日曜日。昼食の後、レイチェルは図書室に来ていた。
昨日は1日遊んでしまったし、夜はジョージと箒に乗る約束をしているので、レポートを進めたかったのだ。予習もしておきたい。
休暇が明けてから、魔法薬学ではゴルパロットの法則を学んでいる。スネイプ教授は、明日の授業では実際に混合毒薬の解毒剤を調合できるか試すと言っていた。これまでと違って、指定された魔法薬を手順通り調合するだけじゃ足りない。まず与えられた瓶の中身を明らかにして、そして解毒するには何が有効か見極めなければいけない。ええと、だから……重要なのは、毒薬の成分と量を正しく特定すること。そのためにはまず、スカービンの暴露呪文を使って────。
「レイチェル?」
自分を呼ふ声によって、レイチェルの集中はそこで途切れた。顔を上げると、ハーマイオニーが立っていた。腕の中には数冊の本が積まれている。4年生のレポート課題用とは思えないので、“寝る前の軽い読書”用の本を借りに来たのかもしれない。
「あっ……課題中だったかしら? 1人で集中したい?」
「ううん。そろそろ休憩しようと思ってたところなの。だから、ハーマイオニーがおしゃべりに付き合ってくれたら嬉しいわ」
集中して羽根ペンを動かしすぎたせいで、手首が痛くなってきた。それに、ここのところハーマイオニーとあまり話せていなかった。彼女を図書室で見かけるときはクラムが一緒のことが多かったし、レイチェルも課題で────正確に言えば、ジョージと過ごす時間が増えて課題にあてる時間が減ったせいで────忙しかったからだ。
「もしかしてレイチェルが今つけてるのって、昨日ホグズミードで買ったネックレス?」
「ええ。そうだけど……」
そう。だから、ジョージとホグズミードに行くことも、ネックレスを選んでもらうことも、ハーマイオニーには言っていなかったはずなのに。どうして知っているのだろうと首を傾げると、ハーマイオニーは悪戯っぽく笑ってみせた。
「昨夜、談話室でジニーとジョージが話してたの。どんなデザインにしたのかって、ジニーがジョージを問い詰めてたから……」
よく似合っていると褒められて、レイチェルは視線を泳がせた。考えてみれば、レイチェルだってパメラ達にジョージとの話をすることもあるのだし、同じようにジョージが誰かにレイチェルの話をしていたとしても不思議ではないのだけれど。実際に聞くと何だか恥ずかしい。
「……ハーマイオニーの方は、ホグズミード休暇はどうだった?」
話を逸らしたかったのもあって、レイチェルはそんな質問を投げかけた。照れくさいのもあるけれど、せっかくだから今はジョージの話をするより、ハーマイオニーの話が聞きたい。
パッと頭に浮かんだのがそれだっただけで、話題は何でも良かった。ちょっとした愚痴でも、授業のことでも。とりとめのない、ありふれた、他愛のないおしゃべりで構わなかった。けれど────ハーマイオニーの聞かせてくれた話は、レイチェルの想定していたものとは違っていた。
「あの人、リータ・スキーターって、本当に……新聞記者として、最低よ!」
どうやら、レイチェルがホグズミード休暇を満喫していた間、ハーマイオニー達“いつもの3人組”はまたしてもトラブルの渦中に居たらしい。三本の箒でリータ・スキーターと偶然会って、ハグリッドの記事を巡って彼女と口論になったのだと言う。
「あの人の態度に、あんまり腹が立ったからよ。レイチェルだって、あの場に居たらきっとそうしてたわ」
ハーマイオニーは断言してみせたけれど、レイチェルには素直に同意できなかった。
レイチェルだって、ハグリッドの記事に関しては────結局読んでいないけれど────思うところがあった。ハグリッドのプライバシーを無遠慮に暴いて、それだけでなく、『凶暴で危険で、ホグワーツの教師としてふさわしくない』なんて書き立てたのだと聞いて、ショックだったし、悲しかったし、理不尽だと感じた。レイチェルよりもずっとショックを受けただろうハグリッドが心配だった。その記事を書いた張本人であるリータ・スキーターに対しても、当然いい印象は持てない。でも、実際に本人に会ったとしても、自分が毅然と抗議できたかと考えると……自信がない。
「あなたってやっぱり、すごく行動力がある……ううん。違うわ。それだけじゃなくって……勇敢なのよね。勇敢で、優しいの」
「何、どうしたのレイチェル。急に」
「急じゃないわ。本当に、そう思ってるの」
ハグリッドのことだけじゃない。SPEWに関してだってそうだ。ハーマイオニーはいつだって、自分が正しいと思うことのために行動できる。レイチェルなら踏み留まってしまいそうな1歩を、ハーマイオニーは躊躇わない。その正しさや勇敢さが、時に彼女自身を危険に曝すので心配になるけれど、やっぱりレイチェルには眩しくて、憧れてしまう。レイチェルがそう伝えると、ハーマイオニーはパッと頬を紅潮させ、小さく咳払いした。
