既に読んだはずのページへ行ったり来たりと視線を彷徨わせて、レイチェルは溜息を吐いた。

せっかくバーベッジ教授が貸してくれた、マグルの速記技術についての本。寝る前にベッドの中で読もうと楽しみにしていたのに、全然頭に入らない。本の内容はすごく面白いのに。さっきのハリーの顔が頭に浮かんでしまって、読書に集中できない。
奇妙なほど胸が締め付けられるこれは、やっぱり罪悪感だろうか? セドリックにチョウを早く誘うよう促したのがレイチェルだから。もう少しタイミングが違っていたら、そうでなくてもレイチェルがセドリックの誘いをオーケーしていたら、ハリーはチョウをパートナーにできていたかもしれない。でも、そうなったらレイチェルは今頃ジョージと付き合っていなかっただろうし、ジニーは失恋してしまう。やっぱり、レイチェルはハリーの恋を応援することはできない。それに、チョウを誘った男の子は他にも居たのだから、セドリックとパーティーに行かなかったとしてもハリーの誘いに頷いたかどうかはわからない。だから、そう。レイチェルのせいだなんて言うのは自意識過剰だ。そう言い聞かせてみても、どうしてもあのハリーの横顔が頭から離れない。切なげな、けれど真っ直ぐセドリックとチョウを見る、あの目。あの、傷ついたような緑の瞳が。

レイチェル、そろそろ灯りを消さないと……それ、何? 不思議な文字ね」
「あ、えっとね……これ、マグルの速記って技術で……」

ぼんやりしていたせいか、ベッドのすぐ隣にエリザベスが来ていたことに気が付かなかった。エリザベスが本に興味を持ってくれたのが嬉しくて、レイチェルは今知ったばかりの速記の技術について話して聞かせた。流れで速記に興味を持つきっかけになったハーマイオニーとの会話についても話すと、エリザベスは表情を曇らせた。

「……スキーター女史と口論……? それ、大丈夫かしら……?」
「えっ? まあ、『彼女を敵に回すと何を書かれるかわからない』っておじさんも言ってたけど……ハーマイオニーは学生だし、さすがにあの人も記事にしたりしないでしょ……?」
「わからないわ。彼女の名前って、『ハリー・ポッターの恋人』として新聞に載っていたでしょう?」

そう言えばそうだ。そもそも、読者の関心を引く「生き残った男の子」だからと、ハリーのプライベートについても書き立てているくらいなのだ。もしかしたら、ハーマイオニーに関しても何か彼女を貶めるような記事にするかもしれない。そう考えると、急に不安になってきた。

「ねえ、聞いた?パーティーで ペニーのパートナーだったハッフルパフの人居たじゃない!? ペニーに告白したんだって!」

勢いよくドアが開く。談話室から戻って来たパメラがそんなことを言い出したので、レイチェルはポカンとした。それはまた何と言うか、急展開だ。昨夜、談話室で泣いているペネロピーを慰めたばかりなのに。

「ペニーは今はそんな気になれないって断ったらしいけど。まあ、パーシーと別れたばっかりだしねー。でも、あの2人、パーティーのとき結構いい感じに見えたのよね!」

ハーマイオニーとリータ・スキーターのこと。ペネロピーとパーシーのこと。ハリーとチョウのこと。次の対抗試合の課題のこと。それに、ジョージとのこと。気がかりなことはたくさんあったけれど、1つ良い方向に向かったこともあった。昨日から、ハグリッドが授業に復帰しているらしい。
レイチェル達6年生の魔法生物飼育学の授業は今日の午後最後だったが、その前の昼休み、魔法生物飼育学の受講生は集まってほしいと手紙が回って来た。急だったので、全員は来ていないようだけれど────セドリックやフレッドとジョージは見当たらない────指定された空き教室にはそれなりの人数が集まっていた。

「皆で準備して、花で文字を作らない? 『お帰りなさい、ハグリッド』って。きっと喜んでくれると思うの!」

どうやら手紙で呼びかけたのは、ハッフルパフの女の子達だったらしい。彼女達が提案したアイディアも、黒板に描かれた完成図のイメージも、素敵だとレイチェルも思った。ハグリッドなら見た瞬間感激して泣いてしまうかも、なんて考えていると、パッと手が上がった。グリフィンドールの監督生であるケネス・タウラーだ。

「実は僕も、皆を代表して伝えようと思ってたんだ。僕達全員、ハグリッドの味方だってこと。このクラスの皆は、ハグリッドが半巨人だとしたって気にしてないし、何も変わらないって」
「素敵! じゃあ、ハグリッドが来たら皆で『おかえりなさい』って言って……そのあとスピーチしてもらうのはどう?」

