彼の手首からふわりとシャボンの香りがしたとき、「あ、らしいな」と思った。
それはパパがいつも微かにタバコのにおいをさせていることだとか、赤ちゃんからミルクのにおいがすること。洗いたてのベッドシーツからお日さまのにおいがすること。そう言うのと同じくらい、とても自然なことに思えた。それくらい、違和感なく彼にぴたりとはまっていた。

「香水つけてる?」

目の前で本を捲る彼に問いかける。不思議そうに瞬く彼に、あれ、と思った。私たちホグワーツ生の衣服は皆同じ条件で洗濯されている。だから、普通に考えてそれは意図的なものだと思ったのだけれど。彼はシャツの袖口に顔を寄せて、それから納得したように苦笑した。

「ああ、僕のじゃない。誰かのが移ったんじゃないかな」
「ふーん」

じゃあどこの何て言う香水かはわからないのね。素っ気ない返事をしながら少し落胆した。
ほんのりと、空気に微かに混ざった、石鹸の香り。爽やかで、清潔で、誰からも好かれる香り。それはとても彼に似合っていて、まるで彼そのものを表しているようだと思った。
いつも朗らかに笑っていて、誰にでも優しい。爽やかで、清潔で。そして彼と喋っていると、怒りだとか不満だとか、汚れた感情は洗い流されたみたいにどこかに行ってしまう。
私にとって、ビル・ウィーズリーと言う人は、そんな印象だった。

 

 

Bubble Over

 

 

レイチェルって最近ビルと仲良いよな」

唐突に投げかけられた言葉に、思わず眉根を寄せる。顔を上げると、さっきまで暖炉の前でゴブストーンゲームに興じていたはずのチャーリーは、いつの間にか私の座るソファの肘かけに座っていた。またそれなのと溜息を吐いて、再びパドルミアユナイテッドの戦績へと視線を落とした。そうしてまたいつも通りの返事を返す。

「そう?普通だと思うけど」

確かに最近よくそう言われるようになったけど、自分ではどうにもしっくり来ない。急に親しくなったと言うのは正しくない。どちらかと言えば、以前が親しくなさすぎたのだ。同寮生とは言え、去年までは会話すらもほとんどなかった。今年になってたまたま少人数のNEWTの授業で一緒にならなければ、恐らく卒業までそのままだっただろう。元々勉強や読書よりもクィディッチが好きな私は、ビルよりもこの2学年下の弟の方とよく話していたくらいだ。以前に比べればそれなりに親しくなったとは思うけれど、別に唯一無二の親友と呼べるほど意気投合したわけではない。お互いに、もっと仲の良い友人は別に居る。ただの友人の一人だ。いいお友達、と言うやつ。

「一緒に居てドキドキしたりしないのか?」
「……まあ、時々は。あの顔は反則でしょう」

彼の弟相手に嘘を吐いても仕方ないので、素直に認める。ふとした仕草なんかにドキッとしてしまうのは最早仕方がないと思う。だって仕方ないじゃない、ハンサムだし、正直かなり好きなタイプの顔なんだもの。ときめいてしまうのは生理現象みたいなものだ。にしても、何なのだろう、さっきから。

「何? チャーリー。もしかして私のこと好きなの?」
「キャノンズが今季優勝したらそう言うこともあるかもしれないな」
「何よ、ちょっとした冗談じゃない」

そこまで否定しなくたっていいでしょうと、軽く睨む。手近にあったクッションを投げつけたら、軽く腕を振るだけでガードされた。むくれる私に、チャーリーは肩を竦めてみせる。

「いや、まあ、ビルを好きになると色々大変だぞ、と思って。俺が言うのも何だけど」
「……ああ、そう言うこと」

ばさりと雑誌をテーブルに投げつける。ビルとあんまり「親しい仲」になれば、色々と面倒なことになると言うのはわざわざチャーリーに指摘されなくてもわかることだ。ハンサムで、頭が良くて、性格も良くて、おまけに監督生。ビルは当然皆から慕われている。皆、の中には勿論女子も多数含まれていて。そして彼に恋をしている女の子も、決して少なくはないのだ。一体どうやって親しくなったのか教えろと詰め寄られたことも1回や2回じゃない。

