忘れもしない、11歳の誕生日。ハリー・ポッターが最初に出会ったホグワーツ生は、あのにっくきドラコ・マルフォイだった。
お互い初対面で、そう長く会話をしたわけでもないのに、彼は自分とはこの先も気が合わないだろうとハリーは確信した。マルフォイはハグリッドを召使いだと言って馬鹿にしたし、マグル生まれを蔑んだ。そのときは気づかなかったし、マルフォイ自身もそうした意図はなかっただろうけれど、つまりハリーの母親を侮辱したのと同じことだ。ハリーとマルフォイが親友になるためには、ハリーが自分を守って死んだ母親の存在を消してしまうか、マルフォイがあの骨まで沁みついている純血主義と決別するかのどちらかしかない。
まあそんなことは天地がひっくり返ったとしてもありえないだろうし、ハリーはマルフォイと仲良くなりたいなんて思っていないのでどうでもいいことなのだが、何事も初めてのものとは言うのは強く印象に残るものだ。ただでさえ、見慣れない不思議なものだらけの町並みや、見知らぬ大人達からの熱烈な歓迎、そしてハグリッドから聞かされた色々なこと────例のあの人だとか自分とその人物の思いもよらない関係だとか、そのせいで自分の知名度は魔法界では大統領みたいに高いことだとか───で戸惑っていたのだ。ドラコ・マルフォイとの出会いは、ハリーを憂鬱にさせるのに十分な効果を持っていた。
真新しいローブも、ピカピカの大鍋も、動く写真の教科書も。魔法に関わる「もの」は何もかもワクワクする。けれど、はたして「人」はどうだろうか。この先、魔法使いと言う馴染みのない人種に囲まれることになる自分の学校生活はどんな風になるのだろう? ホグワーツの生徒全員があんな風であるはずがないと信じようとはしたものの、実際に会話した生身のホグワーツ生はマルフォイだけだ。ハリーの心には不安が翳る。
『素晴らしい魔法学校だ、間違いない』────ハグリッドはそう言ったけれど、それははたして、ハリーにとっても素晴らしい学校になってくれるのだろうか? 今まで通っていたプライマリースクールだって、ダドリーやその取り巻き達にとっては楽しい場所でも、ハリーにとって違ったじゃないか。胸の中の不安が渦を巻きながらどんどん大きくなっていくのがわかって、小さく溜息を吐き出す。そんな時だった。
「どうしたの?」
すっかり考え事に夢中になっていたハリーは、自分が話しかけられているのだと気づくのに、少し時間がかかった。声のした方を振り向くと、ハリーとそう年が変わらなそうな女の子が立っていた。
どうしたって、一体何のことだろう? ハリーが困惑していると、女の子が困ったように眉を下げた。
「その……さっきから一人で立ってるから、誰かとはぐれたのかと思って……」
「アー……僕、その……一緒に来た人にここで待ってろって言われて……」
どうやら、迷子と勘違いされたらしい。女の子の言葉によって、ハリーは確かに今の自分はそう見えるだろうことに気がついた。ハグリッドは何やら用事を思い出したらしく、10分ほど前にハリーを置いてどこかへ行ってしまったし、暗いことばかり考えていたせいではきっと不安そうな顔をしていただろう。子供がそんな表情で一人で立っていたら、迷子だと考えてもおかしくない。
「そうなの。ごめんね、勘違いしちゃって」
「あ、いえ……どうもありがとう」
自分の返答に女の子が気まずそうにに視線を落とすのを見て、ハリーは何だか申し訳なくなってしまった。見ず知らずの女の子に心配をかけてしまった。ハリーはそこでようやく、女の子をしっかりと見据えた。通りを行き交う奇抜な魔法使い達と比べると、目の前の女の子は至ってハリーの知る「普通」の女の子だった。おかしなとんがり帽子でもなければ、真っ黒なローブでもない。彼女が着ているのは、ごくごくありふれたワンピースだ。────この人も、魔法使いなんだろうか? それとも、僕みたいに誰かに連れて来てもらっただけの───そうだ、あの少年も言っていた「マグル」なんだろうか? そんな疑問を口にしようか迷っていると、女の子の方が先に口を開いた。
「新入生なの? ダイアゴン横丁ははじめて?」
「はい。あなたもホグワーツの生徒なんですか?」