「小さい頃は……自分が魔法使いだって知る前は、弁護士かジャーナリストになりたいって思ってたの。でも、私が憧れてた新聞記者って、あの人なんかとは全然別物よ。あの人は、ただ、誰かの秘密を暴いて注目されたいだけ。ペンは剣よりも強しって言うけど、あんなやり方って、本当に誰かを傷つけて……取り返しのつかない事態になりかねないわ。あまりにも────暴力的よ」
“弁護士”ってどんな職業なのだろうと、レイチェルは首を傾げた。マグルの仕事って、他にはどんなものがあるのだろう? それに、その格言って確か「ペンは杖よりも強し」じゃなかったっけ……? もしかしたら、マグルの世界にもよく似た言葉があるのかもしれない。
「あんな人が、“敏腕記者”なんて言われてるなんて……」
「うーん、まあ……飛び抜けて独占スクープが多い人なのは確かよ」
リータ・スキーターの記事は読んだことがあるけれど────彼女の記事は新聞の目立つ位置に大きく取り上げられることが多いので────ほとんどが有名人のゴシップか、誰かを非難するものだ。記事を面白くするために、過剰に不安を煽ったり、でっちあげに近い脚色をしたり、誰かを悪者に仕立て上げようとする傾向があるので、レイチェルも彼女の記事は素直に信じ過ぎないよう気を付けている。ただ、彼女が敏腕記者と言われるには、それだけの理由がある。
「おじさんが以前話してたもの。魔法省の……逮捕した死喰い人への尋問だったらしいけど。厳重に人払いして、もちろん肖像画もない部屋を選んで……ポリジュースや呪文での妨害の可能性を考えて、ドアに呪文流しまでかけてたのに、そこでのやり取りが記事に書かれて大問題になったって……不思議よね」
「ドア以外から入ったのかしら? ゴーストみたいに壁をすり抜けたとか……」
「警備にはディメンターも居たらしいの。部屋の中の人数が増えてるのに、気付かないなんて考えにくいでしょ?」
もしかしたら、リータ・スキーターもフレッドやジョージのように、独自の魔法を編み出したのかもしれない。何か、ありとあらゆる対策をかいくぐれるような、彼女にしか使えない特別な方法を。でも、それって一体どんなものだろう?
「……ねえ、ハーマイオニー。マグルの世界にも新聞はあるのよね? マグルの記者は、自動速記羽根ペンは使ってないと思うけど……バーベッジ教授が前に、マグルには文字をすごく速く書く方法があるって言ってて……書き留めたいことがたくさんあるときは、それを使うの?」
「ああ、速記ね?」
「“速記”! きっとそれだわ! ハーマイオニーも使える?」
「いいえ、私もさすがに……昔は使ってただろうけど、今はボイスレコーダーを使うことの方が多いんじゃないかしら? 名前の通り、声を録音する機械なんだけど……」
「おやすみなさい、ジョージ」
「ああ、おやすみ」
話しこんでいたら、すっかり遅くなってしまった。でも、まだ消灯時間にはなっていない。あと9分。あの角を曲がればレイブンクロー塔の入口だし、急いで階段を駆け上がれば間に合う。あと7分────6分30秒────5分45秒────4分───3分40秒────2分20秒────。急いでドアを叩くと、ノッカーの鷲が嘴を開いた。
『“私”を持つと、あなたはみんなと分かち合いたくなる。“私”をみんなと分かち合うと、“私”はなくなってしまう。“私”は何でしょう?』
「えっと……えっと……あっ、わかったわ!」
答えは『秘密』だ。開いたドアの向こう側へと駆けこんで、レイチェルは壁にかかった時計を見た。まだ残り……48秒。ギリギリセーフだ。エリザベスには叱られそうだけれど、一応寮の中には入っている。
ふぅと胸を撫で下ろして、レイチェルは談話室を見渡した。明日は授業なので、皆もう部屋に戻ってしまっている。最後の1組らしい5年生のカップルも寝室への階段を上り始めていた。ふあ、と欠伸を噛み殺す。階段を駆け上がって疲れたのと、安心したのとで急に眠くなってきた。レイチェルも、部屋に戻って休みたい。
「……レイチェル?」
のろのろと女子寮への階段を上っていると、反対に誰かが階段を降りてきていた。杖灯りが眩しい。その人物はどうやら黒い巻き毛だったので、レイチェルはエリザベスが痺れを切らしてレイチェルを探しに来たのだろうかと考えた。が、違った。
「どうしたの、ペニー。 眠れないの?」
「ん……ちょっとね。部屋に居たくなくて……」