「別に、私がビルと特別仲がいいってわけじゃないわ。相対的に仲良く見えるだけよ」
「ああ、確かに。ビル、案外ガード固いからなー」

チャーリーが快活に声を立てて笑う。やっぱり家族の目から見てもそうなのか、と自分の推測が正しい事を知った。
ビルは基本的に、誰にでも親切だ。友人も多い。でも、一見誰でも受け入れるようでいて、その実そうでもない。本当に親しい友人は、彼が認めたごくごく一部だけ。彼が好きだからと強引に踏み込もうとすれば、するりと距離をとられてしまう。頭がいいだけあってそのやり方は実にスマートで、相手にすら気づかせないのは見事としか言いようがない。こう言うと彼の意地が悪いみたいに聞こえるけれど、それは彼の善良さに傷をつけるようなものではなくて。たぶん、彼のような人の目を引く人種には必要なことなのだろうと思う。
私が彼と親しく見えるとすれば、それはたぶん私が彼に恋愛感情を持っていないからだ。ああしてこうしてと彼に望まないし、恋人気取りで干渉することもないので、彼に拒絶されることもない。彼に恋愛感情を持つ女の子達が遠ざけられた結果、近くに残っていたのが私だったと言う、ただそれだけ。

「じゃあ今後、恋愛に発展する可能性は?」

友情から恋愛に、と言うのはよく聞く話。だけれど、たぶん、私達はこの先もこのままだ。大勢いる友人、その中の一人。それでいいのだ。私はこれ以上親しくなることは望まない。友人としても、異性としても。きっと、それはビルも同じで。

「キャノンズが優勝したらありえるかもね」

私はたぶん、ビルに恋をすることはない。それは、ビルがモテるからとか、周りの女の子にどう思われるかが怖いとか────それもあるけど────そんなんじゃなくて。
恋をしたら、きっと、欲張りになる。もっと親しくなりたいと、私を見てと、今より多くを求めてしまう。そうしたらきっと、ビルは私から離れて行く。このまま踏み込まなければ。このまま踏み込みさえしなければ、ビルの友人で居られるのに。
誰だって、親しくなるといい所だけじゃなくて嫌な所も見えてくる。けれど、ビルは全然そんなことなくて。
一緒に居ると、楽しい。こんな人が恋人だったらいいな、と考えることもある。ああ、ビルを好きな女の子達はきっとこう言うところが好きなんだな、と気づくこともある。素敵な人だなあと思う。でも、きっと、私が彼を好きになることはないだろう。
友人として接するうちに、私は、ビル・ウィーズリーと言う人間が好きになってしまった。だから、ビルに恋はしたくない。せっかくできた友人を、手放したくない。

たぶん、私がビルに恋をしたときが、この友情が終わるときだから。

 

 

「ビル!」

階下に見つけた友人の姿に、手すりから身を乗り出す。名前を呼べば、こちらに気づいた彼は穏やかに微笑んだ。そうしてその場に立ち止まって、私を待ってくれる様子だったので、急いで駆け下りる。階段が気まぐれを起こさないうちに。

「これ、借りてた魔法史のノート。ありがとう」
「どういたしまして。レイチェルも、寮に戻るとこ?」

ええ、と笑い返して彼の隣へと並ぶ。当たり前みたいにごく自然にそうした自分に気がついて、確かにチャーリーにああ言われてしまうのも仕方ないかもしれないと納得した。
隣を歩くビルをそっと見上げる。今日も溜息が出そうなほどハンサムだ。けれど、何だか少し違和感があった。そしてその理由を探してみると、答えはすぐに見つかった。何かがいつもと違うと思ったら、模範生の彼にしては珍しくローブを着ていないのだ。

「暑いなら、切ればいいのに」
「ああ……ママもそう言うよ」

真っ白なシャツの袖は捲られているのを見て、そう口にした。チャーリーならともかく、ビルが制服を着崩しているのは珍しい。けれどそれも今日に限ってはそう不思議なことじゃない。ここ最近1番のお天気で、晴れ渡った空は綺麗だけれど、外に居ると少し汗ばむほどだった。
燃えるような赤は、今こそ下ろせば肩甲骨まで届きそうだけれど、入学した時は確か彼の髪は短かった。いつどう言うきっかけで伸ばし始めたのか、私は知らないけれど。毛先へと指を絡めて、ビルは困ったように苦笑した。

「妹が泣くからなあ。僕の髪をいじるのが好きみたいなんだ」

そう、と短く返す。切ればいいのにとは言ったけれど、本気で言ったわけじゃなかった。実際、切ってしまうのは少しもったいないとも思う。男の人の長髪って好きじゃなかったけれど、ビルにはよく似合っていた。
高く結われたポニーテールが、歩くたびに揺れる。晒された首筋に、ふと視線が寄せつけられた。

