「妖精はね、ブロンドの髪が好きなんですって」
白い手のひらが、慈しむように髪に触れる。
きらきら光ってとても素敵な髪ね──夢見るように囁いて、目の前の少女が眩しそうに目を細めた。
「シシーおばさまは、妖精の女王さまみたいに綺麗でしょう。ドラコも妖精の王子様みたいに可愛いから、妖精達が見たらきっと仲間だと思われてしまうわ」
ざあと風が吹き抜ける。風に弄ばれた髪が少女の細い指先からこぼれ落ちる。
ほら、さっそく風の妖精が──。クスクス笑う少女の隣を、一枚、二枚。ひらひらと、どこからか飛んできた白い花びらが通り過ぎてはどこかに消えていく。
周囲は見渡す限り花に埋め尽くされている。けれど、甘い花の香りも、土の匂いもしない。少女が編んでいる花冠も、磨りガラスを隔てているかのようにぼやけてよく見えない。足元の花に触れようとしても、指先がその感触を捉えることはなかった。
なぜなら、これは夢だからだ。ドラコは、この少女とこんな場所に来たことはない。
「だから、1人でどこかに居なくなったりしちゃダメよ。妖精に攫われてしまうから」
ドラコの頭に花冠を載せて、少女が笑う。行きましょうとドラコの手を引く少女が背にした空の鮮やかさが目を焼いた。果てなく広がる青の中に、少女の輪郭が溶けていく。
随分とまあ、感傷的な夢を見たものだ。
夢とは言っても、想像や願望、あるいは潜在意識が視覚化されたものではない。花畑は幻だが、あれは確かにドラコの過去に実際に起こった出来事だし、夢に出てきた少女は実在する。そして、なぜ唐突に彼女が夢に出てきたのか、その理由もはっきりしていた。
昨夜催されたドラコの入学祝いのパーティーで、彼女の話題が出たせいだろう。尤も、出席していたのは彼女の父だけで、当の本人は姿を見せなかったが。そう聞かされても、ドラコは特にそれを残念だとも思わなかった。どうせ新学期になれば、必然的に顔を合わせることになるのだ。
初めて出会ったのは確かドラコが4歳の頃で、レイチェルは7歳だった。ルシウスの友人の娘であるレイチェルは、父親に連れられてマルフォイ邸へとやって来た。
一緒に遊びなさいと大人達に促されて、彼女がぎこちなくドラコに手を差し伸べてみせたのを薄っすらと覚えている。子供は子供同士────大人達にとってはシンプルな論理でも、当人達にとってはそうではなかった。
彼らから見れば取るに足りない3年と言う歳月は、幼少期の2人の間を大きく隔てた。そのせいか、ドラコはレイチェルのことを友人だと感じたことは一度もなかった。
かと言って、姉のようかと言えばそれもない。まるで姉弟のようと大人達は微笑ましそうに2人を見ていたし、レイチェルが年上の使命感を持ってドラコに接していたのも確かだったが、即席の姉を無邪気に慕えるほどドラコは人懐こい性質ではなかった。そもそも、レイチェルの容姿はドラコとは似ても似つかない。それなりに美しい少女だったが、その身に宿す色彩にしろ顔立ちにしろ、ドラコと共通するところは何一つないのだ。血縁と錯覚するのは無理がある。幼馴染のようなものだが、その呼称があてはまる人間は何もレイチェル1人ではない。
父親同士が友人。関係性で言えば、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。ただそれだけで、ドラコとレイチェルの交流が続いていたことが不思議なくらいだった。
そして実際、ドラコとレイチェルの交流は一度ぷっつりと途絶えてしまった。
ドラコとレイチェルが最後に顔を合わせた記憶は、ドラコの8歳の誕生日パーティの時で止まっている。
「ドラコ! 待って!」
少女の声が庭に響く。
箒を持って走るドラコをレイチェルが追う。手入れが行き届いている芝を、少年の軽やかな足取りと引きずられる箒が無造作に踏み荒らしていく。
「子供だけで箒に乗るのは危ないわ。他の遊びにするか、お父様たちを呼んでくるまで待ってましょう──」
たしなめるような響きを帯びたレイチェルの言葉に、ドラコの反抗心はむくむくと湧き上がる。
自身の手の中にある箒は、誕生日プレゼントに送られたものだ。つま先が芝の先をかすめる程度に、のろのろ進むようなおもちゃではない、本物の箒。
空を自由に飛ぶ様子を、いっとう最初にレイチェルに見せてやろうと思ったのに──。
「ちょっと年上だからって僕に指図するな。父上の言いつけだから、お前なんかと仲良くしてやってるんだ」
