ずっと前から好きだったのなんて、今更言ってももう遅い。

恋のはじまりがいつだったかなんて、口先だけでなら何とでも言える。目に見えないものがいつ生まれたのかなんて、誰にも証明することはできないから。そもそも想い続けた時間が長いからと言って、気持ちの大きさの証拠にもならない。物語の中みたいに、出会ったら最後、瞬く間に燃え上がる恋もある。人より想いが長く深いから結ばれるべきだなんて主張するのなら、私は私よりも彼を愛している人が居たらこの恋を捨ててしまわなければいけなくなってしまう。いつから、どれくらい強く彼を想っているのかなんて論じるのは、まるで意味の無いことだ。
けれど厄介なことに、長年想い続けたことによって生まれてしまったプライドのようなものは確かにあって。────つまり、そう。長々と言い訳したけれど、私、嫌なの。彼が代表選手に選ばれた途端、急に親し気に振舞うようになったあの子達と一緒だと思われるのが。

「セドリックにサイン貰っちゃった!」

きゃあきゃあとはしゃいだ声が通りすぎる。甲高く響く声はひどく耳障りで、思わず眉根を寄せた。もっとも、不快の原因はたぶん声だけじゃないけれど。私の視線の先に気づいた友人が、困ったように肩を竦めてみせた。

「ちょっとどうなのって感じだよね。ああ言うの」
「ねー! 芸能人じゃないんだから。優しいから言わないけど、セドリックだって迷惑してるよね」
「でもさあ、ちょっと、騒ぐ子の気持ちもわかっちゃうんだよね」
「かっこよくなったよねー。最近、特に。何て言うか、セクシー?」
「あー、確かに!この間暑い日だったんだけど、こう、ネクタイ緩めてるとこ見かけて、ちょっとドキッとしちゃった!」

楽しげに盛り上がる会話に、ぼんやりと耳を傾ける。ああ、確かに、セドリックは優しいから面と向かって迷惑だとは言えないだろうし、最近急に大人っぽくなった。背か伸びて来たのは2年前くらいからだけれど、あどけなさが抜けたと言うか、落ち着いた雰囲気になったと言うか。ネクタイを緩めると言うのも珍しい。セドリックは制服を着崩したりしないから────。

レイチェル!」
「え?」

そんな風に思考を巡らせていたら、急に名前を呼ばれて驚いた。顔を上げて、きょろきょろと辺りを見回すけれど、その原因になりそうなものは思い当たらない。どうしたの、と戸惑いながら首を傾げれば、呆れたような溜息が返って来る。

「なぁに、さっきから、その私は関係ありませんって顔は。澄ましてないでちゃんと会話に参加してよ!」
「澄ましてなんか……」
レイチェルはセドリックは好みじゃない?」

そうじゃない、と首を振る。会話に加わらないのは、そんな理由じゃない。私は彼女達と違って、セドリックをただのハンサムな同寮生として見ているわけじゃないから。きっと、彼女達と同じに彼のことを語ろうとしても、きっと上手くはいかないから。だから。

「好きよ」

淡々と、そう告げた。嘘はふとしたことで簡単に剥がれてしまうから、あえて真実を口にする。軽く口に出した方がかえって誤解を生まないと、わかっているから。ただの同寮生としての「好き」なのだと、恋愛ではないのだと、そう周囲が勘違いしてくれるのがわかっているから。

「セドリックを嫌いな人なんて、居ないんじゃない?」

あくまでも、他人事みたいに。隠し事をすることに後ろめたさがないわけじゃなかったけれど、それでも言いたくないのだから仕方がない。
こんなことならもっと早く、打ち明けておけばよかった。今、彼に恋をしているのだと、そう思われるのが嫌。彼の背が伸びたから、監督生になったから、代表選手になったから、だから好きになったんだろうと思われるのが嫌。
彼が好きよ。恋をしているわ。あの子達と同じ。でも、私はあんな風に、浮ついた感情じゃない。流行の香水を欲しがるような、ブランドのバッグを羨むような、そんなミーハーな気持ちじゃない。一緒にしないで。私は、あの子達とは違うの。なんて傲慢。自分でもわかっているから、絶対に口には出せない。

