喩えるなら、湖に石を投げたようなものなのだろう。
穏やかに凪いだ水面に向かって、石を投げ入れる。ほんの小さな石だとしても、水音が立って、さざ波が起きる。石の大きさや投げたときの勢いによっては、もしかすると水飛沫が飛び散ったり、水底の泥を巻き上げることだってあるかもしれない。それと同じことが、きっとレイチェルの心の中でも起こっている。
“ハリーのことを男の子として好きなのかもしれない”と言う考えは、たとえほんの一瞬頭によぎっただけのわずかな可能性────思い過ごしだったとしても、レイチェルの感情を波立たせた。
だって、相手は“あの”ハリーだ。入学してすぐの頃は、レイチェルはあれほどハリーのことが嫌いだったのに……大嫌いだったのに、よりにもよってそのハリーに恋をしているかもしれない、なんて。そんなこと今まで1度だって考えたことがなかったから、レイチェルは大いに動揺したし、戸惑った。結局はそんなはずないと結論づけたものの、1度頭に浮かんだ事実は消えない。小さな“石”は、レイチェルの頭だけでなく、胸の中までもざわつかせる。
わかっている。たぶん、今だけのことだ。どんなに大きく波立っていたとしても、時間が経てば段々とその波も小さくなっていく。また、元の静かな水面に戻る。レイチェルだってきっと同じだ。今はハリーを目で追ってしまったり、ハリーの姿を見かけるたび気まずい思いをしているけれど、きっとそのうち元通りになる。また、普通の友人としての距離に戻れる。そうしたらきっと、この胸に靄のように渦巻いている不安とか、ジョージに対する後ろめたい思いだって消える。……そのはずだ。そう、頭ではわかっている。けれど────どうにも、落ち着かない。
「ふあ……」
広げた日刊預言者新聞に隠して、レイチェルは欠伸を噛み殺した。昨夜もベッドの中で色々考え事をしてしまっていたせいで、すっかり寝不足だ。広告写真の中で動くニーズルのふさふさした尻尾をぼんやりと眺めていると、隣でトーストにバターを塗っていたパメラが身を乗り出してレイチェルの新聞を覗きこんだ。
「ね、何か面白いニュースってある?」
「んー……あ、煙突飛行粉の発明から700年で……記念の銅像が完成したんですって」
「『当時の価格は10グラムあたり5シックル』……『最初に煙突飛行ネットワークが開通したのはホグズミード、ダイアゴン横丁間』……へぇー」
パメラが新聞に興味を示すのは珍しい。もしかしたら昨日のエリザベスの話の効果だろうか、なんて考えながらレイチェルも紙面へと視線を走らせた。『対抗試合の課題でハンガリー・ホーンテールが一時制御不能になった事態に対して魔法生物規制管理部により調査が行われたが、ドラゴン研究所側の管理体制は問題ないと認められた』……よかった。『クィディッチリーグでアップルビー・アローズが3年ぶりにウィムボーン・ワスプスに勝利』……ロジャーの好きな選手が移籍したチームだったはずだから教えてあげたら喜ぶかもしれない。『7月に開催される次回の国際魔法使い連盟会議の会場はヘメル・ヘムステッドに決定』……『コーネリウス・ファッジがブラジルの魔法大臣と会談』……。
「あっ、ねぇ。これって審査員のクラウチさんよね?」
パメラの指差した記事に、レイチェルも視線を向けた。『バーテミウス・クラウチの不可解な病気』────そんな見出しのつけられた記事は、11月以来クラウチ氏が公の場に姿を見せない、と言う内容だった。11月以来……つまり、あの第1の課題以降ずっとだろうか?