「首、どうしたの」
「首?」

うなじのあたりに、赤い跡があった。チャーリーとは違って、ビルはあまり日に焼けていない。そのせいで、この距離だと少し目立つ。鏡を使っても自分では見えないだろう位置についているので、ビルは気づかなかったのだろう。

「虫さされ? それとも誰かにやられたの?」

ここ、と言いながら指を差した。鬱血したような跡は、キスマークのようにも見える。からかおうとするこちらの意図に気づいたのか、ビルは虚をつかれたような顔をした。けれどそれも一瞬のことで、すぐに悪戯っぽく笑みを浮かべてみせる。

「さぁね。どっちだと思う?」

その表情が、男の人なのに妙に艶かしくて、心臓が跳ねる。
また、あの香水の香りがした。ああ、もしかしたら、この香りはこの首筋の跡をつけた誰かから移ったものなのかもしれない。そんな可能性に今更気がついて、何だか喉の奥が詰まった。
恋人は居ないと聞いていたけれど、それは本人から聞いたわけじゃなく、あくまで噂だった。ビルの口から聞いたわけじゃないし、真実かどうかなんて私にはわからない。ビルに恋人が居たって、何もおかしくない。
でも、居るなら教えてくれたっていいのに。一応、友人のはずでしょう。それとも、そう思っていたのは、私だけなのだろうか。

「……さあ。知らないわ。どっちでもいいもの」

素っ気なく返して、口の中に広がる苦さを飲み込む。
からかいを先に口にしたのは私で、ビルはそれをかわしただけだ。たぶん、本当にそれだけ。言葉そのものにきっと、深い意味なんてない。わかっているのに、妙に不快だった。
彼の首筋に唇の跡をつけるような女の子が居たとして、そんなこと、私が知るわけないじゃないか。私は神様じゃないし、千里眼でもないんだから。私と居るときの、私の前で笑うビルしか知らない。友人の多いビルが彼らとどんな話をしているかだとか、彼が誰に告白されたかだなんて、全部把握できるはずもなければ、そんなことしたいとも思わない。彼の首筋に、腕に、香りを移した女の子が居たとしても、私には預かり知らないことだ。そしてそのことに私が何かを言う権利なんてどこにもない。私はただの友人の一人で、彼の恋人でも何でもないから。

レイチェル?」

一緒に寮へと戻るはずだった別れ道を、逆へと進む。早足で歩く私の背中を、ビルの声が追いかけてくる。けれど、振り返ることはしなかった。今振り返ったら、ものすごく後悔するだろう言葉を言ってしまうだろうと思った。
ただの友人の一人だから、所詮この程度なのだ。ノートの貸し借りはしても、恋人の存在すら知らされない。自分にとってビルは、その程度の存在なのだ。今も、そしてこれからも。その事実に、傷ついている自分が嫌だった。馬鹿みたいだ。ビルが私に、いつ何を打ち明けるかなんて、ビルの自由なのに。

「待って、レイチェル。どうしたの」
「どうもしないわ。用があったって思い出したの。悪いけど、急ぐの。マクゴナガルに呼ばれてるのよ」
「マクゴナガルなら、ついさっき会ってたよ。呼ばれてたのは僕だ」

咄嗟についた嘘は簡単に見透かされて、ぐっと言葉に詰まる。けれど、今更引き返すのも癪だったので、そのまま緩めることなく歩を進めた。私にとっては精一杯の急ぎ足。けれど、コンパスの長さが違うせいで、すぐにビルに隣に並ばれてしまう。

「何か怒ってる?」
「どうして? 怒る理由なんて何もないでしょ? ビルに恋人が居たって言うのはちょっと驚いたけど、私には関係ないもの」

そう。ビルに恋人が居ようが居まいが、私には関係ない。ビルだってきっと、そう思ったから言わなかったのだ。教えてくれればよかったのになんて、責められない。たとえ軽口でも。だってきっと、言ったらビルは離れて行くもの。「誰なの」って問いただしたりしたらきっと、見限られる。関係ない人間にそんなこと言われたら、鬱陶しいでしょう。そうして、きっとまた、友人ですらない、ただの同寮生に戻ってしまう。嘘みたいに、簡単に。

