もしも私が純血名家の令嬢だったら、あの美しい青年と結ばれたのだろうか。
彼に釣り合うような生まれだったら、こんな風に扱われることはなかったのだろうか。
────彼は、私を、好きになってくれただろうか。
小さい頃も、よくそんなことを考えていた。
あれは確か、両親に寝る前に読み聞かされた本の中のひとつ。風変わりな挿絵が印象的な、マグルの民間伝承を集めた児童書。その中の短い物語。
取り替えっ子。母親が目を離した隙に、妖精がゆりかごから赤ちゃんをすり替えてしまう。
「だからレイチェル、1人で森に行っちゃダメだよ。あそこには妖精が住んでいるから。気に入られたら攫われちゃうぞ」
妖精の国に行ったら2度と帰って来れない。捕まったのがもし悪い妖精なら、人間の子供は召使いにされてしまう────好奇心旺盛な小さな子供が目の届かないところに行かないように、大人達は上手に嘘をつく。
5歳のレイチェルもまんまと騙されて、その話を素直に信じこんでいた。1人で外で遊ぶときは、保護呪文の中でだけ。森には綺麗なブルーベルの花や、甘酸っぱくておいしいコケモモの木もあるけれど、パパやママと一緒のときにしか行ってはいけない。
幼いレイチェルが恐れた妖精の気まぐれ以外にも、攫われ、取り替えられた赤ん坊の話は、絵本の中にたくさん出てきた。
物語のあらすじは大抵同じ。ごく普通の暮らしをしていたり、みじめな扱いを受けているけれど、ある日突然知らされるのだ。自分が美しい白鳥だったり、お姫様だったり、虹の国から落っこちてしまったことを。本当の居場所は、ここではないもっと素敵なところ。何もわからない赤ちゃんの頃の出来事だから、知らないだけ。主人公が驚くのと同じに、レイチェルも驚いて、ハラハラして、うっとりした。そして、めでたしめでたしとページをめくり終えたレイチェルは考える。
もしかしたら、レイチェルも取り替えられたのかもしれない。ううん、きっとそう。
だって、レイチェルの髪も目も、パパとママのどっちとも違う。それはきっと、2人とは血が繋がっていないせい。顔立ちだってあんまり似ていない。
周囲の大人達に美少女だと褒めそやされたことが、レイチェルの思いこみに拍車をかけた。自分はきっと、特別な存在なのだ。
「あのね、わたしって、ほんとうはおひめさまなんでしょう?」
わたしのほんとうのお父さんとお母さんは別にいるの。
きっとわたしは、本当はさる王族の姫君なの。意地悪な継母に殺されてしまわないように、家来だった今のお父さん達が私を攫って逃げたのね。だから2人は、私を守るために本当のことを教えてくれないんだわ。私がもう少し年をとって美しく成長したら、きっと迎えが来る。キラキラ輝くブロンドにブルーの瞳の王子様が。そうして跪いて求婚するのよ。姫、やっと見つけました。ぜひ私の妃になってくださいって。
────そんな、よくある幼い子供の他愛ない夢想。そのうち目が覚めるとわかっているから、大人達は微笑ましそうに頷くばっかりで否定しない。
レイチェルもちゃんと目が覚めた。11歳になった今ではわかっている。両親のどっちにも似てないのは、ただの隔世遺伝。レイチェルの髪の色は母方の祖父から譲り受けたものだし、顔立ちは父方の曽祖母の若い頃にそっくりだ。どうせなら曽祖母と同じ金の巻き毛ならよかったのにとは思うけれど、黒髪にグレーの瞳と言う取り合わせもまあまあ珍しくて悪くはない。
