけたって苦しいだけよ。もうやめたら? 全然相手にされてないじゃない。────そんな風に。
自分でも思う。どうして、私、この人のことが好きなのかしら。もっと他に、優しい男の子はいくらでも居るのに。

「チャーリーの鍋が爆発したとき、隣に居たトンクスのこと庇ったでしょう。私、嫉妬しちゃった」

でも、もう、頭で考えたところで、わからないの。ただ、好きだと思ってしまったから。一度気づいてしまったら、そこからは止められない。愛しさも、憎しみも、嫉妬も、溢れて来るだけで。
好きなの。理由なんてない。この人が、好き。
どうして好きになったのかわからないから、どうしたら嫌いになれるのかもわからなくて。

「ねえ、先生」

私はあと何度、この人を先生と呼べるのだろう。
貴方に出会ってから、もう2つも季節が過ぎた。もどかしい距離は縮まらないままに、時間ばかりが過ぎていく。
次の夏が来れば、私はこの学び舎を離れなければいけない。貴方とのたったひとつの接点が、なくなってしまう。もう、会えなくなる。

「好きよ」

舌の上で溶けていく言葉は、ひどく苦かった。
恋ってもっと、甘いものだと思っていた。だって、私が知っている恋は、もっと優しくて、温かだったから。柔らかに胸を締めつけて、心をとろかすような。そういうものだったから。
それとも、今まで恋だと思っていたものは、本当の恋じゃなかったのだろうか?

「好きになってくれなくて、いいから……だから、信じて」

馬鹿な小娘の戯言だと、思ってるんでしょう。どうせ本気じゃないって、どうせすぐに飽きて忘れる、ままごとみたいな恋だって、そう思ってるんでしょう?
確かに、最初はそうだった。でも、今は違うの。今は、違うのよ。

「私の気持ち、なかったことにしないで」

わかっているの。貴方が私のことを遠ざけないのは、私のことなんてどうだっていいからだってこと。
どうせもうすぐ居なくなるから、それまで放っておけばいいって思っているんでしょう。きっと、我慢だとすら思ってくれていない。貴方の心に不快を感じさせられるほど、私は貴方の内に入り込めていない。ただの、道端の石ころと同じ。あなたの感情を揺さぶるには、私なんかじゃ足りない。ちゃんと、わかっているの。
馬鹿な私は、気づくまで期待していた。拒絶されないのは、貴方も私のことを少しは想ってくれているからじゃないかって。ほんの少しなら、可能性があるんじゃないかと。いつか、僅かにでも私に笑みを向けてくれるんじゃないかと。愚かにもそんなことを、考えていた。
でもね、もう、わかってしまったの。貴方は、私を好きになってはくれないのね。
これ以上、みっともなく縋ったところで、きっと彼の心を動かせはしない。この人の気持ちも、胸を温めるような優しい思い出も。何も生まれず、何も得られず、ただ醜態を晒すだけ。
それなのに、諦められないの。苦しいのに、わかってるのに、やめられないの。ますます好きになるの。
自分でも、わからないの。私、どうしたらいい? 教えてよ。“先生”でしょう。
ねえ。先生。

これが本当の恋だと言うのなら、そんなものに、何の価値があるのだろう。

貴方と一緒に居ると、一緒に居ないときよりも寂しい。
声は届くのに、言葉は届かない。視線が交差しても、貴方の瞳に私は映らない。皮膚や粘膜が触れ合っても、その奥の心臓までは感じられない。
この人は確かに、私のすぐ側に居るのに。私はこの人の心には決して触れられない。まるで冬の湖のように、ただ冷たく凍てついて、凪いでいる。
さざ波を起こしたくて、私は必死になって石を投げ込むのに。ほんのわずかでも湖面は揺れることなく、ただ静かに沈んでいく。まるで、何事もなかったみたいに。
この日を、この感情を、貴方に触れた指先の熱を、カーテンを染める夕陽の色を。私はきっと忘れないのに。貴方にとってはきっと、取るに足らない出来事にすぎないのだろう。会話を重ねて、キスの癖を知って。それでも、縮まらない。出会ったその日からずっと、遠いまま。私がどれだけ足掻いて地を這いずったところで、貴方はそれを気にも留めてくれない。

私が居ても居なくても、貴方はきっと何も変わらない。

もしも、もっと綺麗な恋をしていたら、何か変わっていただろうか。私がもっとひたむきで純粋な少女だったなら、この人は私を好きになってくれただろうか。
目を閉じて、そんな馬鹿げた夢想をする。物語のヒロインみたいに。貴方を愛していますと、何の屈託もなく、言えたなら。
貴方は私に、一欠けらの哀れみを向けてくれただろうか。叶わぬ恋に溺れたみじめな女の子に、愛情に似たものを与えてくれたかもしれない。けれど、きっと、それだけだ。無垢で愚かな私ならば、貴方の心に、さざ波を起こすことができたとしても。
それでも、きっとまだ、届かない。

深い、冷たい水底には誰かが眠っている。この人はきっと、その幻影だけを抱き続けるのだろう。


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