「そう言えば、エリザベス……クラウチさんとは連絡取れたの?」
「……少し前に手紙を出したの。そのお返事は頂いたわ」
それなら安心だと、レイチェルはホッと胸を撫で下ろした。が、エリザベスの表情は曇ったままだった。
「『少し体調を崩しているだけだから問題ない』なんて書かれていたけれど……心配だわ。でも、お体を悪くされているのなら、頻繁に手紙を送るのもご迷惑でしょう?」
「次の課題のときは、ホグワーツに来るんじゃないかしら? クラウチさんは審査員なわけだし……そのときに話せるかも……」
「ええ……」
クラウチ氏が病気なのだとしたら……やっぱり、対抗試合のことで忙しすぎるせいだろうか? そうでなければ……ハーマイオニーから聞いた長く仕えていた屋敷しもべ妖精を解雇したのが原因で、身の回りのことで困っているとか? どちらにしても、勝手な憶測だ。レイチェルは再び、新聞へと視線を落とした。『サマセットの魔法用品店で盗難事件』……『国内各地でマグルへの詐欺事件が頻発』……。何だか悪いニュースばかりだと、レイチェルは思わず溜息を吐いた。
それでも────たぶん、今の魔法界はかつてよりずっと平和なのだろう。
防衛術の授業が休講になったので、レイチェルは図書室で古い新聞を読むことにした。1981年の、ハロウィン以降の日付の新聞だ。エリザベスの話を疑っているわけではないのだけれど、人から聞いたことを鵜呑みにするだけでなく、自分でもほんの少しは知るべきだろうと思ったから。
目的の記事を探すために見出しをなぞっていくだけでも、当時これを読んだ人が一体どんな日々を過ごしていたのか、レイチェルは胸が締め付けられるような気分になった。だって、あまりにも悲しい……辛いニュースばかりだ。
『エディンバラ、シェフィールドで相次いでマグルの一家殺される』
『ウィゼンガモットのブラウン議員殺害される “死喰い人”への資金提供を拒否したことが原因か』
『“騎士団”メンバー ドーカス・メドウズ “例のあの人”に殺される』
毎日、毎晩、誰かが亡くなり、傷つけられた。そんなニュースばかりが報じられている。そして、それらの記事の多くに、ワールドカップで見たあの不気味な闇の印が映っていた。シリウス・ブラックが12人のマグルを殺害したと言う、例の事件の記事も載っていた。レイチェルはようやくブラックが脱獄した翌朝のディゴリーの夫妻、そして夏休みの両親の反応の意味がわかった気がして、胸が苦しくなった。当時の、そしてあの日のディゴリー夫妻は、両親は、一体どんな気持ちでいたのだろう?
「あった……」
これだ。『スミス一家を襲撃したとしてイゴール・カルカロフほか2名を逮捕』。
レイチェルは記事を読み進めた。ムーディ教授────当時は“教授”ではないけれど────を含む闇祓い達は、半年間かけてカルカロフ校長を追い詰め、とうとう現行犯逮捕したこと。そして、カルカロフ校長の左腕に、死喰い人の証である闇の印の刺青が確認されたこと。10日後に裁判が予定されていること……。そして、2週間ほど後の記事に続報があった。そこには、カルカロフ校長の直接的な関与が立証されたのは闇祓いが急行したことで未遂に終わった襲撃事件のみだったこと。本人も深く反省をしているのを考慮して、他の死喰い人に関する情報を魔法省に渡すことを条件に釈放が決まったことが書かれていた。
エリザベスの言っていた通りだ。カルカロフ校長は、死喰い人で……“例のあの人”の配下だった。
心臓の鼓動が速くなっているのを感じて、レイチェルはそっと新聞を閉じた。気になっていたことは1つクリアになった。けれど、代わりに新たな疑問が頭に浮かんだ。カルカロフ校長も、そしてクィレル教授も。レイチェルの目から見て、他の人と変わらない、ごく普通の魔法使いに見えたのに。どうして、彼らは例のあの人に……イギリス史上最悪と呼ばれる魔法使いに従ったのだろう?