多少周囲の目を引く容貌はともかく、それ以外にはレイチェルに生まれついて特別に与えられたものはない。誰もが傅く高貴な血筋も、杖なしで使える特別な才能も、数奇な運命も。レイチェルはどこをどうひっくり返してもありふれた生まれだ。両親はどっちも魔法使いだけれど、母親はマグル育ちだし、一応は魔法族にあたる父親の家系だって────母方の祖父母のことは大好きだからこう言ってしまうのは気が引けるけれど────マグルと親戚になることに誰も反対しないような、なんてことない家柄だ。陽の光に透ける七色の羽も、ピカピカ光る鱗や魚の尾もない。魔法薬学の時間に材料じゃなくて指を切ってしまったときの血の色だって真っ赤である。ただのヒトだ。ユニコーンのような癒やしの力もないし、零れ落ちた血の雫が柘榴石に変わったりもしない。普通の魔法使いとしての兆しを示すのすら、どちらかと言えば遅い方だった。もしかしてレイチェルの入学許可証は届かないかもしれないと、両親が熱心にマグルの学校の資料を比較検討していた程度には。
レイチェルはもうちいちゃな女の子じゃないから、ちゃんとわかっている。レイチェルはちょっとばかり、まあまあ、それなりに、結構可愛いかもしれないけれど、それだけだ。それだって「お日さまの下で1番美しい」わけじゃない。
レイチェルが特別なお姫様で居られるのは両親や祖父母にとってだけ。わかっていますとも。もうすぐティーンになるし、夢見がちなオコサマは卒業したのだ。自分ではそう思っていたけれど、どうやら違ったらしい。
早い話、一目惚れだった。
彼の姿を初めて目にした瞬間、ぱっと頭の中に浮かんだ言葉はこれだった────王子様だ。一目見た瞬間、レイチェルはその青年から目が離せなくなってしまった。
一筋すら残すことなく綺麗に撫でつけられた、艶を放つプラチナブロンド。空を切り取ったかのような勿忘草色の瞳。陶器でできた高価な人形のような、繊細で気品のある顔立ち。仕立ての良いシンプルな黒いシャツとダークグレーのスラックスが、彼の持つ淡い色彩を引き立てていた。何と言うことだろう。まさに、5歳のレイチェルが空想した王子様そのものだ。
その隣に立つ女性────年頃と顔立ちから言っておそらく母親だろう────もやっぱり青年と同じにプラチナブロンドに青い瞳で、美しい人だった。揃いの色彩を持った2人が並んでいる姿はまるで1枚の絵みたいに綺麗で、騒がしい雑踏の中、そこだけがまるで違う世界のようだ。
自分もあの輪の中に入れたら、どんなに素敵だろうと────憧れて、恋に落ちた。嘘みたいに、簡単に。彼がどんな人かも、彼の名前すら知らないのに。
5gの寵愛
2度目に彼の姿を見かけたのは、ホグワーツに着いて1週間経った頃だった。
王子様は緑色のネクタイをしていた。それがどう言った意味を示すのか────レイチェルの周囲の大人達は行けるかどうかわからないホグワーツの話を聞かせて期待を煽るような残酷な人たちではなかったので、レイチェルにはよくわからなかった。甘やかしいな両親と祖父母に「いざとなったらマグルの世界で生きればいいんだし」「元気ならそれでいいから気負わずのんびりやりなさい」なんて送り出されたからか、父親の家系か、レイチェル個人の生来の性質か。どれが決め手になったのかはわからないけれど、レイチェルの首元を彩るのはカナリアイエローだ。
────さて。スリザリンはどうやらけっとうをおもんじる、とかいうりょうふうらしい。けっとうは決闘じゃなくて血統。
今の時代に何言ってんだか。スリザリンの時代錯誤ったら、いやんなっちゃう。レイチェルのルームメイトは、よくスリザリン生に対してぷりぷり怒っている。
スリザリン生が何よりも気にするのは、相手が純血かどうか。これはレイチェルの実感としても確かなことだ。これはたぶん客観的事実として、レイチェルの学年ではレイチェルが1番可愛いのだけれど────もちろん不必要に女の子達に嫌われたくないので口には出していない────スリザリン生の男の子はレイチェルに話しかけてこない。それはたぶん、レイチェルが混血だからだろう。
要するに、お高く止まっている気取った奴と周囲を見下す嫌な奴が大半を占めている寮らしい。王子様がそんな集団の一員だと理解して、レイチェルは落胆した。一員どころか、むしろその典型的な見本で、代表のような立ち位置らしい。スリザリンだけど彼は優しい人────なんて可能性をちょっと期待していたのだけれど、そう都合よくはいかないようだ。
