彼女への感情が恋だったのか、それとも違ったのか。結局のところ、ハリーにはやっぱりよくわからない。
喩えるのなら、蝋燭の灯りやシャボン玉に似ていた。温かくて、キラキラしていて、でもほんの少しの、何かの弾みで、簡単に消えてしまいそうな。ハリーが彼女に抱いていた感情は、たぶんそう言う種類のものだった。壊れないよう大切にできていれば、何かが変わったのかもしれないけれど。あまりにも淡いその感情は、小さな炎が吹かれたように、泡がパチンと弾けるように。あの夏の日に消えてしまった。
「レイチェル!」
「ハーマイオニー」
新学期になって、また時々『レイチェル』を見かけるようになっても、ハリーの心は穏やかで居られた。彼女の姿を見た瞬間に心臓が跳ねたり、胸がざわついたりする、あのかき乱されるような感覚はなくなった。夏が終わって、秋が過ぎて、冬の気配が近づいてきても、彼女は以前と変わらず、ハリーにとっては『ハーマイオニーの友達』だ。これでよかったのだろうと、ハリーは思った。
「ねぇ、ハリー。ヘドウィグを貸してくれる?」
「いいけど。誰かに手紙?」
「そうよ、レイチェルに。すぐに伝えたいことがあるの」
「相変らず、仲が良いんだね」
「ええ。だって私の、ホグワーツで初めてできた友達だもの」
ハーマイオニーがニッコリした。手紙と言えば……結局、1年生の頃ハリーに贈られたバレンタインカードは『レイチェル』からだったのだろうか。今となってはもうわからないし、真相を明らかにする必要もないだろうけれど。ヘドウィグの足に封筒を括りつけるハーマイオニーを見て、ハリーは思わず溜息を吐いた。
「やっぱり、寮も学年も違うと、何だか大変そうだな」
ハリーには別の寮の、しかも別の学年に親しい友達は居ない。同級生なら寮が違っても授業で顔を合わせることも多いし、同じ寮なら談話室か、そうでなくても誰かに呼んできてもらえばすぐ話せるのに。ハリーが思わず呟くと、ハーマイオニーはちょっと考え込むような表情になった。
「うーん……でも、レイチェルと私の場合、違うからこそ仲良くできてるのかもって思うわ」
「どうして?」
「だって、同じ寮だと下級生を1人だけ特別扱いって難しいでしょ? それに……同じ学年だったら、レイチェルもやっぱり私のこと、ガリ勉の知ったかぶり、って思ったかも」
「そんなこと……ないよ、きっと」
今はハーマイオニーの長所もたくさん知っているけれど、仲良くなる前は自分もそう思っていたことを思い出して、ハリーはちょっと気まずくなった。それが伝わってしまったのか、ハーマイオニーが悪戯っぽく笑ってみせる。
「レイチェルってね、マグルの文化にすごく興味があるの。この手紙もそう」
「えっと……ウィーズリーおじさんみたいな感じ?」
「ふふ、そうね。あそこまでじゃないけど……2人を会わせたら、ずーっと電気プラグの話をしてるかも」
想像したのか、ハーマイオニーがクスクス笑った。何だか、イメージが違う。ハリーの目から見た『レイチェル』は大人しそうと言うか、落ち着いていると言うか……ウィーズリーおじさんみたいにマグルの道具について熱弁する姿なんて想像がつかない。
「私がマグルの世界の話をするのも、魔法界のことについて質問するのも、レイチェルは目をキラキラさせて聞いてくれるの。マグルの文化なんて知ってても仕方ないなんて言わないし、私が魔法使いから聞いたら奇妙な質問をしたときも、笑ったりしないのよ。どうして私がそれを不思議に思ったのかって考えて、いつも誠実に答えてくれるの。それが、すごく安心できて……落ち着くの」
2人が仲直りして以来────特に今はロンとクルックシャンクスの件で衝突しがちなせいもあるのだろうけれど────ハーマイオニーがハリーに『レイチェル』の話をすることは時々あって、ハリーはその時間が嫌いではなかった。ハーマイオニーが嬉しそうに語る『レイチェル』はハリーから見た『レイチェル』とは印象が違っていて、けれどハーマイオニーの良い友達だった。自分は『レイチェル』のことをほとんど何も知らないんだなと、ほんの少し寂しいような気持ちになる一方で、自分の知らない彼女に触れるのは不思議と心地よく感じた。
「レイチェルがニコニコして私の話を聞いてくれるのって、たぶんレイチェルが私のことを妹みたいに思ってくれてるからって言うのもあるのよね。だから同級生だったら、こんな風な関係じゃなかったかもって思うわ。すごく頼りになるんだけど……」
「どうかしたの?」
話しながらハーマイオニーの表情が曇ったことに気がついて、ハリーは首を傾げた。また、喧嘩でもしたのだろうか? いや、でも喧嘩したのならこんな風に笑って話をすることも、手紙のやり取りをすることもないはずだ。もしかして、ロンとまた何かあったのだろうか?
