「おはよう、レイチェル。よく眠れた?」

机に向かって居たエリザベスが振り返ってそう微笑んだとき、レイチェルには今の自分の状況を把握するまで数秒の時間が必要だった。
まだ重い瞼を擦りながら、視線を彷徨わせる。見慣れた寮の自分の部屋だ。そして、今居るのは自分のベッド。それに、カーテンの向こうの空はすっかり明るくなってしまっている。つまり……今は朝のようだ。と言うことは、あれは夢だったのだろうか? ジョージにデートに誘われたのも、ホグズミードに行ったのも。それにしては、やけにリアルな夢だったけれど……。

「エリザベス、えっと……おはよう?……で合ってる?今日って……」
「水曜日よ。夕食に行くときに声はかけたんだけれど……反応がなかったから、無理に起こさなかったの。お腹が空いているんじゃない?」

どうやら夢ではなかったらしいと、レイチェルはホッとした。そして欠伸を噛み殺しながら、昨日の記憶を手繰り寄せた。あの後、ジョージと別れて部屋に戻ってきたレイチェルはお化粧を落として着替えて────なぜなら借り物の服だったので────夕食まではまだ少し時間があったので、ベッドに横になった。たくさん歩いて疲れていたのもあって、ほんのちょっとだけ休憩したくて。……そのはずだったのだけれど、そのまま眠ってしまったらしい。やっぱりたぶん、何と言うか……緊張していたのだろう。寮に戻ってきたことで、気が緩んだのかもしれない。レイチェルがそんな風に納得していると、エリザベスは困ったような表情になった。

「あの……レイチェル。私、今日は今からその……少し、用事があって。だから、あの、朝食はパメラと2人で行ってもらってもいいかしら……? 本当は、昨夜言おうと思っていたんだけれど……」
「えっ……こんな朝早くに監督生の仕事?」
「え、ええ。まあ……」

小さく頷くエリザベスに、レイチェルは驚いた。休暇中なのに大変だ。いや、それを言ったら教授達だって休暇中なのにパーティーの準備で忙しくしているし、今年は特に学校に残っている生徒も多いから、仕方ない部分もあるのかもしれないけれど。「頑張ってね」とレイチェルが微笑むと、エリザベスはますます困った表情になった。

「違うの。あのね、本当は……トムと……朝食の前に、一緒に散歩しないかって誘われたの」

エリザベスの白い頬が、みるみる赤く染まっていく。そして消え入りそうな声でそう伝えてくるので、レイチェルははてと首を傾げた。トムって誰だっけ。まだ頭が覚醒していないせいか、そんな疑問が浮かんだけれど、尋ねる前に答えがわかった。エリザベスのパートナーだ。

「……パメラには、監督生の用事だって言っておいてくれる? 絶対からかうもの……」
「そんなこと……ないとは言えないけど。でも、素敵ね。楽しんでね」
「ええ。ありがとう……」

眠っているパメラを起こさないよう、そっと部屋を出て行ったエリザベスを見送って、レイチェルは再びベッドへと寝転んで天井を仰いだ。
エリザベスが打ち明けてくれたように、レイチェルもジョージとホグズミードに行ったことを言うべきだっただろうか? いや、でも、伝えたらきっとまたエリザベスを葛藤させてしまうだろうし、秘密にしておいた方がいいような気がする。今回もジョージのペースに巻き込まれたとは言え、レイチェルだって毅然として断れなかったのは事実だ。それに……規則破りにハラハラしたとは言え、結局は楽しんでしまったし。

ジョージと居ると、友人達やセドリックに言えないことばかりが増えていく。

恋人ができると、みんなこうなのだろうか? それとも、相手がジョージだから?
そもそも恋人ができたこと自体初めてなので、わからない。でも、少なくともエリザベスはデートで規則違反をすることはないだろうし、やっぱりジョージだからのような気がする。
そう。レイチェルはとても楽しかった。ジョージの方は……どうだっただろう? ジョージも、楽しんでくれただろうか? ジニーのドレスのお礼と言うこともあって、たぶんレイチェルを楽しませようとエスコートしてくれていたところもあるだろうけれど……でも、ジョージも楽しそうだった、気がする。少なくとも、退屈そうにはしていなかった。ケンカしたり、気まずくなったりもしなかったと思うし……。騙まし討ちみたいにホグズミードに連れて行ったことに不満を言ってしまったけれど、気にしてないと言ってくれた……。