プラチナブロンドでオールバック、と言う特徴を上げれば上級生はすぐに王子様の名前を教えてくれた。「何か嫌なことされたの?」と言う質問つきで。
スリザリン寮の特徴すら知らないレイチェルでも、マルフォイ家は知っている。たびたび魔法省に現れてはその方針に口を出して引っ掻き回す「ルシウス」は祖父の天敵だ。「ルシウス・マルフォイ迷惑言動全集」を出版したらベストセラー間違いなしだろうなんて、あの温厚な祖父が怒りを露わにするくらいだ。よっぽどひどい人間なのだろう。
マルフォイ。やっぱり何度聞いても変な名前だと思う。ドラコって名前も、少し────かなり風変わりだ。もしおとぎ話に出てきたら、間違いなく悪役の名前。どうせ直接呼ぶ機会もないだろうし、名前を知ってからも頭の中ではこれまで通り王子様と呼ぶことにした。周囲から聞こえてくる「ドラコ・マルフォイ」の評判は控えめに言っても最悪で、理想の王子様とはかけ離れていたけれど、レイチェルの理想の王子様ならアンブリッジ親衛隊なんて組織には絶対参加したりしないのだけれど、レイチェルにはどうしてもその邪悪そのものの言動とあの繊細そうな美青年がうまく結びつかなかった。
広いホグワーツの中で、寮も学年も違う、何の接点もない生徒が偶然遭遇する確率はそう高くない。遠目に見かけることは時々あっても、近くで目にすることはほとんどなかった。
その希少な機会にも、王子様はいつも陰鬱な表情をしている。笑った方がきっと素敵なのにと、レイチェルはそのたびに残念に思った。廊下をすれ違ったときに知ったことは、王子様は意外と背が高くて、レイチェルの身長は彼の肩くらいまでしか届かない。背筋をすっと伸ばした優雅な歩き方や、憂いを帯びた横顔は同学年の男の子にはないものだ。王子様が選手としてクィディッチをプレイするところも見た。フィールドから遠い席だったから肝心の試合はあまりよく見えなかったし、レイチェルにはシーカーとしての技術の良し悪しはわからないけれど、深い緑色の競技用ローブは淡い金髪に映えて素敵だった。
一度だけ、図書室で王子様が1人きりのところを見かけた。本棚の影からしばらく覗いていたら、何かのレポートを書いているみたいだった。羊皮紙を前に気難しげに眉を寄せた表情もやっぱり綺麗で、レイチェルは胸が締め付けられるのを感じた。
初めて言葉を交わしたのは、2度目のホグワーツ特急だった。
汽車を降りたあとで、忘れ物をしてしまったことに気がついて。制服に着替えたときにネックレスが髪に引っ掛かってしまったから一度外して、そのまま。友人達には先に行ってもらうように伝えて、レイチェルは慌ててホームへと引き返した。早くしないと、馬車に置き去りにされてしまうかも。
確か、前から3番目か4番目あたりの車両だったはずだ。着替えのときにブラインドを下ろしたままに……ああ、あそこだ。レイチェルが急いでコンパートメントの中に入ろうと扉に手をかけた、そのときだった。
「その扉に触るな!」
鋭い声が響いて、レイチェルは思わず動きを止めた。声のした方を振り返れば、通路の向こうに見えるのはレイチェルの王子様の姿だった。コツコツと靴音を鳴らしてやって来た彼は、レイチェルのすぐ側で立ち止ると、冷え冷えとした視線でレイチェルを見下ろした。
「何のつもりだ?」
「え? えっと……」
「あいつを探すよう、ウィーズリーかグレンジャーにでも頼まれたのか?」
わけもわからず困惑するレイチェルを、王子様はなおも高圧的な口調で追及する。真っ直ぐにレイチェルを睨みつけるその表情は、今までレイチェルが見たどれよりも険しかった。どうしてかわからないけれど、王子様はレイチェルに対してとても怒っている。その事実に、レイチェルは胸が痛くなった。
「あの……私、忘れ物を……」
