クリスマス、と呼ばれる冬の日に関して、トム・リドルにはひどく憂鬱な記憶しかない。
単調な日々を送るばかりのウール孤児院においても、そのXデーは祝うべき特別な日とされていた。寒空を歩くにはあまりにも薄っぺらい揃いのマントを着せられた哀れな孤児達は、町外れの教会で練習した聖歌を披露するのが慣例だ。その健気な様子に心打たれた大人達は、孤児院にわずかばかりの金を寄付し、慈悲深い己の善行に陶酔すると言うわけだ。
年寄りの牧師の説教は単調で聞き取りづらく、犬のいびきよりも退屈だったし、教会から帰る道すがら、孤児院の子供達が通りに並ぶ金持ちの家のツリーやリースを物欲しげに眺めるのも、みじめたらしくてウンザリした。極め付けは孤児院に戻ってからの「ささやかなパーティー」だ。鉛筆やお下がりの本や、ハギレを再利用したぬいぐるみ、長さの足りない手編みのマフラー。そう言ったいかにも安っぽい品々が「プレゼント」と称して配られ、心優しい贈り主に感謝の手紙を書くよう強要される。テーブルの上には、油っぽくてスパイスの効きすぎたパサパサのチキンと、甘ったるいクリームがベッタリ塗りつけられたスポンジケーキ。一口飲み下すだけでも胸焼けしそうな粗悪な油と砂糖の塊を、「もうすぐ誕生日だから」なんて理由でよりにもよってとびきり大きな一切れを取り分けられるのは、もはやお祝いと言うよりも罰を与えられているような気さえした。そうして、その「ごちそう」を食べ終えた後は、お決まりのクリスマスソングを歌って、テーブルについた全員で仲良くゲームをする。――――反吐が出る。
だから、そう。クリスマスと言う響きは、トムにとっては何ら心ときめかせるようなものではなかった。
休暇前に学校に残るかどうかのリストが回ってきたとき迷わず名前を書いたのも、ルームメイトのようにホグワーツのクリスマスが楽しみだからなんて能天気な理由ではない。あんなみじめったらしい場所で過ごすのは、一日だって短い方がいいに決まっている。少なくともここは絶えず暖炉の火が灯されて温かいし、空腹に耐えながら無理矢理眠りにつくこともない。
大広間に飾りつけられたツリーの絢爛さは、ウール孤児院のカビ臭いそれとは比べるべくもなく、これにはさすがのトムも見事だと認めざるを得なかった。とは言え、やはりパーティーにはさほど期待はしていなかった。孤児院のものよりマシだろうことは確かだろうが、そもそも休暇に学校に残る生徒は全体を見ればごく僅かだ。恐らくパーティーと言ってもささやかなもので、組み分けの日やハロウィンの晩餐ほどの豪華さはないだろうと、そう思っていた。
─────それなのに、これはどうだ。
クリスマスの夜。ルームメイトに引きずられて渋々大広間へと降りたトムの目の前には今、孤児院の馬鹿な子供達が目を輝かせていた絵本の挿絵そのまま、いや、それ以上の光景が広がっていた。
夜空を映した天井から降り積もる魔法の雪。空中を飛び回る小さなユニコーンやサンタクロース。ひとりでに音楽を奏でるオーケストラ。金のカトラリーが映える赤と緑のベルベット。ピカピカに磨かれた皿の上には、ありとあらゆるクリスマスのごちそうやデザートが並んでいた。きっと素晴らしい夜になるに違いないと、期待に胸が躍ったのだ。
しかしその1時間後、トムは一人大広間を後にして人気のない廊下に居た。噛み締めた唇が、わなわなと震える。頭の中が真っ赤に染まる。今しがた受けた屈辱のせいで、腸が煮えるような思いだった。
大半の生徒が家に帰ったとは言え、スリザリン寮の生徒も十人ほどは残っていた。ほとんど話したことのない者同士なりに、和やかに談笑しながら時間は着実に過ぎていった。そんな中、上級生の女性徒がゲームをしようと言い出した。クリスマスの数え歌を歌って、間違えた人は罰として秘密を一つ打ち明ける、簡単なゲーム。
