4月になった。
この頃のハリーの毎日と言えば、あまり楽しいものではなかった。イースター休暇の少し前から、ハーマイオニーは試験まであと10週間を切ってしまったことを重く受け止め、ハリーやロンに対しても試験勉強を進めるように迫ったからだ。
「ねぇ、試験まではまだ2か月もあるんだよ、ハーマイオニー」
「正確には、1か月と28日ね」
溜息を吐いてハリーがそう言っても、ハーマイオニーは特に気にした様子もなく、魔法薬学の教科書から目を離すことはなかった。ハリーは目の前に積まれた羊皮紙の束を見てウンザリした。これまでハーマイオニーの勉強熱心には助けられてきたが、シェーマスやディーン、それにネビル────周りの同級生達も、まだ試験勉強を始めている様子はない。いくら何でもハーマイオニーは気が早すぎると言うのがハリーとロンの意見だった。
「それに僕達、まだ1年生なんだぜ。OWLやNEWTの上級生ならともかく、今からそんなに焦って勉強してるのなんて君くらいだよ。フレッドとジョージだって、まだ試験勉強なんかしてない」
「お生憎さま」
ロンのぼやきも、ハーマイオニーは取り合わない。ツンと顎を逸らしたハーマイオニーは、どこか勝ち誇ったような表情だった。
「レイチェルは貴方のお兄さん達と同級生だけど、もう試験勉強を始めてるって言ってたわ。私だけなんかじゃありません」
「じゃあ、その『レイチェル』と仲良く勉強すればいいじゃないか。僕らを巻き込むなよ」
「あらそう。なら、このノートは必要ないみたいね」
「そんな! 」
ハーマイオニーがサッとロンの手元から昨日の魔法史の授業のノートを取り上げると、ロンが絶望的な表情になった。読み終えた本を本棚へと戻しに行くハーマイオニーの背中を何となしに見つめていると、ロンが大きな溜息を吐いた。
「あいつ、『レイチェル、レイチェル』ってそればっかりだよな」
「まあ……仕方ないよ。元々、僕達よりも先に仲良くなったって言ってたし」
「レイブンクロー生って、全員ハーマイオニーみたいなのか?」
「どうかな」
ハリーは以前図書室で見かけたハーマイオニーの友人を思い浮かべた。どこか近寄りがたい雰囲気で、すごい美人だったけれど、いかにも賢そうと言うか、本が好きそうと言うか────ハーマイオニーと気が合いそうなタイプに見えた。確かにあの人なら、もう試験勉強を始めていると言われても納得だ。
「どんなに美人でも、勉強勉強ってうるさいのは嫌だな」
ロンのそんな呟きを聞きながら、ハリーの脳裏にまたあの少女の姿がよぎった。
────あの人は、レイブンクロー生だけどそんな風には見えなかったな。頭に浮かんだそんな考えを振り払うように、ハリーは首を横に振った。
……どうして、あれだけ探しているときはなかなか見つからなかったのに、忘れると決めた途端、よく見かけるようになるのだろう。
廊下の角を曲がってこちらに向かってくるのは、あのレイブンクローの女の子だった。急いでいるのか、慌てた様子でハリーの脇を駆け足で走り抜けていく。次の授業の教室が遠いのかな、なんてぼんやりと考えていたハリーは、ふと1歩進んだ先の床に何かが落ちているのに気がついた。
淡いパステルカラーに、花の模様の刺繍────ハンカチだ。誰かの落し物だろう。……もしかして、あの女の子のものだろうか?