ドラコが吐き捨てた言葉に、レイチェルが押し黙った。そのわずかな間にドラコは箒にまたがり、地面を蹴って宙に舞い上がる。
ふらふらと、箒はドラコを空高くいざなっていく。頭が木々の枝を追い抜かす。みるみる眼下のレイチェルの姿が小さくなる。レイチェルがドラコを地上から見つめている様子にドラコは満足感すらおぼえた。
こんなに高いところに居てもドラコは怖がったりしていない。どうだ、すごいだろう。
はじめての飛行に興奮していたドラコは周囲への注意が散漫になっていた。箒を駆ってどんどん屋敷から遠くに離れていく。それがマグル避けが働く範囲の外に出てしまうほどに──。
しばらく空中の散歩を楽しんでいたドラコの耳に、バタバタと奇妙な音が聞こえてくる。音の鳴る方向を見ると、ドラコが初めて見る大きななにかが近づいてきていた。ずんぐりしたフォルムながら高速で空中を滑るように移動するそれは、ドラコの理解の外にあるものだった。生き物なのか、そうでないのかも判別がつかない。そんな得体のしれないもの──マグルのヘリコプターが──恐ろしいスピードで近づいてくる。
巨大な機体の近くはプロペラの強風が吹き荒れる。その乱気流は、ちっぽけで未熟な乗り手と箒はきりきり舞いさせる。
くるくる風にもてあそばれるドラコの目が、ヘリコプターの中の人間を見つけた。ドラコの目にうつるパイロットの表情は恐怖に染まっていた。
箒にまたがった少年が空を飛んでいるのを目の当たりにしたパイロットの恐怖は、金属の謎の飛行物体に遭遇したドラコのそれとさして変わらない。コックピット越しにそんな両者の目が合った瞬間、互いの恐怖が増幅される。
そして、ドラコの感情を敏感に読み取った箒はコントロールを失い──。
「うわ──うわあ!」
ドラコはまっ逆さまに墜落した。
ドラコの起こしたこの事故はパーティ参列者の間で軽いパニックを引き起こした。マルフォイ一家のパーティに参加を許される者は純血の魔法族の中でも特にマグルに耐性のない者たちの選りすぐりになりがちだ。
だいたいどうして子供だけでそんなことを。レイチェルは何をしていたんだ。どうして止めなかった、ただ見ていただけなのか。
マルフォイ一家への非難などとんでもない──そう考える周囲の大人たちの叱責はレイチェルに向かう。大人達に叱られても、レイチェルは言い訳もせず、ただ瞳を潤ませて唇を噛み締めていた。
ナルシッサにうながされるがままドラコは踵を返す。レイチェルに背を向ける。そのまま、騒がしくなった庭園を後にした。
それからだ。グラント家とマルフォイ家との交流は断絶することは無かったが、その交流はいつも大人だけで執り行われ、レイチェルがドラコと再び顔を合わせることはぱったりとなくなった。
******
「……レイチェル?」
レイチェルとの再開はホグワーツの廊下での雑踏の中。全くの偶然のことだった。なにせホグワーツは広いし生徒は多い。しかしそんな中でも、一度捉えたレイチェルの姿はドラコの目を捕まえて離さなかった。
見覚えのある顔立ちはずいぶん大人びていて、同じ顔なのにどこか知らない他人のような雰囲気すら漂わせていた。
「……ああ。久しぶり、ドラコ。大きくなったのね」
人違いでは、と思っていた懸念はレイチェルからの言葉で払拭された。しかし、ドラコの中での違和感は膨らむ一方だった。
レイチェルからの言葉には一切の温度が感じられなかった。
久々の再会だというのに──自分でもわからないままに沸き立つ苛立ちに、ドラコはフンと鼻を鳴らした。
「久しぶりの再会なんだぞ。もう少し気の利いたことは言えないのか」
「……ごめんなさい。そうだわ、遅くなってしまったけれど、入学おめでとう」
「どうして入学祝いのパーティーに来なかったんだ?」
どうして、どうして──。
ドラコがホグワーツに入学することが決定した時には、スリザリンに子供が居る家の者を集めたパーティが開かれていた。そこにはレイチェルの姿が無かった。パーティだけではない。ホグワーツへ向かう特急列車の中でだって、ドラコの元に魔法族出身の生徒が次々に訪れてはお近づきになろうとしてきたし、入学式の時だってスリザリンの周りの生徒があれやこれやと世話を焼いてくれた。
しかし、レイチェルの姿はそこにも無かった。
やっとレイチェルを見つけたと思ったら首元には黄色いタイがぶら下がっている。グラント家の者がハッフルパフに入るなんて。純血の誇りはどうした? レイチェルはスリザリンでドラコを待ってくれているのではなかったのか?