テキパキと段取りを決めて行く同級生達に、レイチェルは感心する一方で、何だか後ろめたいような気分になった。レイチェルもハグリッドのことは心配していたつもりなのだけれど、彼女達のような具体的なアイディアは思いつかなかった。思っているだけじゃきっと、相手には何も伝わらないのに。

「僕は、特別なことはしなくていいと思う」

和やかに進んでいた会話は、そんな一言によってピタリと止まった。声の主は、スリザリンのマイルズ・ブレッチリーだ。盛り上がっているハッフルパフ生やグリフィンドール生徒は反対に、スリザリン生達はどこか冷めていると言うか、気が進まなさそうな様子だ。

「忙しかったら、無理に準備に参加しなくて大丈夫よ! できる人だけ手伝ってくれれば……」
「別に、面倒だからって理由だけで反対してるわけじゃない」

ハッフルパフの女子達がそう言っても、スリザリン生達の表情は変わらなかった。マイルズの冷たい口調に、空気が張り詰めた────特にグリフィンドールの男子達の────のを感じてレイチェルはハラハラしたが、当のマイルズは気にした様子もなく続けた。

「いいか? 僕達が勝手に理由を察してるだけで、表向き『ただの病欠』なんだ。去年、ルーピンが体調不良から授業に戻って来たからって、いちいち花で文字を作ったりしたか? 他の教授にならやらないことなら、ハグリッドにもしなくていいだろ」

確かに、ハグリッドが休んでいる理由は体調不良だとしか聞いていない。それがハグリッドの記事が出た時期と重なっていたから、レイチェル達がきっと新聞記事が原因だと考えているだけだ。「それに」と、その隣に居た女子が小首を傾げた。

「『誰も気にしてない』なんて言うのって無責任じゃないかしら? ここに居る1人1人に聞いて回ったわけじゃないでしょう?私はトレローニー教授って苦手だけど、進路に必要だから占い学はやめられないの。魔法生物飼育学だって、同じ理由で取ってる人も居るはずよ。何を根拠に『みんなこう考えてる』なんて言えるの?」

小馬鹿にしたような口調に、ケネスが顔を赤くした。言い方は良くないけれど、彼女の意見も一理ある。レイチェルも、魔法生物飼育学は進路のために必要だ。ハグリッドのことは好きだけれど、苦手な教授だったとしても簡単には受講をやめられないだろう。

「でも、それじゃあ……いつも通り授業を受けるだけ? それって冷たくない? 私達から何かしてあげた方が、ハグリッドは安心すると思うし……だって、ハグリッドがその、半巨人だってことを隠してたのって、私達が怖がったり、避けたりするかもしれないって思ってたからでしょ?」
「その“隠してた”って言うのも変じゃない? だって私、スネイプ教授の家族の話なんて聞いたことないもの。生徒に言う必要のあること? どうして、あの人だけ“隠してた”なんて悪いことをしてたみたいに言われるの?」

確かに、フリットウィック教授やマクゴナガル教授からだって、家族の話は聞いたことがない。でも、「言わない」のと「言えない」のは違うとも思う。「言えない」のはきっと辛い。ハグリッドが不安を抱えているのなら、力になりたい。でも────「半巨人だと避けられることを恐れて言えなかったのだろう」なんて考えるのは、もしかしたらレイチェルの勝手な決めつけで、それこそが偏見かもしれない。

「……2人はどう思う?」

結局、何だかぎこちない空気のまま、昼休みは終わってしまった。次の授業へ向かうために教室を出るときも、レイチェルは何だかスッキリしない気分だった。結論は出なかったし、レイチェル自身の考えもまとまらない。提案されたアイディアはどちらも、ハグリッドなら喜んでくれそうだと思った。でも、スリザリン生の言うことも理解できる。隣を歩く親友達へ問いかけると、エリザベスは困ったように眉を下げ、パメラはうーんと首を捻った。

「私は……わからないわ。良い考えだと思ったけれど……」
「……まあ、『パメラがマグル生まれでも気にしないから!』って言ってくる人、居るけどね。正直微妙。本当に気にしないなら、わざわざそんなこと言わなくない? って思っちゃうし」

肩を竦めるパメラに、レイチェルはギクッとした。確かに、そうかもしれない。伝えた人は善意だっただろう。そのことが理由で敵意を向ける人が居るかもしれないけれど、自分は違うと、味方だと、きっとそう伝えたくて。でも、『あなたは純血だけど気にしない』なんて言う人はきっと居ない。だとすれば、そんな風に伝えたいと思うのは、やっぱりマグル生まれや巨人への差別なのだろうか?

