新学期の始まりは、“何もかも順調”とは行かなかった。
隠れ穴での日々が素晴らしく楽しかったので、ホグワーツに戻るためとは言え、ハリーはこの風変わりで温かな家を離れることに寂しさを感じた。ハリーをここに連れて来てくれたトルコ石色のフォード・アングリアにもすっかり親しみを覚えていたし、キングズクロスで車を降りるときは何だか名残惜しいと思ったのは事実だ。でもだからと言って、決してそのまま車に乗ってホグワーツの校庭に乗りつけたいなんて思っていたわけではなかった。どうしてか9と4分の3番線に入れなかったせいで、他に方法がなかったのだ。……いや、後から考えたら他にも方法はあったと気づいたけれど、あのときはそれしか思いつかなかった────ハーマイオニーが居れば、車を宙に浮かせる前に他の手段を考えられたかもしれないけれど。
何はともあれ、そのせいで暴れ柳には襲われるし、ロンの杖は怒っているし、フォードアングリアはどこかへ行ってしまったし、スネイプにはネチネチやられるし、授業が始まる前から罰則を言い渡されるし、ハーマイオニーは怒っているし、ヘドウィグも怒っているし────とにかく、最初の1日はハリーにとっては不本意なことの連続で、散々な目に遭った。
トラブルは翌日も続いた。朝食のときに届いた吼えメールに始まり────もっともこれはハリーではなくロンに宛てたものだったけれど────新聞にハリーとロンの“登校風景”の記事が載ってしまったせいで、ハリーとロンは遠巻きにヒソヒソ囁かれたり、すれ違いざまにジロジロ見られたり、からかい混じりに声をかけられたりした。注目されるのも、噂されるのも、知らない相手に妙に親しげにされるのも、すっかり慣れたと思っていたけれど、やっぱり何だか気疲れする。
「ねぇ、ハリー。さっき、ロックハート教授と何を話してたの?」
「別に……大したことじゃないよ。ハーマイオニー」
一面記事の影響は、ハリーの予想以上に大きかった。薬草学の授業の前には、ロックハートに長々と話に付き合わされたし────どうやら自分のせいでハリーが目立ちたがり屋になったと思い込んでいるようだった────昼休みになると、今度はコリン・クリービーと言う1年生に話しかけられた
「あの……もし君がよかったら、写真を撮ってもいいですか?」
初対面の相手にいきなりそんなことを言われても、ハリーはどうしたらいいかわからなかった。
行き場なく彷徨わせた視線の先に、ハリーはふとある人物の存在を見つけた。少し離れたところに、あの女の子が居た。友達と一緒で、楽しそうにおしゃべりしている。
「僕、君に会ったってことを証明したいんです。僕、君のことは何でも知ってる! みんなに聞いたから。『例のあの人が君を殺そうとしたのに生き残ったとか、君の額には今も稲妻形の傷があるとか────」
彼女はハリー達には気が付いてないようだ。……向こうにこの会話が聞こえなければいいな、とハリーは思った。ハリーが気乗りしていないのが伝わったせいか、最初は遠慮がちだったコリンの口調はどんどん熱っぽくなり、声も大きくなってきていた。
「サイン入り写真だって? ポッター、君はサイン入り写真を配ってるのか?」
けれど、ハリーのそんな願いは崩れ去った。原因はコリンではなかった。マルフォイだ。
わざと周りに聞こえるように声を張り上げたマルフォイのせいで、何事かと中庭に居た生徒達の視線がハリー達に集まった。
「みんな、並べよ! ポッターがサイン入り写真を配るそうだ!」
ハリーは立ち上がって、マルフォイを睨みつけた。マルフォイの肩越しにまたあの女の子の姿が見えた。
ハリー達を見つめているその顔が、驚いたような、困惑したような表情を浮かべているのがわかって、ハリーは胃のあたりが焼けつくように熱を持つのを感じた。
「僕はそんなことしてない!」
ハリーも負けじと声を張り上げた。
今にも呪いの打ち合いが始まりそうだった空気は、ロックハートが通りかかったことによってうやむやになった。不本意なことに、ハリーはロックハートにその日2度目の「有名人気取りの自惚れ屋」のレッテルを貼られ、なぜだかロックハートとツーショット写真を撮る羽目になった。そして、いつの間にかあの女の子の姿は中庭から消えていた。
「気にするなよ、ハリー。あんなの、マルフォイがデタラメ言っただけだって、みんなわかってるさ。本当、あいつは最悪な奴さ」
ロンはそう言って慰めてくれたけれど、ハリーの気分は晴れなかった。
中庭に居た生徒達も、わかってくれただろうか?それとも、ロックハートが勘違いしたみたいに、ハリーが誰かれ構わずサイン入りの写真を配っていると思っただろうか? 自意識過剰の目立ちたがり屋だと、そんな風に。あの人も、誤解しただろうか?
