マグルの絵本に描かれたおとぎ話の中には、『真実の愛』と言う言葉がよく出て来る。
バーベッジ教授は、「王子が口移しでベゾアール石を飲ませたのがマグルにはそう見えたと言う解釈が一般的だ」なんて説明していたけれど────『真実の愛のキス』は、悪い魔法使いや魔女にかけられた呪いや毒だって消し去ってしまう、何よりも強い魔法。愛の力で困難を乗り越えた2人は、その先もずっとずっと幸せに暮らす。『愛』こそがどんな奇跡だって起こす特別な力だと信じるマグルの物語は、とても美しくて、ロマンチックだとレイチェルは思う。
「ねぇ、おばさん。おばさんは、おじさんに初めて会ったときのことって覚えてる?」
あれは確か、まだホグワーツに入学する前のことだった。
さすがに『愛する2人のキスで呪いが解ける』なんて物語は読んだことがなかったけれど、子供の頃のレイチェルが読んだ本の中にも、『真実の愛』や『運命の相手』と言う言葉は時々出てくることがあって。初めてその言葉を知ったとき、レイチェルは不思議に思った。運命の人────相手を一目見たその瞬間、『この人だ』と直感して、惹かれ合う。そんなことって、実際にあるのだろうか?
「あのね、前におじさんが言ってたの! おじさんは、おばさんが初恋だったって!」
当時のレイチェルにとって1番身近な『愛し合う2人』は、お隣に住むディゴリー夫妻だった。いつも仲良しのおじさんとおばさんなら、もしかしたらこの本に書いてあるみたいなことがあったかもしれない。そう考えて、レイチェルは読んでいた本を抱えたまま、キッチンに居るおばさんのところに行ってそんな質問をした。
「おばさんと初めて話したとき、『こんな可愛い女の子が居たんだ』ってびっくりしたって言ってたもの。おじさんはきっと、おばさんを『ウンメイの相手』だって思ったのね!」
「あら。変ね? エイモスの初恋は5歳のときだったってお義母さまから教えてもらったけれど……」
きっと本人は忘れちゃったのね、なんておばさんがクスクス笑う。
おじさんとおばさんは大人だけれど、2人にもレイチェルみたいに子供だった頃があったらしい。2人が出会ったのはホグワーツに通っていた頃なのだ。おばさんは今もすごく美人だけれど、写真で見た今より若い頃は妖精のお姫様みたいに綺麗だった。この本に出て来る王子様みたいに、おじさんはきっとおばさんを一目見て『この人しか居ない』と思ったのだろう。2人が『運命の相手』なら、きっとおばさんの方もおじさんと出会ったときに“特別な何か”を感じたはずだ。ワクワクして返事を待つレイチェルに、おばさんは困ったように眉を下げた。
「そうね……よく覚えていないの。私達は学年も違ったし……エイモスは寮のクィディッチチームに入っていたから、顔は知っていたけれど。エイモスの言う、初めて話したときのことも私は覚えてなくって」
「おばさんが3年生のときのホグワーツ特急だって!」
「そうなのよね。エイモスはそう言ってるけど……たぶん、それまでにも何度か挨拶くらいはしていたはずよ? 同じ寮だったんだもの」
「ええー? じゃあ、おじさんが忘れちゃってるってこと?」
『運命の相手』なら、初めて会ったときのことを忘れたりしないんじゃないだろうか……? 予想と違う答えに、レイチェルはちょっとガッカリした。こんなに仲良しのおじさんとおばさんでさえ、『運命の人』じゃないなんて! やっぱり、こんな風にドラマチックなのって物語の中だけで、これは作り話なのかもしれない。レイチェルが肩を落とすと、おばさんがレイチェルの頭を優しく撫でてくれた。
「『忘れた』わけではないんでしょうけど。エイモスにとってはきっと、そのときが初めてだと感じたのよ。それまでは、私の存在を意識してなかったんでしょうね」
「うーん……それってどう言うこと? 難しい」
本当は初めて会ったわけじゃないのに、初めてだと思うってどう言うことだろう? 結局、おじさんがおばさんを初恋だと言っていたのは、おじさんの勘違いなのだろうか? わからないと首を捻っていると、おばさんはエプロンを外して、レイチェルを抱き上げた。