取りに来た、だけで。声が勝手に震えてしまう。氷のようなアイスブルーの瞳を真っ直ぐに見られなくて、視線が彼のネクタイへ、ローブへと下がっていく。目頭が熱を帯びて、涙がこみ上げた。レイチェルが俯いて黙りこんでしまうと、王子様は小さく溜息を吐いた。
「……ここは僕達が使っていたコンパートメントだ。お前の忘れ物はここにはない。お前が透明マントでも使って、僕達の話を盗み聞きしていたのなら別だが」
苦々しそうに呟かれた言葉に、レイチェルの涙が引っ込んだ。透明マント? そんなもの、おとぎ話の中だけなのに。王子様がそんな風に冗談を言うなんて! 思わずぽかんと口を開けて────それから、おかしくなってクスクス笑ってしまった。王子様は急に笑い出したレイチェルを不思議そうに見ていたが、やがて背を向けて行ってしまった。どうして王子様が怒っていたのかは結局わからなかったけれど、王子様の意外な一面を見れたことがレイチェルには何だか嬉しかった。
ホグワーツ特急の一件以降、王子様はレイチェルの顔を覚えてくれたようだった。
とは言っても、王子様が顔を合わせたときに「やあ、こんにちは」なんて朗らかに挨拶してくれるようになったわけじゃない。ただ、廊下ですれ違ったときや、大広間で近くに座ったとき。今までは一瞥さえもくれることのなかった王子様の視線が、ほんの一瞬だけレイチェルの顔の上で留まっているように感じるのだ。気のせいじゃないのと友人達には言われたけれど─────絶対そうだ。レイチェルにはわかる。
「気を付けろ。前方不注意で、ハッフルパフ10点減、……何だ、お前か」
「ごめんなさい。その……急いでいたから………」
曲がり角で偶然ぶつかってしまった相手が王子様だったことで、レイチェルはやっぱり自分の認識が正しかったことを知った。出会い頭に危うく減点を食らいそうになったことに、口端が引きつる。どうにも王子様との遭遇は、ロマンチックな空気にはならない運命らしい。タイルの上に散らばってしまったノートを拾い集めるレイチェルの頭上に、王子様の声が振って来た。
「そう言えば、名前は?」
普通、人に名前を聞くときは自分から名乗るものじゃないか。正直ちょっとムッとしたし────まあ王子様は良くも悪くも有名なのでホグワーツで知らない生徒なんか居ないけれど────薄々わかっていたとは言え名前すら認識されていなかったことに少し凹んだけれど、何はともあれ問いかけられたレイチェルは顔を上げた。
「レイチェル。……レイチェル・グラント」
「グラント? ……ああ、成程」
王子様の視線が頭から爪先へと滑っていくのを感じて、レイチェルは気恥ずかしさに目を逸らした。あの時は王子様がとても怒っていたせいで意識が回らなかったけれど、至近距離で見る王子様の顔はやっぱりとても綺麗だ。レイチェルは頬が熱くなるのを感じた。
どうやら、王子様にはそれ以上会話を広げる気はないらしい。と言うよりも既にレイチェルに対して興味を失ったらしく、さっさとまた歩き出してしまう。少し残念には思ったけれど、呼び止めてまでする価値のあるような話題もない。知らず入っていた肩の力を抜いて、レイチェルも王子様に背を向けた。
そうしてのろのろと廊下を進むレイチェルは、ふいに、遠ざかっていたはずの足音がまた近づいてきていることに気がついた。肩に伸びて来た誰かの手が、レイチェルの歩みを止める。微かなローブの衣擦れの音。背中に、頬に、人肌の熱を感じる。
「レイチェル。明日、4時に僕の指示する場所に来てほしい」
囁くようなテノールが、レイチェルの鼓膜を確かに震わせる。驚いて振り向くと、すぐ後ろに立っていた王子様と視線が合った。王子様の口元が、意地悪く微かに微笑む。レイチェルに向かって、笑っている。
王子様が再び去ってしまったあとも、レイチェルは廊下に立ち尽くしたまま夢見ごこちでポーッとしていた。
何てことだろう。まさか────まさか、王子様からお誘いを受けるなんて!
