「ねえパドマ、午後の授業って何だったっけ?」
「魔法生物飼育学」
ふいに耳に入って来たそんな会話に、レイチェルは顔を上げた。声の主は、近くの席に座っている女の子達────パドマにリサ、それに何人かの4年生だ。
新学期が始まって1週間が経っても、ハグリッドは生徒達の前に姿を見せなかった。朝食の席にも、そして今の昼食の席にも、やっぱり教職員テーブルにハグリッドの姿はない。
「今日もプランク先生かなあ?」
「だといいなあ。ハグリッドは好きだけど……好きだけどね? 正直、授業はプランク先生の方が安心って言うか……」
「わかる! 最近、魔法生物飼育学楽しみなんだよね」
「ハグリッドの授業ってずーっと“あれ”の世話ばっかりだもんね……。あれ、本当、何なの?」
「“尻尾爆発スクリュート”」
「正式名称を聞いてるんじゃなくて!」
不幸中の幸いは、代講で来ているグラブリー・プランク先生が素晴らしい教師であることだろうか。プランク先生が魔法生物飼育学を受け持つようになって1週間が経つけれど、授業を受けた生徒達は誰もが大絶賛だ。勿論、レイチェルも。魔法生物に関する知識も豊富だし、教え方もわかりやすい。ハグリッドも知識はすごく豊富なのだけれど、少し……大らかと言うか、大雑把と言うか、感覚的なところがあるから。
「マルフォイも、プランク先生の前だと割と大人しいらしいよ。パーバティが言ってた」
「あー……いっつも揉めてるらしいもんね。グリフィンドールとスリザリンの合同だし、無理ないけど」
「グリフィンドールとスリザリンって言うか、ハリーとマルフォイでしょ」
「ハリーって言えば、パーバティとはどうなってるの? パドマなら聞いてるでしょ?」
「どうもなってないんじゃない? パーバティ、ボーバトンの男の子達と遊ぶ約束してたし……」
「他人事みたいに言ってるけど、パドマも行くんでしょそれ」
「いいよねー。あーあ、私もかっこいい男の子とデートしたーい!」
どうやらドラコとハリーは相変わらず険悪らしい。そして、パーティーの時も別行動している様子だったけれど、ハリーとパーバティもそのまま恋人同士になったと言うわけではないらしい。いや、本当のところは当人達にしかわからないけれど────2人には申し訳ないけれど、レイチェルはちょっとホッとしてしまった。ハリーにはチョウ……ジニー以外の想い人が居るとしても、恋人が居るよりはフリーの方が、ジニーのチャンスは増える気がするから。レイチェルがそんなことを考えていると、ガタガタと椅子を引く音が響き、パドマ達は立ち上がっていた。どうやら、もう授業に向かうことにしたようだ。
「まあ、早く元気になるといいよね。ハグリッド居ないとなんか落ち着かないし」
「パパ、ダンブルドアに手紙を出したって。新聞に書かれたからって、ハグリッドを追い出すなんてやめてくれって」
「スクリュートだけは本気でどうにかしてほしいけどね!あれをホグワーツから追い出すのは大賛成よ!」
遠ざかって行く彼女達から聞こえてきた会話に、レイチェルは思わず微笑んだ。口では「プランク先生の授業の方がいい」なんて言っていても、彼女達もやっぱりハグリッドが心配なのだろう。彼女達だけじゃない。今の生徒達が入学するよりもずっと前からホグワーツで働いているハグリッドは、たくさんの卒業生達に慕われている。……少しでも早く、元気を取り戻してくれるといいのだけれど。
「どうしたのよエリザベス? さっきから溜息ばっかり吐いちゃって」
すっかり下級生達の会話に気を取られていたレイチェルは、パメラのそんな言葉に注意を引き戻された。確かに、エリザベスはどことなく浮かない表情だ。長い睫毛を伏せた彼女は話すべきか躊躇うように視線を彷徨わせていたが、レイチェル達が言葉を待っていると小さく溜息を吐いた。
「……バーティおじさまも、ここのところずっと連絡がつかないの」
「誰よ、バーティおじさま」
「あ……もしかして、クラウチさん?」
バーティ。対抗試合の審査員であるクラウチ氏のことを、バグマン氏やダンブルドアも確かそう呼んでいた。クラウチ家もプライス家同様に名の通った旧家なので、エリザベスはきっと以前からクラウチ氏と面識があったのだろう。
「舞踏会を欠席されたのも、体調が悪いからと言う話だったでしょう? それに、いつもならクリスマスにはカードを贈ってくださるのに……こんなこと、今までなかったんですもの」