「ね、ね、じゃあ、おばさんはどうしておじさんとケッコンしようって思ったの?」
レイチェルも、これまで何度か親戚や両親の友人の結婚式に連れて行ってもらったことがある。おばさん達には内緒だけれど、マグルの教会の結婚式もこっそり見に行った。花嫁さんは綺麗なドレスを着て、幸せそうに永遠の愛を誓う。おじさんとおばさんも、きっとそうだったはずだ。出会ったその瞬間に「この人だ」と感じたわけじゃないのなら、どうしてそんな風に「特別なたった1人」だと思えたのだろう?「知りたがりのおませさん。せっかくなら、私とエイモスよりもパパとママの話を聞いてみたら?」
「ママにはさっき聞いたの。そうしたら、『今日の分のアルファベットの書き取りがまだ終わってないでしょ』って」
「ロザリンドらしいわね」
思い出してレイチェルがちょっとむくれると、おばさんは可笑しそうに笑ってみせた。それに、レイチェルの考えだと、「ずーっと一緒に」の条件を満たしていないから、パパとママって全然ダメ。おばさんがふかふかのソファの上にレイチェルを下ろしたので、レイチェルは隣に座ったおばさんの膝の上へとよじのぼってその顔を見上げた。
「そうね……エイモスからプロポーズされたとき、勿論嬉しかったし、驚いたけれど……でも、その場ですぐに返事ができたわけじゃなかったわ。私もまだ学生だったし……夢もあったから」
「夢? 夢ってどんなの?」
「国際魔法使い連盟で働きたかったの。でも、それだとイギリスから離れることになってしまうから……」
「……この人と、これからも一緒に時間を重ねていきたい、って思ったの」
まるで秘密の話をするときみたいに、その声は小さかった。おじさんとおばさんはいつも仲良しで、レイチェルは2人が喧嘩しているのを見たことがない。優しいおばさんは、おじさんが失敗してお皿を割っても、おばさんからの頼まれ事を忘れてしまっても、「全くもう」って溜息を吐いて許してしまう。おばさんは美人で、いつも優しくて、ニコニコして、幸せそう。『2人はずーっとずっと幸せに暮らしました』────そんな言葉で締め括られた最後のページを捲ったとき、お姫様はきっとおばさんと似ているんじゃないかとレイチェルは想像した。
「今ではほとんど喧嘩もしなくなったけれど、昔は行き違いもあったし……そんなときは、もっと別の選択があったんじゃないか、って考えたりもしたわ」
キラキラした眩しい夏の日差しが、窓硝子の向こうから降り注いでいる。ソファの上に置きっぱなしになっていたレイチェルの本をおばさんが手に取った。細い指が、その表紙をなぞる。お姫様のティアラと宝石が、光を反射してキラキラと光っていた。
「でも……エイモスと結婚していなかったら、セドには会えなかったし……エイモスと結婚しなかった人生なんて、今ではもう上手く想像できなくなっちゃったわね」
勿論こうしてレイチェルとも会えなかったでしょうし、とおばさんがレイチェルのほっぺたにキスをする。レイチェルもおばさんのことが大好きだ。勿論、セドリックも。おばさんがおじさんと結婚してくれてよかった、とおばさんの腰にぎゅっと抱きついた。
「物語みたいに、『運命の人』や『真実の愛』なのかはわからないけれど……でも、エイモスと出会って、セドが生まれて……たくさんの思い出を積み重ねて。今、とても幸せよ。たぶん、きっとこれからも」
そう言って微笑んだおばさんはとても綺麗で、その言葉の通り本当に幸せそうで。レイチェルもきっといつかそんな風に思える人と出会えると────おばさんがそう言って髪を撫でてくれると、何だかそれが本当になるような気がしてくすぐったかった。どうしてか、そんな昔の記憶を思い出した。
『真実の愛』も、『運命の人』も。物語の中でも、全ての人が手に入れられるわけじゃない。優しくて誠実な人だけが見つけることができる、特別な奇跡みたいなもの。
真実の愛。正真正銘の、正しくて、誠実な、本物の愛。じゃあ、そうでない愛は何なのだろう? 『間違った』、 『不誠実な』────『嘘の』愛?
