ポリジュース薬さえ完成すれば、マルフォイの尻尾を掴むことができる。
そうすればハリーの潔白は証明されて、もしかしたらマルフォイは退学になるかもしれない。
息が詰まりそうな日々の中、それだけがハリーにとっての希望だったが、結果は上手く行かなかった。いや、計画は成功はしたのだ。ハーマイオニーは調合の難しいポリジュース薬を見事完成させたし、ハリーとロンはまんまとスリザリンの談話室に忍び込み、マルフォイから情報を引き出すことができた。そして────継承者の正体はマルフォイではない、と言うことがわかってしまった。
残念なのはそれだけではなかった。手違いで薬に猫の毛を入れてしまったハーマイオニーは、猫ともヒトともつかない奇妙な姿になってしまった。せっかくのクリスマス休暇だったのに、ハーマイオニーはそれからずっと医務室に入院だし、その顔はまだびっしりと猫の毛で覆われていて、まだまだ退院できそうにない。
「ハーマイオニー。どうかしたの?」
その日もハリーとロンは、医務室にハーマイオニーのお見舞いに行った。気分が落ち込んでいるとは言え、毛玉を吐く以外は健康なハーマイオニーは、いつもなら分厚い本に齧りついていることが多いのだけれど、今日に限ってはベッドの上で体を起こしたまま、ぼんやりしていた。
「ハーマイオニー?」
「ねえ、ハリー。知ってた? 猫の瞳って、涙が出ないのね」
ハーマイオニーは震える声で言い、鼻を啜った。相変わらず不気味に黄色く光っている目玉や、猫の毛に埋もれてしまっている眉からは表情がうまく読み取れないが、その声はひどく悲しげだ。……何かあったのだろうか?
「あなた達にも伝えておかなくちゃいけないことがあるの。……ごめんなさい。レイチェルに知られたわ」
「えっ?」
「さっき、レイチェルがお見舞いに来てくれたんだけど……ちょっとしたアクシデントで、私のこの姿、見られてしまったの」
ハリーとロンは顔を見合わせた。確かに、午後には帰宅していた生徒達が戻ってきて城の中は賑やかになっていた。けれど────ここのところ医務室はずっと面会謝絶で、ハリーとロン以外の生徒がハーマイオニーを見に来てもマダム・ポンフリーに追い返されていたはずなのに。
ハリー達はもう見慣れてしまったけれど、今のハーマイオニーの姿を見たら『レイチェル』は相当驚いただろう。……驚いただけで、終わっただろうか?
「もしかして、ポリジュースの薬のこと、話したの?」
「いいえ。でも……レイチェル、魔法薬学が得意だから……ポリジュース薬の失敗だって気がついたみたい。でも、何に使ったかは話さなかったわ……そのせいで喧嘩しちゃったから、向こうもこれ以上は聞いて来ないと思う」
だから大丈夫、とハーマイオニーが弱弱しく呟いた。
落ち込んでいる様子のハーマイオニーは気の毒だけれど、ハリーは少しホッとした。ハリー達がスリザリン寮に侵入したことだとか、マートルのトイレのことはバレてないらしい。しかし、冷静に考えてみるとポリジュース薬のことがバレただけでも十分まずい。何がまずいかって、スネイプからポリジュースの材料を盗んだことがバレたら、間違いなくハリーとロンは退学になる。
「えっと……その『レイチェル』って人、皆に言いふらしたりはしない、よね?」
「レイチェルはそんなことしないわ!」
「でも……」
「そんなの、信じられるもんか!」
ハリーの質問に、ハーマイオニーがムッとしたように答える。と思ったら、今度はその返事にロンが噛みついたので、その剣幕にハリーは言いかけた言葉を呑みこんだ。ロンは耳まで赤くなり、カンカンになって怒っていた。
「去年のこと、もう忘れたのか? あいつ、君の『レイチェル』は、頭でっかちのわからず屋だ! 僕達に事情があったことなんて、理解してくれるはずがないよ!今頃、先生に言いつけてるに決まってる!」
「ロン! やめて!」
「いくらだって言うさ。あいつは自分が正しくて、僕達が間違ってるって思いこんでる。皆の前で君のことを責めて、いきなり君のこと殴ったんだ!」
「そんなことないわ。やめてったら!」
「何であんな奴のこと庇うんだ!」
「私の友達だからよ!レイチェルのこと何も知らないくせに、悪く言わないで!」
ハーマイオニーがほとんど悲鳴のような、泣きそうな声で叫んだ。
ハリーもロンもすっかり忘れていたが、ここは医務室だ。患者を興奮させたと怒り狂ったマダム・ポンフリーによって、ハリーとロンはその30秒後には廊下へと追い出されてしまった。
「何だよあいつ! 『レイチェル』とは喧嘩したんだろ? それなのに僕が悪く言ったら怒るって、わけがわかんないよ!」
「うーん……」
廊下を大股で進むロンは、まだ怒っていた。ハリーは怒ってはいなかったが、不安だった。『レイチェル』と友達のハーマイオニーと、『レイチェル』を嫌っているロン。2人の意見は正反対だ。一体どっちが正しいのだろう? ハリーにはわからない。たぶん、ロンの言う通りハーマイオニーは『レイチェル』と近すぎて盲目的になっている部分もあるのだろうし、ハーマイオニーの言う通り、『レイチェル』を嫌っているロンは『レイチェル』のことをよく知らない。
「たとえば、僕と君が……何か、口も聞きたくないってほどの大喧嘩をしたとして」
「そんなこと、あるはずないよ」
ロンのキッパリとした口調に、ハリーは思わずニッコリした。