『似合ってる。可愛いよ』
『そうやって、照れて困ってる顔してるのが可愛いから』

昨日のデートについて振り返っていたら、ジョージに言われた言葉を思い出してしまって、レイチェルは両手で顔を覆った。頬が熱い。ジョージがあまりにもあっさり言ってみせるけれど、男の子から「可愛い」なんて言われ慣れていないのだ。照れるレイチェルの反応を面白がられている部分もあるのだろうけれど……でも、嬉しい。……いや、わざと困らせようとするのはやめてほしいけれど……。
ジタバタとシーツの上を転がっていたら、ベッドサイドテーブルに勢いよく肘を打ち付けてしまい、レイチェルは痛みで冷静になった。弾みで倒れた時計を戻すと、文字盤の数字はまだ7時を少し過ぎたところだ。パメラはまだ起きそうにない。レイチェルももう一眠りしようと、ブランケットの中へと潜った。

 

 

「それで? 昨日のデートはどうだったの?」
「そうそう。後で聞こうと思ってたのに、レイチェルったら寝ちゃうんだもの」

楽しげに微笑むクロディーヌと唇を尖らせるパメラに、レイチェルは言葉に詰まった。
いつもならパメラを嗜めてくれるエリザベスは、ここには居ない。朝食を終えて再び部屋に戻って来ても、エリザベスはまだ戻っていなかった。たぶん、トムと過ごしているのだろう。楽しい時間を過ごせているのなら何よりだ。何よりなのだけれど……好奇心でキラキラした瞳を向けてくるパメラに、レイチェルは視線を泳がせた。

「あー……えっと……」

どうしよう。デートについてを根掘り葉掘り聞かれるのは恥ずかしい、と言うのもある。けれどそれ以上に……デートの内容についてどこまで話していいものかわからない。パメラやクロディーヌが人に言いふらすとは思わないけれど……それでもやっぱり規則違反だし、嬉々として人に聞かせると言うのはどうなのだろう。レイチェルが躊躇っていると、パメラがニヤッと笑った。

「大丈夫よ。行き先なら知ってるから。ホグズミードでしょ?」
「な、なんで……」

どうしてそれをパメラが知っているのだろう。もしかして、城に戻ってくるところを見られたのだろうか? 誰にも見られていないと思ったのに。もし、レイチェルが気づかなかっただけで、他にも誰かに見られていたとしたら……そして教授の誰かにそれが伝わったとしたら……。レイチェルはサッと青ざめたが、パメラはその理由に思い当たったらしく「ああ」と苦笑した。

「聞いたのよ、フレッドに。レイチェルには絶対言わないから、行き先教えてって。あ、エリザベスは知らないわよ。その方が平和だろうし。昨日は結構風強かったし、髪まとめておいてよかったでしょ?」
「コートとマフラーもね。寒くて震えてたら、デートを楽しむどころじゃないもの」

あとはお財布もね、とティーカップを傾けるクロディーヌに、レイチェルはポカンとした。
確かに、クロディーヌに言われなければたぶんレイチェルはお財布を持っていくことはなかった。だって、ホグワーツの敷地の中でデートする分には、お金なんて使わないから。それに、いくらデートだからって張り切りすぎだと思ったけれど……それも、2人が事前に行き先を知っていたせいなのかもしれない。

レイチェルのデート服を考えててね、思ったわけ。やっぱり、どこに行って何するかある程度わかってないと難しいって。デートだからってとびっきりおしゃれして行ったのに『沼地に行こう』って言われたら、もうその瞬間帰りたくなるじゃない? だからまあ、夕食の後にクロディーヌと私でフレッドとリーを呼び止めて……聞き出したの」
「で、ホグズミードだって言うでしょ? だから、歩きやすい靴と防寒重視でコーディネートしてみたの。どうだったかしら?」
「ジョージは自分がデート代を出すつもりじゃないかってフレッドは言ってたのよ。でも、レイチェルは奢ってもらってラッキーってタイプじゃないしねー」

