サワサワと草の葉が揺れる音が、心地よくハリーの耳を撫でていく。
愛用の箒、ニンバス2000の柄を傾けて、ハリーは地面へと降り立った。まさか、こんな風にまたクィディッチができるなんて、ほんの2週間前のハリーは想像すらしなかった。こうして自由な時間を過ごしていると、プリベット通りでのみじめな暮らしが悪い夢のように思えた。
空飛ぶ車で迎えが来て、隠れ穴に滞在するようになってからと言うものの、ハリーは素晴らしい夏休みを過ごしていた。穏やかでのんびりとして、それでいて刺激的で退屈しない。魔法使いの暮らしはハリーにとって新鮮なことばかりで、ウィーズリー家の人々はみんなハリーに優しい。缶詰のスープで空腹をしのぐこともないし、何より親友のロンが居る。
……訂正、ロンは居ない。ロンは今、丘の下へと転がっていってしまったリンゴ────ボール代わりだ────を取りに行っていた。戻って来るまではもうしばらくかかりそうだ。

「あれ?」

ぼんやりと遠くの景色を眺めていたハリーは、思わず目を擦った。
遠く見える家の煙突から、奇妙な紫色の煙が噴き出していた。見間違いかとハリーが瞬いていると、ジョージが「ああ」と納得したように言った。

「あそこも魔法使いの家だからな。俺達の家と違って、見た目はマグルの家っぽいけど」
レイチェル……俺達の同級生が住んでるんだ。君も知ってるだろ、ハーマイオニーと友達の」
「ウン……まあね」

話したことはないけれど、顔は知っている。ハーマイオニーの年上の友人。図書室や廊下で何度か見かけた、巻き毛の黒髪のいかにもレイブンクロー生らしい、賢そうで少し神経質そうな、お姫様みたいな美人だ。

「この辺りは魔法族が多いんだ。レイチェルの家の隣……ほら、あれもそうだ。俺達の同級生が住んでる。ここからだと見えないけど、フォーセット家────レイブンクローとハッフルパフの姉妹で、姉の方は俺達と同じ学年だ────と」
「あとはラブグッド家────あそこん家はジニーと同じくらいの女の子だっけな……も住んでる。まあ、俺達が知ってるのはそれくらいだな」
「魔法使い同士が近くに住んでると、よく会ったりするの?」
「いーや、ほとんど会わないな。まあでも、この夏休みは会った。実は君にふくろうを送るのに、1度レイチェルの家のふくろうを借りたんだ。ここからだと1番近いし」
「まさか原因が屋敷しもべ妖精だとは思わなかったからな」

フレッドがそう言って肩を竦めた。ハリーは何だか不思議な気分だった。プリベット通りに住んでいる魔法使いはハリーたった1人きりなのに、眼下に広がっているあの小さな村の周りには、そんなにもたくさん魔法使いが居るなんて。

「興味があるなら、近くまで行ってみるか? ただ、歩くとなると結構時間がかかるぜ」
「それに、レイチェルに関して言えば本人は今あそこに居ないしな」
「どうして?」
「ルーマニアのドラゴン研究所に行ってるらしい。チャーリーからの手紙に書いてあったんだ」

そう言えば、『レイチェル』の父親はドラゴン研究所に勤めているんだっけ。ハーマイオニーから聞いた話を思い出し、ハリーは納得した。ドラゴン……ハリーはノーバートの凶暴さを思い浮かべた。あの『レイチェル』って人、ドラゴンなんて見ただけで気絶してしまわないだろうか。

「そうだ、ハリー。今の、ロンには内緒にしてくれよ。レイチェルがドラゴン研究所に居るって話」」
「えっ? どうして?」
「ロンの奴、レイチェルのこと毛嫌いしてるんだよな。君へのふくろうを借りに行こうって話になったときも、猛反対してたんだ」
「あー……」