夢なんじゃないかと思ったが、その後の夕食のときに、ちゃんと王子様から追って手紙が届いた。
『明日の4時、8階の廊下、トロールとバーナバスの絵の近くで。この手紙は誰にも見られないように』
レイチェルはその手紙を何度も何度も読み返した。どうして王子様がレイチェルを誘ってくれたのかはわからないけれど、『誰にも見られないように』────2人だけの秘密の待ち合わせなんて、とても素敵な響きだ。何だか待ち合わせにしては妙な場所な気もけれど、確かにあそこなら人通りもないから、誰かに見られないようにするためなのかもしれない。翌日、胸を高鳴らせてレイチェルが約束の場所に向かうと、そこに居たのは王子様ではなかった。
「あの……何してるの? そこに何かあるの?」
意を決してレイチェルはその人物────ハリー・ポッターに声をかけた。さっき廊下を曲がったあたりから見ていたけれど、落ち着きのない犬みたいに石壁の前を行ったり来たりしては、何かを確かめるように石壁を見つめて、またその繰り返し。そっちが先客なので筋違いな気もするが、女の子が憧れの人を待ってそわそわしようと言うのに、そのすぐ側で不審な動きをするのはやめてほしい。
「別に」
そう言って、ハリー・ポッターは誤魔化すようにローブのポケットに両手を突っ込んで、背後の石壁へともたれかかった。もしかして、この人も王子様と待ち合わせしてるんだろうか……? そんな疑問が首をもたげたが、すぐにそれはないだろうと思い至った。王子様と目の前の人物の不仲は有名な話だ。そう結論付けて、レイチェルもハリー・ポッターから少し離れた場所に立つ。何となく気まずいような沈黙────用がないのなら早くどこか行ってくれればいいのに────が続く中、それを先に破ったのはハリー・ポッターの方だった。
「僕が知る限り、廊下を行ったり来たりしちゃいけないって校則はなかったはずだよ。君こそ、こんな何もない廊下で何の用があるんだい?」
「私はここで人を待ってるの!」
どうやら、ハリー・ポッターもハリー・ポッターで、レイチェルがこの場から居なくなるのを待っていたらしい。ぶっきらぼうに問いかけられた言葉に、レイチェルはムッとして言い返した。レイチェルの言葉に、ハリー・ポッターが驚いたように目を見開いた。
「待ち合わせ?」
「ええ、そうよ。王、……ミスター・マルフォイと」
「マルフォイが?君と?」
「ええ。悪い?」
「いや……ふぅん。オッケー」
結論から言うと、王子様はレイチェルとの約束をすっぽかした。
あまりに腹が立ったので、吼えメールを送りつけてやろうかと思った。けれど、自分が待ちぼうけを食らったことを大広間中に知られるのは嫌だったので────今朝もハリー・ポッターに「あの後マルフォイはちゃんと待ち合わせに来たのか」としつこく問い質された────どうにか踏みとどまった。
「何か理由があったんでしょう?」
わざとらしく朗らかに笑みを浮かべて小首を傾げてみせても、王子様は全く悪びれない。「ごめん」の言葉どころか、申し訳なさそうな素振りすら見せない。正直言えばますます怒りが増したけれど、ここでレイチェルがそれを言葉に出せば何もかも終わってしまう。“次”は許さないからと────半ば強引にレイチェルは王子様との未来の約束を取りつけた。
「レイチェル。君を探していた」
1週間ほど経った頃、友人達の前で王子様にそんな風に声をかけられた。そうして2人きりになったところで、この間はすまなかったと────渋々言っている感じで全然すまないと思ってなさそうだったけど───謝ってくれて、またその日の午後に同じ場所に来るように「お願い」された。今度はさすがに待ちぼうけを食わされることはなく、王子様はちゃんと約束通り現れた。
「ここで待っていてほしい。僕はこの部屋の中に居るから、誰か通ったら知らせてくれ」
「知らせるって……どうやって?」
「ああ。そうだな……何かを大きな音の立つものを落とすとか、そんなのでいい」
