イースター休暇が明けてから、ハリーの毎日はますます忙しくなった。来たるべきハッフルパフ戦に向けて、クィディッチの練習が増えたせいだ。そのせいでハリーの1日は授業、宿題、クィディッチ、睡眠の4つで占められてしまった。
「今年こそ、グリフィンドールが優勝するぞ」
「『8年越しの悲願』だろ。それ、もうこの1週間で10回は聞いたぞ、オリバー」
ウッドの特訓は厳しかったが、ハリーは充実していた。去年はあと1歩のところで逃してしまった優勝杯を、今年こそグリフィンドールが奪還することを誰もが望んでいた。シーカーとして個人練習に励んでいるハリーから見ても、練習の成果は目覚ましかった。チームの連携プレーには磨きがかかり、これなら勝利は間違いないだろうと思えた。それに、忙しさに追われていればあれこれ悩む暇もない。
しかし、そんな明るい気分は長くは続かなかった。
リドルの日記が盗まれた。ルームメイト達が全員留守にしている間に、部屋が荒らされたのだ。犯人はグリフィンドール生の誰かに違いない。そして、翌日に予定されていたクィディッチの試合も中止になってしまった。それ自体もハリーには辛かったが、原因になった出来事の方が比べようもなく辛かった。またしても継承者による犠牲者が出たのだ。久々のクィディッチの試合に生徒達が熱狂している間に、2人も襲われた。しかも、その犠牲者の1人はハーマイオニーだった。調べ物があるから図書室に行くと言ってハリー達と別れた、そのたった15分ほどの間に、ハーマイオニーは継承者に出くわしてしまったのだ。
「ねえ、ロン。あの手鏡、何だったんだろう?」
「さあ。たまたま持ってただけじゃないか? ハーマイオニーだって女子なんだし」
「でも、何か意味があるのかもしれない。石になった2人を見つけたのって誰なんだろう? もしかしたら、何か知ってるかも」
「マクゴナガルじゃないのか? そうじゃなきゃ、またピーブズだよきっと。だって、君の試合を見るために生徒はみーんな競技場に集まってたんだから」
ロンは気にしていない様子だったが、ハリーにはどうしてか手鏡のことが頭に引っかかっていた。ハーマイオニーのことだ。あれにも何が意味があるんじゃないだろうか? 鏡を持っていた理由がわかれば、もしかしたら継承者や怪物の正体の手掛かりになるかもしれない。ハリーはやっぱり、リドルの日記で見た通りに、ハグリッドが犯人だとは考えたくなかった。
「マクゴナガル教授。先生がハーマイオニー達を見つけたんですか?」
「いいえ。私ではありません。図書室に居た別の生徒です」
「その人は誰なんですか?」
「残念ですが、それは教えられません、ポッター。その生徒もショックを受けているようですから」
そのために、第一発見者に話を聞いてみたかったのに。
マクゴナガル教授に聞いてみても、そう言って首を振るだけだったのでハリーは手鏡については諦めるしかなかった。
事態はどんどん悪い方向へと進む一方だった。
ハグリッドが逮捕され、ダンブルドアまで停職になった。ハグリッドの残したヒントを元にクモの跡を追ったハリー達は、禁じられた森で世にも恐ろしい目に遭った。人喰い蜘蛛が居ると事前に教えてくれなかったハグリッドへの不満はあるけれど、危険を冒しただけの収穫はあった。ハリー達はまたしても新たな事実の欠片を手に入れた。つまり、ハリーが日記に綴じ込まれていた記憶で見た「秘密の部屋を開けたのはハグリッドで、女子生徒を殺したのは巨大な蜘蛛だ」と言う情報は誤解だったと言うことが。ハグリッドの無実がわかったのはハリーやロンにとっては良い知らせだったが、一方で継承者や怪物の正体に関しては振り出しに戻ってしまった。
「どうにかしてマートルのトイレに行ければいいのになあ」
「声が大きいよ、ロン」
悔しそうに溜息を吐くロンに、ハリーはシーッと人差し指を立てた。
ハリーの推測が正しければ、50年前の被害者は嘆きのマートルなのだ。だからどうにかして彼女に話を聞ければいいのだけれど、今の状況では難しかった。
ハーマイオニー達が襲われて以来、生徒が城の中を出歩くのには制限があるからだ。教室から教室への移動すら教授の引率がつくし、授業中に1人でトイレに行くのもダメ。放課後のクラブ活動もダメ。当然クィディッチの練習もダメ。上級生は許可をとれば自習のために空き教室を使うこともできるらしいけれど、ハリー達下級生にはそれも無理だ。寮からの外出自体が禁止されているわけではないから、門限の6時までなら出歩くことはできるけれど、生徒の集まる場所と言えば大広間か、中庭か、談話室か、図書室くらい。つまりは教授達の目が届く場所だ。人気のない方向に行こうとすれば目立つし、肖像画達の見張りも厄介だ。女子トイレに入ろうとしているところを見られたらただちに通報されるに違いない。
「こんなときに試験だなんて、勉強に集中なんかできるわけないのに!全く信じらんないよ」
ロンの嘆きに、ハリーは全くだと頷いた。ハロウィン以降、ほとんど秘密の部屋のことで頭が一杯だったから、勉強なんてほとんど手に付いていない。試験となると頼もしいハーマイオニーも今は医務室だ。ハーマイオニーのことを考えると、ハリーはまた胃のあたりが落ち込んだ。あのとき図書室に向かうのを引き留めていれば、今頃ハーマイオニーは試験勉強に忙しくしていただろうか?
