「大嫌い」

喉の奥に苦みが広がるような感覚を覚える。困ったように眉を下げて苦笑する顔が、何よりも腹立たしかった。傷つけてやりたい、と思う。汚いことなんて何一つ知りませんってその顔が、ぐちゃぐちゃに歪むところが見たい。だって、誰にでも優しくて笑顔だなんて、嘘くさいじゃない。気持ち悪い。そう、気持ち悪いのよ。気持ち悪くて、胸がむかむかするの。

「セドリック・ディゴリー。私は、あなたが大嫌いよ」

一方的な言葉だけぶつけて、踵を返した。コツコツと石の床を刻む音。おしゃべりにざわつく廊下。
彼にこんな態度をとれるのは、もしかしたら世界中探しても私だけかもしれない。だって、彼を嫌う理由なんて、普通だったら見当たらないから。ハンサムで、頭が良くて、いつも穏やかに笑ってる。頼まれごとをしたら絶対首を横には振らない。誰かが困っていたら、息をするように手を差し伸べる。初めて会った時は、どうやったらこんな男の子ができあがるんだろう?って不思議だった。花びらの露や採れたての真っ赤な林檎、星屑や金の鍵。世界中にあるきらきらしたものや美しいもの、憧れや理想を詰め込んだみたいな。それがセドリック。おとぎ話の王子様だってきっとこうも完璧じゃない。ホグワーツの女の子は誰だって、セドリックの恋人になれたらって夢を見る。
そんな彼をこうも毛嫌いするのはきっと私くらいだ。ううん、もしかしたら他にも居るかもしれないけど、誰にだって口に出せない。だって彼には何も非はないから。嫌う私がおかしいんでしょ? きっと今頃、セドリックの友達や、セドリックが好きな女の子達は、私のことを何て最悪な女だって悪口を言ってるわ。そうして彼はそれをまた、困った顔でたしなめるんでしょう。本当に、「やさしいひと」。セドリックと親しくない人だって、セドリックと誰かが揉めてたら、きっと相手が悪いんだろうって考える。そうね、間違ってない。悪いのは私。自分でも何て嫌な女だろうって思う。でもね、駄目なの。あの顔を見ると、どうしても我慢できないの。胸がむかむかして、どうしようもなく腹が立って、言葉が喉までせり上がってくる。気づけばひどい言葉を言ってしまう。まるで子供の癇癪みたいに。私、いつからこんな嫌な奴になったのかしら。彼に会うまで、自分がこんなに感情的な人間だなんて知らなかった。

レイチェル、どうしていつもいつも、セドリックにあんなこと言うのよ。彼が貴方に何をしたって言うの?」
「何も」

責めるような友人の口調に、短く返す。
そう、何も。何もしてこないわ。こんなに何度も、あからさまな敵意をぶつけてるのにね。大嫌いって何度言っても、顔を合わせればいつもと変わらず「おはよう」ってにっこり笑いかけるのよ。とっても冷静で、まるで大人みたいな対応。何もしてないわ。ひどいことなんて何も。セドリックは何も悪くない。でもね。

「嫌いなものは嫌いなの」

優しくて頭が良くてハンサムで、王子様みたいに素敵なセドリック。皆がうっとりするみたいに、私も最初はそう思ってた。
でもね、駄目。気づいちゃったの。だから、私、駄目。無理なのよ。あの笑顔が、駄目なの。
どうしていつも笑ってるの? 悲しいことや、辛いことはないわけ? 人に見えないように隠すにしたって限度があるでしょう。誰にでも優しいのは、誰もかもどうでもいいのと同じことじゃないの? ひどいことを言われても笑っていられるのは、私の言葉なんて、どうでもいいからでしょう?
まるで鏡を相手におしゃべりしてるみたい。エプロンドレスを着た無邪気な少女の一人遊び。世界で1番美しいのはだあれ? 問いかける言葉には、いつだって優しい言葉しか返って来ない。あれと同じ。
何を言っても好意しか返って来ないって、すごく気持ちが悪い。どうして私のことを嫌わないの。どうして眉を顰めることひとつしないの。気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い。