違うのに。フォード・アングリアを飛ばしたのだって、注目されたかったからやったわけじゃない。ハリーはそんなこと、していないのに────。
マルフォイが最悪なのは今に始まったことじゃない。
ハリーの知る限り、出会ってから今まで、マルフォイが最悪でなかった日は1日だってない。けれど、先週の土曜日に起きた出来事は、ロンに言わせれば「今までとは比べ物にならないくらい最悪中の最悪」らしい。それくらい、マルフォイがハーマイオニーに向けて言い放ったあの言葉────“穢れた血”と言うのは、ひどい侮辱の言葉なのだと。
ロン、それにフレッドとジョージ、アンジェリーナにアリシア、ケイティ、ウッド。つまりスリザリンチーム以外のその場に居たほとんど全員が、マルフォイに対してものすごく怒っていた。けれど、言われたハーマイオニー、そしてハリーは彼らほど怒れなかった。そもそもその言葉の意味を知らなかったからだ。とは言え、皆があそこまで怒るなんて尋常じゃないと言うことはわかったので、ハリーはマルフォイのことがますます嫌いになった。
「絶対あいつなんかに負けるなよ、ハリー!」
そのマルフォイがスリザリンのシーカーのポジションに収まって、しかもマルフォイの父親がスリザリンチーム全員に最新の箒を贈ったと言うのだから、腹立たしいことこの上ない。月曜日にはスリザリンとの合同授業はなかったが、ハリーはあの競技用ローブを着たマルフォイの得意げな顔を思い出しては気分がムカムカした。
「いやだ、もうこんな時間? 私、図書室に行かなくっちゃ」
放課後、3人は大広間で呪文学のレポートを書いていた。ハリーはようやく指定された分の半分、ロンはやっと3分の1と言うところなのに、もう2巻目に入っていたハーマイオニーが、ふいにそう言って羽根ペンを止めた。図書室、と言う単語を聞き咎めたロンが嫌そうに顔を顰めた。
「まさか、また『レイチェル』と会うんじゃないよな?」
「だとしたら何だって言うの?」
ロンの棘のある口調も取り合わず、ハーマイオニーはツンと顎を逸らした。そんな2人の会話を聞きながら、ハリーも時計を見た。まだ少し時間に余裕はあるけれど、そろそろハリーもレポートは切り上げた方が良さそうだ。
「僕もそろそろ行くよ」
今日もこのあと、クィディッチの練習がある。競技用のローブに着替えて、箒を取りに1度寮に戻らなければいけない。シェーマス達と一緒に話しているロンを残して、ハリーはハーマイオニーと一緒に大広間を出た。
「『レイチェル』って人と約束してるの?」
「今日は違うわ。読みたかった本が今日返却されてるはずだから、誰かに借りられる前に借りたいの。じゃあね、ハリー」
曲がり角でハーマイオニーと別れ、ハリーは寮に戻ろうとしたが、少し進んだところで元来た道を戻った。今の会話で、借りていた本をまだ返していないことを思い出したのだ。確か返却期限は明日だったはずだけれど、明日になったらまた忘れてしまうかもしれないから、今返しておいた方がいいだろう。
そう思って向かった先の図書室でハリーは意外な光景に出くわした。
向こうの本棚の方から話し声が聞こえると思ったら、誰かが通路に出てきた。こっちに向かってくるその人物が誰だかわかって、ハリーはドキッとした。あのレイブンクローの女の子だった。急ぎ足で、少し俯き気味だし、本棚の影になっているハリーには気づいていないみたいだけれど────ハリーには、彼女の表情がとても悲しそうで、その瞳が潤んでいるのがわかった。
泣いている。
ハリーは思わず、その背中を追いかけそうになった。けれど結局、1歩を踏み出したまま、その場で立ちつくしてしまった。友達でも何でもない、事情も知らないハリーにできることは少ないだろうと思ったからだ。そもそも、呼び止めようにもハリーは彼女の名前を知らない。
友達と喧嘩でもしたのだろうか。そんなことを考えながら、彼女が図書室を出て行くのを見送っていると、彼女が出てきた本棚の影からもう1人誰かが出てくるのが見えた。
「……マルフォイ?」
後ろ姿だけれど、薄暗がりでもわかるあのプラチナブロンドは間違いない。
さっきのあの女の子の泣き顔が頭に浮かんで、ハリーは胸の中が妙にざわつくのを感じた。何か見てはいけないもの見てしまったような気がして、落ち着かなかった。どうして、あの人がマルフォイなんかと? ……いや、そうだ。そう言えば、2人は知り合いみたいだった。前にも、彼女がマルフォイに話しかけているところを見たじゃないか。きっと、ハリーよりもずっと親しいのだろう。
あの人が泣いていた。
……いや、違う。“泣いていた”んじゃない。きっと、マルフォイが泣かせたんだ。ハリーは苛立ちに拳を握りしめた。
マルフォイの奴が、何かひどいことを言ったに決まっている。あいつは、ハーマイオニーのことだって侮辱したんだから。そうに決まってる。
ハーマイオニーを傷つけただけじゃなく、上級生の女の子まで泣かせるなんて、マルフォイは本当に最低の奴だ。