ジョージのことを意識するよりも、ハリーのことが気になり始めていた方が先だったかもしれない、とか。ジョージと言う恋人が居ても、それでもハリーのことが頭から離れない、とか。だから、これこそが……ハリーへの気持ちこそが『正しい恋』で、ジョージと付き合ったのは『間違い』だった、なんて。そんな風に思ったりはしないけれど。
ジョージへの気持ちも、ハリーへの気持ちも……以前のウッドへの気持ちも。たぶん、どれか1つだけが本物で正しくて、それ以外が偽物と言うわけじゃなくて。物語のような、『真実の愛』や『運命の人』とは程遠いかもしれないけれど、それでもレイチェルなりに好きだった。ハリーに惹かれてしまっているのも確かだけれど、ジョージのことだって好き。ジョージとのデートは楽しかったし、2人でおしゃべりする時間が好きだった。こんな風に時間を重ねて、もっとジョージのことを知りたいと思った。嘘なんかじゃなかったし、あの感情が偽物だったなんて、そんな風に思いたくない。
ジョージのことが好き。だからこそ────このままではダメだと思った。
「あれ? レイチェル?」
グリフィンドール塔の入り口のすぐ側に立っていたレイチェルの存在に気がつくと、ジョージは不思議そうな顔をした。ジョージが意外に思うのも当然かもしれない。こんな風に朝からジョージを訪ねるなんて、今まではなかったから。そしてたぶん、これが最後なのだろうなと、レイチェルは頭の片隅でそんなことを考えた。
「……あのね、ジョージ。話があるの」
寮生達が朝食に起き出す時間なせいで、グリフィンドール塔の前は行き交う生徒達のおしゃべりで騒がしい。予想はしていたけれど、ジョージ自身もフレッドやリー、それにアンジェリーナやアリシアと一緒だった。不思議そうにレイチェルを見返すジョージにそう言うと、フレッドがジョージ背中を勢いよく叩いた。
「じゃあまた後でな、相棒」
「私達は先に朝食に行ってるわね!」
「2人は後からごゆっくり」
フレッドのからかうようなニヤニヤ笑いも、アンジェリーナ達の微笑ましそうな視線も。今更なはずなのに何だか気まずい。いや、でも、傍から見れば朝1番に“恋人”に会いに来ているのだから、アンジェリーナ達の反応は奇妙と言うわけじゃない。たぶん……ジョージに会いたくて待ちきれなかったのだと、アンジェリーナ達はそんな風に考えたのだろう。
「話って?」
「あの……ここではちょっと。少し移動してもいい?」
「ああ」
もしかしたら、ジョージも同じように考えているのかもしれない。そんな風に思ってレイチェルはギュッと心臓が苦しくなった。昨夜、ベッドの中で自分は一体どうするべきなのかと、熱が出そうなくらい考えて。決意が鈍らないうちにとジョージの元に来たけれど、タイミングはたぶん最悪だ。よりにもよって今日、こんな話をすることになるなんて。いや、こんな日だからこそなのかもしれない。
────今日は、バレンタインデーだから。
「別れたいの」
驚いたようにジョージの瞳が見開かれるのに、思わず視線を逸らしそうになる。
大切な人に、贈り物やカードに込めて気持ちを伝える日。そんな日に別れ話をすることになるなんて、皮肉だけれど。でも、無理だと思った。もう、気付いてしまったから。“今まで通り”なんて難しいこと。こんな気持ちで、ジョージにあのマフラーを渡すことなんてできない。
「ジョージに何か原因とか、不満があるわけじゃなくて……他に、好きな人ができたの。……ごめんなさい」
考えて来た言葉をそのまま口に出すだけのはずなのに、気を緩めると声が震えそうになる。
ハリーのことも好きかもしれないけれど、ジョージのことだって好き。だから、ジョージに対して誠実で居たい。このまま、中途半端な気持ちのままジョージと一緒に居続けたら、ジョージを好きだった気持ちが嘘になってしまう気がするから。
辺りが静かなせいで、心臓の鼓動が余計にうるさく感じる。緊張で、レイチェルはギュッと手のひらを握りしめてジョージの言葉を待った。
「了解。じゃあ、別れるってことで」
あっさりとした口調で返されたそんな言葉に、レイチェルは瞬いた。聞き間違いかもしれない、とも思った。ジョージの声も、表情も、まるきりいつも通りで────まるで、天気の話でもしているみたいな雰囲気だったから。
「……怒らないの?」