考えてみれば、レイチェルは”例のあの人”についてそれほどよく知らない。知っていることと言えば、闇の魔術に精通していて、特に禁じられた呪文を好んで使ったこと。そして、たくさんの魔法使いやマグルを殺して、魔法界中を恐怖に陥れたこと。極端なまでの純血主義で、“魔法族の浄化”を掲げていたこと。そんな、教科書にも載っている程度のことくらい。
実際、例のあの人に関してはよくわかっていないことが多いとも聞いたことがある。どうして、そんなにもマグルを憎むようになったのか。そして、どうして“あの人”を支持する魔法使いが多く存在したのか。
魔法史の選択を続けるべきだったかもしれない、とレイチェルはちょっとだけ後悔した。OWLの出題範囲は近代史までだった。いや、でも、魔法史を取っていたとしても、結局ビンズ教授の授業だと意識を保っているのは難しかっただろう。それにセドリックの話を聞いていると、今魔法史で学んでいるのは文化史や美術史だ。どちらにしても、自分で調べるしかなかったのかも。
今度、マダム・ピンスにお勧めの本を聞いてみよう。いや、でも、魔法史の範囲だからビンズ教授の方がいいのだろうか? そうでなければ、防衛術……ムーディ教授? いや、でも、ムーディ教授に質問するのは緊張するし、“あの人”のことをよく知らないと素直に言うのも気まずい。そうだ、ルーピン教授に手紙で聞いてみるのもいいかもしれない……。
「あ。そこ、凍ってるぜ。気を付けないと……」
たぶん、そんな風に考え事をしていたせいもあっただろう。前を歩くジョージの声と、レイチェルが足を滑らせたのはほとんど同時だった。昨夜降った雨が冷えて凍ったのだろう。薄い氷の上でバランスを崩したレイチェルは、ふらついてジョージのローブを掴み、その胸へと倒れ込んでしまった。
「大丈夫か?」
「あ、ありがとう……」
「……本当、これじゃセドリックも過保護になるはずだよなあ」
呆れたように笑うジョージに、レイチェルは何も言えず視線を泳がせた。
実際ジョージが抱きとめてくれなかったら、きっとそのまま転んでしまっていただろうけれど……別に、そんなにいつも転びそうになっているわけじゃないのに。
ジョージの胸から抜け出そうとしたものの、その腕が腰に回ったせいで反対に抱き寄せられた。長い指がレイチェルの髪に触れる。ジョージがキスをしようとしているのがわかったので、レイチェルも瞼を伏せた。
……ああ、でも。そう言えば、少し前にもこんなことがあったっけ、とレイチェルは頭の片隅でぼんやり考えた。あれはいつだっけ。そう。確か、ダンスパーティーの夜だ。ふらついたレイチェルが転びそうになったところを、こんな風に抱きとめてくれて────。
『今度は、ちゃんと支えられた』
違う。あのときは、ジョージじゃなかった。
はにかんだように笑うハリーの顔が頭に浮かんで、レイチェルはハッと目を開いた。そして、ほとんど反射的に自分の鼻先に手が伸びて────ジョージの口を手のひらで塞いでしまっていた。
驚いたように見開かれたジョージの瞳と視線が合う。が、レイチェル自身もたった今の自分の行動に動揺していた。
「えっと……その、まだ、喉が少し痛くて……風邪、うつるかもしれないから……」
「ああ……ごめん、そうだよな」
咄嗟に思いついた理由を、しどろもどろに口にする。ジョージが納得してくれた様子だったので、レイチェルはホッと肩の力を抜いた。が、それもほんの一瞬のことだった。たった今吐いた嘘が棘のように胸を刺して、ちくちくと痛む。
「ごめんなさい……」
「何で? 別に君、謝るようなことしてないだろ」
ほとんど無意識だったせいで、自分でも理由がわからない。けれど、少なくともジョージを気遣ったわけではなかったのは確かだ。嘘を吐いてしまった。ジョージの顔が真っ直ぐ見られなくて、肩口に顔を埋める。髪を撫でるその手がいつもと変わらずに優しいから、何だか泣きたいような気持ちになった。
自分が、嫌になる。
こんな風に胸がざわつくのは、きっと今だけのこと。わかっている。時間が経てば、きっと自然と解決するはず。だから心配ない。そう言い聞かせてはみているけれど────それって一体いつになるのだろう?
「パメラは……マーク以外の男の子が気になったことってある?」
「え?」
恋人以外の男の子が気になって、目で追ってしまう。それだけでなく、後ろめたさのせいかジョージの前でも今まで通り振舞えなくなってしまった。たった数日では仕方ないとしても……あとどれくらい時間が経てば、この胸の靄は晴れるのだろう? 1週間? 2週間?それとも……1ヶ月? その間、ずっとジョージと気まずいままなのだろうか?