そんなことを考えながら廊下を歩いていたハリーは、ふと向こうに見えた人影にドキリとした。
あの人だ。『レイチェル』だ。
どうしたんだろう。また、泣いている。
その隣に居るのは、ウッドだ。ハリーは心臓の鼓動が早くなるのを感じた。2人で、何を話しているんだろう? 前も一緒に居るところを見たけれど、そんなに親しいのだろうか? もしかして、ウッドが彼女を泣かせたんだろうか? いや、まさか。ウッドはクィディッチのこととなるとちょっとおかしくなるけれど、いい奴だし……。
「どうかしたかい? ハリー」
「あ……ううん。何でもないよ。そう言えばさ……」
ハリーにはまだ今ひとつ実感が湧かないけれど、『レイチェル』があの人だったと言うことは、ロンが嫌っている相手も彼女なのだ。ロンが彼女の存在に気づかないよう、ハリーは話題を逸らしてロンの気を逸らすことにした。
「え? ハリー、君、もう部屋に戻るのかい?」
「うん……今日は疲れたから、そうするよ」
寮に戻ったハリーは、ロンにそう言ってのろのろと自室に戻るため階段を上った。
嘘だった。大して疲れてなんていない。ただ、早く1人になりたかった。疲れていないから、余計なことを考えてしまう。さっきの光景が、頭に残って離れない。どうして、あの人は────『レイチェル』は泣いていたんだろう? ハリーはベッドに寝転がり、天井を仰いだ。
あの人が泣いていると、どうしてかハリーも動揺する。苦しくて、胸が締めつけられたように痛くなる。
あの人に笑いかけられると、ハリーも嬉しい。あの人が笑っているとホッとする。でも、ハリー以外の誰かに笑いかけていると少し寂しい。ハリーよりずっと後に彼女と知り合ったジニーが仲良さそうにしているのも、たぶん、寂しかった。ハリーはあの人とほとんど話したこともないのに、マルフォイが彼女に名前を呼ばれているのが嫌だった。あの人には、ハリーが目立ちたがりの自惚れ屋だとは思われたくなかった。あの人には、ハリーが継承者だと疑われたくなかった。
『絶対違うと思うわ。だって、ハリー・ポッターにそんな力、あるわけないもの』
あの人はハリーの友達でも何でもないから、ハリーのことを疑ったっておかしくないはずなのに。ハリーのことを信じてくれて、嬉しかった。他の誰かでなく、あの人がそう言ってくれたことが、ハリーにとっては大きな意味を持つのだと、気づいてしまった。
そもそもハリーが探していたのは、仲良くなりたかったのは、あのダイアゴン横丁で会った女の子だったはずだ。
ハーマイオニーやフレッドとジョージの言う通り、もしかしたらあの女の子に惹かれていたのかもしれない。優しい人だと思った。……笑った顔が、可愛いなと思った。ホグワーツに行ったら、もう1度話してみたかった。
あの人のことが気になったのも、彼女に似ていたからだった。似ていなかったら、たぶんあの人の存在に気がつくことすらなかった。わかっている。
「……だって、あの人だと思ったんだ」
似ていたから、きっと彼女だと思い込んで。でも違うと言われたから諦めて、でもそれはハリーの勘違いだったとわかったから、やっぱり彼女だと期待して、でもやっぱり別人で。
きっかけは、似ていたからだった。だから別人なら、もう関係ないはずなのに。顔が似ているからって、あの女の子の代わりにするつもりなんてない。でもやっぱり似ているから、2人を上手く切り離せなくて。気になってしまう。目が勝手に、あの人を探してしまっていた。最初にあった、本人かもしれないと言う期待のせいで、あの人自身とは無関係に、好感を持ってしまっていたのもわかっていたけれど。
たぶんいつの間にか、ハリーは『レイチェル』のことが好きになっていた。
もしかしたら、やっぱりハリーはあの人に、探していた女の子の面影を重ねているだけなのかもしれない。違うと言い切ることはできない。でも、それだけじゃないことも確かだ。だって、ハリーは継承者じゃないと、そう言ってくれたのはあの人だから。
他の誰かに似ていたから気になったと言うのは、あの人には失礼なのかもしれないけれど……そもそも、この先ハリーがあの人に自分の気持ちを伝えることなんてないだろう。好きだと気づいたからと言って、たぶん何も変わらない。好きな女の子ができたからと言って何をしたらいいのかハリーにはまだよくわからないし、今更、友達になるきっかけも見つからない。ロンだってあの人を嫌っている。ハリーまでがあの人と友達になったら、ロンに気まずい思いをさせる。ロンが嫌がるからじゃない。ハリーが、ロンに嫌な思いをさせたくないのだ。
……あの人が、あの女の子ならよかったのに。
そうしたら、たぶんハリーは躊躇わずにあの人に話しかけるとことができただろう。ずっと探していたんだと、友達になってほしいと、そう伝えることができたはずだ。ロンだって、きっと見つかってよかったと喜んでくれた。
でも、そんな風に“もしも”を考えたところで、何の意味もない。あの人は、あの女の子とは別人なのだから。ちゃんと自分で確かめたんだから、もう諦めろ。馬鹿げたことを考えるのはやめるんだ。そもそも事件のことで頭がいっぱいで、本人を見かけるまで思い出しもしなかったじゃないか。ついさっきまで忘れてたんだ。ダイアゴン横丁の女の子のことも、あの人のことも。
どちらも、恋だったとしても、その程度の気持ちだったんだ。