「ええ、そうよ」
あっさりと肯定が返ってくる。どうやら、彼女はハリーの上級生にあたるらしい。ハリーはほんの少しだけ、気持ちが軽くなるのを感じた。目の前に居るこの人は、さっきのドラコ・マルフォイのような嫌な奴には見えない。むしろ、迷子だと心配して声をかけてくれたのだから、きっと親切な女の子なのだろう。どうやら自分の不安は杞憂だったらしい、とハリーはほっと胸を撫で下ろした。
「今日は空いてるからじっくり見るといいと思うわ。裏通りにも色々あって楽しいから。私も初めて来たときはすっごくわくわくしたもの」
ニッコリ笑ったその顔が、何と言うか────可愛いな、と思った。照れくささを隠すように、ハリーも曖昧に微笑み返す。やっぱり、この人はマルフォイみたいな嫌な奴じゃない。
せっかくなのでもっと話を聞いてみたかったが、彼女の方はそれ以上会話を続ける気はないのか、「じゃあね」と手を振ってその場を去ろうとする。
「あの……あなたは、どこの寮なんですか?」
せめてもう少しだけでも話がしたくて、ハリーは思わずその背中を呼び止めた。会話の糸口は別に何だってよかったのだが、さっきのマルフォイとの会話のせいか、咄嗟に口をついて出て来たのがそれだったのだ。肩越しにハリーを振り返った彼女は驚いたように目を見開いたが、すぐに親しみをこめた笑みが浮かべられる。
「レイブンクローよ。また会えるといいわね」
それはつまり、ハリーが自寮に来たら歓迎すると言う意味なのだろう。そんな何気ない言葉が、ハリーには嬉しかった。
ふわりと、白いワンピースの裾が揺れる。そうしてまた、彼女は眩しい日差しの中を進んで行く。その背中が小さくなり、人波の中へと消えていくのを、ハリーはぼんやりと見ていた。
「ハリー。ボーっとしてどうした」
「あ……ハグリッド」
後ろから肩を叩かれて────ハグリッドは軽く叩いたつもりなのだろうが、ハリーは自分の体が地面に埋りこんでしまうんじゃないかと思った────振り返る。特に隠すようなことでもないので、ハリーは今の出来事を素直に打ち明けることにした。
「女の子に話しかけられた」
「女の子?ホグワーツの生徒か?」
「ウン」
ハグリッドの問いに、ハリーはゆっくりと頷く。本人がそう言っていたから、間違いない。
ホグワーツ生で、女の子で、ハリーよりもたぶん少し年上で────それで────笑った顔が可愛かった。ハリーに親切にしてくれた。
「お前さんに会って、驚いとったろう」
「アー……どうだろう。その人、気づいてないみたいだった。その……僕が、ハリー・ポッターだって」
少なくとも、彼女はここで出会った他の大人の魔法使いのように、ハリーの額の傷をジロジロ見たり、ハッと息を飲んだり、熱っぽい視線を向けてきたりしなかった。純粋に、新入生が困っていると思って、声をかけてくれたのだろう。魔法界に足を踏み入れた瞬間から、まるで珍しい動物か何かのような扱いを受けていたハリーにとって、そのあまりにも「普通」の対応は何だかほっとした。
「なんちゅう名前だ?」
「そこまでは知らないよ……本当に、ちょっと話しただけなんだ」
ハリーはモゴモゴと口の中で言葉を転がした。
どうせなら、寮よりも名前を聞いておくべきだったかもしれない。でも、そもそも寮を尋ねたのだって、そうしようと思ったわけじゃなく、咄嗟に口をついただけだったのだ。後悔しても仕方がない。
「でも、レイブンクローだって言ってた」
何も情報がないわけじゃないと、何だか言い訳じみた言葉を付け加える。それに対するハグリッドの返事は今ひとつだったが、ハリーは気にしなかった。
そうだ。同じ学校だと言うことも、ハリーより上級生だと言うことも、彼女の寮もわかっているのだ。手掛かりが1つもないわけじゃない。きっとまた、すぐに会えるだろう。
ハリーがあの女の子と同じ寮になるかはわからないけれど、たとえハリーが違う寮に組み分けられたとしても、彼女はきっとまた、今日のように笑いかけてくれるだろう。ハリーは、何だかそんな気がした。
あの子の名前がわからなくて、よかったかもしれない。だって、知らないと言うことは、次に会ったときに、知る楽しみがあると言うことだから。