「貴方らしくないわ、レイチェル。セドリックが可哀想」

重たい溜息が胸に積もる。ええ。そうね。こんなの私らしくない。彼が関わらなければ、私はいつだって理性的。
可哀想。そうね。理由もないのに一方的に嫌われて、セドリックは可哀想。そうかもね。でも、彼は別に自分のことを可哀想だなんて思ってないのよ。主観的に見て問題がないのに、客観的に見て問題があるからとぐちゃぐちゃ口を出すのは余計なお世話って言うものだわ。
彼はちっとも可哀想じゃない。たくさんの人達に囲まれて、慕われて、彼はいつだって笑っている。私一人に嫌われることくらい、彼にとっては何の意味もないことなの。だから、別に、いいでしょう。

私は、セドリックのことなんて大嫌いよ。

 

 

やさしいあなたがきらいです

 

 

レイチェル

呼ばれた自分の名前に、顔を上げた。穏やかで落ち着いた、けれどよく通るテノール。思い当たるのは一人しかいない。埃っぽい革表紙の本を元の場所へと戻し、私はできるだけゆっくりと振り向いた。あまり長く会話したくないと言う意思が伝わればいいなと、そんな願いをこめて。

「何? セドリック」

私ってこんなにも不機嫌な声が出せるんだと、自分でも驚いてしまう。顔は一応笑みを作ろうとはしてみたのだけれど、不自然に固まってしまったのが自分でもわかった。セドリックはそんな私の態度に気づかないのか、今更気にしてもしょうがないと考えているのか、完璧なまでに友好的な微笑みを浮かべてみせる。

「あー……その、今度の週末……僕と、ホグズミードに行かない?」
「は?」

照れたように紡がれた言葉に、眉を寄せた。今度の週末。ホグズミード。誰かがポリジュース薬を服用したのでなければ、目の前に立ってるのはセドリック・ディゴリーだ。全くもって意味がわからない。罰ゲームか何かなのだろうか? そうじゃなきゃ、わざわざ自分のことを毛嫌いしている女を誘う理由なんて思い当たらない。

「だって」

そんな私の心中が伝わったのか、セドリックは気まずそうに瞳を伏せた。私は彼のローブの胸元のエンブレムをじっと見つめていた。一刻も早く会話が終わればいいと願っていると言うのに、空気を読んでくれる気はないらしい。

「だって君は、その……」
「私が何」

イライラする。どうしようもなく。嫌われてるって知ってるくせに、どうしてこうやって平気な顔して話しかけて来られるのだろう。理解できない。私だったら、自分のことを嫌っている人間になんて近寄りたくない。どうしてよ。近寄らないで。
ぎゅっと拳を握り締めた。ああ、駄目。早くどこかへ行って。私、また、おかしくなる。また、嫌な私が顔を出す。

「その……僕のことが、好き、なんだよね?」

遠慮がちにセドリックが口にした言葉に、時間が止まった。思わず苛立ちすらもどこかへと消えてしまって、奇妙に引きつった顔のままセドリックの顔をまじまじと見つめる。今、この目の前の青年は、何と言ったのだろう?

「…………学年首席の秀才が、英語が不自由だなんて知らなかった」

私の聞き間違いでないのなら、彼は今恐ろしい言葉を口にした。私が、彼を好き? 私が今までとってきた行動の、どこをどうとれば一体そんな結論が導かれると言うのだろう。

「私は何度も、貴方に『嫌い』だって伝えたはずだけれど」
「そうだけど……」

冷たい私の口調に、彼は口ごもる。凪いだはずの心が、またざわついてくるのを感じた。ああ、またその顔だ。困ったように、誤魔化すみたいに笑う、その表情。睨むように見返す私に、セドリックは一度瞼を閉じて呼吸を整えるように息を吐いた。

「嫌いって言ったあとにあんなに泣きそうな顔してたら、誰だって気づくよ」

心臓が、音を立てて跳ねた。
『大嫌い』。そう吐き捨てる時の喉の苦さが、蘇る。本当は嫌いなんて言いたくない。嫌な女の子だと思われたくない。優しい女の子で居たい。優しい女の子になりたい。でも貴方の顔を見ると、急に頭の中が沸騰するみたいに熱くなって、私が私じゃなくなるみたいで─────

「違、」

カッと顔に熱が集まる。思わず上ずってしまった声に、舌打ちしたくなった。

「私、違う。そうじゃない。本当に、」

動揺を見せまいと思うのに、隠しきれない。心臓が喉の奥までせり上がる。情けなさで、涙が滲んだ。どうして彼を前にするとこうなるのだろう。今だって、私を見下ろすセドリックはいつも通りで、醜態を晒しているのは私一人きりだ。