────『教授が何者だとしたって、素晴らしい防衛術の先生です』。

以前、レイチェルも似たような言葉を口にした。あのとき、ルーピン教授がどんな表情をしていたか、もう思い出せない。もっと他に、ふさわしい言葉があったんじゃないだろうか? ただ、頭に浮かんだ言葉をそのまま声に出してしまった。何も考えていなかった。きっと、もっと考えるべきだったのに。

「でも、皆がそう感じるとは限らないわよ! 同じ言葉をかけられても、人によって受け取り方は違うわけだし。その時の状況にだってよるだろうしね」
「うん……」

思っているだけでは、伝わらないこと。言葉や態度で、相手に伝えようと努力しないと伝わらないことは、確かにあって。誰かがくれたたった一言が、時にどんな呪文よりも心を晴らしてくれることを、レイチェルは知っている。そんな宝物みたいな言葉のおかげで、自分をほんの少し好きになれることも。
でもきっと────たったひとひらでさえ、そんな力があるからこそ、言葉って難しい。

 

 

「クラス皆で寄せ書きしてね、授業の最後にハグリッドに渡したの!」
「ハグリッドってば、感激して泣いちゃったのよ」

結局、レイチェル達6年生は魔法生物飼育学の授業はいつも通り過ぎていった。談話室で3年生達が話しているのを聞いて、やっぱりレイチェル達も何かすべきだったのだろうか、とほんの少し後悔した。特別な何かをすること、いつも通り何もしないこと。どちらに賛成するべきだったのか、レイチェルはわからない。どちらの言うことも、間違っていないと思えたから。

「ねえ、ハグリッド。あのニフラーって今どうしてるかわかる?」

スリザリン生達が言っていた通り、ハグリッドが休んでいた理由は”体調不良”だ。もし、本当の理由がレイチェル達が想像している通りだったとしても、ハグリッドから打ち明けてもらえるほど信頼されているわけじゃない。何か言葉をかけたくなるけれど、それが本当にハグリッドを想ってのことなのか、自分の罪悪感を楽にしたいからなのか。今のレイチェルにはまだわからない。だから、ハグリッドにその話に触れないのなら、レイチェルの方から話題に出すことはしないと決めた。
ハグリッドが知られたくなかったことなら、このまま知らないフリをしようと思った。ハグリッドがいつも通り振舞おうとしているのなら、レイチェルもいつも通りにしよう。

「ん?ああ、ついこの間、手紙が来とったな。元気すぎて困るくらいだっちゅうとった。今度、3、4年生の授業用に何匹か貸してもらうことになっとる」
「えっ……それって、私達の授業でも見られる?」
「お前さんらの学年は、もう随分前にニフラーは勉強したっちゅう風にケトルバーン教授から聞いとるぞ」

1匹でもあんなに可愛かったのに、ニフラーがたくさん。絶対に可愛い。また抱っこしたい。確かに、6年生の授業にはニフラーは簡単すぎるかもしれないけれど……レイチェルもどうにか4年生の授業に出られないだろうか?

「ニフラーが見たいなら、また来たらええ」

レイチェルがソワソワしているのが伝わったのか、ハグリッドが笑った。その言葉に、レイチェルも微笑んだ。ニフラーが見られることもだけれど、誰にも会わず1人で小屋に閉じこもってしまっていたハグリッドがそう言ってくれることは、とても嬉しいことだと感じたから。

「……また、ファングにも会いに行っていい? おやつも持って行くから」

ハグリッドの飼っている、グレートデンのファング。シャールと同じ黒い犬だけれど、シャールと違って耳が垂れていて、シャールより大きい。かなり迫力があるので、ちょっと怖い印象を持っていた。でも、ハグリッドの小屋に行って知ったのは、見た目に反して大人しい犬だと言うことだった。最初はファングの方もレイチェルを警戒しているようだったけれど、毎日ニフラーに会いに行っているうちに少しずつ慣れてくれた。もう少し仲良くなれば、撫でさせてくれそうな気がする。

「来るのは構わんが、食べる物はやらんでええ。1年生達が俺の知らない間に餌をやっとったらしくてな。ちぃっと太り気味だ」
「わかったわ」

きっとまだ、全てが解決したわけではない。それでも、ハグリッドは授業に復帰してくれた。ホグワーツに、いつも通りの日々が戻って来た。いつも通りの穏やかな日々────とは、行かないこともあるみたいだけれど。
金曜日の午後。レイチェルが図書室に向かおうと寮を出ようとすると、ちょうど入れ違いにロジャーが談話室へと入って来るところだった。1年生の男の子も一緒だ。

「どうしたの?」
「廊下でふざけて魔法使ってたら、フィルチに捕まったらしくてさ」

泣き腫らした男の子の顔に驚いてレイチェルが尋ねると、ロジャーが肩を竦めた。それは気の毒だ。この様子だと、相当厳しく注意を受けたのだろう。廊下での魔法使用は禁止とは言え、よりによってフィルチに見つかってしまうなんて。

「確かに、朝から機嫌悪かったんだよなー。なんか、ピーブズが盗みを働いたとかって」
「ピーブズが?」
「マクゴナガルは、フィルチの勘違いなんじゃないかって取り合ってなかったけど」

ピーブズは色々とトラブルを引き起こしているし、生徒を馬鹿にしてばかりいるけれど、物を盗んだと言う話は聞いたことがない。そもそも、ピーブズは寮に入れないのだ。誰かの忘れ物でふざけて遊んでいたのを、見間違えたのだろうか?