ジョージよりもむしろ、レイチェルの方が動揺した。そのせいか、思わずそんな言葉を口走ってしまう。しまったと口を押さえたけれど、吐き出してしまった言葉は取り消せない。ジョージはやっぱり動揺を見せないまま首を傾げると、レイチェルの顔を覗きこんだ。
「怒ってほしかった?」
「そっ、」
そんなわけない、と反論しようとしたけれど────吐き出すはずだった言葉は喉のところで失速してしまった。もしかしたら、ジョージの言う通りかもしれないと、自分でも思ってしまったから。
「……わからない」
喧嘩をしたかったわけじゃない。ただ、ジョージにとってはきっと突然だし、自分でも身勝手な理由だと思うから。逆の立場だったら、きっとレイチェルはすぐには納得できない。だから────ジョージが怒ったとしても当然だと思った。でも、もしかしたらそれは、その方がレイチェルに都合がいいと言うか……心のどこかで、ジョージに責めてほしかったのかもしれない。そうしたら、報いを受けたような気持ちになれるから。ジョージが怒って、レイチェルに失望してくれたら。ジョージの方だってもうレイチェルなんかとは恋人で居たくない、と思ってくれたら、ある意味円満に別れることができるから。
ジョージが怒って、それから『こっちだってもう別れた方がせいせいする』なんて言われるか、もしくは『納得できないから別れない』と言われるのか……レイチェルに予想できたのはそのどちらかで、こんな風に落ち着いた態度を取られると、どうしたらいいかわからなくなってしまう。
「いや、まあ、驚いてはいるけど……やっぱり、君って面白いよなあと思ってさ」
「面白い……?」
「だって、その好きな人ってディゴリーじゃないんだろ?」
わけがわからないと見上げたレイチェルに、ジョージがそんな風に言った。温かな陽の光に似たオレンジ色の睫毛に縁取られた薄茶の瞳が、真っ直ぐにレイチェルを見つめている。
「違った?」
「……違わないわ」
ポケットに両手を突っ込んで、ニヤッと笑ってみせるジョージに、レイチェルは戸惑いつつそう返した。言われてみれば、「好きな人」が誰かは伝えていないのだから、セドリックなのだと誤解されてもおかしくなかった。そこまで頭が回っていなかったと言うか、考えもしなかった。
「まあ、『やっぱりセドのことが好きなの……っ』って言われたら、さすがに温厚な俺でも文句の1つも言いたくなったかもな」
「……セドじゃないわ。その、誰なのかは言えないけど……」
どうしてわかるんだろうな、と思う。
付き合い始めてから、ジョージはずっとそうだった。レイチェルが考えていることや不安を、ものすごくよくわかってくれた。レイチェルを困らせることはあっても、嫌だと思うことは決してしなかった。
「……自分でも、最近気が付いたの」
それはたぶん、他人の心の中のことにもよく気付くジョージ自身の元々の性格と言うのもあるだろうけれど。1番の理由はきっと、そうじゃなかった。ジョージがレイチェルを理解しようと、よく見ようとしていてくれたからだ。
「君ってやっぱり、“あの”セドリックの幼馴染だよなあ」
大事にされていたのだ。ものすごく、大事にされていた。からかったり、意地悪や皮肉を言うときもあったけれど、レイチェルに触れるときジョージはいつも優しかった。ガラス細工みたいな、壊れやすいものに触れるみたいに。花を枯らさないようにするみたいに。
「言わなきゃわかんないのに、嘘がつけないと言うか……バカ正直と言うか」
「私……セドみたいに正直じゃないし……あんな風に誠実じゃないわ」
「そうかい?」
ジョージの前に居ると、自分がすごく可愛い女の子になれたように錯覚して。お姫様みたいに扱ってくれることがくすぐったかったけれど、今となってはそのことに胸が痛む。レイチェルはそんな風に大事に扱ってもらえるような、素敵な女の子じゃない、と思ってしまうから。
「たとえば、『俺のこう言うところが本当は嫌だったー』とか、『付き合ってみたら思ってたのと違ったー』とか……そうやって、本当の理由を誤魔化して別れることだってできるのに。たぶん、考えもしなかっただろ?」
予想外の言葉に、レイチェルは言葉に詰まった。別れたいと言うからには、理由も一緒に言うべきだと思った。だってそうでないと、言われた側は理由を探してしまうだろうから。でも、確かに……別れたいと思う理由なんて結局は自己申告で、相手からは確かめようがないのだから、そのまま伝える必要はなかったのかもしれない。
