ハーマイオニーはやっぱり、秘密の部屋の怪物の正体に辿りついていた。
毒蛇の王と呼ばれる巨大な蛇、バジリスク。鋭い牙に猛毒を持つだけじゃなく、その眼光に捕らえたものの命をも奪う。50年前も、そして今も、継承者の命令で生徒達を襲っていたのはバジリスクだったのだ。秘密の部屋に封印されていたはずのバジリスクは、城中に張り巡らされている配管を伝って、だれにも見つからず移動していた。
そんな恐ろしい怪物と、ハリーは戦わなければいけなかった。マートルのトイレの洗面台で見つけた秘密の部屋への入り口。継承者に攫われたジニーを救い出すため、親友のロン、そしてロックハートと3人で秘密の部屋へと向かったのだ。そしてそこで、予想もしなかった継承者の正体を知った。ここでもハリーの前に立ちふさがったのは、両親の敵であるヴォルデモートだったのだ。ヴォルデモートの記憶であるリドルは、ジニーの魔力を吸い付くし、殺そうとしていた。それを阻止するために、ハリーは戦うほかなかった。どこかから助けに来た不死鳥のフォークス。そしてフォークスが持ってきた組み分け帽子から現れたグリフィンドールの剣の助けを借りて、どうにか巨大なバジリスクを倒し、そして元凶でもあったリドルの日記帳を破壊することができた。

「平和だよなぁ」

────それがもう、1週間も前のことだなんて。何だか嘘みたいだ。
ロンの呟きに、ハリーは全くだと頷いた。閉鎖の危機にあったはずのホグワーツには、何事もなかったかのように日常が戻ってきた。石にされた犠牲者達も元通りになったし、ハグリッドもダンブルドアも復職した。リドルの日記のせいで青白く弱っていたジニーも、医務室での療養で元気いっぱいになった。あれほどの冒険をして、大怪我もしたのに、不死鳥の涙が傷を癒してくれたおかげでハリーには傷も残っていない。何もかも今まで通りだ。……訂正、記憶を失ってしまったロックハート以外は。

「君のおかげで、試験もキャンセルだし」
「ハーマイオニーは悲鳴を上げてたけどね」
「ああ。全く、どうかしてるよ」

もっとも、特別なこともいくつかあった。ジニーを助け出し、そしてホグワーツの閉鎖の危機をも救ったハリーとロンには、ホグワーツ特別功労賞が授与された。そして、一緒に加点された得点によって、今年もグリフィンドールは寮杯を獲得することができた。
閉鎖の危機を免れたお祝いとして学期末試験がなくなったので、ほとんどの生徒達はのんびりと久々の平和を満喫していた。事件があった頃の緊張感や恐怖が嘘のように、廊下はまた楽しげなおしゃべりで溢れている。ハリーはふあ、と欠伸を噛み殺した。雲ひとつなく晴れて、気持ちのいい午後だ。青々とした芝を、夏の太陽が照らしている。……クィディッチ杯が中止のままになってしまったのはハリーには少し残念だったけれど、それよりもホグワーツがなくならなかったことはずっとずっと嬉しいことだ。

「噂をすれば、ハーマイオニーだ」

窓から見下ろせる中庭を、ハーマイオニーが歩いているのが見えた。そのまま通り抜けて城の中に入るのかと思いきや、ハーマイオニーはベンチに座っていた女の子に話しかけていた。立ち上がってこっちを向いたその人物を見て、ハリーはハッとした。
あの人だ。────よかった。元気そうだ。笑ってる。

「ハーマイオニー、あいつ……『レイチェル』と仲直りしたんだってさ」

全くどうかしてるよ、とロンがもう一度呟いた。
不満そうな口調とは裏腹に、ロンが少しホッとしたような表情をしているのがわかって、ハリーは思わずニッコリした。

 

 

 

穏やかな時間は長くは続かなかった。学期の終わりはあっと言う間に来て、ハリー達は慌ただしくトランクに荷物を詰め込み、汽車へと乗り込んだ。荘厳なホグワーツ城に別れを告げ、そしてその数時間後にはロンドンの真ん中、キングズクロス駅へ。

「じゃあね、ハリー。僕、この話電って言うやつ、試してみるよ」
「電話よ、ロン。元気でね、ハリー。また新学期に」

ウィーズリー家一行やハーマイオニーと別れたハリーは、きょろきょろと辺りを見回した。ダーズリー一家はどうやらまだ到着していないようだ。ハリーは人混みの邪魔にならないよう、トランクを引いて柱の近くへ寄った。久々の再会を喜ぶ家族達のおしゃべりが折り重なって、ハリーの耳を撫でて行く。
夏休みが始まろうとしている。楽しげな生徒達とは反対に、ハリーは思わず深い溜息を吐いた。学期の終わりが近付くにつれて心の準備はしていたし、仕方ないとわかっているけれど……やっぱり、ダーズリー家に戻るのは憂鬱だ。クリスマス休暇みたいに、夏休みの間もホグワーツに残れたらいいのに。
行き交うマグル達を何となしに眺めていたハリーは、ふとその中の1人の少女に視線を留めた。濃いブラウンの長い髪に、白いワンピース。とは言っても、あのダイアゴン横丁の女の子とは別人なことは一目で明らかだった。ハリーより小さなその女の子は、まだ10歳くらいだろうから。
……結局、ハリーがあの夏の日に会った女の子は誰だったのだろう? 今更また探そうとは思わないけれど、ハリーが見つけられないだけで、ホグワーツのどこかには居るんだろうか。それとも、やっぱり彼女はホグワーツ生を騙ったマグルだったんだろうか? きっともう、この先も再会することはないのだろうけれど。