「魔法史の教室の近くを通るなら、気を付けろよ。さっきフィルチが床を磨いてたから、汚したら絶対ネチネチ言われるぜ」
「わかったわ。ありがとう」

図書室に向かうためには、ロジャーの言っていた廊下を通らなければいけなかった。幸運にもフィルチはもう居ない。鏡のようにピカピカに磨き上げられた床は、うっかりすると滑りそうだ。転ばないよう気を付けながら歩いていると、突然何か重いものを落としたような鈍い音が響いた。やっぱり、誰か転んでしまったらしい。振り返ると、予想もしない人物が床に倒れ込んでいたので、レイチェルはギョッとした。うつぶせで顔は見えないけれど、ローブの端から覗く義足ですぐわかった。ムーディ教授だ。

「大丈夫ですか!?」
「ん? ……ああ、グラントか」
「頭は打ってないですか? 怪我は……?」
「問題ない。ああ、くそ、この足が……全く忌々しい」

足元に転がってきたステッキを拾って駆け寄ると、ムーディ教授はそれを支えにどうにか立ち上がった。どうやら防衛術の教室に戻るところだったらしい。3階だから、1つ上の階だ。ホグワーツの敷地では姿現しが使えないし、階段も多いから、義足のムーディ教授にとっては移動が大変だろう。

「手伝います。これで全部ですか?」
「ああ。そうだな……すまんが、そこの羊皮紙も拾ってくれ」

床に散らばった数冊の本や、懐中時計。ポケットから飛び出してしまったらしい折り畳まれた古い羊皮紙。そう言ったものを拾って、レイチェルはムーディ教授に腕を貸した。階段に差しかかり、1段、また1段と慎重に、ゆっくりと上っていく。

「……ディゴリーの課題の対策は順調か?え?」

ふいにムーディ教授がそう問いかけたので、レイチェルは驚いた。が、防衛術の教授であるムーディ教授が対抗試合のことを気にするのは当然かもしれない。教授達は課題の手助けをしてはいけない決まりだから、セドリック本人には聞きにくいのだろう。

「卵の謎はもう解けたって言ってました。頂いたお茶をセドにも分けたんですけど、それがヒントになったみたいで……あっ、そうだわ。あのお茶、とてもおいしかったです。ありがとうございました」
「ああ……ウム。ディゴリーからも礼を言われたな」

そう言えば、とレイチェルは思った。あのお茶は貰い物だとムーディ教授は言っていた。“元闇祓いのアラスター・ムーディ”は、自分で用意した食べ物しか口にしないと言うのはレイチェルでも知っているくらい有名な話だけれど、贈り主はそれを知らなかったのだろうか?

グラント。お前は課題の内容についてどの程度知っている?」
「少しだけ……その……湖に潜って何かを探すって」
「その通り」

レイチェルは声を潜めた。周囲には誰も居ないとわかっているけれど、それでも誰かに聞かれたらまずいと思ったからだ。敵を見つけ出そうとするようにあちこちを見回す魔法の眼は、今は回転を止め、見透かそうするようにレイチェルを見つめていた。

「ディゴリーは、どうやって湖を攻略するつもりだ?」
「えっと……私も、よく知らないんです。その、代表選手は、1人で課題に立ち向かうものだからって言われて……」
「なるほど。ディゴリーらしいな」

ムーディ教授が微笑んだ。たぶん、微笑んだのだろう。ムーディ教授のこんな風に柔らかい表情を見るのは初めてだったので、レイチェルは驚いた。人間嫌いだとか、人間不信だとか聞いていたけれど、もしかしたら思っていたよりずっと親しみやすい人なのかもしれない。

「ディゴリーは……ウム。優秀な生徒だが……驚くほどに、公正で誠実だ。まっこと、ハッフルパフに相応しい……」
「昔からそうです」
「だが……この先、対抗試合に勝ち抜くとなると、あの性格も少々考えものかもしれんな」

専門家のムーディ教授に、セドリックが優秀だと褒められるのは嬉しい。けれど、ムーディ教授から見てもセドリックのあの善良さは不安要素なのかと、ちょっと心配になって来る。フラーもクラムも、そしてハリーも、ライバルを卑怯な手段で蹴落とすタイプではないだろうから、大丈夫だと信じたいけれど……。