床からハンカチを拾い上げたハリーは、どうしようかと戸惑った。タイミングから言って、あの女の子のものの可能性は高いような気がする。走っていたせいで、ローブのポケットから落ちてしまったのだろう。でも、ハンカチを落とす瞬間をはっきり見たわけじゃないし、あの女の子のものじゃないかもしれない。でも────。
ハリーは思わず振り返った。ローブの後ろ姿は随分小さくなっていたけれど、まだそれほど遠いわけじゃない。まだ追いつける。そう確信した瞬間、ハリーは走り出していた。
「待って!」
予想通り、追いつくのにそう時間はかからなかった。けれど、その先が難しかった。廊下は騒がしいし、走りながら声を張り上げるのは難しい。相手も急いでいるし、呼び止めようにもハリーは彼女の名前を知らなかった。……どうして僕は、名前も知らない女の子をこんなに必死に追いかけているのだろう?
────ああ、もう。仕方がないから彼女のローブの袖を掴むと、ようやく足が止まった。急いでいるのにいきなりローブを引っ張られたのだから当然かもしれないけれど、振り返った女の子の怪訝そうな視線に、ハリーは思わず怯んでしまった。あの女の子に似た顔でそんな表情をされると、何だか落ち着かない。
「あの、これ……えっと、違いますか?」
「あ……」
ハリーが差し出したハンカチを見て、彼女の瞳が驚いたように見開かれる。なぜハリーが自分を引きとめたかがわかったせいか、ほんの少し不機嫌そうだった表情は一瞬で困ったような、申し訳なさそうなものに変わった。……やっぱり似ている。
「あ……えっと……私ので合ってるわ。どうもありがとう」
「いいえ。どういたしまして」
ふっと表情を綻ばせた女の子につられて、ハリーも思わず笑った。やっぱりこのハンカチは、彼女のもので合っていたらしい。やっぱり追いかけてよかったなと、ハリーはホッとして肩の力を抜いた。手の中のハンカチは、改めて見てみると彼女の雰囲気によく似合ってるように思えた。
「あの……」
彼女が困ったような、戸惑ったような表情で何かを言いかける。けれど、ハリーがその続きを聞くことはなかった。どうやら、廊下の向こうから誰かが彼女に向かって声をかけたらしく、彼女の意識がそちらに逸れたからだ。
「セド、待って! 今行くから!」
彼女の視線はハリーから外れて、少し先に居る誰かを振り返って答える。顔はよく見えないけれど男子生徒で、ハッフルパフのローブだ。彼女は腕時計とハリーの顔とを見比べて、ますます困ったような表情になった。
「ごめんなさい、今急いでて……本当にありがとう!」
「あ、ウン……」
ハリーが握ったままになっていたハンカチを受け取って、彼女はまたパタパタと廊下を走っていく。再び小さくなっていくその背中が角を曲がるまで、ハリーはぼんやりとその姿を目で追いかけていた。わずかに触れた指先が熱を持っているような気がして、ハリーはぎゅっと掌を握りしめた。
────彼女は、何を言おうとしていたんだろう?
もう少し話をしたかったな、とハリーはほんの少しだけ残念に思った。それに、もう何度も顔を合わせているのに、結局まだ彼女の名前もわからないままだ。
名前を聞けばよかっただろうか? ……でも、名前を聞いて、どうするつもりなんだろう? だってあの人は、あのダイアゴンの横丁との女の子とは別人なのに。
たった1度会ったきりの、どこの誰かもわからない女の子と似ているから、なんて。そんな理由で勝手に親しみを抱かれても、困らせるだけだ。一方的に親近感を抱かれることの居心地の悪さは、ホグワーツに入学してハリーが散々思い知ったことなのだから。
だからきっと────きっと名前なんて聞かなくてよかったんだ。そう自分に言い聞かせて、ハリーもまた踵を返した。
「気のせいかな……」
さっき、ハリーと話している彼女に向かって、廊下の先から誰かが呼びかけたとき。彼女のことを、『レイチェル』と呼んでいた気がしたけれど。一瞬のことだったし、他の生徒達のおしゃべりで騒がしかったから、はっきりとは聞き取れなかった。ハリーの勘違いかもしれない。
きっと、ハーマイオニーから『レイチェル』の話をよく聞いているせいで、聞き間違えたのだろう。