王子様は何てことないような口調だったが、何だかよくわからない。つまり、レイチェルに人払いと言うか、見張りをしていてほしいと言うことだろうか。一体何のために?それに、そんなに神経質にならなくったって、そもそもこんな場所を通る人なんてほとんど居ないのに。
「……何か意味があること?」
「ああ。僕にとっては、とても重要で……必要なことだ」
そう告げる王子様の表情は真剣で、そしてそれ以上は聞いたところで教えてくれることはないのだろうとわかったので、レイチェルはそれ以上質問することはなく黙って頷いた。
意外なことに、誰も来ない場所だと思っていても、それでも時々は人が来るのだ。一番よく来るのはハリー・ポッターだった。その度レイチェルは言いつけを忠実に守り、音を立てて王子様に知らせた。大抵は教科書や辞書を落とした。魔法薬用の鍋を落としたこともあったけれど、音が響きすぎてかえって人が集まって来てしまったので失敗だった。何度目かの待ち合わせで、分厚い本を読んでおいて、誰かが来たらそれを勢いよく床に叩きつけるのが一番効率がよいと学んだ。
短ければ1時間、長ければ3時間くらい。レイチェルが退屈な命令に従順で居ると、王子様はお礼にレイチェルをお茶に誘ってくれた。王子様と2人きりで、家から送られてきたと言う可愛らしい甘いお菓子と、素敵な薔薇の香りの紅茶を頂く。とても贅沢な時間だ。
王子様の好きな物とか、家族のことだとか、授業のことだとか。不愉快な質問だとか、立ち入ったことだと判断しない限りはレイチェルの質問に答えてくれる。お茶会以外にも、課題を手伝ってもらったり、箒の後ろに乗せてもらったこともあった。王子様の不興を買わない限りは大抵レイチェルの好きにさせてくれる。ドラコと呼ぶことも許してくれた。
「レイチェル。ここに居たのか」
「何かある」と勘繰られたくないからだろうか。ドラコは誰か他に人が居る前でレイチェルに声をかけるとき、これ以上ないくらい紳士的な態度をとる。「単にレイチェルを後輩として可愛がっているから誘いに来るのだ」とアピールするみたいに。整った顔立ちに柔らかい笑みを浮かべてさりげなくレイチェルをエスコートしてくれる様子は、文句のつけようのない好青年だ。普段スリザリン生の批判ばかりのルームメイト達も、その時だけはまるで王子様みたいだと羨ましがるほどに。当のエスコートされているレイチェルですら、廊下で呪いのかけ合いをしているドラコとは別に双子の弟でも居るのではないかと思ってしまうことがある。
「あの子の何がそんなにお気に召したのかしらね」
スリザリン生にそんな風に陰口を叩かれていることは知っていたけれど、レイチェルは気にしなかった。
────どうしてあんな子に構うのかしら。家柄だって大したことないし、あの子、混血よ。きっと何かの間違いか、気まぐれね。どうせすぐに飽きられるに決まってる。
他寮での評判は最悪でも、ドラコはスリザリン生の中では人気がある。あの容貌に加え、監督生でシーカーで、あのマルフォイ家の跡取り。ドラコほどではないにしろ高貴な血筋の彼女達を差し置いて、他寮でぱっとしない血筋のレイチェルがドラコと親密にしていることへのやっかみには間違いない。が、さほど強固な関係性ではないと言う指摘はその通りだとも思う。
そしてこの先ドラコに聞く気も、1人で探る気もない。秘密を暴こうとしていると気がついた瞬間、ドラコはレイチェルを切り捨てるだろう。それがわからないほどレイチェルは馬鹿じゃないし、うぬぼれてもいない。
どうしてドラコが他人を使ってまで人払いをしたがるのか、レイチェルにはわからない。0点のテストを隠してると言うわけでもないだろう。その協力者にレイチェルが選ばれたのは、ペラペラしゃべるほど馬鹿でもなくて、真実に気づいてしまうほど賢くもなさそうで────そして、レイチェルがドラコのことを好きだから。ただ、都合がよかっただけ。きっと、どうしてもレイチェルでないといけない理由なんてなかった。