「何かを成すには、時に非情にならねばならん。非情さと、狡猾さが必要になる……あのお方のように」

周りが静かでなければ、聞き漏らしてしまいそうな、小さな呟きだった。たぶん、レイチェルに話しかけているわけではないのだろう。あのお方って、誰のことだろう? 聞き返そうか迷っていると、誰かの足音が近づいて来ているのに気が付いて、レイチェルの意識はそちらへと逸れた。

「こんにちは、スネイプ教授」

向こうから歩いて来るスネイプ教授に、レイチェルはそう挨拶した。が────スネイプ教授から挨拶が返って来ることはなかった。いや、これ自体はスネイプ教授の虫の居所が悪いとたまにあることなのだけれど、それだけでなく、急に元来た道を引き返してしまった。

「ここで結構だ、グラント。助かった」
「あ、はい……お気をつけて」

いつの間にか、防衛術の教室の近くまで来ていた。ハーマイオニーとの約束の時間が迫っているので、レイチェルも図書室に向かわなければいけない。急いで階段を駆け下りながらも、レイチェルの胸にはたった今の出来事が引っかかっていた。だって、あれじゃあ、まるで────。

「スネイプ教授って、ムーディ教授のことが苦手なのかしら?」

夕食の時間になっても、さっきのスネイプ教授の様子が妙に気になったままだった。さっき、確かにスネイプ教授はこっちに気が付いていたみたいだったのに、いや、気が付いたからこそ踵を返したように見えた。レイチェルと、隣に居たムーディ教授の存在に。

「スネイプは、自分が狙ってる防衛術の教授のことはみーんな“苦手”でしょ? クィレルにだってロックハートにだってルーピンにだって、ひどい態度だったわよ」
「そうだけど……」

確かに、スネイプ教授が長年“防衛術の教授”のポジションを狙っているのは有名な話しで、あの教科の教授に対して無視をしたり、嫌味を言う場面はよく見かけたけれど。でも、さっきのあれは無視をしていると言うより、ムーディ教授を怖がっているように見えた。

「……ムーディ教授は、元闇祓いですもの」

神妙な表情で呟くエリザベスに、レイチェルは首を傾げた。確かにムーディ教授は元闇祓いだけれど、だからってどうしてスネイプ教授がムーディ教授を怖がるのだろう? どう言うことか聞こうとしたところで、パメラが「あっ」と声を上げた。

「そう言えば、肖像画が噂してたんだけど、昨夜ムーディとスネイプが揉めてたらしいわよ。なんか、卵がどうとかこうとか」
「卵……?」
「それ以上はわかんないけど。あの2人じゃ、目玉焼きの好みの焼き加減を仲良く話してたってわけじゃないだろうし」

もしかして、あの金の卵についてだろうか? だからさっき、ムーディ教授も第2の課題の話を? でも、もしあの金の卵────つまり対抗試合に関する話だったとして、どうしてムーディ教授とスネイプ教授が口論するのだろう? 2人とも、ホグワーツの教授同士なのに。
わからない、とレイチェルは首を捻った。

 

 

 

「姿現し練習コース」の第1回は、2月6日 土曜日 午前10時から校庭で行う。
参加者は当日、10分前に玄関ホールに集合すること。

週末には、談話室にそんな掲示が貼り出された。いよいよ、2週間後には姿現しの訓練が始まる。レイチェル達6年生の間では、瞬く間にその話題で持ちきりになった。

「魔法省から講師が来るんだよね?」
「1発で合格しちゃいたいし、誕生日までに成功させられるといいなあ」
「あんたの誕生日3月でしょ? ちょっと難しいんじゃない?」
「ばらけたらやだな……痛いんだよね……?」
「ねえ、どうしよう!? ママ、参加費の振り込み忘れてたって……」

成人でなければ免許が取れない、危険で難しい魔法。誰もが期待と不安でいっぱいだ。レイチェルも期待半分、不安半分だった。姿現しに関してもだけれど、それ以外のことでも。
2月が近づいていると言うことは、対抗試合の第2の課題もあと1ヶ月先に迫っていると言うこと。セドリックならきっと対策を練っているだろうけれど、やっぱり心配だ。しかしそれよりも前に────バレンタインが近づいている。

「ジョージへのプレゼント、どうしよう……」
「奇をてらう必要はないんじゃないかしら。ジョージなら、貴方が選んだものなら喜んでくれると思うけれど……」
「決められないなら、いっそ本人に聞けば?」

結局、ジョージへのプレゼントをどうするか決まっていない。まだバレンタインまでは時間があるけれど、たぶんそうやってのんびりしているとあっと言う間に当日が来てしまう。そろそろ、候補だけでも絞らないとまずい。

