好きな人が居る。
頭が良くて、誰にでも優しくて、おまけにハンサムで背も高くて、非の打ちどころのない人だ。そんな彼だからこそ、私じゃなくたって彼に恋をしている女の子はたくさん居る。とても頭が良い子も、とても優しくて親切な子も、とても綺麗な顔立ちをした子も。彼───ビル・ウィーズリーは、ホグワーツの王子様みたいな存在だ。

 

 

ファインダーに閉じ込めた

 

 

銀色にきらめく鏡の中には、ごくごくありふれた少女が映っていた。目も当てられないようなブスでもない代わりに、溜息の出るような美人でもない。どう考えても、彼に釣り合うとは言い難い私の姿。
彼は容姿で人を判断するような人間じゃない。そんなことはわかっているけれど、それでも私には踏み出す勇気がなかった。
もしも。もしも勇気を出して告白をして、もしもオーケーの言葉を貰えたとして、彼の隣に立つことが許されたと仮定してみよう。つまり、私とビルがカップルになれたらと言う夢のような話だ。一緒に図書館で勉強したり、休暇にはホグズミードでデートしたり。目の眩むような空想だけれど、その状況を客観的な視点から見るとどうなのだろうか。もしも私が、私と似たような───たとえば容姿だとか、成績だとか、性格だとか───女の子を連れて来られて、これがビルの恋人だよと言われたら、なんだこの程度なのかとがっかりしてしまう。恋愛なんて当事者の問題だとわかっているけれど、それでもきっと勝手に失望してしまう。彼は容姿で人を判断するような人じゃない。わかっているのだ。でも、彼のような素晴らしい人には誰もが憧れるような素敵な女の子と付き合ってほしい。そんなわがままな願望があった。彼の恋人はもっと可愛くて優しくて、皆から好かれる、花のような女の子であってほしい。つまりそれは、私では駄目だと言うことだ。
とは言っても、別に想いを伝えるならできる。そもそも告白したところでオーケーが貰える可能性なんて限りなくゼロに近い。学年こそ同じだけれど、寮も違うし、合同授業はありこそすれ彼と関わることなんてない。名前を知ってもらえているかさえ危ういほどだ。普通に考えて、告白したところでオーケーがもらえるはずがない。付き合った場合の周囲の視線なんて杞憂もいところだ。ならばなぜさっさと想いをぶつけずにうじうじと一人で想いを募らせているかと言えば、どうでもいいプライドが原因だった。自分がこう思っているのと同じように、他人もきっとこう思っているだろう。ビルにはとびきり素敵な女の子じゃないと釣り合わない、と。誰が誰に告白したと言う噂はあっと言う間に学校中を駆け巡る。面食いだと思われるのも、身の程知らずだと思われるのも嫌だった。事実その通りだとわかっているからこそ、嫌だった。一目ぼれだったし、自分のどこをどうとっても到底彼に釣り合わないことは自覚している。面食いだし、身の程知らずだ。わかっている。けれどそれを知っているのは私だけでいい。
告白によって向けられるだろう周囲の好奇の視線が怖かった。失恋と言う事実を突きつけられてしまうことも嫌だった。どうせ叶わぬ恋なのだから、伝えなくたっていい。伝えないんだから、叶わなくったって当然。告白をしようとも「私、ビルが好きなの」と友人に打ち明けることもしないのは、つまり自分のプライドを守るためだった。遠くはない未来に待ち受けている失恋を、周囲には知られたくない。
恋人になりたいとか、もっと親しくなりたいとか、そんな気持ちを一度も抱かなかったと言えば嘘になる。いや、もしかしたら今だって心の奥底ではそんな願望が燻っているのかもしれない。頑張らなきゃ、と思ったこともあった。けれど、ほんの少し親しくなったからと言って、たくさんの女の子達の中から彼がたった一人私を選んでくれるとは到底思えなかったし、下手に距離を近づけた分だけ、期待して裏切られるのが嫌だった。
名前も知らず、遠くから見つめるだけ。誰にも知られることなく、ひっそりと終わる。そんな恋で良い。恋心を打ち明けなければ、失恋も気づかれないで済む。
私のような臆病な人間は、自分が何より可愛いのだ。ますます、勇敢な彼には相応しくない。