2人の口から告げられた言葉に、レイチェルは目を白黒させた。
自分の────恐らくジョージも────知らない間に、周囲によって色々と根回しがされていたらしい。秘密だと思っていた色々なことが筒抜けだったことには驚いたし、恥ずかしいけれど……でも、友人達が思っていた以上に自分達のデートが上手く行くよう動いてくれていたらしいと知って、胸が温かくなった。

「あの……何て言うかその、本当に……色々とありがとう……2人とも……」
「お礼なんていらないわよ!私達が勝手にお節介しただけだし」
「そうそう。レイチェルにもようやくできた彼ですもの。友人の恋は応援したいでしょ?」

……半分は、面白がられているような気もするけれど。
だとしても、2人のアシストがなければあんな風にデートを楽しめなかったかもしれないと思うと、やっぱり感謝するべきだろう。それに、今ここには居ないエリザベスにも。

「何にしても、デートが上手くいったみたいでよかったわ!でしょ?」
「……うん」

だって、昨日は本当に……本当に、楽しかったから。
秘密だと思っていたことが皆にも知られていたことが、ほんの少しだけ、残念なような気持ちはあるけれど。でも、2人の行動派は────たぶんフレッドとリーも────レイチェル達のデートが上手く行くようにと応援してくれていたからこそだ。昨日のレイチェルは本当に驚いたし、ドキドキもした。ホグズミードで過ごしたことが知られていたとしても、それは確かなことだ。

「本当は、せっかくのサプライズデートだし、知らないフリしておこうかなって思ったんだけど……昨夜寮に戻ってきたときのレイチェルってば、ポヤーッとしちゃって、楽しくて仕方なかったって顔してるんだもの。2人だけの秘密って言うのもロマンチックだけど、誰にも話せないって言うのもしんどいでしょ? レイチェルって隠し事上手くないもの」

ニヤッと笑うパメラに、レイチェルはパチパチと瞬きをした。
言われてみれば……2人がホグズミードの件を知っていたとわかって、肩の力が抜けた。いや、規則違反の罪悪感までも薄めてしまうのはよくないだろうし、エリザベスやセドリックにはやっぱり打ち明けられないとも思うけれど、でも……。

「あの……じゃあ、2人とも……昨日の話、聞いてくれる?」
「「勿論」」

レイチェルの方こそ、せっかくジョージがサプライズで連れて行ってくれたのだから秘密にしておくべきなのかもしれない。こっそり2人で抜け出して、ホグズミードでデートした。たぶん、一言でまとめるとそれだけなのだ。デートコースだって、きっとパメラ達にとってはそこまで目新しいものじゃない。でも────レイチェルにとっては本当にドキドキして、嬉しかったことや楽しかったことがとてもたくさん詰まっていて。自分1人の中に留めておくには溢れてしまいそうだったから。……ああ、そうか。秘密にしなければと思う一方で、レイチェルは誰かに聞いてほしかったのかもしれない。

「あのね。私、本当に自分がどこに向かってるのか全然気づかなかったの。だって、ジョージってば『到着まで秘密にしたいから、目を閉じて』なんて言うんだもの。だから、今居るのがホグズミードだって気づいたとき、本当にびっくりして……」

デートの話を人に聞かせると言うのは照れくさかったけれど、話し始めたら止まらなくなってしまった。友人達に話すことで、昨日の記憶がより鮮明になっていくような気がした。と同時に────今はここに居ないエリザベスにだけ隠し事をしているようで寂しいし、ちょっと後ろめたい。次こそは……次にまたデートの機会があるとしたら、今度こそ規則違反のないデートだと嬉しいのだけれど……ジョージが相手だと難しいだろうか? いや、でも、少なくともこっそり抜け出すのは今回限りと約束してくれた。だから大丈夫……だと信じたい。

「フレッドは、レイチェルは行き先がホグズミードだって知ったら怒って帰るんじゃないか、なんて言ってたけど……正直、私もちょっと心配してたのよね。初デートでケンカって結構ありがちだし、パーティーの前にギスギスしたら気まずいじゃない?ジョージったらよっぽど上手くやったのね」

パメラは別にレイチェルを責めているわけではなさそうだったけれど、自分の流されやすさを指摘された気がしてレイチェルは気まずくなった。エリザベスほど厳格でではないけれど、レイチェルだって規則違反は良くないことだと思っているのに。ジョージと一緒だと、何だかんだと規則を破ってしまっている。