パジャマ姿のペネロピーは、そう言って微笑んでみせた。が、その顔は青白いし────まあ、7年生は休暇が明けてからNEWTの対策が本格化して皆疲れた様子だけれど────元気がないように見えて、レイチェルは心配になった。
「何かあったの? 私でよかったら、話を聞くけど……」
「ありがとう。でも、大丈夫。レイチェルは、明日朝から授業でしょ? 部屋に戻ってもう休まないと」
部屋に居たくないと言うことは、ルームメイトと喧嘩だろうか? NEWTに関する悩みだとしたらレイチェルには荷が重いけれど、それでも話相手くらいはできる。そう思って提案したものの、ペネロピーは静かに首を横に振った。
「レイチェルがこんなに帰りが遅くなるなんて珍しいわね。……もしかして、デートだったの?」
「えっと……そうなの。ジョージと星を見に行ってて……」
「いいわね。付き合い始めて1ヶ月くらいよね? 1番楽しい時期だものね」
素敵ねと、ペネロピーはいつもの優しげな、そしてどこか懐かしむような笑みを浮かべた。けれど、すぐにその笑顔は崩れてしまった。表情は奇妙に歪んで、大きな瞳に涙の膜が滲む。
「ごめんなさい」
ペネロピーは涙を隠すように俯いて指で拭ったが、またすぐ溢れてしまうせいであまり意味はなかった。突然泣き出してしまったペネロピーにレイチェルは戸惑ったが、何にしてもこんな状態の彼女を放っておけない。
「思い出したの。パ……パ……パーシーとも、付き合い始めた頃、星を見に行って……それで、消灯時間ギリギリになったことがあったって……」
談話室のソファに並んで座って、泣きじゃくる彼女の背中を擦っていたら、嗚咽交じりにそう打ち明けてくれた。理由がわかって、レイチェルは罪悪感で胸が痛んだ。つまりは、レイチェルが呑気にジョージとのデートの話なんかしたから、遠距離恋愛で寂しい思いをしているペネロピーを傷つけてしまったと言うことだ。ペネロピーはパーシーとデートできないと知っていたのに、無神経だったかもしれない。
「あの……ごめんね……私……」
「違うの。レイチェルのせいじゃないの。部屋だと、みんなに気を遣わせるから……だから、談話室に降りようと思って……」
「……昨日ね。パーシーが、ホグズミードまで来てくれたの」
その言葉に、レイチェルはぱちぱちと瞬いた。パーシーが、ペネロピーに会いに。
思わず「よかった」と言いそうになって────レイチェルはその言葉を飲み込んだ。どう考えても、さっきのペネロピーの涙は、「恋人に会えて嬉しい」涙じゃない。
「それで……それで、私、言ったの。『もう、終わりにしたい』って」
予想は当たってしまった。ペネロピーの瞳にまた涙が溢れたので、レイチェルは慌ててポケットからハンカチを取り出した。ペネロピーのハンカチは、もうぐっしょり濡れてしまっている。
「えっと……じゃあ、2人はその……友達に戻るの?」
「友達……どうかしら。そうなれたらいいけど……私とパーシーって、元々友達だったわけじゃないし……」
そう言えば、2人がどうして恋人同士になったのか、詳しく聞いたことはなかった。寮も学年も違うけれど、2人とも監督生だったから、きっとそれで親しくなったのだろう、なんて勝手に想像していたけれど。
「そう。だから、もう……今の私達の関係って、名前がないのよね。友達でも、同級生でもないし……“元”恋人って言うだけで……“今”は、何になるのかしら?」
ペネロピーが自嘲するように笑ってみせた。その質問に、レイチェルはどう答えればいいかわからなかった。たぶん、ペネロピーも、レイチェルに答えを返してほしくて言ったわけじゃないのだろうけれど。
「会う前にね、今日こそ言うんだって決めてたの。次にまた会えるの、いつになるかわからないし……もう、先送りにしないって。でも、パーシーの顔見たら、やっぱり別れたくないって思っちゃって……今も、すごく後悔してる。やっぱり、あんなこと言うべきじゃなかったって……」
ここのところ、2人がギクシャクしてしまっていることは知っていた。でも、お互いを嫌いになったわけじゃない。遠距離になったことで、すれ違ってしまっているだけ。だから、会って話すことができれば、きっと解決できると思っていたのに。
「パーシーは、自分が悪かったって……もっと私の話を聞くべきだったし、手紙を出すべきだったって……ホグズミード休暇なんて、2ヶ月に1回だけなんだから、時間を作って会いに来るべきだったって……これからはそうするって約束してくれたけど」
「それなら……」
「でも……もう無理なの。私が、もうパーシーの言葉を信じられない。だって、これまでだって、ずっと約束を破られてきたのよ。『夏休みはたくさん会おう』『ホグズミード休暇は絶対会いに来る』って、約束してたのに……『忙しい』『今回はダメになった』って……たったそれだけ。そんな言葉だけで……」