「手紙の一つもよこさないなんて──」
ドラコの非難がこもった言葉をぶつけられたレイチェルの目が、すうと細まる。
「変わらないのね」
その表情は微笑みではない。
「3年ぶりに会っても、貴方は相変わらず、私が貴方の機嫌をとるのが当然だって思ってる」
──ドラコ、ドラコ。
記憶の中のレイチェルの声が脳裏に響く。
「どうしてパーティーに行かなかったか?貴方にも、貴方のお父様にも会いたくなかったからよ。他にどんな理由があるの?」
──次は何をして遊びましょうか?
「私に構わなくたって、ここには進んであなたの世話を焼きたい人はいくらでも居るでしょう。残念だけど私と貴方は寮も違うし、もう私に関わらないで」
目の前に居るのはレイチェルという名前の、知らない少女だった。
彼女の方こそ、妖精が攫って、別の誰かに取り変えてしまったかのようだ。
『母上。レイチェルは次はいつ来る?』
『学校に行ってしまったから、しばらくは来れないでしょうね。寂しい?」
『……別に!レイチェルなんか居なくたって、全然寂しくなんかない』
友人だと思ったことはなかった。彼女が関わると、いつだって素直になれず虚勢を張ってしまった。彼女の前では、弱気なところを見せたくなかった。弟のように、守るべき存在として扱われるのは嫌だった。
『ドラコ』
困ったように寄せられた眉。そっと髪を撫でる温かなてのひら。夢見がちなお伽話を口遊む、柔らかな響き。陽光に照らされキャンディのように甘く溶ける瞳。桃色の唇が描く、柔らかな笑み。
『ドラコ。今日は何をして遊びましょうか?』
ドラコの知る「レイチェル」を構成する全ては、彼女が破りつつある少女としての殻と共に、彼女から剥がれ落ちてしまったかのようだった。当然だ。最後に会ってから、3年も経った。全てがあの頃と同じであるはずがない。
それなのにどうしてか、彼女は変わらずに自分に笑いかけるのだと、信じて疑わなかった。
ドラコに変わったところがあるように、レイチェルだって変わる。ドラコがもう手を引かれるばかりの小さな子供ではないように、レイチェルだっていつまでも妖精や花飾りに夢中の女の子であるはずがない。当たり前のことなのに。
自分を見る瞳に、名前を紡ぐ声に。かつての親愛が失われていることに、傷ついている自分に。刺すような胸の痛みに。
自分にとって、彼女は初恋だったのだと気がついた。
レイチェルにとって、ドラコの誕生日パーティの記憶はすべての転換点だった。 グラント家の家格はマルフォイ家よりずっと劣る。いくら父親同士が学生時代からの学友だとはいえ、マルフォイ家との付き合いの際は両親が薄氷の上を踏むような気遣いをしていたことをレイチェルは知っていた。
ドラコは──マルフォイ家の一人息子は──それを事も無げに、ご破算にしてくれる。父上の言いつけだから、その言葉はレイチェルの中に静かな炎を燃え立てる。
ドラコの目のアイスブルーの冷たさは、レイチェルの心を凍りつかせる。レイチェルの中の燃え立つ感情は、薄氷をぐしゃぐしゃに溶かしていく。
あなたが偉いわけじゃないじゃない。そもそも、あなたの父上だって、誰かから受け継いだものが他人より優れていたってだけで──そんなものに振り回されなくてはいけない、自分達がひどく惨めに思える。
「あんなことがあったんだ。マルフォイ家での入学パーティには参加しない方が良いだろう……」
もうあんな場所に行かなくていい──レイチェルはどこかほっとしながら、父母の失望を静かに感じ取っていた。
しがらみも何もない家の子に取り替えられてしまいたい。
ドラコの誕生日パーティでの記憶がよみがえる。
家に戻り、部屋で一人になったレイチェルはベッドの上に崩れ落ちた。涙が次から次からこぼれ落ちる。あの場では涙をこらえたけれど、年端もいかない少女が大人たちに責められて平気なわけがない。
──ちょっと年上だからって僕に指図するな。父上の言いつけだから、お前なんかと仲良くしてやってるんだ。
きっかけこそ親のいいつけだったかもしれないが、レイチェルがドラコと仲良くしていたのはレイチェル自身がドラコのことが好きだったからだ。
あのときレイチェルに何が出来たというのか。無力感は全身を冷やしていく。心が凍る。
そしてホグワーツに入学したレイチェルはスリザリンではなくハッフルパフを選んだ。あたたかい黄色がシンボルの、花の香りがする優しさに満ちた寮。
ここに居ればレイチェルはレイチェルで居られる。
その心はどこかに取り替えられてしまったのだ。