「貴方が嫌いだわ」

ぎゅっとローブを握り締めて俯いた。吐き出した声は、いつもと違ってひどく頼りない。
馬鹿みたい。信じられない。セドリックが私に話しかけたりするから悪いのだ。よりにもよって、私が彼を────好きだなんて、言うから。

「……嫌いなの」

声が震える。セドリックの顔が見られない。だって顔を上げたら、この頬の熱さがわかってしまう。
嫌い。嫌いよ。貴方が嫌い。
誰にでも優しいところが嫌い。私に向ける笑顔を、他の女の子にも向けるところが嫌い。
向けられる笑顔で、穏やかな声で、私の心をぐちゃぐちゃにするところが嫌い。貴方の些細な一言で、視線一つだけで、私はこんなにも冷静でいられなくなるのに。それなのに、私の言葉にはちっとも動揺してくれない貴方が嫌い。優しい貴方も、こんな嫌な自分も、大嫌い。

「じゃあ、僕も君が嫌いだ」

冷たい瞳に、息を飲む。温度のない声色が、胸を刺した。じくじくと、見えない傷口から血が流れ出しているみたいだ。そんな自分が、何より愚かで醜いと思った。何を言ったって彼は自分を嫌うはずないとでも、思っていたのだろうか?
馬鹿だ。一体何に傷ついているんだろう。何を驚いているんだろう。こうなることを、ずっと望んでいたじゃないか。完璧なセドリック・ディゴリーが普通の男の子みたく、誰かを嫌ったり、傷ついたり、濁った感情を顕わにするところが見たかった。彼は紙の上の薄っぺらな王子様なんかじゃなく、厚みを持った生身の人間だと言う証拠がほしかった。彼は鏡の中の虚像でも、王子様でもなかった。私が望んでいたものは、ちゃんと手に入ったのだ。
嫌われるようなことばかり、してきたじゃないか。当然の結果だ。

「そう」

鼻の奥がツンとした。ここで泣いたりしたら、本当に救いようもなく面倒で馬鹿な女だ。一方的に嫌って、嫌われたからって勝手に傷ついて。嫌われたいと、ずっと、そう願っていたのに。願っていた、はずなのに。
──────そう。私、貴方に嫌われたかった。
私が貴方にぶつけた感情の、それ相応の対価が欲しかった。「ごめんね」って笑って、受け流されるだけは嫌だったの。だってそんなの、寂しいから。

嫌われてもいい。憎まれてもいい。私の言葉で、傷ついてほしかった。

私は彼が好きじゃない。恋なんかしていない。彼も私を嫌っている。それでいい。それで終わり。
これ以上みっともないところを見られたくない。彼の隣をすり抜けて、その場を立ち去ろうと想った。けれど、叶わなかった。腕を取られ、そのまま本棚へと押しつけられる。背中に鈍い痛みが走って、バラバラと頭上から本が降ってきた。

「セ……」

彼らしくない乱暴な挙動に、驚いて顔を上げた。瞬間、頭上に暗く影が差す。
唇に触れる、柔らかな感触。伏せた睫毛の長さ。離れようと胸を押したけれど、びくともしない。
「やめて」。「ひどい」。「どうして、こんなことするの」。──────「これ以上、私の心をかき乱さないで」。紡ごうとした拒絶の言葉は、全て喉でくぐもるばかりで声にならない。
緩んだ涙腺から、ぽろぽろと涙が零れた。頬を伝って、石の床へと落ちていく。それに気づいたのか、セドリックはようやく唇を離した。長い指が私の瞼をなぞって、熱っぽい吐息が重なる。

「『嫌い』だから、君の言葉は聞いてあげない」

透き通ったグレーの瞳が、私を捕える。壊れ物みたいに、胸に閉じ込められる。肌に触れる柔らかなローブに、浅い呼吸が溶けていく。
誰にでも優しいセドリック。誰にでも親切なセドリック。誰にでも優しいから、だから特別な誰かを作らない。いつだって穏やかに笑っていて、どんなにひどいことを言われても許してしまう。どんなに可愛い子から告白されても、彼は困ったようにごめんねと言うだけ。「大好き」も「大嫌い」も、どんな言葉だって彼の心を揺るがすことはできない。
でも、今。彼が頬を熱くしているのは────彼の鼓動が早い原因は、その瞳に映り込んでいる女の子は、確かに私、ただ一人きりなのだ。


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