別れの日は思っていたよりも早く訪れた。レイチェルの結婚が決まったのだ。
レギュラスがそれを知らされたのは、ある寒い冬の日のことだった。とは言え、驚きはしなかった。レギュラスよりも1年遅れて、レイチェルにも縁談の話が持ち上がっていた。夏の休暇に両親からそう教えられたと言う話は、レギュラスも以前聞かされていた。新学期が始まって、たった4ヶ月。卒業まであと半年ほどだと言うのに、レイチェルの両親はそれを待たずして娘を嫁がせる選択をしたらしい。
「フィンランド? ううん、ノルウェー? どこか、その辺りの純血家系の人。ほら、こんなご時世だから両親が国外に出したがってて。ブラック家ほどじゃないけど、家格的には向こうの方が上よ。実はまだ会ったことないんだけど……私の写真見て、向こうは気に入ってくれたみたい」
「そうか。おめでとう」
まるで他人事のような口調に、レギュラスも曖昧に相槌を打った。相手の話を聞かされれば、もう少し何か感じるところもあるだろうかと思ったが、意外にも冷静な自分にレギュラスは驚いていた。実感が湧かないと言うのが正しいのかもしれない。どこの誰とも知らない人間が相手では、嫉妬するにも難しい。
レイチェルの肩へと落ちていく雪をぼんやりと眺めていると、レギュラス、とレイチェルが小さく名前を呼んだ。
「私を攫って、逃げてくれる?」
俯いているその表情はよく見えない。レイチェルの真意がわからず、レギュラスは戸惑った。
これは恋人ごっこの延長を────別れを前にした恋人としての反応を求めているのだろうか。それとも、本心からそう言っているのだろうか。
「僕は……」
「……なんてね」
顔を上げたレイチェルは、悪戯っぽい口調で舌を出してみせた。
やはり冗談だったのだろう。レギュラスはホッとしたような、肩透かしを食らったような気分で、小さく息を吐いた。もしも本気だったならば───どうしていただろう? 今、自分は何を言おうとしていたのだろうか。
「レギュラスは、私のこと好き?」
もう何度も繰り返した問いを口にして、レイチェルは穏やかに微笑んだ。柔らかく細められた瞳の中には、いつものようなレギュラスの真意を探ろうとするような光はない。ただ凪いだように静かに、レギュラスを見つめていた。その視線に呑まれたレギュラスが答えを返せずにいると、レイチェルはふいに視線を落とした。
「最初に告白したとき……『僕である必要はないだろう』って言ったじゃない? ……ごめんね。あのとき、私、嘘吐いたの」
「嘘?」
「そう、嘘。『割りきった関係がいい』『ただ思い出作りがしたいだけ』『レギュラスならちょうど条件に当てはまって都合がいいから』────全部、嘘」
彼女がこれから何を言おうとしているのか、レギュラスにはわからない。けれどなぜか、聞いてはいけないような気がした。喘ぐように唇を開けば、吸い込んだ空気が肺を刺す。心臓の鼓動が早くなっていく。
「偽物でもいいから、側に居たかった。……私に許された自由な時間を、あなたの恋人として過ごしてみたかった。……私は、あなたのことが好きだったから」
雪にかき消されそうな、囁くような声。レイチェルが紡いだ言葉に、レギュラスは耳を疑った。
レイチェルが最初からレギュラスを好きだった? 嘘だ。そんなはずはない。レイチェルがレギュラスを想っているのは知っている。けれどそれは、恋人らしく振る舞っているうちに、錯覚してしまったからで。
きっと、また、彼女の性質の悪い冗談だ。次の瞬間には、真に受けたレギュラスをからかって、「本気にした?」なんて悪戯っぽく笑ってみせるに違いない。だって、そもそも何の意味があってそんな嘘を? そう思うのに────そうあってほしいと思うのに。レイチェルは薄く微笑んだまま、レギュラスを見つめている。
「どうして……」
「だって……ああでも言わなきゃ、レギュラスは絶対頷いてくれなかったでしょ?」
確かに、真正面から告白されていたなら。彼女が自分を好きだとわかっていたら、どんなに引き下がられたとしても、自分は決して頷くことはなかっただろう。
別にレギュラスのことを好きなわけじゃない、ただ“恋人”が欲しいだけ。その恋人の条件に、レギュラスがちょうどいいだけ。レイチェルがそう言ったから、頷いた。あくまでお互いの利害が一致するからと、レギュラスに恋愛感情はないと、笑ったから。だから、頷いた。
たとえ相手が構わないと言ったとしても、恋人のフリなんて傷つけるだけだと────自分を想う相手に対して、それはあまりにも不誠実で残酷な行為だと、わかっていたから。
「好きだったの。最初から。新入生のとき……9と4分の3番線で、レギュラスは迷子になった私の猫を見つけてくれた。……一目ぼれだったの。……レギュラスはもう、覚えてないだろうけど」
苦笑しながらレイチェルが付け加えた言葉はその通りで、レギュラスは言葉に詰まった。
入学した最初の日にレイチェルに出会っていたなんて、今聞かされてなお思い出せない。レイチェルがずっと自分に恋をしていたことも、自分に近づくためにそれを隠していたことも、知らないうちに傷つけていただろうことも────レギュラスは気づきもしなかった。何ひとつ。
「本当は……本物の恋人同士になったら、言うつもりだったんだけど。……絶対振り向かせてみせるって、あのときは思ったのになあ」
レイチェルの声は震えていた。伏せた睫毛の上で、涙の粒が真珠のようにきらめいている。レギュラスは不謹慎にも、それを美しいと思った。細い指で涙を拭うと、レイチェルは真っ直ぐにレギュラスを見つめる。そして、無理矢理笑みを作った。「ありがとう。2年間も私のわがままに付き合ってくれて。嘘だってわかってても、恋人ごっこ、楽しかった」
────さよなら。
別れの言葉を告げるその表情は、口角こそ上がっていたものの、笑顔と呼ぶにはあまりにも歪で、痛々しかった。2年もの間、側に居たのに。毎日、見ていたはずなのに。レギュラスは、レイチェルのそんな顔を見るのは初めてだった。いや────自分は今まで、彼女の何を見ていたのだろう?
レギュラスは何も言えず、立ち尽くした。レイチェルは踵を返し、背筋を伸ばして歩いていく。ただの一度も、レギュラスを振り返ることなく。その背中に手を伸ばそうとして────レギュラスは結局、彼女の名前を紡ぐことができなかった。何を言えるだろう。自分も好きだと、伝えて何になる? 好きなだけで、彼女を選ぼうとしたことは一度だってなかったのに。彼女のために、何一つ、捨てることはできないのに。彼女はきっと、そんな言葉は望んでいない。
華奢なローブの背中が遠ざかっていく。降りしきる雪が、彼女を覆い隠す。
彼女の姿は、もう見えない。