そう言えば、同じく審査員のバグマン氏はパーティーに来ていたけれど、クラウチ氏の姿はなかった。だからこそ、代理としてパーシーが参加していたのだろうけれど……どうやら、理由は単に忙しいからではなく、体調不良だったらしい。レイチェルは第1の課題のときに見たクラウチ氏の様子を思い返した。確かに、かなり疲れていると言うか、やつれている印象を受けた。
「郵便事故って可能性はないわけ? それか、うっかり他のにまぎれちゃってるとかかもよ!エリザベス宛てのプレゼントってあれだけたっくさんあったんだから!」
「パメラの言う通りよ。もしかしたら、お家の方に届いてるとか……」
いかにも几帳面そうな人だから、カードを贈るのを忘れたと言うのは考えにくいような気がする。エリザベスが考えているように、カードを贈れないほど体調が悪いか……もしくは、何か別の原因でエリザベスの手元に届いていないだけかもしれない。レイチェルとパメラが口々に言うと、エリザベスがまた小さく溜息を吐いた。
「……私の考え過ぎなら構わないの。でも……御子息と奥様を亡くされてから、ずっとお一人でしょう? それでも以前は屋敷しもべ妖精の助けがあったけれど、今は本当におじさま1人きりですもの……元々忙しい方なのに、対抗試合のこともあるし……無理されてるんじゃないかって、心配なの」
残念ながら、クラウチ氏に関する話題は一度そこで切り上げなければいけなかった。いつの間にか周囲からは人気がなくなり、代わりに大広間の外の廊下が騒がしくなり始めていた。レイチェル達もそろそろ授業に向かわなければ、遅刻してしまう。
「今日は何をやると思う?」
「わからないわ。ムーディ教授の授業って、教科書の章どおりには進まないんですもの……」
パメラとエリザベスの関心は午後の防衛術へと移っていたが、レイチェルの頭にはさっきのエリザベスの言葉が妙に頭に引っかかっていた。
そう言えば、クラウチ家に仕えていた屋敷しもべ妖精って解雇されたんだっけ。誰かからそう聞いた記憶がある……そうだ、ハーマイオニーだ。主人であるクラウチ氏やその場に居た魔法使い達が、クラウチ家の屋敷しもべ妖精に対して酷い態度を取っているのを見たことが、ハーマイオニーがSPEWを立ち上げたきっかけだ。そう言えば、どうしてクラウチ氏は屋敷しもべ妖精を解雇したのだろう?
それに、エリザベスが言っていたクラウチ氏の家族の話も気になった。特に、クラウチ氏の息子について。クラウチ氏の1人息子。以前、クラウチ氏はほとんど同じ時期に妻と息子を亡くしたのだと聞いたことがある。確か、レイチェルの母方の従兄と同じ学年だったはず。明るく朗らかな好青年で、OWLで12ふくろうの成績を取るくらいに優秀だった人。従兄から話を聞いたんだっけ……? いや、違う。大人達が話しているのを聞いたのだ。どうして若くして亡くなってしまったんだっけ? そうだ、確かクラウチ氏の息子って────。
「レイチェル!早く!遅刻しちゃうわよ!」
「え?」
パメラの声に、レイチェルはハッとして顔を上げた。曲がり角から呼びかけられていることに気が付いて、レイチェルは慌てて親友達の元へと駆け寄った。スネイプ教授ほどではないけれど、ムーディ教授も遅刻には厳しい。遅れてしまったら大変だ。
ええと、今、何を考えてたんだっけ……? 何か思い出しそうだった気がしたのに。
「あれ? 誰も居ない」
防衛術の教室に着いたのはギリギリだった。予鈴が鳴るまで1分を切っているにも関わらず、中には他の生徒達の姿はなかった。急に教室が変更になったのかとレイチェル達は不安になったが、どうやら違った。黒板には大きく「休講」の文字が書かれている。
「……ムーディ教授も体調が良くないのかしら?」
「昨日見かけたときはそんな感じしなかったけど。ルーピン教授ほどじゃないけど、ムーディ教授も割と休講多いわよね」
せっかく走って来たのにと、パメラがガッカリしたように言った。そう言えば、前にもムーディ教授の授業が急に休講になったことがあった。あれは確か……第1の課題の行われた日だ。教授達だって体調を崩すことや急用が入ることだってあるだろう。むしろ、他の教授達が休まなさすぎるような気もする。レイチェルとしては、防衛術の授業は緊張するのでちょっとホッとしてしまった。
「私達は寮に戻るけど、レイチェルはどうする?」