「やっぱり、その……勝手に抜け出すなんて、良くないわよね?」
「いいんじゃない?別に。誰かに迷惑かけたわけじゃないんだし」
「バレたら罰則でしょうけどね。でも、ジョージが一緒ならまずバレないんじゃないかしら?」
「でも……!」

バレなければいいと言う問題ではない気がする。レイチェルはそう反論しようとして、言葉を飲み込んだ。この間の夜も、昨日も、ダメだと言いながら結局は一緒になって規則を破ってしまっているのだから何を言ったところで説得力がない。やっぱりもっと、毅然とした態度で断らなければいけない。……できるだろうか? ジョージに甘えたような態度を取られると、あまり強く言えなくなってしまう……。
レイチェルが考え込んでいると、「それにしても」とクロディーヌが小首を傾げた。

「男子ってどうしてあんなにサプライズしたがるのかしらね?待ち合わせで花束をもらうのって確かにロマンチックだけど、寮に戻るまで1日中それを抱えて持ち歩かなきゃいけない私のことは考えないのかしら?」
「わかるわ。マークもそう。ドライブデートだって言うから歩かないと思って新しい靴を履いていったら、よりによって海に連れて行かれたのよ!最初から海に行こうって言われたらヒールなんて履いて行かないのに……。砂に埋まって歩きにくいし、傷むんじゃないかって気が気じゃなかったわよ!」
「ケーキの中にプレゼントの指輪が入っていたこともあったけど……あれ、食べる前に気がついたからよかったけれど、うっかり気づかずに食べたら歯が欠けるんじゃないかと思ったもの」
「えっ、ちょっと待ってその話初めて聞いた! クロディーヌ、それって前付き合ってたスリザリンの彼氏?」

どうやら、デートでのサプライズと言うのは必ずしも上手く行くものではないらしい……。レイチェルよりもずっと経験豊富なクロディーヌやパメラが今まで恋人から仕掛けられてきた『サプライズ』の数々の話を花を咲かせていると、部屋のドアが開いた。

「……随分賑やかだと思ったら、クロディーヌが来ていたの?」
「あ、エリザベス!遅かったじゃない、どこ行ってたのよ?」
「ええ、まあ、少しね……」

素っ気無く答えるエリザベスの頬は、ほんの少しだけ赤かった。たぶん、トムとのデートは上手く行ったのだろう。

 

 

 

早いもので、ダンスパーティーはもう2日後にまで迫っている。
いよいよ、本格的にパーティーの準備をする必要がある。とは言っても、会場の準備は教授達が張り切ってくれているので、レイチェル達は自分達の準備をすればいいだけなのだけれど。靴やドレスは今更もう迷う余地もないけれど、それでも決めることはたくさんあった。具体的に言えば、髪型やお化粧。どれにしようか考えるのが楽しくて、あれもこれも素敵だと雑誌のページにはたくさん折り目がついているけれど、そろそろ1つに絞らなければいけない。

「やっぱりレイチェルはただ結い上げるより、華やかなやつの方がいいんじゃない? ドレスもどっちかって言うと可愛い感じだし」
「うん。そうするわ。……でも、これ、その……難しくない?」
「んー……手順見た感じ、たぶんできるわ。エリザベスは?」
「私は今回は髪はおろそうかと思っているの。パーティーだといつもアップにすることが多いんですもの」
「ハーフアップとかもいいんじゃない?これとか可愛い」

そんなわけで、午後はパーティーの準備を進めようと言うことで意見が一致した。パーティーは夜だから当日でも比較的時間はあるけれど、直前になってあたふたと準備するよりも、やっぱり事前に決めておいた方がいいだろう。髪型だけでも選択肢はたくさんあるし、どれも可愛くて目移りしてしまう。レイチェルはパタンと雑誌を閉じて遠ざけた。ダメ、迷うからもう見ない。

「ジニーの準備はアンジェリーナとアリシアが手伝うって張り切ってたけど……ルーナって確かルームメイトは皆家に帰っちゃってるでしょ?どうするのかしら」
「後で声かけてみる?」
「一応……先生方がヘアメイクに関してはホグズミードからプロを呼ぶって仰っていたわ」
「そうなの? すごい」
「とは言っても、全員を見るのはとても無理ですもの。だから、表立ってはあまり話が出ないようにしているみたい。下級生から優先的に、教授達が声をかけているはずよ」