「最近レイチェル、何か悩み事があるみたいなのよね。でも、私には何も相談してくれなくて……たぶん、私には知られたくないことなんだろうってわかってるんだけど……」
友達が困っている様子なのに、力になれないのが歯がゆいのだと、ハーマイオニーは寂しそうに溜息を吐いた。
そんな会話をしたのは、いつだっただろうか。
たった今。ハリーはたぶん、まさに『レイチェル』が困っている現場に遭遇していた。
「あの……大丈夫ですか?」
今ハリーの目の前に居る彼女は、廊下の脇にある段差に座り込んで赤くなった頬を押さえている。さっき、同級生らしき女の子達に叩かれたのだ。反対側の廊下の窓から偶然それを見たハリーは、助けに入ろうと走ってきたのたけれど、間に合わなかった。ハリーが駆け付けたときには、女の子達は既にどこかへ走り去るところだった。
叩かれた勢いで壁に体を打ちつけていたように見えたし、座り込んだまま動かない彼女が心配になって、走ってきたことがわからないよう息を整えてから話しかけてみたのだけれど……ハリーの声に顔を上げた彼女は、ポカンとしたような表情になった。
「…………えっと、……大丈夫。ありがとう」
たっぷりとした沈黙のあと、ようやくそんな言葉が返って来た。まさかいきなり誰かに話しかけられると思っていなくて、驚いたのだろう。しかも、ハリーは彼女と親しいわけでもないし────。いや、でも一応顔見知りではあるのだし、友達の友達が困っていたら声をかけるのはそんなにおかしなことでもないはずだ。
パチパチと不思議そうに瞬きする彼女は、いつもより幼く見える。ハリーは何だか気まずくなった。彼女はまだ困惑した表情でハリーを見つめていたが、段々とその表情が不安そうに曇った。
「……今見たこと、誰にも言わないでね。ハーマイオニーにも。……お願い」
「アー……うん。言わないよ。誰にも」
「ありがとう」
ハリーが約束すると、『レイチェル』は安心したように微笑んだ。
押さえた手の隙間から覗く、赤くなった頬は痛々しい。本当は、誰かに相談した方がいいのかもしれないけれど……ハリーもホグワーツに来る前はそうだったからわかる。こう言った出来事は、できるなら誰にも知られたくないものだ。結局、助けに入るには遅すぎたし、ハリーがこうやって声をかけたのももしかしたら彼女には迷惑だったかもしれない。ハリーが申し訳なく思って後悔していると、『レイチェル』がじっとハリーを見つめた。
「その……色々大変だろうけど……頑張ってね」
「色々?」
「あっ……えっと」
色々って何だろう。もしかして、彼女の方もハーマイオニーから何かハリーのことを聞いているのだろうか? でも、だとしたら一体何を────? 不思議に思って聞き返すと、『レイチェル』は少し慌てたような様子になった。
「あの、その……喧嘩とか……試験とか……ク、クィディッチとか……? グリフィンドール、優勝杯がかかってるし……」
……やっぱりハーマイオニーの言っていた通り、バレンタインカードの贈り主はこの人なんだろうか?
その言葉を聞いて、ハリーはそう考えた。聞いてみようかとも思ったけれど、やめた。ついさっき彼女に起きたことを考えると、そんな質問をするのは無神経だとも思ったし、カードの贈り主が彼女かどうかなんて、本当はたぶん、そんなことどっちだっていいのだ。
「ありがとう」
もしも彼女がバレンタインカードの贈り主だとしたら、嬉しい。けれど、そうでなかったとしても構わない。
たった今、彼女から応援して貰えたことがハリーには嬉しかった。ただそれだけの、シンプルな話だ。彼女にとってそれが特別な意味を持つ言葉だったとしても、何てことのない言葉だったとしても、ハリーには嬉しかった。たくさんの人に言われた、もう何度も聞いた言葉だとしても。彼女が言ってくれたことで、ハリーにとっては特別な意味があるのだから。
「あの……私、本当に何でもないから……! もう、行ってもらって大丈夫。心配してくれて、ありがとう」
「あ……うん。じゃあね」
困ったようなに眉を下げた彼女を見て、ハリーはその場を立ち去ることにした。
廊下を進んで、角を曲がる。振り返ると、窓ガラスを2枚隔てて、彼女の横顔が見えた。その顔がどこか寂しげに見えて、ハリーはほんの少し胸が痛むのを感じた。
彼女へ向けていた感情が恋だったのか、そうでなかったのか。ハリーにはよくわからない。
蝋燭の灯りやシャボン玉に似た、温かくて、キラキラしていた何か。そのあまりにも淡いその感情は、もうあの夏の日に消えてしまった。ハリーの心臓はもう彼女を見てもうるさく跳ねることはないし、ハリーと彼女の距離はこのままきっと縮まることはないのだろう。
彼女は、レイチェルは『ハーマイオニーの友達』だ。これまでも、そしてこれからも。ハリーの友達じゃない。それでいい。友達じゃなくても、ハリーにとってはほんの少し、特別な人だ。もう消えてしまったとしても、恋ではなかったかもしれないけれど、ハリーは確かに彼女のことが好きだったから。
だからやっぱり、彼女には笑っていてほしいし、彼女が困っているのなら助けになりたいと思うのだ。