「ああ、じゃあもしかして知らない?レイチェル
「何を?」
「セドリックのダンスの相手よ」
「チョウ・チャンを誘ったんだって! 」

チョウ・チャン。男子生徒に人気のある、アジア系の4年生。何度か見かけたことがあるけれどよく知らないけれど、オリエンタルな雰囲気の美少女だった。彼女の襟元を彩るネクタイの色を考えればきっと、頭も良いのだろう。彼とは何か繋がりが合っただろうか。────ああ、そう言えば、彼女は彼と同じシーカーだ。きっとそこから、親しくなったのだろう。

「……そう」
「反応薄いなあ。本当に興味ないのね」

興味がないなんて、そんなはずがない。胸はこんなにもざわついて、じくじくと疼いて痛み出す。この感情の名前を知っている。悲しみ。そして、嫉妬と、羨望。
彼の隣に誰かが立つことを、想像しなかったなんてそんな馬鹿馬鹿しいことを言うつもりはない。彼と踊りたがっている女の子は星の数ほど居るし、今の彼ならその誘いを断る女の子なんて居るはずがない。さっきのあの女の子達だってきっと、私が知らないどこかで彼をパートナーに誘っただろう。
何もせずに見ているだけの私が、代表選手になってから彼を追いかけている彼女達よりも出遅れている私が、彼に選んでもらえるなんて、そんな夢みたいなことを考えていたわけじゃない。だからこれは、順当な結果だ。
────そうか。チョウ・チャン。彼女を、誘ったのか。
東洋人特有の、黒檀のような黒髪が脳裏に靡く。夜を閉じ込めたみたいな、印象的な黒い瞳。彼と同じでクィディッチが好きな、可愛らしい女の子。

彼女なら、きっと彼の隣に似合うだろうと思った。

 

 

溺れる人魚

 

 

窓から吹き込む風から、夏の匂いがした。
まるで絵の具のありったけの水色を塗り付けたみたいに空は青く澄み渡り、雲ひとつない。試験が終わった解放感に、いよいよ最終課題を明日に控えたとあっては、校内は完全に落ち着きをなくしていた。廊下のあちこちから囁き声が笑い声があふれて、空気がふわふわと浮き足立っている。
こんな日だから、図書室はいつも以上に人気がない。特にこんな、奥まった本棚には。浮いているものと言えば私の踵だけだ。精一杯背伸びをしたりとび跳ねたりしてみたものの、目当ての本には指先が掠めるばかりでなかなか届かない。困った、と本棚を見上げて途方にくれていると、ふいに視界に影が差す。

「これ?」
「あ……ありがとう」

心地いいテノールが頭上から響いて、長い指があっさりと本を取り出す。通りすがりの親切な誰かにお礼を言おうと振り向いて、はっと息を呑んだ。何故って、そこに居たのは想像もしない人物だったから。

「……セドリック」

代表選手が、こんなところにいていいのだろうか? いや、もしかしたら何か明日の課題に必要な本を探しに? はっとして髪へと手を伸ばす。さっき散々本を取るために跳び跳ねたから、ぐちゃぐちゃになっているかもしれない。

「僕もこれ、読んだことがあるよ。すごく綺麗な物語だよね」
「え……ええ。そうね」

私の動揺なんて知るはずもないセドリックは、そんな言葉と共に私に本を差し出した。それを受け取って、胸に抱く。彼が私と同じ本を読んでいたと言う、そんな些細な驚きが肺を満たしていく。もう何度も読んだ、私のお気に入りのこの本を。
まだ1年生の頃にルームメイトに勧められた、マグルの有名な童話。淡いパステルカラーで描かれた、優しくて、どこか儚い雰囲気の挿し絵。男の子であるセドリックが読んだことがあると言うのは不思議な気もしたけれど、そう言えば彼はマグル学を受講していた。それでかもしれない。
「人魚姫」。海の底でしか生きられないのに、陸の人間に恋をしてしまった人魚の悲しい恋の物語。

「私も、好きよ」

────「すき」。彼に対する告白でも何でもないのに、彼の前でその言葉を口にするだけで、馬鹿みたいに緊張をする。心臓がうるさく騒ぎだして、首筋が熱を持つ。けれど彼は────セドリックはそんなことは気づかないから。いつものように穏やかに微笑んで、踵を返そうとした。

「セドリック」

伸ばしかけた指が、空を掻く。彼の名前が、唇の上を滑り落ちる。呼び止めてしまってから、どうしようと戸惑った。もう少し話がしたかっただけなんて、そんな風にあっさり口に出せるなら、今頃こんなことになっていない。忙しいに決まっているのに、善良なセドリックは迷惑そうな顔ひとつせず、私へと向き直った。

