「あの人が『レイチェル』だよね? あの、ブロンドの人の左に座ってる。今、新聞を読んでる……」
「違うわ。レイチェルはその反対側。私達から見て、ブロンドの女の子の右よ」
ハリーが『レイチェル』だと思っていた女の子は『レイチェル』ではなかった。そして、名前すら知らないと思っていたあの女の子こそが『レイチェル』だった。
レイブンクローのテーブルで眠たげな表情で紅茶を飲んでいるあの女の子とは反対に、ハリーはすっかり目が冴えてしまった。何てことだろう。ずっと勘違いしていたなんて! 衝撃の事実に動揺するハリーに、ハーマイオニーは眉を寄せた。
「どうしてそんな勘違いをしたの?」
「だって……だって、僕見たんだよ。君と一緒に図書室で勉強してたのは、確かにあの巻き毛の女の子だった!」
間違いない。去年、まだハーマイオニーと友達になる前、フレッドとジョージに教えられてハーマイオニーの友人だと言う『レイチェル』を見に行ったのだ。そのときハーマイオニーと一緒に勉強していたのは、確かにあのお姫様みたいな美人だった。ハリーが声を潜めてそう訴えると、ロンがあっと声を上げた。
「そうか! ハリー、君、あのとき医務室に居たから、勘違いしたままだったんだ!」
どうやら、ロンは2人を取り違えていたことを知っていたらしい。去年の学年末、ロンが『レイチェル』に対して怒る原因になった例の一件のときにわかったのだと言う。それ以来、ロンはすっかり『レイチェル』に対して腹を立てていて、ハリーとハーマイオニーもロンの前では『レイチェル』の名前は出さないようにしていた。だから、ロンの方もハリーにうっかり伝え忘れていたと、そう言うわけのようだ。
「そう言えば……確か、1度だけレイチェルが友達と一緒だったことがあったわ。本を探しに行ったりして、席を外すこともあるし……あなた達が見たのは、そのときかも」
「まあ、勘違いしてたとしてもさ。あの『レイチェル』は君が探してた女の子とは関係ないんだろ? 優しくて親切な女の子だったって、君、言ってたじゃないか。どう考えても別人だよ」
「ロン! 失礼よ!」
肩を竦めたロンに、ハーマイオニーが怒ったが、それもそうだとハリーは少し気持ちが落ち着いた。勘違いには驚いたけれど、名前も知らないと思っていたあの人が『レイチェル』だったとしたって、結局あのダイアゴン横丁の女の子とは別人のはずだ。
……どうして、別人だと思ったんだっけ?
「君達に聞きたいんだけど……前に、僕が人探しを手伝ってもらってたときに君達が教えてくれた、夏休みはずっと外国に居たって言う……あれって、『レイチェル』って人の話だよね?」
ハリーが「名前も知らないレイブンクローの上級生」改め「本物のレイチェル」と「ダイアゴン横丁の女の子」が別人だと思った原因は、双子の言葉がきっかけだった。
あまりにも今更なハリーの質問に、双子は不思議そうに顔を見合わせた。……もう1年以上も前のことだから、覚えてないだろうか。ハリーがガッカリしかけたところで、「ああ」とフレッドが何かを思い出したように言った。
「それ、エリザベス・プライスの話だろ? 確か、去年の夏休みはずっとニースに居たって言ってたから」
やっぱりだ。ハリーももう詳しい会話までは覚えていないけれど────あのときハリーは、あのお姫様みたいな人が『レイチェル』だと思い込んでいた。だからたぶん、ハリーは「本物のレイチェル」の話をしていたつもりだったのが、2人には正しく伝わっていなかったのだろう。
「じゃあ、その、夏休みにイギリスに居なかったのは、レイチェルって人じゃないんだね?」
「まあな。でも、確かレイチェルに関しては1番最初に確認したんじゃなかったか? 確かめたけど別人だったって君が言ったんじゃないか」
「アー…まあね。とにかく、それだけ確認したかったんだ。ありがとう」
それ以上の説明はせずに、ハリーはその場を立ち去った。ハリー自身もまだ頭の中が整理できていなかった。
そう、確かに2人には最初に伝えた。2人が教えてくれた『レイチェル』はハリーの探している相手とは別人だったと。でも、ハリーが『レイチェル』だと思っていたその人物は、2人が思い描いていた人物とは違ったのだ。
まさか、あの人が『レイチェル』だったなんて! フレッドとジョージは何も悪くないけれど、ハリーが人探しを諦めたのも、あの会話が原因だった。1番似ていると思ったあの人は、そもそもダイアゴン横丁に行っていないはずだと言われてしまったから。だからハリーは、自分の記憶にすっかり自信を失くしてしまった。でも、双子があのとき指していたのはあの人じゃなかった。と言うことは、やっぱりあの人はハリーの探していた女の子かもしれない。だって、ハリーは諦めると決めて、直接本人に確認したりはしなかったから。
ずっと顔が似ているだけで、別人なのだと言い聞かせていた。でも────もしも、2人が同一人物なら?