「あー……えっと、」
「うん、そうよね。わかった、オッケー」
防衛術の授業はジョージも取っているので、ジョージも今は空き時間になったはずだ。せっかく時間ができたから、ジョージと過ごそうかなと思ったのだけれど……レイチェルがそう口にする前に、パメラがニヤッとした。……見透かされている気がしてちょっと複雑だ。
パメラ達と別れ、レイチェルはグリフィンドール塔────ではなく、その前に近くにあったトイレへ向かった。防衛術の教室に向かうのに急いだせいで、髪が乱れていないか気になってしまったからだ。髪を櫛で梳かして、ついでにシャツの襟とネクタイを整える。鏡に映る自分をじっくり観察して、何となく微笑んでみた。……うん。たぶん、大丈夫。
一応、リップクリームを塗り直しておこうとポーチから取り出して、レイチェルはその中身がもうほとんど残っていないことに気が付いた。確か、部屋にはこの間のホグズミード休暇で買った新品があったはずだけれど……。
最近、リップクリームの減りが早い。
理由はわかっている。単純に、以前よりも塗り直す回数が増えているからだ。ゴルバロットの第3の法則と比べれば、ずっと簡単でシンプルなこと。リップクリームだって何だって、使ったらその分だけ減るに決まっている。
じゃあなぜ塗り直す頻度が上がっているかと考えてみると、その原因もやっぱりはっきりしていた。だって……ジョージといつ会うかわからないから。今みたいにジョージと会おうとしているときだけじゃなく、授業が同じだと呼び止められて話すことだってあるし、廊下でバッタリ会ったりもする。そう考えると、油断できない。ほとんど休み時間のたび、塗り直してしまっているかもしれない。だって、周りに皆が居るときはともかく……2人きりだと、キスする雰囲気になったりもする。いざそう言う雰囲気になったとき、「ちょっと待って」とリップクリームを塗り直すと言うのは、ジョージに笑われそうな気がしてしまう。
それに、鏡を見る回数も増えた。髪とか、メイクとか……やっぱり、ジョージと会うときは少しでも……ほんの少しでも、コンディションの良い状態にしておきたい。ジョージは髪型とか、アイシャドウの色とか、ちょっとした変化も気が付いてくれるタイプだし。……可愛いって思ってほしい。口に出して言ってもらえると、照れくさいけれど嬉しい。
恋愛って、レイチェルが思っていたよりずっと楽しいことなのかもしれない。
正直、レイチェルは周りと比べてもそれほど恋愛に対して積極的な方ではないと思う。
彼氏と別れたと大泣きしては、2週間後にはまた他に好きな人ができたと頬を染める同級生の気持ちはよくわからなかったし、「男の子とデート」と聞くと羨ましく思ったりしたけれど、じゃあ自分が誰かとデートをしたいのかと考えると、それも違う気がした。“彼氏どころかまるで王子様みたい”に振る舞ってくれるセドリックのせいじゃないか、なんてからかわれたこともあったけれど。
今更気付くまでもなく知っていたことだけれど、ジョージとセドリックって全然違う。
セドリックと一緒に居るときは……安心するし、落ち着くし、2人きりでも緊張しない。セドリックが何を考えているかまではわからないにしろ、セドリックの行動パターンは大体わかる。でもジョージと、恋人と2人きりだと────最初の頃ほどは緊張しなくなったと思うけれど────驚いたり、動揺したり、戸惑ったり、ドキドキしたり、心臓が大変なことになる。次に何をするか、何を言うつもりなのか、全然わからない。……これからキスをしようとしているときの雰囲気は、何となくわかるようになってきたけれど。
ふとしたときにジョージのことが頭に浮かんでしまうし、こんな風に休み時間のたびに鏡を見たり、リップクリームを塗り直すなんて、ジョージと付き合う前までにはなかったことだ。“恋人”ができてから、レイチェルの毎日はそれ以前とは変わってしまった。
一方で、ジョージはいつも通りと言うか……勿論、ジョージの態度は友達だった頃とは全然違うのだけれど……レイチェルよりもずっと余裕がありそうに見える。少なくとも、レイチェルの目にはそう見える。
デートにしても、キスにしてもそう。良く言えば、すごくスマートにエスコートしてくれているのだけれど……何と言うか、慣れているのかな、と感じる瞬間がある。いや、レイチェルにとってはジョージが初めての恋人だから実際のところはよくわからないけれど。レイチェルが些細なことにいちいち動揺し過ぎと言う可能性もあるし。