恋愛は一人じゃできないけれど、恋は一人でもできる。そう、例え写真の中の平べったい虚像相手にだって、恋心の宛先には十分だ。

誰にも言わない、本人にも告げるつもりのない片想いにできることと言えば、せいぜいそっと遠くから見つめるくらいだ。私は気づけばいつだって両目で彼を探していた。
笑っているところ。怒っているところ。好きな食べ物。よくする仕草。そんなものを一つ一つ見つけるたびに想いは募っていく。彼の知らない間に、恋を育てていく。
けれど、ある日、怖くなった。こんなに見つめていたら、彼に気持ちが露見してしまうのではないだろうか?
またもや自分のプライドが揺るがされることを恐れた私は、見つめる先を彼から紙の中の彼へと変えた。
写真部に所属していたから、カメラを持ち歩くことに疑問を投げかける人間は居なかった。その特権を利用して、私はこっそりと彼の日常を切り取った。と言えば聞こえはいいが、やっていることは紛れもなく盗撮だ。自覚はある。恋心を理由に許されるとも思っていない。我ながらストーカーじみている。弁解すれば、彼の写真を勝手に収集しているわけではなく、たった1枚きりだった。とは言え、彼に知られたら間違いなく気味悪がられるだろう。けれど、分厚いレンズ越しに見つめるくらいが、ずっと見つめていても決して目の合うことのない写真の中の彼を眺めることくらいが、自分と彼の適切な距離なのではないかと思えていた。写真の彼は生身の彼と同様に眩しいくらいに笑っている。
どうせ叶うことのない恋なのだ。求めなければ傷つくこともない。手を伸ばさなければ、振り払われる痛みもない。私は現状で満足していた。満足だと言い聞かせていた。
しかし、そんな独り善がりな恋心にはやはり罰が下るものらしい。

「ない」

鞄の中を引っ繰り返す。バサバサと派手な音がして詰まっていた教科書や羊皮紙が溢れたが、肝心な物が見つからなかった。手帳に挟んでいたはずの彼の写真がないのだ。ビルの、私の大切にしていた写真がない。さあっと血の気が引いて行く。
たった1枚だった。たった1枚、カメラ目線でもなく、私に向けられたわけでもないけれど、それでも私だけの写真だった。四角く切り取られた薄っぺらい紙の上には、私だけの彼が居た。それを失くしてしまった。名前を書いていたわけでも、私が一緒に映っているわけでもない。きっともう、戻っては来ないだろう。

レイチェル? どうしたの? 何か探し物?」
「ううん、何でもないの。行きましょ、授業が始まっちゃう」

写真なんて、また撮ればいいじゃないか。そう自分を慰めて、何でもない振りをした。
『私は誰にも言えなかったけれど、ビル・ウィーズリーに片想いをしていて、彼のたった一枚の写真を失くしてしまったのだ』────そう言えばきっと、友人達は私に同情して、一緒に写真を探してくれるだろう。けれど私は言いたくなかった。知られたくなかった。いつか訪れる失恋の時に、「可哀想ね」と慰められることが嫌だった。だから、何でもない振りをする。写真一枚くらいどうってことないのだと、別に彼のことなんて大して好きじゃないと、そう自分に言い訳する。そうすれば、傷つかずに済むから。

いつだって、私は自分を守ることばかり上手いのだ。

 

 

 

レイチェルレイチェルグラント?」

廊下の端で呼び止められたのは、薬草学の授業が終わってすぐのことだった。写真を探そうと急いでいた私は、それが聞き慣れた声ではなかったこともあってほんの少しの苛立ちを覚えながら振り返る。ええ、そうよ、何か? そんな風に紡ぐはずだった唇はぽかんと中途半端に開いたまま固まってしまった。何故って、そこに居たのがあのビル・ウィーズリーだったからだ。驚き、そして緊張に心臓が段々と鼓動を早くする。一体何の用事だろう。彼が私に話しかける理由なんて思い当たらない。人違いなんじゃないかと思ったが、彼は間違いなく私の名前を呼んだ。レイチェルグラントと、その唇で私の名前を紡いだのだ。彼は私の名前を知っていてくれていた。その意外な事実は、私の頬へと熱を集まらせた。