課題が増えたせいで忙しいのもあるけれど、ここのところ、以前に比べてジョージと2人で過ごすこと自体避けてしまっていると自覚がある。さっきだって、せっかくジョージがクィディッチをするから来ないかと誘ってくれたのに断ってしまった。特に先約があったわけじゃないのに……でも、えっと、そう。寝不足で箒に乗るのは危険だし……ジョージと過ごすのが気まずいと言う理由だけじゃない。……たぶん。
「どうしたのよ、急に。……まさかジョージが浮気してそうなの?」
「ち、違うわ」
怪訝そうに眉を上げたパメラに、レイチェルは勢いよく首を横に振った。そして、そんな悪気のない反応に落ち込みそうになった。自分でもちょっと不安に思っていたけれど、やっぱり恋人が居るのに他の男の子とを意識してしまうのって“浮気”になるのだろうか。何にしても、その誤解はあまりにもジョージに対して不名誉だ。
「ジョージは……きっと、そんなことしないもの……」
レイチェルだって、もしも他に好きな人ができるとしたらジョージの方だと思っていた。だって、ホグワーツにはレイチェルよりもずっと可愛い女の子や、ジョージの悪戯を喜んでくれるようなノリのいい子はたくさん居て……レイチェルはそうじゃないから。ジョージの気持ちを疑っているわけじゃないけれど、自分達はまさに相性ぴったりの2人だ、と言い切る自信はない。
「何でもないの。やっぱり、忘れて……」
「まあ……レイチェルが言いたくないなら、無理には聞かないけど」
そもそも、いくら人が少ないとは言え談話室でするような話題じゃなかった。
浮気……。自分には全く無関係だと思っていた────正確には、する方じゃなくされる方だろうとばかり思っていた────単語が、胸に重くのしかかる。立場が逆なら、きっとレイチェルだって嫌な気持ちになる。ジョージが誰か特定の女の子のことばかり目で追っていることに気が付いてしまったら……恋愛感情じゃないと言われたところで、不安になってしまうだろう。だとしたら、レイチェルのこれもやっぱり浮気なのかもしれない……。
「私だって、ハンサムな男の子を見たらかっこいいなーって思うわよ。この間ダームストラングの男の子にエスコートされたのだって、正直ちょっとときめいたし……マークはずーっと遠距離だから、正直こんなの付き合ってるって言えるのかなって考えたりもするし」
他の子達が彼氏と楽しそうにデートしてるのを見ると羨ましい、なんてパメラが溜息を吐く。その横顔が寂しそうで、無神経な質問だったかもしれないとレイチェルはますます自己嫌悪に陥った。自分の余裕がないせいで、周りのことまで考えられなくなってしまっている。
「実を言うとね。この間……ホグズミードに行った日、キスされそうになったの。『彼女より君の方がずっと魅力的だー』、なんて……まあ、どこまで本気かわかんないけど」
「えっ」
「でも、断ったわよ。私が好きなのはマークだし……他の男の子にときめいたとしたって、やっぱりマークの方が素敵だなって思うもの。だから……次に会ったときマークに言えないようなことはしたくないの」
パメラはそう言って、照れくさそうに笑ってみせた。
まだ入学したばかりの頃からずっと片想いしていて────マークが卒業して遠距離になっても、変わらずマークのことを1番に想っているパメラ。恋をしている彼女は眩しくて、何だか羨ましい。その一途さは、たぶん……レイチェルには、ないものだから。
「浮かない顔ね」
レイチェルの頭の中が散らかっていても授業は進むし、スネイプ教授もマクゴナガル教授も悩み事があるからと言って課題を免除してくれたりはしない。明後日〆切のレポートをやろうと図書室に来たのはいいけれど、集中もできなくて。羽根ペンを持ったままぼんやりしていたら、そんな風に声をかけられた。「クロディーヌ……」
「てっきり、貴方とジョージって上手く行ってるんだと思ってたけど。他に気になる男の子が居るの?」
向かい側の席へと座ったクロディーヌは、レポートを書きにきたわけではないようだった。どうやら、さっきのパメラとの会話が聞かれていたらしい。レイチェルが返事に困って視線を泳がせると、クロディーヌが小首を傾げてみせた。
「例の彼? それとも……やっぱりセドリックが気になるとか?」
「ううん……」
この話題を続けることは避けたかったのだけれど……黙り込んだままで居て、肯定だと思われるのは困る。クロディーヌの言う“例の彼”とは、きっとウッドのことだろうし、そして、勿論レイチェルが悩んでいる原因にセドリックは無関係だ。