「……やっぱり、他にも誰か居たのかな」
溜息と共に、思わずそんな呟きが漏れた。
ここのところ、ついそんなことを考えてしまう。レイチェルと違って、ジョージにはもしかしたら前にも“恋人”か、それに近い存在の女の子が居たのかもしれない、と。もしかしたらその子は、レイチェルよりもずっと美人で積極的な女の子で、その子とはいつもクリスマスの夜のときみたいな……ああ言うキスをしていたのかもしれない。そう考えると、胸の中のモヤモヤが膨らんでいく気がして、レイチェルはもう1度はあと溜息を吐いた。あまりにも身勝手な感情だと、自分でも思う。その可能性自体には、昨日今日気が付いたわけじゃないのに。ジョージへの気持ちを自覚するまでは、気にならなかったのに。
1週間前より、昨日より、今日の方がジョージを好き。
好きかどうかわからないなんて言っていたのが、遠い昔みたいのことにみたいに思える。
この先もずっと一緒に居たとしたら、更に好きになっていくのだろうか? でも、それって何だか不思議なことに思える。ジョージのことは入学してすぐの頃から知っていたのに。下級生の頃はむしろ苦手に思っていて、友達になってからも、急に距離が近づいたわけじゃない。それなのに、ほんのわずかの間だけで。“恋人”として時間を過ごしただけで、こんなにもジョージへの気持ちは変わって行っている。
『レイチェルも彼氏作ればいいのに!』
『セドリックと付き合わないの?』
そんな風に無邪気に笑いかけてきた同級生達が言っていたみたいに、きっと“ただの友達”と“恋人”じゃ違うと言うことなのだろう。“ただの幼馴染”と“恋人”が違うのと同じ。過ごした時間の長さそのものよりも、その時間をどんな風に過ごしたか、どんな言葉を交わしたかの方がずっと重要なのだろう。
この先も、ずっとジョージと恋人同士で居られたとしたら。卒業しても今のまま変わらずに、もっと長く、もしかしたら、結婚とか……することになって、10年、20年、一緒に過ごしたとしたら。他の誰よりも長く、他の誰よりも深く同じ時間を刻んでいったしたら。
そうしたら、今よりももっと気持ちは膨らんでいくのだろうか。レイチェルにとって、ジョージこそが世界で1番大切な、かけがえのない人になるのだろうか? 他の誰よりも。
…………セドリックよりも?
「ジョージ? うーん、ジョージって言うか、フレッドとジョージのどっちとも見かけてないわ。私達ずっと談話室に居たから、通ったら気付くと思う」
グリフィンドール塔まで足を運んでみたものの、どうやらジョージは留守らしかった。ちょうど肖像画の影から出て来た同級生の女の子達に尋ねてみたところ、そんな答えが返って来たのでレイチェルは肩透かしを食らったような気分になった。
「クィディッチの競技場じゃない?」
「でも、今の時間って1年生が授業で使ってるはずでしょ」
「じゃあ……隠し通路とか!」
「あの2人のことだから、禁じられた森かも」
「ありそう。今なら、ハグリッドに追い返されることもないもんね」
“せっかく恋人に会いに来たのに空振りした”レイチェルに同情したのか、彼女達は口々にジョージが居そうな場所の候補を挙げてくれたものの、レイチェルは今からその全てを回ってジョージを探そうと言う気にはなれなかった。
「あー……えっと、大丈夫。大した用事じゃないの」
「そう……? じゃあ、ジョージを見かけたら、探してたって伝えておくね」
「ううん、本当に大丈夫なの。ありがとう。引き留めちゃってごめんね」
そもそも会う約束をしていたわけではないのだから、ジョージにとってみたらフレッドと悪戯の準備か計画かしようと考えるのは自然なことだ。ただ、タイミングが悪かっただけ。そうわかっているのだけれど……ちょっと、気持ちが沈んでしまう。
「……ねぇ、クロディーヌ。他の寮の人と付き合ってるときって、どうやって連絡取ってるの?」
寮に戻って来たら、談話室にクロディーヌが居たのでレイチェルは思わずそんな疑問を口にした。ふくろう小屋に行って手紙を出すと言う案も考えなくはなかったけれど、今みたいな状況だとタイムラグがありすぎる。寮や学年が違ってタイムスケジュールが噛み合わないカップルって、こんなときどうしているのだろう?
