水溶性の心が消える前に

────私達もいつか、グレトナ・グリーンに行けたらいいね。

どうして今更、この記憶を思い出すのだろう。
初めて出会った日から、彼女はレギュラスだけを見つめていたのに。レギュラスは彼女のことなどすっかり忘れ、その視線に気づくことすらなかった。それでも彼女はレギュラスに愛を囁き、レギュラスもまた彼女に惹かれたのに、結局彼女を選ぶことはできなかった。彼女もまた、レギュラスがその血に抗えないことなんて、きっと最初からわかっていた。それでも、わずかな可能性に懸けようとしていた。
彼女のわがままに振り回されているとばかり思っていたが、その実、真に彼女を振り回していたのはレギュラスの方だった。もっと別の誰かに恋をしていれば、あんな想いをすることもなかっただろうに。レギュラスに恋をしたばかりに傷ついた────レギュラスが傷つけただけの少女。
あの日、伸ばしかけた指先はただ力なく空を掻くだけだった。もしももう一度過去に戻れるなら、今度こそ手を伸ばすことができるだろうか。一度闇の帝王に与したからには、裏切りは許されないとわかっていても、彼女の手を引いて2人で遠い場所に行くことを選べただろうか。
忠実さでしか兄に勝てなかった自分は、ただ両親の敷いたレールに沿って歩くことしかできなかった。シリウスのように、レールを外れても惜しまれるだけの才が自分にないことはわかっていた。少しでも両親の期待に背いて、出来損ないだと見限られることを恐れていた。
呪いの言葉を吐きながら、裏切りを罵りながら、母が求めていたのはいつだって兄だった。いつか兄が己の愚かさに気づき、心を入れ替えて戻ってくる。許しを乞い、自らの過ちの贖罪としてその血のために尽くす。そんな希望を捨てきれず、ただ兄を待ち続けていた。
シリウスの才能こそが、両親の理想だった。「あれじゃ到底ブラック家は任せられない」「レギュラス、お前がしっかりしないと」────そんな言葉でレギュラスを縛りながら、シリウスが在るべき場所をレギュラスに与えようとしたことは、ただの一度たりともなかった。両親にとってすら、自分は兄の代用品に過ぎないのだとわかっていた。
全天で1番明るい恒星の名を与えられた兄は、レギュラスから見ても眩い輝きを放っていた。魔法の才能、聡明な頭脳、優れた容姿、快活な気質。ただそこに居るだけで、人を惹きつける魅力があった。グリフィンドールに組み分けられても、兄の周りには人が絶えず、多くの友人に恵まれていた。
けれど、レギュラスは───レギュラスには、何もなかった。たまたま与えられた家名以外は、何もかもがありふれていた。同じ一等星でも、レギュラスの光は兄に比べればあまりにも弱々しい。両親に手を振りほどかれたら、ブラック家の肩書を失くしたら、誰もきっとレギュラスになんて見向きもしない。
レギュラスの従順さの理由は、そうする以外に選択肢がなかったからだ。どれだけ足掻いたところで理想の息子にはなれないとわかっていたから、せめて良い息子であるしかなかった。どこに居ても、周囲に求められる自分を演じなければと、必死だった。

「もう、レギュラスったら。考え事もいいけど、そんなに眉間に皺寄せてたら癖になっちゃうわよ。湖に行かない? 今日は天気がいいからきっと素敵よ」

張り詰めた糸を緩めることができたのは、彼女の前だけだった。ブラック家の系図になんて加わりたくないと笑った彼女。彼女の前でだけは、名家の子息でも、兄の代用品でもない、ただのレギュラスで居られた。恋人のわがままに振り回される、1人の少年として。嘘から始まった仮初の関係だったけれど、愚かだと侮るばかりで、彼女のことなんて何ひとつ理解できていなかったけれど────それでも、あの少女は細い肩に頭を預けて眠ることを許してくれた。レギュラスがただの16歳の少年であることを望んでくれたのは、あの少女1人きりだった。

────レイチェル

なじんだ名前を形作ったはずなのに、レギュラスの喉がその響きを紡ぐことはなかった。ただ、唇の端から小さな泡末が浮かんでは消えていくだけ。指先が凍てついて、感覚が失われていく。あの雪の日と同じだ。
でももう、ここに彼女の姿はない。もう、何も見えない。何も聞こえない。
今更手を伸ばしても、もう何も掴めない。

いつか、一緒に居るのが許される場所に行こうね。

そんな約束を交わした片割れは、冷たい水の奥底に眠る。
グレトナ・グリーンでもどこでもない、遠い遠い場所。定められた法も、生まれついた立場も、己を縛る家名も、繋ぐべき血も、誰かの祝福も。2人を隔てるものはもう何もない。

あらゆるしがらみからも隔絶された水底で、レギュラス・ブラックは永遠に眠る。

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