ハリーもできるならロンとは喧嘩せずにずっと仲良しで居たいと思うし、今までもハリーは友達と喧嘩なんてしたことがない。だから想像だ。想像だけれど────。
「それでも、ダドリーが君の悪口を言ったら、やっぱり嫌だと思うな。喧嘩したとしても、君がいい奴だって知ってるから」
ハリーがそう言うと、ロンがポッと耳を赤らめた。
それからしばらくの間、ハリーは今にマクゴナガル教授に呼び出されてポリジュース薬について問い質されるのではないかと不安だったが、ハリーの周りではポリジュースのPの字すら聞くことはなかった。どうやらハーマイオニーの言っていた通り、『レイチェル』は誰かに言いふらすことはなかったようだ。
また口論になって医務室を追い出されては困るので、あれ以来ロンもハーマイオニーも1度も『レイチェル』の名前は出さなかった。ハーマイオニーは『レイチェル』と喧嘩したせいでますます元気をなくしていたが、ロックハートからのお見舞いカードによって少し元気を取り戻したようだった。
「悪いんだけど、ハリー。これ、私の代わりに図書室に返してもらってもいい? あと、その続き……できたら、まとめて5冊くらい。借りてきてもらえると助かるんだけど」
「あー、ウン。いいよ」
今日もハーマイオニーのお見舞いに行ったハリーは、ハーマイオニーの“ちょっとした軽い読書”用の本の返却と調達を頼まれた。軽い気持ちで引き受けたけれど、鞄に詰め込んだ分厚い本はずっしりとした重みを持ってハリーの肩に食い込んでいる。さっさと頼まれた用事を済ませてしまおうと、医務室を出たハリーは図書室へ向かった。そして、ハーマイオニーに言われた本を探していると、意外な人物の姿を目にした。
あの人だ。
そして、ハリーはおや、と思った。何だか、元気がないように見えたのだ。通路を進むその足取りも、少しふらついているように見える。
度重なる事件のせいで────ハリーとロンは真相を知っているが、生徒達の噂では医務室から出て来ないハーマイオニーも継承者に襲われたことになっている────ホグワーツ生の多くは皆神経をすり減らしている。だから、彼女もそうなのかもしれないけれど……それにしても、ちょっと顔色が悪かったような気がする。もしかして、体調が良くないんじゃないんだろうか?
と思っていたら、彼女が足を止め、本棚に寄りかかるようにしてその場にうずくまった。
やっぱり、気分が悪いんだろうか? ……声をかけた方がいいだろうか?
「大丈夫?」
彼女にそう声をかけたのは、ハリーではなかった。
ハッフルパフのローブを着た、背の高い男子生徒が、彼女に駆け寄った。ハリーからは横顔しか見えないけれど、どうやら上級生のようだ。うずくまった彼女に手を貸して、助け起こしている。
「気分が悪いなら、医務室に行った方が……」
「大丈夫。今日、寝不足で……ちょっと気持ち悪くなっちゃった」
「顔色悪いよ。熱は?」
「もう……大丈夫だってば。セドは心配しすぎ」
彼女の体温を確かめるかのように、額に手の平が触れる。彼女はくすぐったそうな表情をしたけれど、その手を嫌がったり、恥ずかしがっているようには見えなかった。まるで、それが当たり前で、いつものことみたいに。会話からしてどうやら元々知り合いのようだけれど、ただの同級生や友人にしては、あまりにも親密そうな雰囲気だ。……もしかして、恋人同士なのだろうか?
そう考えて、ハリーはざわりと感情が波立つのを感じた。それだけじゃない。胃の中で、熱を持った何かが蠢いている。────ハリーにも制御のできない、何かが。
ハリーは踵を返し、2人を見ないようにしてその場から立ち去った。何だかモヤモヤとして、嫌な気分だった。そして、自分が嫌な気分になっていることに、何よりも動揺した。
この感情の名前を、ハリーは知っている。
けれど、ありえない。そんなはずがない。
知っている。これは嫉妬だ。でも、だって、どうして嫉妬なんかするのだろう? あの人が誰と仲が良さそうにしていたって、誰か恋人が居たとしたって、ハリーには関係がないことのはずだ。ハリーはあの人のことを好きなわけじゃない。そもそも、友達ですらないのだから。
『まるで白鳥の湖みたいね』
『君はそのオヒメサマに恋してるんじゃないかと思ってたけどな』
ハーマイオニーやフレッド達の言っていたように、ハリーがもしも恋をしているとしたら────ハリーはそんな風には思っていないけれど、もしも万が一そうだとしたら────その相手はたぶん、ダイアゴン横丁で会ったあの女の子なのだろう。それなら、まだ納得できる。彼女はハリーに親切にしてくれたし、魔法界で初めて出会った女の子だったから。
でも、あの人は……あの人のことが気になっていたのは、あの女の子に似ていたからだ。だから、あの女の子の面影を重ねてしまった。つい、目で追ってしまっていた。それだけだ。
嫉妬なんて、そんなはずがない。だって、ハリーはあの人のことをほとんど何も知らない。名前すら未だに知らない。あの人を好きになる理由が思い当たらない。
ハリーに優しかったのも、ハリーの不安を取り除いてくれたのも、あのダイアゴン横丁で、あの人じゃない。あの人はただ、似ているだけだ。見た目が似ていても、あの女の子とは別人だ。
わかっているのに。似ているから、錯覚してしまう。あの人が泣いていると、あの女の子が泣いているみたいだから。あの人が笑っていると、あの女の子が笑っているように見えるから。
だから────今この胸に渦巻いている感情も、きっと、ハリーの錯覚なのだろう。