「そうね。こう言うのを使ったりとか」
そう言ってクロディーヌがローブのポケットから取り出したのは、手鏡だった。対になるもう1つの鏡があって、何か杖で文字を書くともう片方の方にも同じ文字が浮かぶらしい。反対に、相手が何か文字を書くとクロディーヌの鏡に文字が浮かぶ。
「たぶん変幻自在呪文の応用じゃないかしら? 使い捨てだからそんなに回数は使えないのよね」
「何回くらいなの?」
「これだと30回かしら。2個セットで3ガリオン」
「高っ」
「これでも安い方よ。もっと長く使えるものだと、倍以上の値段になるんですもの」
3ガリオン……。レイチェルは思わず眉を寄せた。友人達へのクリスマスプレゼントを買うのにお小遣いを使ってしまったから、とても手が出そうにない。レイチェルが唸っていると、クロディーヌがクスクス笑ってみせた。
「順調そうね」
「わ、わからないけど……たぶん……」
順調……なのだろうか? たぶん、そうなのだろう。レイチェルはこれまで男の子とお付き合いしたことがないので比較対象がないけれど、ほとんど毎日会っているし、2人で過ごす時間だってある。さっきはタイミングが悪くてすれ違ってしまったけれど、約束をすっぽかされたことはないし、会えばジョージは優しい。悪戯やサプライズ好きには困ることもあるけれど、レイチェルが嫌だと言えばやめてくれる。廊下で顔を合わせた瞬間に熱烈にキスする……なんてことはないけれど、キスもほとんど会うたびにしている。
「あのね……」
強いて気になることがあるとすれば、そのキスだ。クリスマスの夜以降も、ジョージとは何度かキスをしたけれど、奇妙なほど優しいと言うか、遠慮がちと言うか……すごくレイチェルの反応を探り探りキスされている感じがする。前は、レイチェルがいっぱいいっぱいになっているのを面白がっているような感じだったのに、今は……あのパーティー以降は、レイチェルがそうならないように止められている感じがする。もしかしたら、それはレイチェルが慣れていない、と主張したせいなのかもしれないけれど。
「なるほどね。ダンスパーティーの夜は、いつもより情熱的で激しいキスだった、と」
「あんまり直接的に言わないで……」
楽しげに目を細めるクロディーヌに、レイチェルは項垂れた。
でも、その通りだ。正直、クリスマスの次の日に会ったときは、またああ言うキスをされるんじゃないかと身構えてしまったし、そうじゃなくてホッとしてしまったのも事実だけれど……他の女の子とはいつもあんな風なキスをしていたのだとしたら、ジョージには物足りないんじゃないだろうか?
「驚いたけど……嫌だったわけじゃないの。でも、ジョージにはそう見えたのかも……そんな感じのこと聞かれたし……」
怖がってたわけじゃない。びっくりはしたけど……ジョージがしたいなら構わないのに。あのときも、嫌がっているわけじゃないとは伝えたけれど、もしかしたら無理をしているのだと思われたのかもしれない。いや、実際またあのキスをされたら、たぶんレイチェルは大いに戸惑ってしまうので大丈夫だとは言い切れないけれど。
「やっぱり私が、その、経験豊富じゃないせいで……我慢させちゃってるの……?」
「まあ、そう言う部分もあるかもしれないけど」
否定してくれない。クロディーヌの淡々とした口調に、レイチェルはますます項垂れた。
「ジョージに何か言われたの? 急に態度が素っ気なくなったとか?」
「ううん……」
「なら、いいじゃない。大事にされてるってことでしょう?」
大事にされている。そうなのかもしれない。いや、きっと間違いなくそうなのだろう。遠慮がちで探り探りだと感じるのは、きっとジョージがレイチェルにすごく気を遣ってくれているからだ。でも、やっぱり、何だかジョージに申し訳ないような気分になる。いや、違う。“前の彼女”の方がよかった、とか思われていたらどうしようと、小さな染みのように不安が滲んでしまう。そもそも、そんな女の子が居たかどうかさえわからないのに。
「仮に向こうが我慢してるとして、あなたの経験不足が原因とも限らないし」
「どう言うこと……?」
「あんまり情熱的にキスしてると、歯止めが利かなくなりそうとか?」
歯止め……? レイチェルはパチパチと瞬きをし、クロディーヌに聞き返そうとた。が、ハッとして開きかけた唇をそのまま閉じた。首筋から、段々と頬に熱が集まる。クロディーヌが何を言おうとしているかがわかったからだ。
「ねえ、クロディーヌ……」
「なぁに?」
「普通は……みんな付き合ってどれくらいでその……するものなの?」
同級生の噂は何となく耳に入って来るものの、人伝に聞いた程度だ。そもそもその子達だって、わざわざ好きな人すら居ないレイチェルを話し相手に選ばない。“恋愛”と言うものに対するレベルと言うか、ステージが違いすぎるからだろう。恋人が居る女子が話し相手に選ぶのは、同じように恋人の話で盛り上がれる女子だ。パメラだって、レイチェルやエリザベス相手にはそう言った込み入った話はしたことがない。
「“普通”は“みんな”付き合って2、3週間だって言ったら、今からグリフィンドール寮に訪ねていけるのかしら?」
小首を傾げて微笑むクロディーヌに、レイチェルは返事に詰まった。考えるまでもなく無理だ。
「意地悪……」
「でも、そうでしょ? 貴方達2人のことなんだから、他のカップルと足並みを揃えたって意味ないもの。正直、その質問の答えなら“人それぞれ”になるでしょうし」
確かに、たとえ「大抵のカップルはこうするのだ」と言われたとしても、レイチェルがその通りに行動できるかはまた別の話だ。話すのなら、その相手はジョージにすべきなのだろうか?
……聞くの? ジョージ本人に?