声が震えて、嗚咽が混じる。言葉を詰まらせたペネロピーの背中を、レイチェルはまた擦った。
「……きっと、パーシー、また時間が経ったら同じことするもの。期待して、そのたびに失望するのは、もう嫌なの」
パーシーはきっと、仕事で忙しかっただけ。でも、そんなこと、ペネロピーだってきっとわかっているのだ。だからこそ、わずかな機会を大切に過ごそうと楽しみにしていて────それが毎回反故にされることに、悲しい思いをしたのだろう。
「……パーシーだけが悪いわけじゃないわ。私も悪かったの。手紙って、顔が見えないから……思ってるのと反対のことを書いても相手にはわからないから、『忙しいなら無理しないで』『気にしないで』なんて、物分かりのいいことばかり書いてた。パーシーのこと、困らせたくなかったし、面倒だって思われたくなくて……」
「それは……パーシーを気遣ったからでしょう? ペニーは優しいもの……」
「全然優しくなんかないわ……。パーシーがはっきり言わないと気付かないことなんてわかってたのに、『どうして気付かないの』なんて不満に思ってたし……。自分が嘘ばかり書いてたから、手紙に『会いたい』って手紙に書かれてても、どうせそんなこと思ってないくせに、って思うようになっちゃったの……」
ペネロピーが悲しげに瞼を伏せた。「でも、」とレイチェルは眉を下げた。確かに、パーシーは何度もペネロピーとの約束を破って────それがペネロピーにとっては嘘を吐かれたように感じて、傷つけたし、信頼を損なったのだろう。それでもきっと、何もかもが……ペネロピーへの気持ちまでが嘘だったわけじゃない。
「でも……パーシーだって、ペニーのことを大切に思ってるわ。絶対よ」
レイチェルは、パーシーの人となりをよく知らない。ペネロピーの恋人で、ジニーやジョージのお兄さん。本当は、こんな風に言えるほど、パーシーと話したことがない。それでも────誰かから聞くパーシーは、不器用でとても実直な人だ。たぶん、目の前のことに一生懸命になりすぎるだけで────ペネロピーのことをないがしろにしてしまったのも、きっと、愛情がなくなったからじゃない。「ええ。わかってる。パーシーは、他の人を好きになったとか、私から気持ちが離れてしまったとか、そう言うわけじゃないって……」
「なら……」
「だからなの。だって、私のことが大切だって……ずっと一緒に居たいって言うくせに、私の話は全然聞いてくれないし、私の気持ちは考えてくれないんだもの。パーシーって、私なら結局は笑って許してくれるって……約束を破っても、仕事や他の何かを優先しても、私ならわかってくれるって思ってる。そう思われてるって知ってたから、私もずっと無理してた。でも私……本当はそんなに心の広い女の子じゃない」
ペネロピーは、パーシーを嫌いになったわけじゃない。本心から別れたいわけじゃなく、まだ迷っている。パーシーも変わろうとしているなら、まだ決断するのは早いんじゃないかと……今度は上手く行って、また前みたいに2人で笑えるようになるかもしれない、と。第三者のレイチェルは、そんな風に期待してしまうけれど。
「まだ好きだけど……好きなだけじゃ、ダメなのね」
たぶん、好きだからこそなのだろう。好きだからこそ、相手を気遣いたいと思うし、相手の前では少しでも素敵な自分で居たいと努力できる。相手の望みに応えたいと思う。好きだからこそ、大切にされていないと感じたら傷つく。
「本当は、別れたくなんてない。馬鹿みたいよね。自分から、別れようって言ったくせに……パーシーと、もっと話せばよかった。話したいこと、たくさんあったのに。明日ふくろう小屋に行って手紙を出したら、まだやり直せるかもって……でも、きっと、私、またすぐ不安になるってわかってる。もう、『きっと上手く行く』って想像できなくなっちゃったから……だから、これでよかったの」
まるで自分に言い聞かせようとするようなその言葉に、レイチェルは戸惑った。
……本当に、これでいいのだろうか? 2人はこれで終わってしまうのだろうか? だって、あんなに素敵な恋人同士だったのに。まだ、お互いに好きなのに。パーシーが卒業する前。2人が上手く行っていた頃、パーシーのことを話すペネロピーは穏やかで、幸せそうで。いつもより柔らかい、優しい表情をしていて……レイチェルはそんな2人が羨ましかったし、憧れていた。この先も、ずっと2人はそんな風に時間を重ねていくのだと思っていた。
「不安だったけど、たった1年だけだって……1年なら、耐えられるって思ったのに……私達には無理だったみたい」