「恋人なんて居ないよ」
「……別に、隠さなくてもいいじゃない。その香水、彼女のが移ったんでしょ?」

ビルが息を飲む気配がした。憶測で口にしてみたけれど、どうやら図星だったらしい。だとすれば、ビルは少なくともあのときから既に、決まった恋人が居たわけだ。ホグワーツの女子の何割かは、あの時点で失恋していたことになる。まあ、それこそ私には関係のないことだけれど。
そう、どうだっていい。どうだって。ビルのことなんて、私には関係ない。
ふと、頭上から影が落ちた。隣を歩いていたはずのビルが立ちはだかっていて、私の進路を塞いでいる。立ち止って訝しげに見上げれば、小さな溜息が降って来た。

「本当、君って鈍いよ。そう言われない?」
「鈍いって、何が……っ」

言い終える前、腕を引かれて。バランスを崩して前へと倒れ込めば、視界が白に染まる。背中に回された腕の感触に、抱き寄せられたのだと知った。気づいた瞬間、心臓がまた跳ねる。────駄目。反射的に彼の胸を押して、距離を取る。けれど後退した先には壁しかなくて、また私は退路を塞がれた。目の前に立つビルは、薄く笑みを浮かべていた。逃がさないとでも言いたげに。

「……悪ふざけはやめて、ビル・ウィーズリー。誰かに見られたらどうするの」

視線を合わすことなく、吐き捨てる。今度は、苛立ちを隠そうと言う努力はしなかった。彼が一体何をしたいのか、全く理解できない。冗談だとしても笑えない。恋人の居る人と妙な噂が立つなんて、まっぴらだ。
一体、私をどうしたいのよ。何をしてほしいの。何をすれば満足なの。どうすればよかったの。わからない。貴方のことは、何もかも。

「いいよ。誤解されても」
「私は良くないわ!」

こんな状況だと言うのに、いつも通りの冷静な口調。カッと頭に血が上る。どうしようもなく苛立って、胸がむかむかする。
好きでもないくせに、こんなことしないで────そんな言葉が口から飛び出しそうになって、ぎゅっと唇を噛みしめる。
いつだって、私はビルの前では言葉を飲み込んでばかりだ。一欠片でも疑いをもたれるのが怖くて、言いたいことなんて何も言えない。嫌われたくなくて、見限られたくなくて、いつだってビルの顔色を窺ってばかりいる。こんなの、きっと本当は、友達なんかじゃない。
全部吐き出したら、きっと楽になるだろう。全部吐き出したら、ビルは私から離れて行くだろう。それが怖い。だから私は、飲み込むしかない。ビルが重荷に感じないように、物分かりのいい友人の振りをする。
これ以上を望まない、なんてただの虚勢だ。手を伸ばして、振り払われるのが怖いから、伸ばせないだけ。拒絶されるのが怖いから、言えないだけ。本当はもっとビルに近付きたい。ビルの特別になりたい。
どうしてこんなに苛立つのか? そんなの、本当はわかっている。
でも、わかりたくなかった。気づかない振りをしていたかった。だって、認めたら側に居られなくなるから。
本当は、恋人が居ることを教えてもらえなかったから傷ついたんじゃない。本当は、きっと。

「君が気に入ってくれたみたいだから、いつもこの香水をつけるようにしてたんだけどな」

真剣な表情で言われた言葉に、目を見開く。一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
そんなの、知らない。だって、自分のじゃないって言ってたじゃない。他の人のが移ったって、そう言ってたじゃない。恋人が居ると言われた方がよっぽど納得できる。それに、あれは、私とビルが友人になるよりも、ずっと前で────。

「気づかなかった?」

鼻先の触れそうな距離で囁いて、ビルは綺麗に微笑んだ。
ガラス玉みたいな青い瞳の中に、私が映っている。何か言わなければと思うのに、こんなときに限って、強がりも、虚勢も、出て来てくれない。
ぎゅっと手の平を握り締めて、俯く。洗いたてのシャツの白さが目を焼いて、何故だか無性に泣きたくなった。
本当は、きっと、好きだったの。好きなの。いつからかなんて、わからないけど。知れば知るほど、好きになっていく。貴方みたいな人の側に居て、恋に落ちない女の子なんて居ない。
私は馬鹿だ。側に居たいから、恋じゃないと言い聞かせてた。恋人になれないことなんてわかってたから、友達のままで居たかった。友達としてでもいいから、側に居たかった。馬鹿で、意地っぱりで、ずるいの。
そっと、彼の胸に額を寄せる。また、ふわりとあのシャボンの香りがした。彼によく似合う、優しい香り。
指先に彼のシャツを握って、目を閉じた。

この香りを移してほしい。私の中の綺麗じゃない物を、全部全部、洗い流して、白に染めて。
そうしたらこんな私でも、貴方に相応しい女の子になれる気がするから。


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