「……ごめんなさい」
「謝るなよ」
ジョージに誠実で居たいと思ったけれど、真実を言うことが必ずしも誠実だとは限らない。相手を傷つけないようにそれらしい理由を言う、と言う選択だってあったはずだ。結局は、吐き出して自分が楽になりたかっただけかもしれない。こんな風に謝るのだって、自己満足だったかも。自己嫌悪で落ち込みかけたレイチェルに、ジョージが困ったような表情になった。
「あー……違う。そう言う意味じゃなくて……謝られるような理由がない」
そうだろうか、とレイチェルは眉を下げて俯いた。
ハリーへの気持ちを自覚したのは、レイチェルですら唐突だったと思うのだから、ジョージにしてみたらもっとだろう。上手くいっていると思っていたら急に別れたいと言われて、ジョージにしてみたら理不尽だと感じてもおかしくないはずだ。
「だって君、俺のこと結構好きだろ」
頭上から降って来たジョージの発言はまたしても予想外で、レイチェルはぱち、と目を見開いた。反射的に顔を上げると、どこか柔らかい表情をしたジョージと視線が合った。
「他に好きな奴ができた、って言うのも事実なんだろうけど。君が俺を誰かの代わりにしてるとか、そんな風に思ったことないし……俺とパーティーに行きたかったって言ってたのも、嘘だったわけじゃないだろ? セドリックのことだって、俺が誤解しないようにって君が頑張ってたのも知ってる。だから、別に君に謝られるようなことはされてない」
……ああ、本当に。ジョージのこう言うところが好きだったな、と思う。
上手く言葉にできなかった部分を、丁寧に拾い上げてくれるところ。レイチェルの言葉や行動に対して、理由を考えてくれるところ。気持ちをはっきりと言葉にして差し出してくれるのに、決して押しつけはしないところ。
「君の困ってる顔は結構好きだけど、そんな風に泣きそうな顔させたいわけじゃないからな」
もしも立場が逆だったとしたら、レイチェルはきっとこんな風には言えない。こんな風に、冷静に相手の事情を考えるなんてきっとできない。悪戯好きで子供っぽいところもあるけれど、ジョージは優しくて、大人だ。レイチェルよりもずっと。
「だから、まあ……明日からはまた友達に戻るってことで。いいよな?」
「……うん」
恋人から、また友達に戻る。それがきっと、言葉で言うほど簡単じゃないのは、周りを見ているとレイチェルにも想像がつくけれど。それでも、ジョージがそう言ってくれることが嬉しかった。恋人になる前から、ジョージはレイチェルにとって大切な友人だったから。
「ありがとう……」
大事にされているのがわかっていたから、レイチェルもジョージに対して同じようにしたかった。ジョージがレイチェルを好きでいてくれているのがわかるから、レイチェルも同じくらいジョージを好きになりたかった。ジョージのことが1番好きだと、誰よりも大切だと言えるようになりたかった。
「私……初めての恋人がジョージでよかった」
「光栄だね」
この選択が本当に正しかったのかも、わからない。でも、ジョージのことが好きだと思うから。大切にしたいと思うからこそ。ジョージに対して、自分本位な嘘は吐きたくない。ハリーへの気持ちに気が付いてしまったからには、それを誤魔化しながら、ジョージとこのまま一緒に居ることだけはしたくなかった。
「……本当にそう思ってるのよ」
ジョージにとっては違うかもしれないけれど……結果はこうなってしまったけれど、それでもやっぱりあの日、ジョージと一緒にダンスパーティーに行けてよかったと思う。「真実の愛」には程遠かったとしても、あの日一緒に居て感じたことは、ジョージに伝えた言葉は、全部本物だった。嘘なんかじゃなかった。
「あのとき、私のこと誘ってくれてありがとう」
それから、2人で城の周りを歩いた。何を話したのかは、あまりよく覚えていない。ただ、ほとんどは他愛のない世間話だ。授業のこととか、課題のこととか、姿現しの講習のこととか、フレッドやジニーのこととか。ついさっき別れ話をしたのが嘘みたいに、時間は穏やかに過ぎていった。まるで、明日からも昨日までと何も変わらないみたいに。
「そうだ。レイチェル」
