日差しがアスファルトに照りつけていた。
ポケットの中でチャラチャラと小銭の擦れる音が鳴る。ダーズリー夫妻の溺愛する従兄に比べれば微々たる額だったが、ハリーにも一応お小遣いと称されるものが支給されていた。何しろ彼らは周囲から「まとも」な人間として見られることに関しては並々ならぬ情熱を注いでいたので、「甥っ子を虐待している非人道的な人間」だと思われないようにハリーに人並みの生活を保障することを余儀なくされていたからだ。まあ彼らがそうと意図するに反して、ハリーの棒きれのような手足や、体型に明らかに不釣り合いなぶかぶかの服やセロテープで補修した眼鏡は十分に周囲の憐憫と好奇の視線に晒されていたので、あまり意味はなかったのだが。一人息子のダドリーは丸々と肥え太り、いつも流行の服に身を包み、新品の持ち物ばかりを与えられていたのが周囲の疑惑に拍車をかけていた。ハリーはそれを見て豚に何を着せても同じなのになとダーズリー夫妻に知られれば1週間は食事を抜かれそうなことを考えていたし、周囲の大人達も何かしら思うところがあるようだったが、誰だって好き好んでモンスターペアレントに関わろうとはしない。まあ、それについてはこの際置いておこう。
ハリーは一応、お小遣いを支給されていた。金額は周囲の一般的な子供達から見ても少なかったし、支給日が来るたびに「お前みたいに厄介者を息子と全く同じに扱うなんて一体自分達家族はどこまで親切なのだろう」と言うバーノンの陶酔がかった台詞を聞かなければいけなかったが────ちなみにダドリーが与えられている額が1日に3回は町はずれのアイスクリームパーラーでチョコレートサンデーを買えるのに関して、ハリーがサンデーを買うのには3週間分のお小遣いを堅実に貯蓄しなければならない。演説を聞きながら熱心に頷く叔母とニタニタ笑いを浮かべる従兄を見て、どうやらこの家で算数ができるのは自分だけらしいとハリーは悟った。
まあ何はともあれ、3週間分の小遣いで3ヶ月ぶりのチョコレートサンデーを買ったハリーは、うだるような暑さの中を一人歩いていた。今日はこの夏一番の暑さだ。生クリームとイチゴで飾られたチョコレートサンデーはその輪郭を失いかけているが、ハリーの舌に十分冷たさと甘さを提供してくれる。できることならばクーラーの利いた家の中か、パーラーのイートインスペースで食べたかったが、ダドリーに遭遇する可能性があるので避けたほうが賢明だ。1日3回はサンデーを買える身分のはずのダドリーは、持ち前の計画性のなさで3日で財布の中をすっからかんにし、ハリーから3ヶ月に1度のサンデーを強奪にかかる。できるだけ遠回りをして、食べきってから家に帰るのが得策と言えた。 そしてその選択はハリーに思わぬ幸運をもたらした。

「あれ? ハリー?」

リトル・ウィンジングは閑静な住宅街だ。通りに並ぶ家と同じに、街の人々もまたまるで型抜きクッキーみたいに小奇麗で凡庸でそつがない。平穏な日常を脅かす全てが徹底的に排除されたこの街には、魔法界との繋がりを匂わせるようなものは塵一つさえ見つからない。そのはずだった。

「……レイチェル?」

ハリーはぽかんと口を開けた。名前を呼ばれて振り返った先には、魔法界の塵どころかそのものずばり、魔女が居た。勿論今はいかにも魔女ですと言わんばかりの真っ黒なローブは着ておらず、ワンピースにサンダルと言うごくごく一般的なマグルらしい服装に身を包んでいたが、ホグワーツでの顔見知りだ。

「ど、どうしてここに居るの?」

動揺を隠しきれずに声が上ずる。溶けたアイスがポタリとアスファルトに落ちた。

 

 

Melting Summer

 

 

レイチェルグラントはハリーより2学年上のグリフィンドール生だ。
とびきり目立つほど容姿が整っているわけでも、勉学やクィディッチに秀でているわけでもなかったが────── いや、だからこそなのかもしれない。手の届かない高嶺の花ではなく、日陰にそっと咲く野の花のような、そんな雰囲気を纏う彼女は、同寮の男子生徒の話に時々名前が挙がることがあった。
ハリー自身はさして親しくはなかったが、彼女は同じクィディッチチームのアンジェリーナやアリシア、それにフレッドやジョージと仲が良いので、何度か顔を合わせたことがある。