最初は、それでもよかった。ドラコの瞳にレイチェルが映る。ドラコの声がレイチェルの名前を紡ぐ。たったそれだけで嬉しくて舞い上がった。でも、こうして2人で過ごす時間を持つようになったことで、レイチェルは欲深くもその先を望んでしまう。
もっと2人で過ごす時間が欲しい。何かの対価ではなく、ドラコにそう望んでほしい。ドラコの特別になりたい。2人きりでホグズミードに行けるような関係に。
そのためにはきっと、こんな当たり障りのない会話ばかりではダメなのに。もっとドラコの心を深く知りたいと思うのに────ドラコの瞳を見ると何も言えなくなってしまう。
ドラコはたぶん、気づいているだろう。レイチェルの気持ちも。そしてそれが、多分に憧れを含むものであることも。全て、見透かされている。一時の熱情は、アイスブルーに冷やされ伝わることはない。
どうせ一過性の感情なんだろうと、ドラコの瞳がレイチェルに問いかける。違うとは、言えなかった。自分でもそうかもしれないと思ってしまったから。レイチェルのこの感情が、ただの「上級生への憧れ」かそれとも「真実の恋」なのか。その答えを導くことができるのは時間だけだ。
それなのに、レイチェルにドラコと過ごす時間はそう残されていない。そして、ドラコの卒業までのあと1年と少し、レイチェルが今のままドラコを好きで居続けたからと言って、ドラコがレイチェルを選んでくれるとは思えない。ドラコはきっと、その高貴な血筋に相応しい魔女にしか、その隣に立つことを許さないだろう。
もしもレイチェルが純血名家の令嬢だったら、ドラコはレイチェルを選んでくれただろうか。
マルフォイ家に釣り合うような生まれだったら、この美しい青年と結ばれたのだろうか。
ドラコは、レイチェルのことを好きになってくれただろうか。
わかっている。くだらない夢想にどれだけ耽ったところで、そんなおとぎ話みたいなこと、現実には起こらない。レイチェルとドラコの関係性なんて、卒業したらそれきりになる程度のものだと、頭の冷静な部分ではわかっているのだ。自分にとって役に立つ存在だから相応の対価を与えている、ただそれだけ。わかっているなら、レイチェルは一体ドラコに何を望んでいるのだろう?
結局のところ、レイチェルはドラコに多少の関心を向けられることで、自分も特別な存在なのだと錯覚したいだけなのかもしれない。レイチェルはありふれた人間だけれど、ドラコはその血筋と言い、肩書と言い、美しい容姿と言い────間違いなく、選ばれた「特別」な存在だから。
終着点の見えない関係性は、ある日唐突に終わりを迎えた。
学校中を飛び交った彼に関するさまざまな噂の、何がどこまで本当かわからない。レイチェルにとっては信じられないようなものばかりだったけれど、周囲はそれを特に違和感もなく受け入れているようだった。元々、レイチェルの周りに彼をよく思っている人は居なかったから当然なのかもしれない。真実を確かめようにも、彼はもうここには居ない。
「あなたは……あなたは、知ってたの? 彼が、あの部屋で何をしてたか」
自分が言われるがまましていた行動がドラコの悪事を手助けしていたと言う現実は、レイチェルを少なからず動揺させた。レイチェルの足は自然と、以前あの部屋の前で会った青年のところへと向かっていた。少なくともこの青年は、レイチェルよりもドラコの行動を把握していた。レイチェルにはそんな確信があった。
「私……私のせいで、皆、危険な目に……ダ、ダンブルドアも、」
何もかもが唐突すぎて、頭も心も整理がつかない。波立って溢れた感情が、瞼から零れ落ちていく。どうしてこんなことになってしまったのだろう。いや、レイチェルがドラコに協力なんてしなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。
「君が悪いわけじゃないよ。……全部、マルフォイの奴が悪いんだ。君は、あいつに騙されてたんだよ」