「ペニー……」
離れてしまったとしても、2人なら大丈夫だと思った。上手く行ってほしかった。でもきっと、誰よりもそう願っていたのはペネロピーだ。パーシーが好きだから、これからも一緒に居たいと思ったから。ペネロピーはいつもパーシーを思いやっていた。
パーシーに対してだけじゃない。誰に対してもそうなのだ。優しくて面倒見のいい彼女は、いつだって相手の気持ちを考えて、寄り添って、理解しようとする。相手を気遣って、自分の気持ちには蓋をしてしまうところがあって────たぶん、優しすぎるせいで、疲れてしまった。
「……ありがとう、レイチェル。話を聞いてくれて」
「私は、何も……」
「そんなことないわ。レイチェルが居なかったら、私、きっとまだ暗闇の中で1人でメソメソ泣いてたもの」
ペネロピーが気持ちに整理をつけるまでには、きっとまだ時間がかかるのだろう。それでも、悪戯っぽく笑うペネロピーはさっきよりずっと落ち着いているように見えたので、少しホッとした。
「あのときもっとああしていたら、こうすべきだったって、つい考えちゃうけど……でも、もし時間を巻き戻せたとしても結局は同じ結果になるのかも。喧嘩になるくらいなら、本音を飲み込むのが正しいはずだって、あのときは確かにそう思ってた。そうすべきだと思って、選んだことだったもの」
レイチェルはペネロピーのことが好きだから、彼女に泣いてほしくないし、笑っていてほしい。ペネロピーが後悔しない選択をしてほしいと思う。でも、きっと、大切なことほど、選択するのはとても難しくて────もしかしたら、後悔しない選択肢なんてないのかもしれない。
たぶん、きっかけは些細なことだったのだろう。
好きだから、気遣えたこと。相手に良く思われたくてした、ほんのちょっとの背伸び。ほんのわずかな、不安や不満。きっと、すぐ隣に居て相手の笑顔が見れたら、声が聞けたら、何でもないと思えたこと。側に居れば簡単に埋まるはずだった小さな罅が、時間を重ねて、少しずつ広がってしまったのだろう。たぶん、パーシーも、ペネロピー自身も気づかないうちに。
「次にまた、誰かと付き合うとしたら……もう、無理に自分を良く見せようとするのはやめる。怖がらずに、自分の気持ちをきちんと伝えるわ」
ペネロピーはそんな風に言っていたけれど、レイチェルにはペネロピーがパーシーの前で背伸びしてしまった理由も、自分の気持ちが吐き出せなかった理由もわかるのだ。ペネロピーが抱えていたものと比べたら、レイチェルなんて、本当に……ものすごく、ものすごく、ちっぽけなことなのだけれど。
たとえば、ジョージが触るから、髪の手入れに前より時間をかけるようになった、とか。恥ずかしいから、キスするときはジョージも目を閉じてほしい、とか。もう少し勉強する時間を増やしたいのだけれど、ジョージは図書室でのデートはそんなに好きじゃないだろうな、とか。
レイチェルがそんな風に考えているように、ジョージにだってきっとわざわざ言葉に出さずに飲み込んでいることはあるはずだ。価値観や考え方が違うのだから、どうしたってすれ違いは起きてしまう。不満を溜めこみすぎるのもよくないだろうけれど、何でもかんでも口に出したら、わがままだとウンザリされるだけのような気がする。
「セドとチョウが喧嘩するところって、全然想像つかない」
何もかもがぴったり噛み合うカップルなんて、たぶん奇跡みたいな確率で────自分達がまさにそんな2人だ、とは思えない。そもそもレイチェルとジョージは、性格も趣味も元々そんなに合わないし。セドリックとチョウはどちらも温厚な性格だし、努力家だし、クィディッチ好きと言う共通点もあって相性が良さそうだけれど。
「まあ……そうだね。今のところ、喧嘩はしてないと思うけど……」
「そうよね」
「ジョージと喧嘩したの?」
「ううん……そう言うわけじゃないんだけど……」
相手を思いやったつもりで、言葉を飲み込んで、無理に背伸びして、衝突を避けようとして────そんな状況は、レイチェルにも覚えがあった。去年セドリックとギクシャクしてしまった原因は、レイチェルがそんな態度をとったせいでもあったから。だから、もしもこの先ジョージとの間にも同じことが起きたら、と考えてしまった。セドリックとは仲直りすることができたけれど……ペネロピーとパーシーみたいに修復不可能になる可能性もあるのだと、ちょっと不安になってしまった。
“恋人”って不思議だ。2人きりで長い時間を過ごして、手を繋いだり、キスをしたり……もしかしたら、それ以上のことも。家族や友達とだってしないことをたくさんするのに、どうして“恋人”でなくなった途端、“名前すらない関係”になってしまうのだろう?