「無理よ、ハリー。私、今、レイチェルとは喧嘩中なんだもの。それに、前に私からレイチェルに聞いてみようかって提案したとき、嫌がったのはあなたじゃない」
本人に直接聞いてみるのが確実だとはわかっているものの、ほとんど話したこともないのに、去年の夏休みのこと、しかもたった数分会話しただけのことを今になって聞くと言うのはなかなかにハードルが高い。だからハーマイオニーにそれとなく聞いてもらえないかと思ったのだけれど、ハーマイオニーはキッパリとそう言った。
「私も、以前はレイチェルじゃないかって思ったけど……正直、今は別人じゃないかと思うわ。だって、レイチェルってあなたのこと……」
「僕がどうかしたの?」
「……ううん、何でもないわ。とにかく、確かめるのならご自分でどうぞ」
「ちぇ。わかったよ」
ハーマイオニーが言葉を濁したのが少し気になったが、ハリーはそれでこの話題を終了させた。こうなったハーマイオニーは、ハリーが何を言ったところで無駄だからだ。
とは言え、積極的にあの女の子に話しかけに行く気にもなれず、気づけば1週間経ち、2週間が経った。そもそも廊下や大広間で見かける彼女はいつも友人と一緒に行動していたし、2年生のハリーには彼女の時間割もさっぱりわからない。フレッドとジョージに頼めば教えてもらえるかもしれないけれど、理由を不審がられるだろう。ハリーも相変わらずクィディッチの練習で忙しい。ハリーが彼女と2人で話すためには、彼女が誰かと居るときにそうしたいのだと申し出るか、誰かに頼んで呼び出してもらうほかない。さすがにそこまではしたくないし、そもそも継承者の疑いをかけられているハリーとまともに話してくれる生徒なんてほぼ居ない。
……まあでも、あの人はハリーを疑ってはいない。そう思うとハリーの気持ちは少し前向きになった。
3月の陽気が、心地よく辺りを照らし出していた。絨毯のような緑の芝の上に色とりどりの花が咲き、湖の湖面はキラキラと輝いている。窓の外の景色を眺めながらのろのろと階段を上っていたハリーは、5階へたどりついたところでハッとして立ち止まった。目の前を通り過ぎて行ったのが、まさに今探している人物だったからだ。
────あの人だ。『レイチェル』だ。
「あの……」
今しかない。見たところちょうど彼女は1人きりで、しかも周りには誰も居ない。名前を呼びかけようとして、ハリーは困った。そう言えば名前はわかったけれど、名字を知らない。いきなり親しげに名前を呼んだら、変に思われるかもしれない。
「……私?」
きょろきょろと辺りを見回した彼女が、不思議そうな表情でハリーを見た。どうして呼び止められたのかわからないと言う表情だ。それもそうだろう。ハリーだって、まさか今頃になって1年以上も前の話をするために彼女を呼び止めることになるとは思いもしなかったのだから。
「アー……違ったらごめん。えっと……………貴方は、その……」
今になって、ハリーはどうやって話をするか考えていなかったことに気が付いた。こんなに急に機会が訪れるなんて思っていなかったからだ。何を話そうと思っていたんだっけ。夏休みのこと以外にも何かあった気がする。そうだ、バレンタインカード。すっかり忘れていたけれど、ハーマイオニーの言う通り、あれをくれたのもこの人なんだろうか。
「……私が、何?」
言葉を探すばかりのハリーに焦れたのか、彼女が続きを促した。じっとハリーを見つめている。
……やっぱり、あの夏の日に出会った女の子によく似ている。ホグワーツで見た、誰よりも。
「……僕と」声が震える。心臓が、喉元までせり上がってきているような気がした。ハリーは思わず視線を逸らしそうになったが、意を決して真っ直ぐに彼女を見据えた。
「僕と、ダイアゴン横丁で会いませんでしたか」
彼女の瞳が、驚いたように見開かれるのがわかった。
やっぱりたぶん、この人だ。ハリーの記憶は間違いなんかじゃなかった。
あの日、ハリーを心配して声をかけてくれたのは、ハリーに笑いかけてくれたのは、ハリーの不安を取り除いてくれたのは、きっとこの人だ。ハリーはなぜか、そう確信した。もしかしたらそんな出会いがあったことを忘れてしまっているのかもしれないけれど……きっと、思い出してくれるはずだ。
「……さあ、知らないわ」
けれど────ハリーの期待とは裏腹に、彼女の口から返ってきたのは、そんな囁くような小さな声だった。
さっきまで戸惑いに揺れていた瞳は、今は打って変わって凪いだように静かだった。ガラス玉のように、ただ無機質に目の前に居るハリーを映しこんでいる。
「本当に?」
ハリーは思わずそう聞き返した。よく思い出してほしいと、そんな願いを込めて。だって、そんなはずがない。この人があの女の子でないとしたら、あのときハリーに声をかけてくれたのは一体誰だったと言うんだろう? この人以上にあの女の子に似た人なんて、ホグワーツのどこにも居るはずがないのに。
ハリーが縋るように見つめても、彼女は困ったような表情をするだけだった。伏せた睫毛が、窓から差し込む日差しに透けている。そんな表情さえも、やっぱりあの日の女の子に似ているのに。
「……ええ。残念だけど、人違いだと思うわ」
彼女が踵を返して、また廊下を進んでいく。ハリーは思わずその背中に手を伸ばしかけたけれど、そのまま指先は力なく空を切るだけだった。
「どうして」「そんなはずがない」「何かの間違いだ」。そんな、やり場のない感情がぐるぐると胸の中を巡る。
今度こそ、ようやくあの記憶の女の子を見つけたと思ったのに。