「……やっぱり、パメラの言う通りホグズミードで買っておくべきだったのかも……」

ふくろう通販のカタログを広げ、レイチェルは溜息を吐いた。バレンタインの特集ページを眺めてみても、いまひとつピンと来るものがない。でも、あの日だって「これだ!」と思えるものは見つからなかった。「今日買っておいた方がいいから」なんて理由で、焦って決めてしまうのは嫌だったのだ。
定番のカードもチョコレートも、悪くはない。きっと、ジョージは喜んでくれる。わかっているのだけれど……できるなら、もう少し特別なものを贈りたい、と思ってしまう。
何がいいだろう。羽根ペン……は、あまりバレンタインのプレゼントらしくない気がする。ペンケースは、この間クリスマスに贈ったし。クィディッチ用品……は、ジョージにも好みがあるだろう。ハンカチは贈っても使わなさそうな気がする。 この手袋、ジョージに似合いそう。でも、レディースだ。ワンポイントとは言え、花の刺繍が入っているデザインはたぶんジョージは嫌だろう。刺繍部分だけ、呪文で変えることもできるけれど、レディースだとサイズが小さいかもしれない。でも、メンズだと色が違う。どうせならもっと、明るい色の方が────。

「あ」

そこまで考えて、レイチェルはパラパラとページを捲った。ふくろう通販なら、たぶん……。やっぱり、取り扱っている。それに、思った以上に種類も豊富だ。この中なら……これにしよう。いや、やっぱりこっち? ううん、やっぱりこれ。注文用紙に番号を書き付けて、レイチェルはふくろう小屋へと向かった。

「何て言うか……意外なチョイスね」
「……そ、そう?」

翌日には、無事に注文した品物が届いた。箱に貼られたラベルを興味津々で覗きこんだパメラがそんな感想を口にしたので、レイチェルは戸惑った。パメラの反応からすると、もしかして恋人に贈るものの選択としてはあまり良くなかっただろうか?

「マグル式の編み物って、やってみたかったし……」

中身は、毛糸と編み針だ。しっくり来るものがないなら、作ればいい。ジョージに似合いそうな、明るいピスタチオグリーン。編み物の本は図書室で借りて来た。魔法なしだと手袋はさすがに難しそうなので、マフラーにするつもりだ。

「何か、1つしかないものをあげたかったの……」

レイチェルでなければ、贈れないものをあげたかった。だって、ジョージがクリスマスにくれたガラス玉も、選んでくれたネックレスも、すごく特別に感じて、レイチェルは嬉しかったから。何か『自分のためのたった1つ』だと思えるようなものを。

「……やっぱり、変? 『おばあちゃんみたい』とか、『重い』って思われたりとか……?」

それに、子供の頃におばさんがおじさんのためにセーターを編んだり、セドリックの祖母がセドリックのために帽子を編んでいるのを見て、すごく素敵だなと思っていたから。でも、受け取る側からすると手作りって気持ち悪いかもしれない。失敗したときのことを考えて一応チョコレートの箱詰めも買ってあるから、そっちを渡すべきだろうか?

「まあ、そう感じる人も居るかもしれないけど。ジョージなら大丈夫じゃない? ジョージって確か、手編みのセーターよく着てたでしょ」

そう不安になったものの、パメラの言葉にレイチェルはホッとした。
まだ、バレンタインまでには2週間ちょっとある。ジョージには秘密にしたいから基本は寮の中で編むことにして、少しずつ進めていけばたぶん間に合うはずだ。

「んー……やっぱり、もうちょっと太い方がいいかしら? あと、2目……ううん、もっと……?」

ジョージには、マフラーを編んでいることは秘密にしたい。けれど、やっぱり実際にサイズを合わせてみないとうまく感覚が掴めない。好きなサイズに調整できるのがハンドメイドのいいところだけれど、だからこそ迷ってしまう。まだ編み始めのマフラーをセドリックの首に当てて唸っていると、セドリックが苦笑した。

「ジョージにあげるなら、僕よりフレッドで合わせた方がいいんじゃない?」
「……セドがいいの」

マネキン役としてはセドリックよりフレッドの方が優秀だろう。双子だけあって、ほとんど顔も体型も同じだから。実際、セドリックにはあまりこの色は似合っていないし。でも、フレッドは……頼んだら協力してくれるかもしれないけれど、ジョージに秘密にしてくれるか不安だし、ニヤニヤしたりからかってきたりしそうだから気が進まない。

「それに、まだ長さだって合わせなきゃいけないし。そんなに何度もフレッドと会ってたら、ジョージだって変に思うかもしれな……」
「俺とフレッドがどうしたって?」

背後から聞こえた声に、レイチェルの心臓が大きく跳ねた。ジョージだ。どうしてここに? 図書室には滅多に来ないはずだし、わざわざ奥まった席を選んだのに。レイチェルは慌てて編みかけのマフラーを鞄の中へと突っ込んだ。ジョージの位置からなら見えていないはずだ。