元々友達として仲が良かったカップルだって、別れた後は仲が悪くなるか……そうならなかったとしても、ギクシャクしてよそよそしく振舞っていたりする。付き合う前よりずっと他人行儀な関係に。レイチェルも、ジョージと別れてしまったらやっぱりそうなるのだろうか? たとえば、ジョージと何か……深刻な喧嘩するとか、ジョージがレイチェルとの付き合いを退屈に感じるとか────ジョージに他に好きな女の子ができるとか……?
レイチェルは首を横に振って、頭の中からそんな考えを追い出した。今からそんな想像をするのはやめよう。
「私のことはいいの。セドはチョウとデートだったんでしょ? どこに行ったの?」
「あー……普通だと思うよ。三本の箒とか、ハニーデュークスとか……チョウが新しいグローブが欲しいって言ってたから、クィディッチ用品店に行って……あと、マダム・パディフットの店に行った。デイビースとフラーに会ったよ。フラーは、あの店がそんなに気に入ってないみたいだったけど」
「ああ……あそこのケーキは、フラーには甘すぎるかも」
それに────レイチェルは頭の中に、ホグズミードで見かけたフラーのシックなコーディネートと、マダム・パディフットの店の内装を思い浮かべた。あのロマンチックな雰囲気は、フラーの趣味には合わないかもしれない。
「僕、これから図書室に行くけど……レイチェルは?」
「ふくろう小屋に行くつもり。ハニーデュークスの新商品、パパが好きそうなやつだったから、送ってあげようと思って」
「ねぇ、お願い。家族に手紙を届けたいの。あなたが引き受けてくれたら、すごく助かるんだけど……」
箒でも、動く階段でも、肖像画でも。ホグワーツに所属するものは大抵、生徒達のことを舐めている。
当然、学校で飼われているふくろう達も例外ではなく、気分が乗らなければ生徒の頼みは聞いてくれない。今のレイチェルのように外国まで手紙を届けたいときは、特に。
「……そうよね。ルーマニアって遠いものね」
遠くまで飛ぶのが好きで喜んで引き受けてくれるふくろうや、気の良い性格のふくろう中には居るのだけれど、そう言うふくろうは人気なので、既に配達に出てしまった後のようだ。眠ったフリをするふくろうに、レイチェルは溜息を吐いた。
「イタッ! こら、やめろってば!」
どうやら、レイチェル以外にも配達を頼むのに苦戦している生徒が居るらしい。ふくろうの鳴き声と、暴れているような羽音。そして、男の子の声。その声に聞き覚えがあったので、レイチェルは止まり木の向こう側を覗きこんだ。
「僕、何度も言ったじゃないか! いい加減に……」
「……もしかして、ハリー?」
「レイチェル?」
やっぱり。パチパチと目を瞬かせるハリーは、目の前のふくろうに話しかけていたようだった。止まり木で羽を休めているその白いふくろうは、機嫌を損ねてしまったのか、ツンとそっぽを向いている。
「怒らせちゃったの? 諦めて、他の子にした方がいいんじゃないかしら」
「あ……えっと、その、手紙を出しに来たわけじゃなくて……僕のふくろうなんだ。たまには様子を見に行くように言われて……アイタッ」
「あなたの?」
そう説明している間にも、ハリーは指を噛まれていた。しかも、かなり強く。
確かに、ホグワーツのふくろうに多い茶色のモリフクロウではないから、誰かのペットと言われた方が納得だけれど────それにしては、全然ハリーに懐いていないように見える。
「最近飼い始めたばかりなの?」
「アー……ううん。ずっと前から飼ってるんだけど……怒ってるんだ。僕が、自分以外に手紙を頼んだから。ヘドウィグは目立つから、他のふくろうを使うように言われて……」
「……確かに、こんなふくろうが飛んでたら目立っちゃうわね。この子、すごく綺麗だもの」
遠目にも白いふくろうだと言うのはわかったけれど、近づいて見ても、薄い斑や小さな模様さえない。雪のように真っ白だ。ハリーの手紙を出す相手ならマグルの親戚や友人だろうし、こんなふくろうがマグルの住宅街を飛んでいたら目立つだろう。ヘドウィグと言う名前らしいそのふくろうはレイチェルの言葉に気を良くしたのか、羽根の先までよく見えるよう角度を変えて澄ましてみせた。
「君は、自分のふくろうって持っていなの?」
「そうなの。ママが、3人家族なのに3羽もいらないって言うから……」
母親と父親が1羽ずつふくろうを飼っているので、レイチェルまで飼うと3羽になってしまう。家に居る時は母親の、ホグワーツに居る間は学校のふくろうを使えばいい、と言うのが母親の意見だった。
「でも、やっぱり自分のふくろうが居ればいいのにって思うわ。学校のふくろうって、遠くまでの配達は嫌がるでしょ……さっきから、何羽も断られてるの」