「何だい?」

言ってしまおうかと逡巡した。今なら誰も居ない。今なら誰にも気づかれない。今のこの空気なら言えるかもしれない。今しかない。「……セドリック。あの……」チャンスよ、レイチェル。さあ、言うのよ。『私、ずっとあなたが好きだったの』って。「私……」たった一言じゃない。勇気を出して。「あのね……」────言ってしまえ。

「……明日の課題、頑張ってね」
「うん。ありがとう」

結局、肝心な言葉は出て来ない。紡げたのは、そんな月並みな励ましだけだった。
もう聞き飽きているだろう言葉でも、彼ははにかんだように笑ってみせる。私を恋に落とした、あの笑顔で。ぎゅうっと胸が苦しくなった。駄目。そんな風に笑うから、諦められない。大して親しくもない同寮生の女の子の、陳腐な応援の言葉にも、喜んでくれる。そんな人だから、好きなの。
離れていく背中に視線を縫い止められたまま、私は立ち止まったままだった。
踏み出す勇気もないくせに、引き返すこともできない。セドリックにはもう好きな女の子がいるのに。また好きになってしまう。気持ちばかりが育っていく。
言えばよかったのにと、後悔した。いつまでこの不毛な片想いを続ける気なの? うじうじ見つめてるだけじゃ何にも変わりやしないのよ。意気地なしのレイチェル。あんたが見下してたあの子達の方がよっぽど勇気があるわ。
馬鹿ね、これでよかったのよ。言ったところでどうなるって言うの。返事なんてわかりきってるじゃない。セドリックにはチョウがいるのよ。ダンスパーティーからはもう半年も経ったのよ。二人の気持ちも関係も、あの頃よりずっと前に進んでるに決まってる。告白したって迷惑なだけ。振られてすっきりしたいなんて言う自己満足のために彼を困らせるつもりなの? いいえ、だとしたって言うべきだったわ。ねえレイチェル、半年よ!半年も経ったの。それなのにあんたはいつまで立ち止まってるつもりなの?
ぐるぐると巡る思考に、小さく息を吐いた。

『課題、頑張って』

結局、私に言えるこの程度なのだ。誰にでも言える言葉。彼と何の関係もなくたって、口にできる言葉。何の重みも、深みもない。どれだけ想いをこめたとしても、きっと彼の心の芯まで響くことはない。
この言葉が、私と彼の距離を表しているように思えた。見ていただけの人間は、所詮ここまでなのだ。ぎゅっと本を胸に抱きしめる。彼の去って行った通路を駆けて、私もまたその場を後にした。

────それが、最後。

そんな陳腐な言葉で見送って、それきり。
それきり、彼は帰って来なかった。暗い迷路から戻ってきたのは、かつてセドリックだったはずのただの抜け殻だった。チョウが、彼の選んだ女の子が亡骸に縋って泣くのを、私はただ遠巻きに見ていることしかできなかった。最後さえ、駆け寄ることも、踏み出すことすらできず、私の足は止まったままだった。

『ねえ、セドリック。私ね、ずっとあなたが好きだったわ』

もしもあのとき、喉までせり上がってきた言葉を、紡いでいたら。紡げていたら。そうしたら、何か変わっていただろうか。
言ったところできっと何も変わらなかった。わかっている。彼は私がずっと執念深く恋をしていたことなんて知りもしない。私が彼の姿を見るたび、どんなに胸を踊らせていたかも、彼の背中をどれだけ長く見つめていたかも。彼の笑顔があるだけで、私の目に映る世界が色づくことも。何も知らずに逝ってしまった。

もう私の視界が、あんなにも鮮やかに輝くことはない。

言ったところできっと、何も変わらなかった。彼はやっぱり笑顔の素敵な彼女を誘って、羨望の眼差しの中で優雅に踊っただろう。彼と一緒にホグズミードに行って、手をつないで笑い合ったのは彼女だろう。伝えていたら彼の隣に居たのは私だったなんて、そんな都合のいい夢を見れるほど子供じゃない。
それでも。

あのとき貴方のローブを掴んでいたら。何も変わらなくても、何も生まれなくても。それでも、伝えることならできたはずなのに。
彼ならきっと、私の気持ちを受け止めてくれた。「ごめんね」と申し訳なさそうに眉を下げて、それから「ありがとう」と笑ってくれた。彼は私の気持ちを踏みにじったり、嘲ったりしない。例え私があの子達みたいに、彼がハンサムな監督生で代表選手だから好きになったとしたって、彼はきっと馬鹿にしたりしない。彼はそんな人じゃない。わかっていた。

