1998年、5月。ドーラがテディを連れて帰ってきた。
ドーラの腕の中に抱かれた赤ん坊がきょとんと目を丸くして不思議そうに私を見る。さっきまで黒かったはずの髪の毛先が、段々と金色に染まり始めていた。ドーラと同じ七変化。父さんと同じ名前。テッド・ルーピン。私の甥っ子。ちっちゃなちっちゃな赤ちゃんテディ。
ドアの前に突っ立っている二人に、私はちらりとリビングの父さん達を振り返った。母さんも父さんも二人の結婚を認めたわけじゃない。二人が勝手に結婚してしまっただけ。緊迫する空気の中、最初に口を開いたのは父さんだった。
「入りなさい。生まれたばかりの赤ん坊をいつまでも外に放り出しておくわけにはいかない」
それからの事の顛末は、部屋に行ってなさいと追い立てられた私は知らない。階下から聞こえてくる話し声は別に聞きたくなかったから、ラジオのボリュームを大きくしてそっちに集中することにした。1時間ほど経った頃、トントンとドアをノックする音がした。
「君に話があるんだ」
ドアの前に居たのはルーピンだった。あからさまに顔を顰めた私に、困ったように眉を下げる。顔を合わせるのは実に数年ぶりだけれど、この人は随分と白髪が増えたような気がする。けれどその割にやつれた印象はなく、相変わらず穏やかで優しげな空気を纏っていた。
「話って何?」
ぶっきらぼうな声に、我ながら最悪な態度だなと思った。けれど、それも仕方のないことだ。私はあの頃のような11歳の無邪気な子供じゃないし、この人ももう先生じゃあない。気分を悪くして怒鳴ってでもくれればいいなと思ったが、ルーピンは気にした様子もなく口を開いた。
「トンクスのことだよ」
「トンクスじゃないでしょう」
言葉を遮って、吐き捨てるように呟いた。よりにもよってこの人が、ドーラをそんな風に呼ぶのは、ひどく滑稽なことに思えた。ドーラはもうトンクスじゃない。ニンファドーラ・ルーピン。ミセス・ルーピン。他人みたいなその響きが、今のドーラの名前なのだ。
「貴方が……貴方が、トンクスじゃあなくしちゃったんだわ」
髪の色も、顔立ちも、性格も。何もかも似ていない私達が、姉妹だってわかってもらえるためのたったひとつのものだったのに。貴方が変えてしまった。貴方のせいで、ドーラは変わってしまった。責めるように睨みつけると、ルーピンは寂しげに笑みを浮かべて俯いた。
「……ドーラは、君と喧嘩してしまったことを気に病んでいる。手紙が返って来ない、と」
手紙。その言葉に、どきりとする。引き出しの中の、古い手紙の束が頭の中をよぎった。ドーラとあの手紙を交換していたのは、果たしてこの人なのか。聞いてみようかと口を開きかけたが、続けられた言葉によって思考の海から引き戻された。
「こんな時勢なのだから、連絡が取れないと何かあったんじゃないかと誰だって不安になる。あまり、姉さんに心配をかけてはいけないよ。不満があるのなら、きちんと話し合った方が良い」
諭すような口調に、カッと頭に血が上る。不満があるのなら? 何を寝惚けたことを言っているんだろう。何もかもが不満だ。いまだに教師みたいな顔をして、私を何もできない子供扱いすることも。テディの顔がこの目の前の男によく似ていることも。テディの後見人を頼まれたのが、私じゃなく、ドーラと何の血の繋がりもないハリー・ポッターだってことも。
「レイチェル」
これ以上話していたくない。部屋を出ようとした私の腕を、ルーピンが掴む。振り払おうとするけれど、存外強い力に振りほどけない。敵わない。ああ、だから────こう言うところがあるから私はこの人が嫌いなのだ。もっと見た目のままの優しいだけの人だったら、ドーラはきっと惹かれたりしなかったのに。
「呼ばないで」
声が震える。強がって虚勢を張らないと、みっともなく泣いてしまいそうだった。
駄目なの、もう。自分でも、おかしいってわかってる。どうして、姉さんの大切な人なのに、私、仲良くできないの。こんな風に、嫌なことばかり言ってしまうの。
「その名前で、私を呼ばないで」
レイチェル。レイチェル。ドーラがつけてくれた私の名前。妹だけはへんてこな名前にはさせないと、ドーラが決めてくれた私の名前。ドーラが初めて私にくれたもの。何よりも大切なもの。だからいつか、ドーラに子供が生まれた時は、私が付けてあげたかった。