最初に頼んだふくろうは、宛先がルーマニアだとわかった瞬間、レイチェルの手が届かない高い止まり木に移動してしまった。その反応を見て、他のふくろう達は寝たフリをしている。全くもう、とレイチェルが溜息を吐くと、ハリーが何か思いついたようにパッと顔を輝かせた。
「じゃあ……よかったら、ヘドウィグを使ってよ!」
「えっ?」
名案だ、と言いたげな口調に、レイチェルは驚いた。レイチェルだけでなく、ヘドウィグも驚いていた。琥珀色の瞳をパチクリしたヘドウィグは、カチカチと嘴を鳴らし、「勝手に話を進めるな」と言いたげにまたそっぽを向いた。どう見ても、配達を頼める雰囲気じゃない。
「気持ちは嬉しいけど……ルーマニアよ。遠いし……その子、うちのパパに会ったことないし……」
「君のパパが働いてるのって、ドラゴン研究所だよね? それなら、前にも手紙を届けたことがあるよ」
「でも……」
「ヘドウィグなら絶対できるよ。本当に賢いんだから。ね? いいだろ、ヘドウィグ。僕の友達が困ってるんだ」
「友達」────ヘドウィグを納得させるためなのだろうけれど、その言葉にレイチェルは何だか胸が温かくなるのを感じた。実際、これには効果があった。耳をそばだてていたヘドウィグは、ハリーの言葉に羽をピクッと動かした。どうやら、機嫌は直ったらしい。止まり木からハリーの肩へと移ると、レイチェルに向かって足を突き出してみせた。
「……じゃあ、お願いしてもいい? よろしくね、ヘドウィグ」
何だか申し訳ない気がしたけれど、ハリーが縋るような目でレイチェルを見るので、レイチェルは彼らの好意に甘えることにした。手紙をその足に括りつけると、ヘドウィグは承知した、と言いたげに小さく鳴いて────ついでにハリーの耳を甘噛みして────優雅に羽根を広げ、飛び立った。真っ白なその姿が遠ざかり、空高く羽ばたいて、小さくなって見えなくなるまで、レイチェルはずっと目で追ってしまった。
「今更なんだけど……クリスマスカードをありがとう」
「え? えっと……どういたしまして?」
すっかりヘドウィグに見惚れていたので、急に話しかけられたように感じて、レイチェルは戸惑った。それに、その内容にも。確かに、ハリーにもカードを送ったような記憶があるけれど……もう1ヶ月近く前だ。まさか、今頃クリスマスカードのお礼を言われるとは思わなかった。
「君からカードをもらえるって思ってなくて……僕も出せばよかった」
「私が勝手に送っただけだから、気にしないで。でも、そうね……じゃあ、来年はハリーも送ってくれる?」
「そうするよ」
でも、よく考えるとハリーと直接話すのってクリスマス以来かもしれない。
廊下や大広間で見かけることはあったけれど、ハリーはいつも誰かと一緒だし。昨日もハーマイオニーからハリーとリータ・スキーターについて話を聞いたせいで、何だかしょっちゅう会っているような気がしてしまうけれど。
「……君とセドリックって、恋人同士じゃなかったんだね」
でも、それってたぶん、ただの錯覚だ。レイチェルが一方的に、人伝に聞いただけで、ハリーを知ったつもりになっているだけ。ハリーにとって、レイチェルはたくさん居る友人の1人に過ぎないし、実際にレイチェルとハリーが話したのは、両手で足りるような回数でしかなくて────たぶん、レイチェルがハリーについて知っているほど、ハリーはレイチェルのことを知らない。セドリックが、レイチェルの幼馴染であることさえ。
「ええ。幼馴染。家が隣で……兄妹みたいに育ったの」
「そうなんだ」
セドリックとの仲を誤解されているのなんて慣れているはずなのに、どうしてか寂しさで胸が締め付けられた。
微笑んだハリーが何を考えているのか、レイチェルにはわからない。ただ、ハリーのその表情がやけに大人びて見えて、レイチェルは戸惑った。ダンスパーティーのときは、ドレスローブのせいでいつもと違って見えるのだと思ったけれど、向かい合うハリーは、まるで知らない男の子のように見える。
ハリーはもう、ダイアゴン横丁で心細そうにしていた小さな男の子じゃない。
レイチェルが、出会ったときのイメージを引きずってそう思い込んでいただけ。彼のことをよく知らなかったし、知ろうとしなかった。ハリーは小さな男の子なんかじゃない。もう14歳で、レイチェルより背も高くて、レイチェルよりずっと勇気がある、才能ある魔法使い。最年少の代表選手で、凶暴なドラゴンとさえ1人で戦ってみせた。「ハリーは、あの金の卵の……その、課題の準備は順調?」
「アー……ウン……まあね」
歯切れの悪い返事を、レイチェルは不思議に思った。もしかして、セドリックのヒントはハリーに上手く伝わらなかったのだろうか? それとも、ヒントは解けたけれど対策に悩んでいるとか? 実際、4年生で習う呪文では難しいだろう。何にしても、ハリーの表情は暗い。どうやらこの話題は避けた方が良さそうだ。となると……何を話せばいいだろう?