「少なくとも、そんな不安そうな顔をしているうちはやめておいた方がいいと思うけど。ジョージに急かされてるってわけでもないんでしょ?」
呆れたようなクロディーヌの表情に、レイチェルは無言のまま頷いた。
“そう言ったこと”について、レイチェルは自分には無関係だと思っていた。だって、レイチェルにはその相手が、つまり恋人が居なかったから。でも、今は居る。レイチェルが無関係だと思っていても、ジョージもそうとは限らない。そう言えば、以前夜中に寮を抜け出したときも、パメラに叱られたんだったっけ。
……いつか、キス以上のこともするのだろうか?
ある程度長く付き合ったら……それってどれくらいなのだろう?もしかしたら、ジョージは先に進みたいと思ってるのかもしれない。いつか、レイチェルにももう大丈夫だと思える日が来るのだろうか?
クロディーヌはきっととっくに経験しているのだろうし、他にも同級生の女の子達だって何人も噂を聞いた。OWLやNEWTと同じだ。今のレイチェルには絶対無理だと思うけれど、周りの大人だって、同級生の女の子達だって経験していることなのだから、きっとレイチェルだって大丈夫なのだろう。死んだりしない。……死ぬほど痛いって誰かが言ってた気がするけれど。
わかっているけれど……でも、やっぱりまだ怖い。
“そう言うこと”は自分にはまだ早い────レイチェルの方はそう感じていたとしても、ジョージの方はどう考えているのだろう?
気になるけれど、やっぱり直接本人には聞きにくい。それこそ、「眠れるドラゴンを起こすべからず」だ。まだその“問題”を先送りにしておきたいのなら、自分から話題に出すのはあまり良い方法とは言えないだろう。とは言え、1人で考えたところで、レイチェルにはジョージの頭の中を正しく想像できる自信はない。できるなら男の子の意見も聞いてみたい……とは思うけれど、さすがにセドリックにはこんなこと相談できない。気まずいし、言いにくいのもあるけれど……何だか過剰に心配しそうだし。じゃあ、フレッド? でも、フレッドとはそんなに立ち入った話ができるほど仲良くはないし、フレッドと“秘密の話”をすると言うのはできれば避けたい。ロジャー……の意見は、聞いてもあまり参考にならなさそう。
「あれ? レイチェル、戻ってきたの?」
部屋に戻ると、中に居たのはパメラ1人だけだった。エリザベスは1年生の子達に頼まれてレポートを見てあげているのだと教えられる。「そう」ぼんやりしたまま返すと、パメラが不思議そうに首を傾げた。
「どうしたのよ、世界の終わりみたいな顔しちゃって。ジョージと喧嘩でもした?」
「ううん……」
小さく首を横に振ってみせて、レイチェルはベッドへと座った。心配させてしまったのか、パメラは読んでいたファッション誌を閉じてレイチェルを見つめていた。マスカラで綺麗にカールした睫毛の向こうから、青い瞳が覗いている。同い年なのに、下級生の頃からパメラは背も高くて大人っぽかった。お化粧を始めたのだって、彼氏ができたのだって、レイチェルよりずっと早い。男の子に関してやおしゃれに関して、パメラはいつもレイチェルよりもいつも先を行っている。
「ねえ、パメラ……やっぱり、その……」
「何?」
「その……初めてのときって……痛かった?」
自分にはまだ早い。レイチェルが漠然とそう感じていたとしても、ジョージも同じ考えだとは限らない。今はまだ、そんな風に考えられない。でも、じゃあ、いつになれば“進んだ関係”になっていいと思えるのかも今のレイチェルにはわからない。まだ、付き合い始めたばかりだから? それなら、あと何ヶ月か経てば問題ないと思えるのだろうか? それとも、2人ともまだ未成年だから? でも、ジョージの誕生日はあとたったの3ヶ月後だし、 レイチェルだって半年後には成人する。
「……そう言う話は、私じゃなくてクロディーヌに相談すれば?」
何が、とは具体的に言わなくてもどうやらパメラは理解してくれたらしい。しかし、返ってきたのはそんな言葉だったので、レイチェルは眉を下げた。確かに、今までジョージとのことはクロディーヌにばかり相談してきたのに、都合のいいときだけパメラに相談すると言うのは虫が好すぎるかもしれない。
「……別に意地悪で言ってるんじゃないわよ。だってわかんないもの。……私だってまだしたことないし」
「えっ」
意図せず大きな声が出てしまったので、レイチェルは思わず口元を手で覆った。
「え? でも、だって、パメラって……」
パメラには、4年生の夏から恋人が居る。ホグワーツの卒業生で、レイチェル達が入学したときのレイブンクローの監督生だ。優秀な人だったし、背が高くてハンサムで、レイチェル達より4つも年上。同級生の女の子達が羨むような“大人の恋人”が。