「なっ、何でもないの! ねっ?セド」
「えっと……そうだね。何でもないよ」

声が上ずった。大げさなまでに勢いよく頷くセドリックを見て、ジョージは明らかに怪訝そうな顔になった。話を合わせてくれたのは助かるけれど、笑顔がぎこちない。人のことをあまり言えないけれど、セドリックって本当に嘘が下手すぎる。絶対に追及されるだろうと、レイチェルは身構えた。

「ふぅん」

けれど、ジョージの口から出たのはその一言だけだったので、レイチェルは拍子抜けした。今ので信じてくれたのだろうか? ……いや、まさか。
レイチェルが戸惑っている間に、ジョージは図書室の出口の方向へと向かっていたので、レイチェルは慌ててその背中を追いかけた。

「待って、ジョージ」

廊下を歩くジョージを追いかける。たぶんレイチェルの声は聞こえているはずなのに、ジョージは振り返ることもなく歩き続けている。ジョージのローブの袖を掴むと、早足だった速度は少し緩やかになった。けれど、やっぱり立ち止まってはくれない。

「あの……怒ってる?」
「怒ってるわけじゃない……けど、冷静でもない。だから、できれば話すなら後の方がいいね」

いつもより素っ気ないジョージの口調に、レイチェルは戸惑った。話したくないほど苛立っているのなら、それは怒っていると言うんじゃないだろうか……? だとしたら、原因は間違いなくさっきの出来事だろう。絶対、何か誤解されている。

「あの……セドとは別に、ちょっと相談したいことがあっただけで……」
「まあ……今更、君とセドリックの仲を疑う気はないけど」

ジョージが立ち止まった。ようやくこっちを向いてくれたものの、視線が合わない。そっぽを向いたジョージの表情は、いつもより不機嫌そうに見えた。やっぱり、怒っているのだろう。と言うか、レイチェルが怒らせてしまったのだろう。

「君達がイチャイチャしてるのは……まあ、いつものことだからともかく……目の前であからさまに隠し事されるのって、あんまり気分が良いもんじゃないな」

イチャイチャなんてしてない。そう言いたくなったものの、レイチェルはその反論を飲み込んだ。イチャイチャはしてないけれど、ジョージの前で隠し事をしてしまったのは事実だ。どう返事をすればいいのかと戸惑っていると、ジョージが溜息を吐いた。

「この話、やめようぜ。別に、君と喧嘩したいわけじゃない」

ジョージはそう言って、また背中を向けた。「待って」歩き出そうとしたジョージを、レイチェルは引き留めた。ジョージはたぶん、今の出来事を忘れてくれる……と言うか、見なかったことにしてくれるつもりなのだろう。レイチェルだってジョージと喧嘩をしたいわけじゃないから、これ以上この話題を続けるべきではないのかもしれない。でも、これは、このまま放っておいたらまずい気がする。

「……嫌な気持ちにさせてごめんなさい。あの……でも……誤解なの。本当に、後ろめたいことは何もなくて……」
「謝るなよ。誰だって秘密の話の1つや2つあるだろ」

君が悪いわけじゃないのはわかってる、とジョージがぶっきらぼうに言った。
たぶん、理屈ではなく感情の問題だ。レイチェルだって、パメラとエリザベスが自分の目の前で内緒話をしていたら、仕方ないとわかっていても気になる。もし、立場が逆だったら。ジョージが他の女の子とレイチェルの前で仲良さそうに話していて、しかも「何でもない」なんて誤魔化されたら、きっと不安になるだろう。

いっそ、打ち明けてしまうべきなのだろうか?

沈黙が気まずい。クリスマスのときにジョージがそうしてくれたように、レイチェルもジョージに驚いてもらえるような贈り物を用意したかったのだけれど……喜ばせたくてしているはずのことで、怒らせてしまうのって本末転倒だ。せっかくジョージが追求せずにいてくれたのに、追いかけて来てしまったレイチェルが悪かったのかもしれない。いや、でも、あの状況で「信じてくれたんだ!よかった!」なんて素直に思えない。もう追いかけてきてしまったし、後悔したところでどうしようもない。言葉を探して俯いていると、ジョージがまた溜息を吐いた。

「まあ……何だ。あー……つまり、俺が勝手に嫉妬したわけで……だから……そうだな……」

ジョージの手のひらが、レイチェルの頭に触れて、クシャクシャと髪をかき混ぜる。思わず視線を上げると、ジョージの褐色の瞳と目が合った。さっきと違って、もう不機嫌そうには見えなかった。いつもの、何か悪戯を思いついたときのあの表情だ。

「君からキスしてくれたら、機嫌が直るかもしれないな」
「キ……」

レイチェルは頬に熱が集まって来るのを感じた。さっきとは逆に今度は、レイチェルが視線を逸らす番だった。いや、今更キスに照れるのも変かもしれないけれど。でも、いつもジョージからで、レイチェルの方からしたことはまだない。でも、もう何度もしているわけだし……誤解されるような行動をしてしまったのは事実だ。このまま気まずくなるのは嫌だし、できればマフラーのことはサプライズのままにしておきたい。キスでジョージが機嫌を直してくれるのなら、そうすべき……だろうか?