「ドーラをとらないで」
目頭が熱を帯びて、涙があふれる。口から飛び出したのは、紛れもない私の本音だった。ドーラをとらないで。ドーラをかえして。小さな子供みたいな、馬鹿みたいなわがままだと思った。今までドーラをドーラと呼ぶのは私と母さん達だけだったのに。私達だけの特別だったのに。ドーラはもうトンクスの姓を名乗らない。ドーラの特別はもう私じゃない。私の特別はドーラなのに。ドーラは私達を捨てて、この人の手を取った。ドーラにとって大切なのはこの人と、テディだ。
「ドーラはいつも、君の話をしている」
静かな声だった。黙ったまま爪先を見つめている私に、ルーピンは続ける。ホグワーツで君が今何の授業を受けているかとか、友達と喧嘩してしまったらしいとか、君からの手紙が来るたびにいつも一喜一憂しているよ。おかげて僕は、君の好きな物も嫌いなものも、すっかり詳しくなってしまった。
視線を上げてルーピンの顔を見つめると、ルーピンは私を安心させようとするみたいに、穏やかに微笑んでみせる。
「名前が変わってしまっても、遠く離れていても。ドーラは変わらず、君を愛しているよ」
そう言って、ルーピンは部屋を出て行った。自分の気持ちが全て見透かされている気がして、遠ざかっていく足音にまた涙が溢れた。
本当は知っている。ドーラが手紙で、赤ちゃんの名前は何がいいか聞いてくれていたこと。意地を張って無視していたのは私だった。ドーラは何も悪くない。この人も何も悪くない。テディの後見人だって、未成年の私よりハリー・ポッターの方がいいに決まってる。わかってるのに、素直におめでとうが言えない。
「ほら、レイチェル。ちょうどテディが起きてるわ。抱っこしてあげたら?」
しばらくしてリビングへと下りると、ドーラとルーピンはもうどこかへ行ってしまったらしかった。きっとまた、騎士団の仕事だろう。子供の私には関係ないと、父さんも母さんも何も教えてくれない。
ベビーベッドに寝ているテディの側で、二人は蕩けそうな笑顔を浮かべてる。狼人間との結婚なんてって、あんなに反対してたくせに。娘を攫った男の子供でも、孫は無条件に可愛いものらしい。ルーピンの家にこっそり出産の手伝いに行っていたことも、私は知っている。
「まだ拗ねてるの」
テディを視界に入れようとしない私に、母さんが呆れたように溜息を吐く。浮遊術でタップダンスを踊るテディベアに、テディが楽しげに笑った。部屋に響く無邪気な声に、何だかやるせない気持ちになる。和やかなリビングの中で私だけが仲間外れのようで、居心地が悪い。もう一度部屋に戻ろうと、踵を返した。
「シスター・コンプレックスはいい加減卒業しなきゃ駄目よ。貴方ももう15なんだから」
背中を追いかけて来た母さんの声が、ちくりと胸を刺す。自分のこの感情が「シスター・コンプレックス」の一言で片づけられてしまうことが悔しい。けれど実際、そんなものなのかもしれない。違う、とは言い切れない。
いつまでもドーラに、一緒に居てほしかった。少なくとも、私が大人になるまで、ずっと。ずっとずっと、二人で笑い合って、幸せに暮らして行きたかった。けれど、ドーラは私の手を離して、幸せになる方法を見つけてしまった。事実、今のドーラはこの暗い状況の中でもとても幸せそうで、輝いていた。それがなんだか悔しくて、テディのことも可愛いと思えなかった。テディは、今のドーラの幸せの結晶みたいなものだから。
愛していたの。愛しているの。
ねえ、ドーラ。わかっていたのに、どうして素直に言えなかったんだろう。仕方ないと割り切れるほど大人じゃなくて、素直に口に出せるほど子供でもなかった。中途半端なプライドと意地が邪魔をした。
たった一言。寂しいから、置いて行かないでって。そう言えばきっと貴方は、馬鹿だねって抱きしめて頭を撫でてくれたのにね。
私は意地っぱりな子供で、あなたの幸せを祝福してあげられなかった。あなたが大切な人を見つけたこと。その人と共に歩もうとしていること。その人の子供を授かったこと。その、どれにも。
おめでとうの言葉が言えなかったことを、今でもずっと後悔している。