「気になる……人は、居るけど。別に……その、男の子として好きって言うのとは違うと思うわ」
「ふぅん?」
「だって、私……元々その人のこと、すごく苦手だったんだもの。何であんなことするのって、その人の言動にすごくイライラして……大嫌いだったの。結局、それは私の誤解だったって、わかったんだけど……」
ずっと胸の中に抱え込んでしまっていたせいか、1度話し始めたら止まらなくなってしまった。クロディーヌはレイチェルがハリーを嫌っていたことを知らないから、“その男の子”が誰なのかわからないだろうと言う安心のせいかもしれない。
誤解が解けて友人になった後も、よく知らずに一方的に嫌っていたことに対して罪悪感があったこと。その人が笑うと、何だかいつも落ち着かない気分になったこと。その人にジョージとのキスを見られていたとわかって、嫌だと思ってしまったこと────。
「貴方の話を聞く限り、どう考えてもそれって恋に思えるけど。むしろ、どうしてそんなに色々あったのに気付かなかったの?」
よくあるパターンって感じよね、なんて呆れたような溜息を吐くクロディーヌに、レイチェルは言葉に詰まった。レイチェルも一瞬、考えはしたのだ。もしかしたら、自分はハリーが好きなのかもしれない、と。でも、それに関しては既に結論が出ている。
「恋じゃないわ。そんなわけない……だって、私、そのときだって他に好きな人が居たし……今だって……今は、ジョージのことが好きだもの」
「恋人への愛情があったって、他の人に惹かれることはあるわよ。そうでなきゃ、浮気も2股も存在しないでしょ」
「でも……」
ハリーのことが気になるのは事実だけれど、恋愛感情じゃない。だって、別に、ハリーとデートしたいとか、キスしたいとか思わないし……ああ、でも、別にウッドに対しても思わなかったっけ。じゃあ、ウッドへの気持ちもやっぱり恋じゃなかったんだろうか? レイチェルが動揺していると、頬杖を突いたクロディーヌの瞳がじっとレイチェルを見つめた。
「それで?」
「え?」
「それで、貴方は一体何を悩んでるの? その彼と付き合いたいけど、ジョージとも続けたいとかそう言う虫の良い話?」
「ち、違うわ!」
予想外の言葉に、レイチェルはとんでもないと首を横に振った。仮にクロディーヌの言う通り、ハリーへのこの気持ちが恋だったとして────そうだとしても、ジョージと別れたいだとか、ハリーと付き合いたいだなんて考えてもみなかった。
「じゃあ、その彼とキスでもしたの?」
「キ……」
思わず想像してしまって、レイチェルは赤くなった。そんなことしてない。この先もするはずがない。そう言おうとしたものの────つい数時間前の出来事を思い出してしまったせいで、喉元までせり上がった言葉は勢いを失って、代わりに溜息が出た。
「今日……ジョージにキスされそうになったとき……つい、避けちゃったの」
元々は、パメラへの相談もそれが原因だった。ジョージに対して誠実で居たい。ジョージとの関係を大切にして、付き合っていきたいと思っているのに……ハリーのことが気になっているせいで、それが難しくなっている。今日は納得してもらえたけれど、このままレイチェルの態度が不自然なせいでぎくしゃくしてしまったらどうしよう。
「何だ、そんなことなの」
「“そんなこと”って……」
まるで大したことじゃないと言いたげなクロディーヌの口調に、レイチェルは眉を下げた。クロディーヌにとっては他人事だし、そうでなくても“キスくらい”で、なんて思うのかもしれないけれど……レイチェルにとっては切実な悩みなのに。
「“そんなこと”よ。恋人同士だって、気分が乗らなかったら拒むことくらいあるでしょ」
「でも……」
「じゃあ、聞くけど。ジョージに今はキスしたくないって言われたら、貴方は不機嫌になってジョージを責めるの? たった1回キスを断られたからって、『もう私に興味がないの』『他に好きな人ができたのかも』なんて疑って傷つくのかしら?」
「それは……」
確かに、逆だったとしたらレイチェルはそこまで引っかからないだろう。何度も続けば不思議に思うかもしれないけれど、1回きりなら。たぶん、そう言う日もあるのかな、なんて流してしまいそうだ。だとしたら、こんなにも“やらかした”気分になってしまうのは、やっぱりジョージに対する後ろめたさのせいなのだろうか?