「だってマークってば、そう言うのは私が成人してから、なんて言うのよ!」
そう言ってキッと目を吊り上げるパメラに、レイチェルはポカンとした。
パメラは大人っぽいし、パメラの恋人────マークも大人だし、恋愛への興味が薄いレイチェルやエリザベスにはわざわざ話さないだけで、とっくにそう言う関係なのかと思っていたのに。
「 私は、マークならいいって前から言ってるのに!自分だって、学生の頃から彼女居たくせに……! 」
「えっと……それって、その、すごく大事にされてるってことなんじゃない……?」
「わかってるわよ。マークの言い分は正論だって! あっちはとっくに成人だし、学生同士の付き合いとは違うって……未成年の私と付き合うならちゃんとするべきだって考えてくれてるってことも……でも、時々すっごく不安になるの。元々私がマークに付きまとって根負けしてオーケーもらった感じだったし……」
パメラらしくない弱気な言葉に、レイチェルはすっかり戸惑ってしまった。パメラはいつだってポジティブだし、パメラから話を聞く限りは、マークとのことは何もかも上手く行っていて、恋愛に関しては悩みなんてないのだとばかり思っていた。
「……やっぱりマークって、私のこと恋愛対象としては見てないのかも。懐いてる親戚の子くらいに思ってるのよ。犬や猫にだって『可愛い』ってキスするし……そうじゃなきゃ、他にも誰か居るとか……」
「そ、そんなことないと思うわ!」
表情を暗くするパメラに、レイチェルは慌てて否定した。意外な告白には驚いたけれど、同時に少しホッとした。親近感が湧いた、と言ってもいいかもしれない。
クロディーヌの言う通りだ。たぶん、“こうすれば必ず上手く行く”とか、“誰かと同じようにすれば同じ結果が出る”なんて正解や近道みたいなものはなくて、それぞれカップルによって事情もペースも違うのだ。相手のことがわからなくて悩むのだって、きっと皆同じ。好きだからこそ、些細なことが気になって不安になってしまう。だからレイチェルはきっと誰かと比べて落ち込んだり焦ったりするよりも、自分やジョージの気持ちと向き合うべきなのだろう。
そう考えたら、ちょっと気持ちが軽くなった。
「ごめん。俺のこと探してたって聞いたけど、何か用事だったか?」
グリフィンドール寮の前で会った女の子達は、レイチェルの訪問をジョージに伝えたらしい。わざわざ自分を探してくれたらしいジョージに、レイチェルは嬉しいような、申し訳ないような気分になった。せっかく空き時間ができたから、ジョージと過ごしたかった。“用事”の中身なんてそれだけなのだ。
「あのね……」
素直にそう打ち明けたとしたら、ジョージはどんな反応をするのだろう? 喜んでくれるだろうか? それとも……何だそれだけか、なんてガッカリされてしまうだろうか? こんなとき、駆け引きが上手な女の子ならどんな風に言うのだろう……。
「あの……ホグズミード休暇の話がしたかったの」
考えてもわからなかったので、そんな風に誤魔化した。
昼食のときパドマ達が話しているのを聞いたことで思い出したけれど、週末にはホグズミード休暇が迫っていた。対抗試合のせいで去年までとは日程がズレているせいで、直前になって掲示が出るまでつい忘れてしまう。
「ジョージもホグズミードに行くでしょ? 予定が空いてたら、一緒にどうかと思って……」
「あー……うん」
パメラ達には当然ジョージと2人で行くのだろうと思われているみたいだけれど、特に約束はしていなかった。もしかしたらジョージもそのつもりで居るかもしれないけれど、行き違いがないように確認しておいた方がいだろう。
「ごめん。実は、フレッドと、ゾンコで色々仕入れようって約束しちまってて……」
困ったように視線を泳がせるジョージの答えは、正直なところ予想通りだった。まあ、そんな気はしていた。ジョージならきっと、一緒に行くつもりだったら誘ってくれるはずだとも思っていたから。いざ本人の口から聞くとちょっとだけガッカリしたけれど、確認しておいてよかった、と自分に言い聞かせてみる。今こうしてわかったのなら、パメラ達に混ぜてもらえればいいだけなのだし。でも────。
「あのね……行きたいお店はもう決まってるから、そんなに時間はかからないんだけど……午前か午後のどちらかなら空いてる?」
パメラはこの間のダンスパーティーでパートナーだったダームストラングの男の子やその友達、何人かの留学生達を案内をする約束をしていて、それだってきっと楽しい。でも、やっぱりせっかくの機会だからジョージと一緒に回りたい気持ちもある。ジョージを困らせたいわけじゃないから、それも難しいと断られたら諦めるつもりだけれど。
「ああ。それなら……君はどっちが都合がいい?」
「それなら、午後がいいわ」