「…………座って」

すぐ近くにあるベンチへと、レイチェルはジョージのローブを引っ張って座らせた。普通に立っている状態だと、レイチェルは背伸びしないと届かない。ジョージだけ座ってもらった方がたぶんやりやすい気がする。気がするだけかもしれない。

「目も閉じて……!」
「了解」

ジョージがニヤッと笑って、目を閉じた。嬉しそうにしないでほしい。と言うか、もうすっかり機嫌は直っているように見える。何だかまた丸め込まれたような気がしなくもない。
髪が落ちないよう耳にかけて、レイチェルはジョージを見下ろした。ジョージを見下ろすのって、何だか新鮮だ。手はどこに置くのがいいんだろう。肩? やっぱり、レイチェルも座った方がよかったかも。

……キスをするとき、ジョージもいつもこんな風に緊張するのだろうか。

ジョージの頬を両手で包みこんで、ほんの少し上へと傾ける。ジョージの唇にそっと自分の唇を押し当てた。唇を押し当てて、離して、を何度も繰り返す。たったそれだけ。ジョージにはきっと物足りないはずなのに、されるがままだから落ち着かない。キスを仕掛けているのが自分だと言うだけで、何だかいけないことをしているような気分になる。誰か来たらどうしよう。ジョージは普段、どんな風にしていたっけ? 思い出そうとすると、自分の体温が上がるのがわかった。

「こ……こんな感じで、よかった…………?」

息が続かなくなってきたのと、これ以上どうしていいかわからなくなったのとで、レイチェルはジョージから離れた。たぶんジョージが満足できるようなキスではないのはわかっているけれど、今のレイチェルにはこれが精一杯だ。息継ぎもだけれど、それ以上に羞恥心が限界だった。

「……ヘタ」

俯いたジョージがクツクツと笑うので、レイチェルは呻いた。それは、自分でもわかっているれど。そう思うなら、途中からはジョージがリードしてくれてもよかったのに。そんな風に文句を言いたくなったけれど、ジョージの顔を見たら言葉が出なくなってしまった。言葉とは裏腹に、ジョージの表情はレイチェルをからかっているわけではなさそうで────蕩けそうな、優しい瞳でレイチェルを見つめていたから。

「……じゃあ、ジョージが教えて」

代わりに出て来たのは、そんな言葉だった。レイチェルだって、いつもジョージにリードしてもらってばかりなのは何となく居心地が悪いと言うか、申し訳ないような気分になる。ジョージは慣れているみたいだから、その経験値を作った相手はきっとキスが上手だったのだろうし。レイチェルもできる範囲で努力したい……のだけれど、ジョージが目を見開いた後、ニヤッと笑ってみせたのでやっぱり言わなければよかったかもとほんの少し後悔した。

「きゃ……っ」

急に腕を引かれて、レイチェルはバランスを崩した。ジョージに抱きとめられたと思ったら、そのまま唇を塞がれる。反射的に身体を引こうとしたのに、逃げられない。さっきのレイチェルのキスをなぞるような、でもレイチェルのした稚拙なキスとは全然違う。心の準備ができていなかったのもあって、レイチェルは大いに動揺した。

「……だから、不意打ちはやめてってば……」
「君のリクエストに応えただけだから、不意打ちじゃない」
「もう……」

確かに教えてとは言ったけれど、今すぐ実践してほしいと言う意味じゃなかった。たぶん、ジョージだってわかっていたくせに。ジョージの腕の中から抜け出して、軽く睨んだ。甘ったるいキスの余韻が、まだ抜けない。ジョージが笑っていると、強く言えなくなってしまう。驚いただけで、嫌なわけじゃないから。……それさえ見透かされていそうで、ちょっと悔しい。
膝の上に置いた手に、ジョージの指が絡む。隣に座ったジョージが顔を覗き込んでくる。またキスをしようとしているのがわかったから、レイチェルはわざとそっぽを向いた。

「キスしたいから、こっち向いて」
「……知らない」

さっきは流してしまったけど、よく考えたらレイチェルなりに頑張ったのに感想が「ヘタ」の一言ってあんまりだ。ジョージのばか。
2人で居るとレイチェルばかり動揺しているから、ジョージだってたまには困ってみればいい、なんて思うのに。
レイチェル」そう囁く声が、お砂糖みたいに甘くて。頬に触れる手が、宝物に触れるみたいに優しいから。

いつものジョージだと知らず入っていた肩の力が抜けて────結局は、レイチェルも笑ってしまった。

間違いさがし

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