「前から気になってたんだけど、貴方って何だかジョージに対して過剰なくらい遠慮がちよね」
「そんなこと……ないと思うけど……」
「そうかしら? 『ジョージをガッカリさせたくない』。『せっかく誘ってくれたのに断りたくない』。『本当はこうしたいけど、ジョージは違うみたいだから』。『喧嘩したくないから、自分が我慢すれば』……心当たりはない?」
クロディーヌの言葉に、レイチェルは押し黙った。思い当たるところはあった。規則違反とか……デートとか……それに、キスも。ジョージがしたいと思っているのがわかったり、楽しそうにしていると、何となく断りにくいし、強く言えなくなってしまう。
「あるけど……でも……皆、そうじゃないの?」
「まあ、ある程度はね」
でも、別に何もかもジョージに合わせていると言うわけじゃない。それに、ジョージの方がレイチェルに合わせてくれている部分だってある。口に出さないだけで、きっとレイチェルに対して不満に思うことだってあるだろう。
「相手が好きだから何でも望み通りにしてあげたいって言うのならいいけど、そうは見えないんですもの。何か言いたげな顔をしてるくせに飲み込んで、ジョージの顔色を窺ってオドオドしてる。どうしてジョージに対してだけそんな風なの?」
セドリックに対してはそうじゃないでしょうと、クロディーヌが怪訝そうに眉を寄せた。
セドリックとジョージは違う、と反論したくなった。けれど、たぶんそれが理由ではないことは自分でもわかっている。だって、ジョージに対しても、以前はもっと言いたいことが言えていたから。
「やっぱり、自信のなさが原因なのかしら? まるで、1度でも間違えたらゲームオーバーみたい」
自信のなさ。きっと、それもあるだろう。だって、レイチェルにとってジョージは初めての恋人で、恋人との距離感はレイチェルにはよくわからないから。そう。相手がジョージだからじゃない。ジョージが、”ただの友達”から“恋人”になったことが原因だろう。
「まあ、それは置いておいても。他に好きな人ができたとして、貴方はどうしたいの?」
「どうって……」
「ジョージと別れたいの? ジョージと別れて、その男の子と付き合いたい?」
「ううん……」
「それとも、その男の子からジョージと別れてほしいって言われた?」
「……ううん。向こうは、他に好きな人居るみたいだし……」
「ふぅん」
そう。ただ、レイチェルが1人でハリーのことでぐるぐると悩んでいるだけで、ハリー本人は無関係だ。ハリーが好きなのはチョウだし、あれ以来会話さえしていない。そもそも、ハリーはきっとレイチェルのことなんてただの友達としか思っていないだろう。
「なら、そんなに悩む必要もないと思うけど」
またしても予想外の言葉に、レイチェルは今度こそポカンとした。
てっきり……てっきり、何だろう? たぶん、無意識のうちに責められると言うか、苦言を言われるだろうと思っていた。たとえば、そう。「その人のことは忘れるよう努力するべきだ」とか、「ジョージに対して不誠実だ」とか。レイチェル自身、そう思うのに。
「だって……良くないことでしょ……?恋人が居るのに、他の人が気になってるなんて……」
「まあ、恋人に一途で居られるのが理想でしょうけど。でも、さっきの話だとジョージと付き合い始めたときはその彼への気持ちには気づいてなかったんでしょ? 仕方ないじゃない」
「でも……」
「貴方が隠れてその男の子と2人で会ってるとか、もう彼以外考えられないって言うなら、ジョージと別れたらって言ったかもしれないけど。そう言うわけでもなさそうだもの」
「気持ちが揺れることくらい誰にだってあるでしょ」なんて事もなげに言うクロディーヌに、レイチェルは困惑するばかりだった。誰かに話を聞いてもらうことで多少は気持ちを整理できるんじゃないかと思ったけれど、何だかかえって混乱した気がする。
「そうね。1つアドバイスするなら、ジョージに『他に好きな人ができたかも』なんて言わないこと。そんなこと打ち明けられたって、嫌な気分になるだけだもの。恋人同士なら何もかも共有すべき、なんて言う人も居るけど、私はそうは思わないのよね」
それは、そうだろう。何もかも打ち明けることが正しいとは限らない、とはレイチェルも思うけれど。