「おいしい。生クリームがあんまり甘くないのね」
「フローリアン・フォーテスキューのアイスクリームの方がずっとおいしいよ」
「つい4日前に行ったわ。でも私、マグルのお菓子もそれはそれで好きよ」

サンデーを突きながら、レイチェルとハリーは町はずれの公演のベンチに並んで座っていた。
レイチェルがどうしてリトル・ウィンジングに来ていたのかと問いかければ、返ってきた答えは親戚がこの町に住んでいると言うことだった。そう言えば、彼女の両親のどちらかはマグルだと聞いたことがある。詳しく聞きはしなかったが、恐らくそのマグルの親戚がこの町に住む小奇麗で凡庸でダーズリー夫妻の好きな「まとも」な誰かなのだろう。実際隣に座る彼女も、制服のローブと杖と言うオプションがなければマグルの町に無理なく溶け込んでいる。
せっかくだからちょっとおしゃべりをしないかと提案した彼女に、ハリーは二つ返事で了承した。もしもレイチェルの提案がなかったとしても、結果は同じだっただろう。レイチェルが誘って来なければ、ハリーから言い出していた。ホグワーツ生活における彼女の印象は悪いものではなかったし、何よりせっかくの魔法界やホグワーツに関わる人物をみすみす帰したくはなかった。魔法のまの字も口に出せないダーズリー家での生活のせいで、ハリーは魔法界の匂いに飢えていた。未成年のハリーは休暇中魔法を使えない。呪文を唱えなければ杖はただの棒きれと同じだ。ハーマイオニーやロンや、友人達からの手紙はハリーにホグワーツでの生活が夢ではないと教えてくれたが、誰かと話がしたいと言う欲求を掻き消すことができなかった。温度のない紙とインクよりも、肉声の方がずっと現実味が増す。もしホグワーツについての話に付き合ってくれるのならば、あのスネイプやドラコ・マルフォイにすら縋ったかもしれない。

「それで、僕だけスネイプに罰掃除をさせられたんだ。嫌になるよ」
「でも、それはハリー達が悪いんじゃない?」
「まあね」

フレッドやジョージの冗談に笑っていたり、アンジェリーナのおしゃべりに相槌を打っているところをよく見かけたので、ハリーはレイチェルのことを、あまり自分から話したりはしない、内気な性質なのだろうと思っていた。グリフィンドールよりも、レイブンクローやハッフルパフの方が似合いそうなのになんて感想を抱いたりもしたくらいだ。けれど、話してみれば、意外にもはっきり物を言うし、何よりよくしゃべった。そして、真っ直ぐにハリーの目を見る。あまりにもじっと見つめるので、ハリーは照れてしまってなかなかレイチェルの顔を見ることができなかったが、小一時間も経つ頃にはすっかり打ち解けてまるでずっと以前から友達だったような錯覚さえ覚えていた。

「今日は良い日だな。偶然、君に会えて」

ハリーのぶんのサンデーはもうとっくに平らげてしまっていたし、「ちょっと」のおしゃべりではなくなっていたが、ハリーは時間が経つのがあまりにも早すぎると思った。こんなことなら、もっと早く話してみるんだった。そんなことを考えていると、ふいにレイチェルが口を開いた。

「偶然じゃないわ」
「……どう言うこと?」

ハリーが不思議に思って聞き返すと、レイチェルがはっとしたように口元を押さえた。どうやら、思わず口に出してしまったらしい。レイチェルは躊躇うように視線を彷徨わせた。けれどそれも一瞬のことで、またハリーの目を真っ直ぐに見据える。その視線に、やましいことなんて何もないのに、ハリーは何だか少しどきりとした。

「本当はね、この町に入ってずっと、あなたのこと探してた」
「僕を?」
「ええ」

真面目な表情のまま、レイチェルはこくりと頷く。それからニッコリ笑ってみせた。ほんのりと、白い頬が紅潮していく。さっきまでは打って変わって、その瞳は悪戯っぽい光が宿っていて、キラキラと輝いている。レイチェルはすうっと息を吸った。

「あなたに会いに来たのよ、ハリー」

予想外の言葉に、ハリーは目を見開いた。レイチェルの口調は、嘘や冗談を言っているわけではなさそうだ。けれど、ハリーにはレイチェルに会いに来られるような心当たりがない。もしも新学期にレイチェルに会ったら、ハリーはロンやハーマイオニーに彼女と友達になったのだと言うだろう。けれどそれは今の1時間があってこそのことで、ついさっきまでハリーとレイチェルの関係はただの同寮生だったはずだ。