別れ際、寮に戻ろうと歩き出したところで呼び止められた。「これ。君に」そう言ってジョージがポケットから取り出したのは、小さな箱だった。包装紙とリボンで綺麗にラッピングされている。タイミングから言って、どう考えてもバレンタインの贈り物として用意されたものだろう。とんでもないと、レイチェルは勢いよく首を振った。
「もらえないわ。だって私、貴方に何も用意してない」
「W.W.Wの試作品なんだ。味の感想聞かせてもらえると俺達としても助かるんだけどな」
変なものは入ってないから、なんてニヤッと笑ってみせるジョージにレイチェルは戸惑った。一方的に贈り物をもらってしまうと言うのは、何だか落ち着かない。でも、レイチェルのために用意してくれたものなら、このまま持って帰ってもらうと言うのもそれはそれでジョージからしてみたら複雑な心境かもしれない。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
だとすればこれは、レイチェルが責任を持って受け取るべきなのだろう。贈り物を受け取れないと突っ返されるのは、あまり気分のいいものじゃないだろうから。味と言っていたからには、たぶんお菓子か何かだろうし。
談話室の喧騒を抜けて、部屋に戻る。リボンを解いて開けてみると、中身は手のひらに乗るくらいの小さなガラス瓶だった。ラベルは剥がされているけれど、大きさからしてジャムの空き瓶かもしれない。中に入っているのは、ビー玉くらいの大きさのカラフルな丸いお菓子だった。見た目の感じからして、たぶんキャンディだ。
『新しいジョーク菓子を作ろうってフレッドと相談してたんだけど、味が決まらないんだよな。何がいいと思う?』
『私の好きな味でいいの? じゃあ、ラズベリー』
ふと、いつかのそんな会話が頭の中によぎる。覚えていてくれたんだ、と思うと、心臓のあたりがギュッと締め付けられて苦しくなる。2人で城を抜け出して、ホグズミードに行ったあの日。あのときは、まさかこんな終わり方になるなんて思わなかった。いや、あのときどころか、たった2週間ほど前までは、こんな風になるなんて全然予想していなかった。
鮮やかな赤は、たぶんストロベリー味。黄色はレモン。白に近い淡い黄色はリンゴ。青紫はグレープ。その中の、濃い赤をした1粒を指で摘まんで、口に含む。予想した通り、ラズベリーの甘い香りと味が口の中に広がった。
「……酸っぱい」
……ああ、終わったんだな、と。キャンディの甘さで緊張が緩んだせいか、涙腺が緩む。
朝に部屋を出たとき、部屋に戻るまでは絶対に泣かないと決めていた。それに、もっともっと最悪の状況を想像していた。結果的にジョージは怒らなかったし、レイチェルを責めなかった。別れることにも納得してくれた。これ以上ないくらい……信じられないようなレイチェルにとっては都合の良い結果だ。安心や喜びこそしても、悲しむことなんて何もないはず。自分で選んだ、レイチェル自身が望んだ結果だ。わかっている。それでも、やっぱり────胸が痛い。でも、肩の荷が下りたような、胸のつかえが取れたような気分にホッとしてしまったのも確かで、それがジョージに申し訳なくて、罪悪感が胸を締め付ける。ジョージはずっと、レイチェルに対して優しかったのに。
あのとき、どうしてネックレスなんて落としちゃったんだろう。
あれさえなければ、きっとハリーへの気持ちには気づかずにいられた。今頃ジョージにあのマフラーを渡して、2人で笑っていられたはずだった。次のホグズミード休暇だって、2人で回ろうって約束したのに。
湖に小石を投げ込んだみたいな、ほんの小さなきっかけ。それだけなのに、レイチェルの感情は大きく波立って、揺れて、溢れてしまった。クロディーヌに言われた通り、時間が立てばそのうちまた元通りになれたのかもしれない。でも、レイチェルには「そのうち」を待てそうになかった。感情の波で流されてしまいそうで、溺れそうで、苦しくて、平然とジョージの前で笑って隠し通すのは無理だと思った。そんな自分になりたくなかった。
もしも、あのネックレスを落としたりしなければ。あのネックレスを拾ったのがハリーじゃなければ。もしも、あの日ダイアゴン横丁でハリーに声をかけたりしなければ。もしも、もしも。
今更何度そんな仮定を繰り返してみたところで、何の意味もない。逆転時計でもない限り、過去は変えられない。時間は巻き戻らないし、止めることだってできない。