「ハリー?」

ぼんやりとそんなことを考えていたハリーは、誰かに名前を呼ばれたことに気がついた。雑踏にまぎれて消えてしまいそうな、小さな声。女の子の声だ。一体誰だろう?
ハリーは声のした方向を振り返った。そして、視線の先に居た相手を見て驚いた。そこに立っていたのはあの人、『レイチェル』だったからだ。と言うことは、今、ハリーの名前を呼んだのも『レイチェル』だろうか? それとも他の誰かか、ハリーの聞き間違いだろうか?

「えっと……いきなり話しかけてごめんなさい」
「え? アー……その……気にしないで」

どうやら彼女で合っていたらしい。ハリーは戸惑いながら何とかそう返した。とは言え、どうして話しかけられるのか全く心当たりがない。ハリーと彼女に共通の話題……ハーマイオニーに関することだろうか? いや、もしかしたらハリーの服の背中に虫が止まっているとか、そんなことかもしれない。
ハリーがじっと見返して言葉を待っていると、『レイチェル』は言葉を探すように視線を落とした。ほんの少しの沈黙の後、『レイチェル』は意を決したように唇を開いた。

「あのね……多分、あなたはもう言われ慣れちゃったと思うけど……ペニー……ペネロピーもハ―マイオニ―も、……ジニーも、私の友達なの」

声を張り上げているわけでもない。むしろ囁くような、周囲の騒がしさにまぎれてしまってもおかしくないような静かな声なのに、ハリーの耳にはその言葉がやけにハッキリと聞こえた。胸の前でギュッと握られた手に、彼女が緊張しているのがわかった。伏せられていた視線が上がって、真っ直ぐにハリーを見つめる。ほんの少し首を傾ける動作に合わせて、サラサラと髪が肩口を流れる。

「だから…………ありがとう」

レイチェル』が柔らかく微笑んだ。その声はひどく真剣で、そしてハリーが今まで『レイチェル』と話した中で、1番優しい響きをしていた。
ハリーはどう返事をすればいいのかわからなかった。どういたしまして、と言うのも何だか奇妙な気がする。確かに秘密の部屋の件ではハリーはホグワーツ中の生徒達から感謝されたが、こんな風に改まって言われると何だか照れくさい。『レイチェル』の方も真剣に伝えるのは恥ずかしいのか、その頬はほんの少し赤い。

「……それだけ。引き止めてごめんなさい。いい夏休みを!」
「あ……」

はにかんだように『レイチェル』が言って、踵を返す。段々と小さくなっていくその背中に、どうしてかまたあの夏の日のあの女の子の姿が重なった。
伸ばしかけた指の行き場をなくして、ハリーはクシャリと髪をかきまぜた。嬉しいけれど、何だかくすぐったい。心臓がうるさくて、指先や頬までもが熱くなる。そして────その熱で、自分の胸の中で持てあましていた「何か」が溶けていくのがわかった。

たぶん、次にダイアゴン横丁に行っても、新学期にホグワーツに戻っても、もうハリーは探さないだろう。あの女の子のことも。『レイチェル』のことも。

この感情が、恋だったのかどうか。ハリーにはよくわからない。こんなに簡単に諦めてしまえる程度のものは、恋なんて呼べるようなものじゃないのかもしれない。
それでもハリーは確かに、あの夏の日に会った女の子に、そしてあの女の子に似た『レイチェル』に惹かれていた。彼女に笑いかけられると、嬉しかった。別人だとしても、彼女のことが好きだと思った。

「……僕の方こそ、ありがとう」

もう届かないだろう背中に。ハリーはそっと呟いた。
レイチェル』はきっと知らない。『レイチェル』が、あの女の子に似ていた彼女がハリーを信じてくれたことが、ハリーの孤独をどんなに慰めてくれたかを。知らないままで、いてほしいとも思う。

どうして自分があの女の子を探していたのか。ハリーにはようやくわかった気がした。

ハリーにとっては、希望だったのだ。あの女の子も、そして『レイチェル』も。小さくて温かな、優しい光。
友達になりかった。もう1度会って、話がしてみたかった。あのときはありがとうと、お礼が言いたかった。それもきっと、間違いじゃない。けれど────たぶん、ハリーが本当に望んでいたのは、もっとささやかなものだった。

ただ、こんな風に。「ハリー」と名前を呼んで、笑いかけてほしかっただけだったのだ。きっと。

魔法の言葉

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