ハリーは先学期の出来事を思い出した。確かに、『レイチェル』に対して、ロンはかなり怒っていた。ハリーが医務室に居た間の出来事が原因なのでいまひとつピンと来なかったが、どうやら怒りはまだ解けていないらしい。

「その『レイチェル』って人ってハーマイオニーのこと、殴った……そうだよね?」
「殴った……まあ、そうだな。殴ったって言うか、叩いたって言うか」
「大変だったよな、あのとき。本人もその後に泣いちまってたし……1年生の時、俺達がスネイプ用に掘った穴に落ちたときだって泣かなかったのに」

どう言う状況なんだろう……。殴られたハーマイオニーが泣いたのならわかるけれど、どうして殴った方が泣き出すのだろう? フレッドとジョージに聞いてみればもう少し詳しくわかるかと思ったけれど、謎は深まるばかりだ。

「まあ、とにかくハーマイオニーお嬢さんのことが心配で仕方ないんだよな。ロニー坊やは」
「ところが、本人には全くその自覚がないと来た。ありゃ厄介だぞ」

ジョージが肩を竦め、フレッドが溜息を吐いた。やっぱり、ハリーにはハーマイオニーと『レイチェル』の間に何が起こったのか、よくわからないけれど────何にしても、当分ロンの前では『レイチェル』の名前は出さないように気を付けた方が良さそうだ。

「でも、意外だな。何て言うか……あの『レイチェル』って人、全然そんな風に見えないから。繊細そうって言うか……誰かを殴るどころか、誰かが殴られてるところを見ただけでショック受けそうなのに」

ロンの言葉を疑っていたわけじゃないけれど、やっぱりあの虫も殺せなさそうな人がハーマイオニーを殴ったと言うのは、ハリーには何だか信じられない。でも、フレッドとジョージもこう言っているのだから、それは事実なのだろう。ハリーが呟けば、フレッドとジョージは何だか不可解そうな、奇妙な表情で顔を見合わせた。

「ウーン……そりゃ、ドラゴンやグラップポーンと比べれば“大人しそう”だろうけど……レイチェルって、そこまでか弱そうに見えるか?」
「どうかな。まあ、見た目の印象より気が強いってのはそうかもな」

ちょうどそのときロンがリンゴを持って戻ってきたので、3人はそこで話を切り上げた。

 

 

 

1年ぶりに訪れたダイアゴン横丁も、やっぱり素晴らしく楽しい場所だった。
とは言え、いくつかの“トラブル”もあったので────隠れ穴に戻って皆で夕食を食べたあと、ハリーは疲れ切ってぐったりとベッドに横になっていた。
慣れない煙突飛行に、夜の闇横丁。書店でのマルフォイ親子との諍い。それにロックハート。マルフォイとロックハートに関しては、ホグワーツに行っても避けられないのだと思うとウンザリする。

「大丈夫かい? ハリー」

心配して声をかけてくれたロンに、ハリーは生返事をした。とにかく疲れていた。
ロンがシャワーを浴びに部屋を出て行くと、そのまま半開きになったドアを誰かが遠慮がちに叩いた。起き上がって視線を向けると、その陰からひょっこりと小さな赤毛の頭が覗いていた。ジニーだ。胸に大事そうに何か抱えている。昼間ハリーがジニーに譲ったロックハートのサイン本だ。

「ハリー、あたし、あのっ、教科書をありがとう。大切に使うわ」
「あー……ウン。君が使ってくれるならその方がいいよ」

どうやら、わざわざそれを言いに来たらしい。別に気にしなくていいのに────ハリーが力なく笑みを浮かべると、元々薄っすらと赤く染まっていたジニーの頬がさらに紅潮した。ジニーはモゴモゴと何か言っていたが、ハリーにはよく聞き取れなかった。結局、耳まで赤くなったジニーは、慌てて部屋を出て行った。その足音が小さくなっていくのを見送って、ハリーはまたベッドに倒れ込み、瞼を閉じた。