ジョージの返事に、レイチェルはホッとした。一緒に回るのはレイチェルにとってはまだ知り合って間もない子達ばかりだから、1人だけ後から彼らに合流するのはちょっとやりずらそうだ。じゃあそれで、とレイチェルは微笑んだが、ジョージは何だか難しい表情をしていた。
「……てっきり、君は皆が見てるところで2人で回るのは嫌がるかと思ってた」
「まあ……その予想は当たってるわ」
小さく呟いたジョージに、レイチェルも苦笑した。ジョージは友人が多いから、2人で居たら行く先々で冷やかされそうだと想像がつく。この間、ジョージがこっそりホグズミードに連れ出してくれたのも、もしかしたらそれが理由だったのかもしれない。
冷やかされるのは憂鬱だけれど、でも、そんな理由でせっかくジョージと過ごせる機会を逃してしまうのはもったいないと思った。だって、ジョージと過ごせたとしたら、きっと楽しいから。
「君が行きたいところって?」
「あ……実はね、ネックレスをなくしちゃって……新しいのを買いたいから、ジョージに一緒に選んでほしいの」
それに、いつもジョージから誘ってもらってばかりだから、レイチェルから誘ってみようと思った。
……とは言え、本当ならもう少し早く約束を取り付けるべきだったのだろう。そこは反省だ。次回に活かそう。
「あ、でも……もし、ジョージが嫌だったら」
「いや、別に……いいけど」
「本当? 嬉しい」
セドリックも時々レイチェルの買い物に付き合ってくれることがあるけれど、女の子向けのアクセサリーショップや雑貨屋、それに洋服のお店だと居心地が悪そうにしていることがある。もしかしたら、ジョージも気が進まないかもしれないと思ったが、あっさりと了承してくれたので、レイチェルはニッコリした。
「……やっぱり、朝からでも大丈夫だぜ。フレッドとの約束は、また今度にすれば……」
「いいの。ギリギリに誘ったの私だし……それに、その“今度”ってまたこっそり抜け出す気でしょ? 私を規則違反の口実にされるのって不本意だもの」
それに、パメラ達と回るのだって楽しそうだと思うのも本心なのだ。ジョージと1日デートすることになったらそっちの様子が気になってしまったかもしれないし、1日の中で両方楽しめるなんて、むしろこれ以上ないくらい贅沢かもしれない。
「ごめんな」
ジョージの手が、レイチェルの頭に触れる。さっきのクロディーヌとのやり取りをつい思い出してしまって、その手が触れる瞬間無意識に体が強張ってしまった。ジョージの表情が曇ったのが居た堪れない。違うのに。レイチェルの反応がぎこちなく見えるとしたら、ジョージがデートをするつもりがなかったからじゃない。本当に、全然気にしていないし、本心からの言葉なのに。
「……あなたが謝る必要なんてないもの。だって、パメラ達と行くのだって楽しみだし午後は一緒に回れるんだし……」
ね、とジョージのローブの袖を引っ張って笑いかけてみる。それでも、レイチェル見返すジョージの顔は、やっぱりちょっと困ったような表情をしていた。もしかしたら、ジョージを気遣ってそう言っているだけと思われているのかもしれない。
どうしよう。気まずい。でも、これ以上何を言えばいいのだろう? 言葉でなくても、何かないだろうか。何か────あ、そう言えば。レイチェルはもう片方の手でローブのポケットを探り、そこに入っていたものを取り出した。前回のホグズミード休暇のときに買ったリップバームだ。さっき新しくおろして、そのままポケットに入れたのだった。
「あのね。これ……香りだけじゃなくて味もベリーなの」
不思議そうな顔をするジョージに、レイチェルはボソボソとそう説明した。今からしようとしていることを考えると、妙に緊張してしまって、心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。気を抜くと下へと泳ぎそうになる視線を上げて、どうにかジョージの顔を見上げた。
「……確かめてみる?」
小さく問いかけたレイチェルに、ジョージが目を見開いた。
頬が熱い。もしかしたら今、レイチェルの顔は赤いかもしれない。ジョージの纏っていた空気がふっと緩んで、レイチェルの耳にジョージの指が触れる。
キスをしよう、と直接的に言葉にすることはできなかったけれど……以前クロディーヌにアドバイスされたみたいに、自分からキスをすると言うのもやっぱりできなかったけれど、どうやら意図は伝わったらしい。
ジョージの口元が柔らかく弧を描く。目を細めたその表情はまるで悪戯好きの猫のようで、ちょっと意地悪そうにも見える。
ああ、いつものジョージだ、と。ほんの少しだけ肩の力が抜けて────ゆっくりとジョージの顔が近づいて来るのがわかったので、レイチェルもそっと瞼を閉じた。