ああ、あの歌か、とトムもすぐに思い至った。金の指輪だとか、七羽の白鳥だとか。マグルと変わらない陳腐な発想だと内心で笑いはしたものの、トムも賛成した。生まれついて滑らかに動く頭と舌のおかげで、トムはこう言ったゲームでは負けなしだった。つまらない余興で得られる秘密なんてどうせ大したものではないが、まあ知っておいても悪くはない。
ところが────そのゲームが始まってすぐ、真っ先に負けたのはトムだった。負けた、と表現すら語弊があるだろう。最初から勝負にならなかった。手拍子とともに彼らが始めた歌が、トムには聞いたこともない、奇妙なものだったから。そのときの彼らの視線を思い出し、トムはギリ、と奥歯を噛み締めた。
彼らにとって奇妙なのは歌ではなくトムの方なのだと言うことは一瞬でわかった。その歌が、魔法使いの家庭で育った子供なら当たり前に知っているものなのだろうことも。知らなかったのは、トムだけだった。
「どうしたんだね、トム。こんなところで」
ふいに近づいてきた足音。顔を上げれば、そこにはダンブルドアが立っていた。
近くの席に座っていたこの男は、さっきのやりとりを見ていたはずだ。まさか、大広間を抜け出したトムを追いかけてきたのだろうか。だとしたら、随分と悪趣味なことだ。
「さっきのことを気にしているのかい?」
「……いいえ、教授」
気にしないはずがないだろう、とトムは内心毒づいた。
恥をかかされたのだ。あんなくだらないことで、マグルなんかに囲まれて育ったせいで、僕が魔法使いの間での「当たり前」に無知であると知られた。
あいつらはきっと今頃、僕のことを嘲っているに決まっている。握りしめた拳に、ギリと爪が食い込んだ。
「魔法使いの童謡を知らないからと言って、君が恥じることは何もないんだよ、トム。その代わり、マグルの歌は君しか知らないのだから。彼らに教えてあげるといい」
穏やかな声で告げられた言葉が、あまりにもアルバス・ダンブルドアらしくて、一瞬、何を言われたのか理解するのに苦労した。つくづく目の前の人間とは価値観が合わないことを実感させられて、もはや反論する気にもなれない。
「…………ええ、そうですね。素晴らしい考えだ」
馬鹿じゃないのか。くだらない。
ナーサリーライムなんて、所詮はマグルの子供騙しだ。卵が落ちて割れたって杖の一振りで元に戻せるのが当たり前だと思っている奴らに、ハンプティ・ダンプティの歌なんて教えて何の意味がある。
「もう夜も遅い。そろそろ寮に戻りなさい」
「はい。そうします」
行儀よく返事をして、トムは踵を返した。彼らが既に居る可能性を考えるとまだ寮に戻りたくはなかったが、このままダンブルドアと会話を続けるよりはその方がまだマシに思えた。
「メリークリスマス、トム」
「……メリークリスマス、教授」
背中を追いかけてきた言葉に、振り返ることなく進む。今日と言う日にお決まりのその挨拶を食むと、苦々しさばかりが舌の上に残った。孤児院で食べさせられるあのケーキよりも、酷い味だ。
……やっぱり、クリスマスなんて大嫌いだ。
凍えてもいない。飢えてもいない。行きずりの大人達から哀れみの視線を向けられることもない。窓の外に広がる夜空は紺碧に澄み切って、蝋燭の灯りが城のそこかしこを柔らかに包みこんでいる。今までで一番恵まれたクリスマスのはずなのに、かつてないほどにみじめな気分だった。
今日のことは、この先二度と思い出したくもない。ナーサリーライムなんて、もう一度だって口ずさまない。あんなものを喜んで歌うのは、あの馬鹿なマグルの孤児達だけで十分だ。魔法使いのトムにはもう必要ない。
そもそもトムは、昔からあんな歌なんて大嫌いだったのだ。トム。トム。笛吹きの息子。小さなトム・タッカー。猫のトム。
自分を形作るその名前があまりにも平凡でありふれていることを、嫌と言うほど思い知らされるから。