「……ええ。ええ、そうよ。その……何かしら?」

しかし、話しかけられたからと言ってそんな大層な用事であるはずがない。きっと教授が呼んでいたとか、そうじゃなくちゃ忘れ物をしていたとかそんなことだろう。そう思っているとやはり、彼はローブのポケットから何かを取り出した。が、それは羽根ペンやハンカチなんて平和な物じゃなく、私の心臓を揺さぶるものだった。

「これ。君が撮った写真だよね」

そう言って見せられた写真には、確かに見覚えがあった。私の撮った写真だ。そう、彼が映っている、あの、1枚きりの。
できるなら取り戻したいと思っていた。探していた。それは確かだ。けれど、まさか、本人から渡されるなんて。それに、どうして、私が撮った写真だって。
落ち着け、と自分に言い聞かせた。この写真が私が撮ったものだと言う証拠はどこにもない。そして、私が後生大事に持っていたと言う証拠もないはずだ。そう、だから、知らない振りをしていればどうにでもなる。私はできるだけ何でもない風を装って、写真を見返した。まるで初めてその写真を見て、何でこんなことを言われているのかわからない───そんな表情を取り繕って。そんな私に、彼はあの柔らかな笑みを浮かべてみせた。

「いつも見られてるなって、気づいてたんだ」

ドクン、と心臓が跳ねる。優しいテノールが鼓膜を震わす。気づかれていた、と言う事実に頭の中が真っ白になった。どうしよう。恥ずかしい。恥ずかしい。何でもない顔をしたいのに、顔が勝手にひきつって、目頭が熱くなってくる。対する彼は、ビルは、やっぱり王子様みたいにかっこいい。太陽みたいにきらきらしていて、私なんかじゃ、眩しすぎて目が焼けてしまう。

「でも、最近はそれを感じなくなったから。ああ、もう僕のことはどうでもよくなったのかなって、そう思ってた。そうしたら、これを拾った」

ひらひらと指先で写真を弄ぶ彼に、思わず手を伸ばしそうになった。羞恥心が喉元までせり上がって来る。やめて。返して、と言うのは変なのかもしれない。だってその写真に写っているのは彼だ。彼の写真を彼が持っていて何が悪い。それに、そんなことを言ったら私は貴方を隠し撮りしましたと白状するのも同じことだ。ぎゅっと唇を結んで、ローブの裾を握り締める。くるりと踵を返そして、その場から立ち去ろうとした。一刻も早く、この場から消えてしまいたかった。けれど、それは彼に手を掴まれたことによって阻まれる。

「覚えのない写真なんだ。僕には撮られた記憶がない。ついでに、君が僕の写真を撮る理由も思い当たらない。偶然フレームの中に入りこんだって感じじゃなさそうだしね」

ゆるりと、優雅に唇の端を持ち上げた。私が撮ったのだと、確信を持っている口調だった。
私じゃないの、知らない。そんな写真関係ない。なんて、今更誤魔化すことはできそうになかった。
いつもなら遠くで見つめているだけだった彼が、薄っぺらい写真の中で笑っているだけだった彼が、今すぐ側に居る。その瞳の中に、私が映っている。羞恥と緊張で泣きそうに滲む瞳に、頬の熱さに、気づかれないはずがない。

「ねえ。どうして?」

────どうして君が、僕の写真を持っているの。
いつだって遠くから探しているだけだった声が、耳元で囁く。吐息の音すら、あざやかに。
理由なんて、頭の良い彼なら、きっとわかっているのに。言わせようとしているのだ。私の口から。
意地悪。私は、このままでいいのよ。写真の中の貴方を、見ているだけでいいの。それで満足なの。言えないのよ。怖いの。貴方の口から、「ごめん」って、聞くことが怖いの。傷つくことが怖いの。

レイチェル

甘い響きに、指先が震える。彼の瞳が真っ直ぐ見れない。心臓が皮膚を喰い破って、外へ飛び出してしまいそうだった。
言わせないで。お願い。私、このままでいいの。私なんかじゃ、眩しすぎる貴方には、釣り合わないから。だから。見ているだけで、よかったのに。どうして、なんてわかっているでしょう。

だって私は、ずっと、貴方のことが。


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