何か、ないだろうか。何か────共通の話題ってあったっけ? そう考えて、レイチェルはハッとして鞄の中に入っていた本を取り出した。さっきのマグル学の授業の前に、バーベッジ教授に借りたものだ。
「ハリーって、確かマグルの世界で育ったのよね。これ、知ってる?」
「『速記』……? 聞いたことはある気がするけど……ごめん、僕、よく知らないや」
「じゃあ……こっちは? “モーリス符号”についての本なの!」
「えっと……もしかして、“モールス信号”のことかな」
やっぱりマグルの間ではすごく有名な物なのだと、レイチェルは嬉しくなった。これを覚えれば、レイチェルももっとマグルらしく振舞えるようになるかもしれない。ギュッと本を抱きしめると、ハリーが困ったように微笑んだ。
「マグル学、僕、とってなくて……こう言うのもやるんだね」
「あ、えっと、授業でやってるわけじゃないの。個人的に興味があって……」
「個人的に……?」
ハリーは目を見開き、ひどく当惑したような様子を見せた。
「……面白いの?」
「とっても! まだ最初の数ページしか読めてないけど……1週間くらいあれば覚えられるかしら?」
「えっ……覚えるの?読むだけじゃなくて?」
ハリーとのおしゃべりは楽しかった。マグルの文化についてや、授業のこと。ホグワーツの食事で何が好きか。城の中でお気に入りの場所。
ハリーとこんな風に話すのって初めてだ。それに、こうやって廊下を2人で並んで歩くのも。
新鮮で、くすぐったくて────どこかフワフワする。あと何時間でも話していられそう。もっと早くハリーと友達になっていたら、こんな風に過ごしていたのだろうか?
「それでさ、ロンが……」
1歩先を歩いていたハリーが、何かに驚いたように言葉を切って立ち止まる。不思議に思ってその横顔を見上げて、レイチェルも驚いた。ハリーが、ひどく傷ついたような表情をしていたから。
視線の先を追ってみれば、その理由はわかった。セドリックとチョウだ。中庭のベンチに座った2人は、楽しそうにおしゃべりしている。何か、ハリーに言葉をかけようとして────結局は、レイチェルはそのまま唇を閉じた。
「じゃあ……私はここで。またね、ハリー」
「あ……ウン。またね」
ぎこちなく笑顔を作るハリーに手を振って、レイチェルはその場を後にした。曲がり角のところで振り向くと、ハリーはまだセドリックとチョウを見つめていた。
ちくちくと胸が痛むのは、たぶん罪悪感だ。ハリーは友達だけれど、レイチェルは彼の恋を応援できない。ハリーの恋が成就すると言うことは、ジニーが失恋して、セドリックとチョウが別れてしまうと言うことだから。それでも────ハリーが悲しんでいると、レイチェルも悲しい。
何か、慰めの言葉をかけてあげたかった。けれど、何が慰めになるのかわからなかった。レイチェルは、ハリーのことをよく知らないから。レイチェルにとっては気遣ったつもりの言葉でも、ハリーをかえって傷つけるかもしれない。
もっと早く、ハリーと友達になっていたら。もっと仲良くなっていたら、こんなとき、ハリーにかけるべき言葉がわかったのだろうか?
……なんて、今更考えても仕方のないことだけれど。