気遣わしげなハリー・ポッターの言葉も、レイチェルの罪悪感をますます重くするだけだった。
「騙された」なんて言うのは嘘だ。だって、レイチェルは知っていた。彼が、自分の価値観の外の相手には驚くほど残酷になれることも、決して優しい人ではないことも。レイチェル以外の誰もがそう言っていた。わかっていたのに、聞き入れなかったのはレイチェルだ。
────ただ、恋をしただけなのに。
彼の役に立ちたかった。好きな人に喜んでほしかった。「ありがとう」と小さく囁く声が好きだった。綺麗な顔が笑みを浮かべるところが見たかった。本当は優しい人なのだと、信じたかった。
彼にとっては退屈な時間だったかもしれないけれど、レイチェルにとってはその1つ1つが、宝石箱にしまっておきたい貴重で神聖なひとときだった。花が咲くことはないとわかっていても、せっかく芽吹いた恋だから精一杯育てたかった。
父親の話をするとき、誇らしそうな表情になること。母親の話をするとき、声が優しげなものになること。努力している姿を他人に見られるのは嫌で、1人でこっそりやっていること。甘いものは嫌いじゃないけれど、ヌガーは歯にくっつくから好きじゃないこと。家で手伝わされるから、薔薇の世話をするのが上手なこと。動物は苦手なのに、なぜか猫に懐かれること。魔法史はやっぱり眠ってしまうらしくて、質問すると時々困ったように黙りこんでしまうこと。好きな色。アルファベットのBを書くときの癖。よくする仕草。
ずっと見ていたから。いつも、目で追っていたから。
彼が何か重い秘密を抱えていることは、わかっていた。ふとした瞬間に、その表情が翳ることに。時々、彼の白い瞼が泣いた後のように赤く腫れていることに。
わかっていたけれど、聞けなかった。聞いたところで、ドラコは教えてくれないだろうと思った。そこまで信用されている自信がなかった。不用意に踏み込んでドラコに突き放されることを、もう二度と笑いかけてもらえない可能性を恐れてしまった。
もしもレイチェルがスリザリン生で、彼と同じ純血名家の令嬢ならば、その重荷を分かちあうことができたのだろうか。こんな風に何も知らされず、ただ恋心を利用されることはなかったのだろうか。彼がこんな恐ろしいことを仕出かす前に、引き留めることができただろうか。
わからない。結局、自分はドラコにとって一体何だったのだろう。
『レイチェル』
廊下で呼び止められるたび、胸が高鳴った。ドラコの唇から、ドラコの声で紡がれる、ただそれだけで自分の名前がひどく美しいものに思えた。別れ際にはいつも、次の約束を期待した。
ドラコにとってレイチェルが取るに足りない存在だったとしても、レイチェルにとってドラコはたった1人特別だった。
彼は優しい人ではなかったかもしれないけれど、レイチェルには優しかった。
レイチェルが課題に詰まっていたら、理解できるまで根気よく教えてくれた。ホグズミード休暇を羨ましがったレイチェルのために、ハニーデュークスのキャンディを買って来てくれた。レイチェルが動く階段のせいで転びそうになったら抱きとめてくれた。馬鹿だなって呟く声は素っ気なくても、回された腕は温かくて優しかった。『ねえ、ドラコ。来年、私がホグズミードに行けるようになったら、ドラコが案内してくれる?』
『……ああ』
形の良い薄い唇が僅かに弧を描く。柔らかく細められた瞳の中に、レイチェルが映っていた。
最初から、守るつもりなんかない口約束だったのかもしれない。素直に信じて喜ぶレイチェルを、心の中では笑っていたのかもしれない。けれど、たとえそうだったとしても。
あの一瞬は、レイチェルだけのものだった。あの瞬間、レイチェルは確かにお姫様だった。
意地悪で、傲慢で、不誠実で、全然理想通りじゃなくても。レイチェルの気持ちに気づいているくせに、ちっともレイチェルを見てくれなくても。彼は、ドラコはやっぱりレイチェルにとっては王子様で────レイチェルは、彼のことがとても好きだった。