クロディーヌの意見をまとめるとつまり、このまま何も言わずに黙ってジョージと付き合い続けると言うことだ。それは、ずるいと言うか……あまりにレイチェルにばかり都合が良すぎる気がする。不安になってクロディーヌを見ると、長い睫毛の向こうから覗く瞳は楽しげにレイチェルを見返していた。
「大丈夫よ。花だって、水がなければ育たないでしょう? 恋も同じよ。ただ憧れて眺めてるだけの相手への気持ちなんて、長続きはしないもの。そのうち忘れられるわよ」
貴方自身も覚えがあるでしょう、とクロディーヌが目を細めて微笑んだ。
その夜もやっぱり、なかなか寝付けなかった。
暗がりに目が慣れてしまったせいで、ランプの灯りがやけに眩しく感じる。見慣れたベッドカーテンの模様を眺めながら、頭の中には今日のクロディーヌの問いがぐるぐると回っていた。
『それで、貴方はどうしたいの?』
ジョージのことを大切にしたい。そのためにも、ハリーのことは考えないようにしたい。そう思う。けれど、実際にそれができていない。そんな現状がもどかしくて、何とかしたいと思う。でも、意識しないようにと思うほど、余計に意識してしまっているような気がする。
医務室で見たあの夢が、頭の中に引っかかったまま離れない。
あれは夢だ。ただの夢。気にする必要なんてない。忘れてしまえばいい。何度も繰り返し、そう言い聞かせてみるのに。眠ろうとして瞼を閉じると、不安になる。また、あの夢を見るかもしれないと。たかが夢だと割り切るには、あまりにも鮮明だったから。
『僕、ずっと君のこと探してたんだよ』
ただの夢だ。願望なんかじゃない。でも、夢の中でハリーにそう言われたとき、レイチェルは確かに嬉しかった。夢の中の出来事は偽物だとしても、あの感情はきっと本物だ。それに、あの夢のことを考えているうちに思い出してしまった。ハリーの夢を見たのは、あれが初めてじゃない。
『よかったら、僕と、ダンスパーティーに行ってくれないかな』
すっかり忘れかけていたけれど、ハリーの好きな人がチョウだと知った日にも、レイチェルはハリーにパートナーに誘われる夢を見た。そして、そのときのレイチェルの返事は“YES”だった。
本当は、ずっと前からハリーのことが気になっていたのだろうか? 自分では気付かなかっただけで、本当はハリーに恋をしていて……心の奥底では、ハリーとパーティーに行きたいと思っていたのだろうか? もう何度目かになる疑問を頭の中から追い出そうと、レイチェルはブランケットの中で体を丸めてギュッと目を瞑った。
どうしてあの日、ネックレスなんて落としてしまったんだろう?
あのときレイチェルがネックレスを落としたりしなければ、ハリーがレイチェルを探しに来ることもなかった。当然、ジョージとキスしているところをハリーに見られてしまうこともなかったはずだ。ハリーがレイチェルにネックレスを届けてくれることもなくて。きっと、こんな風にハリーのことを考えることもなかった。たぶん、今までと変わらずに、ジョージと笑っていられただろう。
……ああ、でも、そうしたら、ジョージにあのネックレスを選んでもらうこともなかったのかもしれない。
ハリーを好きかもしれないと言うのは、気のせいだと思った。
焦りや勘違いのせいで、最初は間違った答えを導き出してしまっただけ。だから、二重線を引いてなかったことにした。そして、「恋じゃない」と言う選択肢を選び直した。
だって、テストと同じで答えは1つだけだと思っていたから。男の子として好きになるのは、たった1人だけ。ジョージかハリーどちらかだけのはず。ジョージのことが好きなのだから、ハリーへの気持ちは恋じゃない。それが結論で、正しいはずだった。
でも、クロディーヌに「2人とも好き」だと言う3つ目の選択肢を与えられて────彼女の言うことは理解できる一方で、納得できなかった。そんなはずがない、と反発して、モヤモヤして。そうして、気付いてしまった。
たぶんレイチェルは、ハリーへのこの気持ちが恋であってほしくないのだ。
だって、恋だとしたら、そんなのおかしい。ジョージに何か不満があるわけじゃないのに。ジョージのことが好きなのに、どうして他の誰かに惹かれたりするの? あんなにレイチェルのことを好きで居てくれているのに。どうしてジョージ1人だけを大切に思えないの?