夢の中、私は貴方の背中を見つめている。いつもの廊下。いつものざわめき。貴方は私に気づくことなく、あの穏やかな笑みで私の隣を通り過ぎる。─────セドリック。私は貴方の名前を呼ぼうとする。喉は確かに震えるのに、唇はただ空を食む。
貴方は気づかない。振り返ることなく、行ってしまう。私は貴方のローブへ手を伸ばす。鮮やかな黒は指先をすり抜けて、踏み出そうとした足は、地面に縫い止められたかのように動かない。彼は廊下の端へと消えていく。
もう見えない。私の世界に、彼は居ない。

馬鹿な私。愚かな私。臆病だった。自尊心が傷つくことを、失恋の痛みを恐れて何もできなかった。いつだって、言えたのに。彼は確かにそこに居たのに。私には追いかけるための足も、掴むための手も、伝えるための声もあったのに。いつか、いつかと先延ばしにして、言えなくなって。「ずっと」の言葉の真偽を、私の6年かけて積み上げたものを疑われるのが嫌だった。馬鹿だ。どれだけ価値のある恋だと思い込んだところで、伝わらなければ何の意味もないのに。

ねえ、セドリック。セドリック。私、貴方のことが好き。ずっとずっと、好きだったの。
9と4分の3番線で、私のトランクを積むのを手伝うよと声をかけてくれた、あの時から。「僕も新入生なんだ」ってはにかんだ笑顔に、恋をした。貴方が居るから、ハッフルパフを選んだ。貴方のおかげで、クィディッチが好きになった。あの日からずっと、あなただけを見ていた。
たとえ、貴方がシーカーじゃなくても。今みたいに背が高くなくても。監督生に選ばれなくても。代表選手じゃなくても。それでも、きっと好きだった。貴方が本当に好きよ。

あなたが、ほんとうに、すきよ。

────もう、伝えられない。もう、遅い。
もう、談話室の片隅で、彼と友人の会話に耳を澄ますことはない。銀色のバッジを煌めかせて廊下を歩く姿に、胸を高鳴らせることはない。彼の後ろの席で、ノートを移す背中を見つめていることはできない。彼が下級生に親切にするところを見て、胸が温かくなることもない。彼が友人達の悪戯で困っている姿に、ひっそりと笑いを噛み殺すこともない。彼が可愛らしい女の子と喋っているところに、視線を逸らすこともない。空いていた朝食の隣の席に彼が座って、トーストが喉を通らなくなることもない。彼にわがままを言って甘える後輩を、ほんの少し羨ましいと思うこともない。彼がブラッジャーで怪我をしないかと、ハラハラすることもない。スニッチを掴んだ彼の笑顔に、胸が締め付けられることもない。スプラウト先生が呼んでいたよと、彼が私を廊下で呼び止めることもない。
彼はもう、私に笑いかけてくれない。彼はもう、私の名前を呼んでくれることはない。私ももう、彼を呼べない。好きな本だとか、好きな音楽だとか。私のまだ知らない彼を知っていくことは、もうできない。
彼の時計は止まってしまった。もう、何もできない。
もう、何も。

ふと、彼が好きだと言った美しい童話が頭をよぎった。人間の王子に恋をした人魚は、魚の尾と声を引きかえに人間の足を手に入れる。けれど結局は、想いは伝えられぬまま。人間になることも人魚に戻ることもなく、泡となって消えてしまう。その一途さを、切なさを、彼は美しいと言った。
読みながら、私は自分を人魚に重ねた。私にとって彼は、陸の王子様と同じくらい違う世界の人だった。彼はあまりにも遠すぎて、ただ憧れと羨望をこめた視線を送ることしかできなかった。海の底で何を思ったところで、彼には凪いだ水面しか見えないと知っていながら。
彼はとても素敵な人だったけど、王子様でも人魚でもない、1人の人間だった。私も、人間だった。私には足があって、声もあった。魔女の薬も、短剣も、特別なものなんて何も必要なかった。伝えられなかったのは、ただの私のちっぽけなプライドだった。

私は彼のために泡になることすらできない。彼はちゃんとした生身の男の子で、王子様なんかじゃなかったし、私はあの人魚と違って、ちっぽけなプライドすら彼のために捨てることはできなかったから。


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