今日が休日でよかった。こうして部屋で泣いていても、授業をサボらなくて済む。頬を横に流れた涙が、枕にくっつけたままの耳へと流れていく。泣きたくないと思うのに、止まらない。
本当に、これでよかったの? もっと何か、他にいい方法があったんじゃない? 後悔しない? 今ならまだ、なかったことにできるかも。
頭の中で囁く誰かの声を、レイチェルは首を横に振って追い出した。自分の頭で考えて決めたことだ。たくさん、たくさん考えて、これが1番マシだと思った。ジョージにだって、もう伝えた。あれがジョージの本心なのか、それともレイチェルを気遣っての優しい嘘なのかはわからないけれど、ジョージの言葉を信じたい。お互い納得して、お別れすると決めたのだ。次に会ったら、ただの友達に戻る。今更やっぱりなし、なんて真剣に話を聞いてくれたジョージに対して失礼だ。もうこれ以上、レイチェルのわがままでジョージを振り回したくない。
ジョージのことが好きだった。嘘じゃない。
でも、「ただの幼馴染」なんかより、たった1人きりの「恋人」の方が大事でしょ、と。お互いに「恋人」ができたんだから、「幼馴染」とベタベタするのはもう卒業よね、なんて。そんな風に同級生の女の子達に言われても、レイチェルはやっぱりそれに頷くことはできなくて。
セドリックはセドリック。ジョージはジョージ。2人は全然違う人間で、どっちも大切で、比べることなんてできなくて。
ただの幼馴染。家族でもないのに、「ジョージが1番だ」と言えないことは、ジョージに対して不誠実なのかもしれないと……レイチェル以外の女の子を恋人にしていたら、その子はジョージだけを見て、ジョージだけを大切にしたのかもしれないと……そんな不安が、ずっと心のどこかにあって。
セドリックのことだけでも宙ぶらりんで答えが出ないのに、レイチェルはハリーにまで気持ちが揺れてしまっている。もしもジョージにうまく隠し通すことができたとしても────たとえ、ジョージ本人がそれで構わないと言ってくれたとしても、レイチェルはそれでいいとは思えそうになかった。そんなのダメ。そんなのおかしい。ジョージは、もっとジョージのことを一途に思ってくれる女の子と一緒に笑っていてほしい。それは、レイチェルじゃない。あんなに大事にしてもらったのに、レイチェルには同じだけジョージを大切にすることはできなかったから。
「男の子の中で1番好き」をジョージにはあげられそうになかったから、せめて「男の子として好きなのはジョージだけ」だと胸を張って言いたかった。
そう思っていたのに、レイチェルにはそれさえもできなくて────だからそう。これでいい。悲しいのはたぶん、今だけだ。今日好きなだけ泣いてしまえば、明日はきっともう泣かない。大丈夫。
サイドテーブルの上に置いたままだったキャンディーの瓶を持ち上げて、蓋をきつく閉める。引き出しを開けると、中にしまわれたものが目に入った。ベルベットのクッションの上に置いた、小さな丸いガラス玉。クリスマスの夜に、ジョージがレイチェルに贈ってくれたもの。透き通った丸いガラスの中には、あの夜の青が映っている。
滑らかな表面を指でなぞって、そっと手のひらの上へ乗せる。きらきらと星が瞬く濃紺の空も、柔らかな妖精の光も、枯れずに咲き続ける美しい薔薇の花。閉じ込められた景色は、あの日と同じにやっぱり綺麗で。
こんなに幸福でいいのかと不安に思うほど、夢のようだったあの夜。もうとっくに、ジョージのことが好きになっていたと気がついた。
忘れたりなんてしていない。ちゃんと覚えている。このガラス玉を見ればきっと、何度だってあのときの幸せな気持ちを思い出せる。ほんのひとときだけ、あの幸福の夜に戻ることができる。思い出の中にずっと立ち止まっていることはできない。わかっている。でも、願ってしまう。あの日思い描いていた未来は、こんな風じゃなかったから。ジョージと一緒に、笑い合える日々が続くと信じたかった。優しい時間を、重ねていけるのだと思っていた。戻ることができるのは、進んでしまったからだ。もう、触れられない過去になってしまったから。干渉できすただそこにある過去は、眩しいほどに綺麗で────もう、遠い。もう、変わってしまった。届かない。
あの幸福な時間も、ジョージを好きだと思った気持ちも。この景色みたいに、ガラス玉の中に閉じ込めておけたらよかったのに。