パメラみたいに、遠く離れていても。ジニーみたいに、相手が自分を女の子として意識してくれなくても。相手に他に好きな人が居て、自分を振り向いてくれなかったとしても。たった1人の男の子だけを一途に想っている女の子だって居るのに……どうして、レイチェルにはそれができないのだろう?
『そんなに悩む必要もないと思うけど』
ハリーに惹かれているとわかっていたのに、それを隠してジョージと付き合ったわけじゃない。ジョージのことをきっと好きになれると思った。ジョージに惹かれた。今だって、ハリーとの間にジョージに知られて困るような何かが起きたわけじゃない。確かにクロディーヌの言う通り、ジョージの信頼を裏切るようなことはしていないかもしれない。でも。
でも、本当に何もないのだ。ジョージとの間に、気持ちが離れるようことがあったわけじゃない。ハリーに思わせぶりなことをされたわけでもない。きっかけらしいことなんて何もないのに、どうして他の男の子に目移りしたりするの? ジョージはすぐ近くに居て、毎日会えるのに。たくさん話をして、楽しい時間を過ごせているはずなのに。言葉や態度で、特別だと示してくれているのに。レイチェルにはもったいないくらい素敵な恋人が居て、大切にされているのに。それだけじゃ足りないの? 自分がすごく贅沢で自分勝手で、嫌な人間なのだと突きつけられたような気がして、恥ずかしい。そもそも、以前はハリーのことをあんなに嫌っていたくせに。ハリーへのこの感情が恋なのだとしたら、一体何がきっかけだったの?
2人ともが好きだなんて……気持ちが揺れているなんて、認めたくなかった。たとえば、ジョージがレイチェルに対して冷たくなったとか……ハリーがレイチェルのことを好きだとか……それならわかる。でも、実際には何もないのに。ハリーはきっと全然気にしていない。キスのことだって、レイチェルのことだって。ハリーの頭の中はたぶん対抗試合の課題のことでいっぱいだし、そもそもハリーの好きな人はチョウだ。レイチェルのことなんてただの友達の1人としか思っていない。ちゃんとわかっている。
これは、恋じゃない。恋なんかじゃない。きっかけなんて何もなかったのに、あれほど嫌いだったハリーに惹かれるなんて、あるはずがない。そんなのおかしい。仮に、万が一、自分では気付かなかっただけでずっとハリーに惹かれていたとしても。どうして、今更になって自覚したりするの?
もしもこれが恋なのだとしたら、レイチェルが今までしてきたことへの罰なのかもしれない。
よく知りもしないのに、一方的な印象でハリーのことを嫌ったりしたから。よく知らないのに、噂だけで知ったような気になって、大嫌いだと思っていたくせに……手のひらを返したように見直したりしたから。そのことを知らないハリーがレイチェルを責めないからって、友達になったりしたから。だから、罰が下ったのかもしれない。
もしも、レイチェルがもっと賢くて、心優しい女の子だったら。噂に振り回されたりせず、ハリーが優しい男の子だと言うことにもっと早く気が付いていたら。そうしたら、状況はきっと今とは違っていた。
『僕と、ダイアゴン横丁で会いませんでしたか』
きっと、あのとき、人違いだなんてハリーに嘘を吐くこともなくて。ううん、もしかしたらレイチェルの方からハリーに声をかけていたかもしれない。きっと、もっと早く友達になっていた。もっとたくさんハリーと話をして、今よりずっとハリーのことをよく知っていて。ハリーが困っていたときだって、きっと力になってあげられた。助けてあげられた。そうしたら、きっと────。
「馬鹿みたい……」
だとしたら、何だと言うのだろう?
レイチェルはハリーに優しくすることはできなかったし、ハリーを嫌っていた事実は消せない。嘘を吐いたのだって、あのときのレイチェルはそれでいいと思っていた。お互いのためにそうするべきなのだと、確かにそう考えていた。間違っていたと後悔したところで、あの日に戻ってハリーに笑いかけられるわけじゃない。過去の自分の間違いを探して、正しい答えを見つけたところで、今更どうにもならない。頭ではわかっているはずなのに。1つ、また1つと溢れてきて、止まらない。本当に、馬鹿みたいだ。
“もしも”を考えたところで、時間は巻き戻せない。過去も未来も、変えることなんてできないのに。