────やっぱり、あの女の子はダイアゴン横丁にも居なかった。

ロンが以前言ったことを真に受けていたわけじゃないけれど、ダイアゴン横丁に行ったらあの女の子にまた会えるかもしれないと、そんな期待がほんの少しもなかったと言えば嘘になる。
でも────。そう考えたところで、ふ、とハリーの頭上が暗く翳った。不思議に思って目を開けると、フレッドとジョージがハリーの顔を覗き込んでいた。

「『オデット姫』のこと考えてたのかい? ハリー」
「な、なんで……」

ニヤッと笑ってみせる2人に、ハリーは動揺した。
どうしてハリーがあの女の子のことを考えていたとわかるのかとか、どうしてその呼び名を知っているのとか、いつの間に部屋に入ってきたのかとか、ぐるぐる疑問が頭の中を回ったが────ここで慌てたら2人はますます面白がるに違いない。ハリーは1度深呼吸をしてベッドに座った。

「もしかして、ダイアゴン横丁で会えたのか?」
「……会えてないよ。でも、もういいんだ」

ダイアゴン横丁に行けばまた会えるんじゃないかと期待した。でも、ダメだった。それは確かだ。
けれど────自分でも意外なほど、ハリーは落ち込んでいないのだ。ハリーが静かに首を振ると、フレッドが「おや」と意外そうな表情をした。

「君はそのオヒメサマに恋してるんじゃないかと思ってたけどな」
「そんなんじゃないよ」

ハリーはムッとして言い返した。ハーマイオニーもそうだったけれど、どうしてハリーがあの女の子に恋をしているのだと思いたがるのだろう。確かにちょっと……可愛いなとは思ったけれど、でも、一目惚れだとか、そんなんじゃない。

「ただ……もう1度話がしてみたかっただけだよ」

恋だとか、憧れだとか。そうじゃない。だって────ハリーに対するジニーや、ロックハートに対するハーマイオニー。ハリーはあんな風にあの女の子を目の前にしても真っ赤になったり、急に声が出せなくなったり、熱っぽくウットリ見つめたりなんてしなかった。

「君達にも協力してもらったのに見つからないままになっちゃったのは、申し訳なかったと思うけど……」

2人はもう少し探そうと言ってくれていたのに、人探しを打ち切ってしまったのはハリーだった。あのまま諦めずに探していたら、もしかしたら見つかったかもしれないのに。ハリーが眉を下げると、ジョージが悪戯っぽく笑ってみせた。

「どうして、俺達が君の『人探し』に協力したかわかるかい?」
「えっと…………面白そうだと思ったから?」
「まあ、それも否定はしない」

ハリーが戸惑いがちに答えると、フレッドが真面目くさって言った。あまりにも手掛かりが少ないから、逆にゲームみたいで楽しそうだと言っていたのは覚えているけれど、それ以外にも他に何か理由があったのだろうか?

「『俺達に協力してもらってでも、もう1度その女の子に会いたい』って意味だと思ったからさ」
「探すのが難しいってわかったら、大抵は面倒になって諦める。でもハリー、君はそうしなかった。だろ?」

ハリーはポカンと口を開けた。
まさか、2人がそんな風に考えて居たなんて。どうしてか、首筋から熱が這い上がって来るのを感じて、ハリーは俯いた。

「違うよ。僕、僕は、ただ────」

ただ────何だろう?
会いたいと思った。簡単に会えると思った。それなのに会えなかったから、気になった。
たぶん、それだけだ。ほんのちょっぴりの好奇心。満たされたなかったから、意地になってしまった。本当にただ、それだけ。楽しみにしていたデザートがダドリーに食べられてしまっていたら、後になっても思い出してしまうのと同じだ。

だからきっと、ハリーのこの感情は、恋や憧れなんかじゃない。

隠れ穴

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