「ど、……どうして?」
「話してみたかったから」

動揺で思わず声を上ずらせたハリーとは対照的にレイチェルの様子はいつも通り落ち着いていた。淡々とした響きにさえ感じさせる声色が、ハリーの鼓膜を静かに振るわせる。

「リトルウィンジングにはあなたの他に魔法使いが居ないって、パパから聞いて知ってたの。それに、あなたにはマグルの友達は居ないって聞いた。だとしたら、ここに来ればホグワーツと違って、あなたを一人占めできる。当たってたでしょ?」

ちなみに、親戚が居るって言うのも嘘なの。続けられた言葉に、ハリーは驚愕した。けれど、ごめんねと申し訳なさそうに謝罪を口にする彼女を責める気にはならなかった。別に騙されたと怒るほどの嘘でもないし、怒りや失望よりもショックや戸惑いの方が勝っていた。

「でも……そんな、ここに来たって僕に会えるかどうか、わからないじゃないか」
「でも、実際こうやって会えたじゃない」

いくらリトルウィンジングが小さな町だとは言え、人一人を探すには十分に広い。加えて恐らく、レイチェルはハリーの住所どころかダーズリーと言う名前すら知らないだろう。あまりにも無謀だとハリーが言えば、レイチェルは何でもない口調でそう答える。何だか無茶苦茶だとハリーは思った。自分の知るレイチェルグラントと言う人間は、こんな大胆なことをする人間ではなかった。
いや、そもそもハリーはレイチェルのことをほとんど知らなかった。レイチェルの言う通り、レイチェルとの会話はいつも他の誰か────それもレイチェルよりもハリーと親しい上、レイチェルよりもおしゃべりな人間と一緒なので、レイチェルは大体聞き役に回ることになっていた。二人でじっくり話す機会もなかったし、そんな機会を作ろうと思ったこともなかった。きっと今まで二人きりで交わした会話は「おはよう」とか「ロンを見なかった?」とか、それくらいだ。だってレイチェルは友人でもなければ、クィディッチのチームメイトでもない。ハリーにとってレイチェルはただの同寮生の一人で、もっと言えばその他大勢の一人に過ぎなかった。嫌いではない。嫌いになる理由がない。だって関わりがないから。嫌いでない代わりに、好きになる理由もない。

「実を言うと、声かけるとき緊張したんだけどね。顔覚えてもらえてなかったらどうしようって思ってた」

そう言って苦笑するレイチェルに、ハリーは何だか頭の中を見透かされたような気がして恥ずかしくなった。レイチェルの想像している通り、確かにハリーはレイチェルグラントと言う人間にさして興味を持っていなかった。けれど、恐らくレイチェルが思うほど、まるきり無関心と言うわけでもない。

「覚えてるよ。今日、君と会えて嬉しかったのは本当だし……」
「本当? 嬉しい」

言葉通り、レイチェルは屈託なく笑う。やっぱり違う、とハリーは思った。ハリーの知っているレイチェルは、こんな風に笑わない。眩い太陽の光に、髪の色が明るく透けている。地面と視線を落とす横顔はやけに大人びて見えた。隣に居るのは、ハリーの知らない女の子だ。

「来てよかった。それに、これでちゃんと、わかったもの」
「わかったって、何……」

何が、と。言う前に遮られた。視界が暗く翳る。唇に何かが触れて、ハリーは目を見開いた。閉じた瞼とが間近に映って、睫毛の一本一本までが数えられそうだった。レイチェルの唇は冷たく湿っていて、彼女の食べていたミントアイスの味がした。

「あなたが好きよ、ハリー」

鼻先の触れ合う距離のまま、囁かれる。レイチェルの瞳の中に、自分の驚いた顔が映り込んでいるのがわかった。ゆるやかに距離が離れて、ハリーの視界にまた、焼け焦げた太陽と青空が戻って来る。呆然とするハリーを気にすることなく、レイチェルはベンチから立ち上がった。ハリーの鼻先でスカートの裾が翻る。

「また来週。ここで待ってるから」

じゃあね。呆然とするハリーに一方的に簡素な別れの言葉を告げて、軽やかな足取りで出口へと向かった。そしてその姿見えなくなったのを見届けた頃になってようやく、ハリーは我に返った。
心臓がドクドクとうるさい。そっと唇に指で触れてみる。せっかくサンデーのおかげで涼しくなったはずだったのに、頬が燃えるように熱い。性質の悪い魔法にでもかけられたようだ、とハリーは思った。
それでもきっと、また来週この公園へと足を運んでしまうのだろう。
この夏が溶けきってしまうまで、何度でも。


    お返事が早いのはこちら ⇒ Wavebox