エリザベスの説明に、レイチェルはなるほどと納得した。確かにプロが来ると知ったら、せっかくならプロにヘアメイクしてもらいたいと期待してしまう 女の子は多いだろう。でも、パーティーに出席する女の子はホグワーツ生だけでも200人以上居るはずだ。希望者全員にやろうとすると、きっと途方もない時間がかかってしまう。

「エリザベスのドレスなら、オレンジのリップがいいと思ったんだけど……んー、オレンジならもうちょっと赤っぽい色の方が似合うかも。でも、それだとドレスの色と合わなくなっちゃうのよね」
「エリザベスって元々顔立ちがはっきりしてるし、もっと淡い色でもいいんじゃないかしら?」
「そうよね! ビーズの飾りはオレンジもあるけど、ピンクも入ってるし、そっちと合わせて……」

結局、エリザベスが選んだのはドレスのビーズ飾りとよく似た色の、薔薇の花びらのようなピンクの口紅だった。アイシャドウは濃いブラウン。せっかくだからもっと華やかな色にすればいいのにとパメラはちょっと不満げだったが、エリザベスが塗ってみると、品があってとてもよく似合っていたので結局はパメラも納得したようだった。

レイチェルはどの色にする?」
「うーん……迷ってて……」
「色々試してみたら? ドレスの色って言う意味では、割と何でも合うと思うわよ。まあでも、濃い色は避けた方がいいわね」
「……どうして?」

ちょうど濃いピンクの口紅を塗り始めたところだったので、レイチェルははてと首を傾げた。レイチェルのドレスはミントグリーンだから、合わせたら可愛いかなと思ったのだけれど……鏡を見る限り自分ではそんなに変だとは思わないのだけれど、もしかしてパメラから見るとあまり似合っていないだろうか?

「だって、口紅ってキスしたら落ちちゃうわよ。はみ出しちゃったとき、自分で上手く直せる?」

思いがけない言葉に、手元が狂った。グッと力が入ったせいで勢いよく唇からはみ出してしまった口紅は……確かに、かなり目立つかもしれない。パメラの言わんとすることを身をもって体感したレイチェルは、黙って口紅を元の位置へと戻し、口元をゴシゴシと拭った。納得したし、自分では思いつきもしなかったから助かるけれど、無性に恥ずかしい。そう言えば、昨日パメラ達が選んでくれたリップグロスも淡い色だった……。

「ジョージってキス上手そうよねー」
「えっと……」

何事もなかったように会話を続けるパメラに、レイチェルはますます戸惑った。……ジョージとキスをしたことって、パメラに言ったっけ?
もしかして、図書室でキスしてたところを見られていたとか? いや、単に恋人同士だしデートもしているのだから、キスくらいしてるだろうと考えただけかもしれない。そうだと信じたい。

「下手なの?」
「そ、そんなことない、と、思う、けど……」

とりあえずレイチェルのせいでジョージはキスが下手だと言う不名誉な印象をつけてしまうのは申し訳ないので、しどろもどろに否定した。
正直なところ、ほとんどジョージとしかキスをしたことがないのだから、上手いのか下手なのかなんてよくわからない。と言うか、どう考えてもレイチェルの方が下手なのでジョージのキスに文句をつけられるような立場ではない気がする。

「パメラ。からかうのはそれくらいにして頂戴。レイチェルが困っているわ」
「はぁーい」

エリザベスの溜息に、パメラが肩を竦めた。これ以上の追及は避けられそうなことに、レイチェルはホッとした。が……パメラの質問によって、頭の中には1つの疑問が浮かんでしまった。

「……ねえ、パメラ」
「何?」
「キ、」

キスってどうやったら上手になるの────。
喉のところまでせり上がってきた質問は、結局声にすることなく飲み込んでしまった。パメラに聞くのは、やっぱり恥ずかしい。

「あの、クロディーヌ」

夕食の後、目当ての人物の姿を談話室に見つけてレイチェルはそっと近づいて声をかけた。クロディーヌは暖炉近くのソファに座ってファッション誌を読んでいた。談話室にはまだまばらに人が残っていたが、辺りを見回してみても、クロディーヌのルームメイトや同級生の姿はない。何か用があるらしいと察したクロディーヌがレイチェルが座れるようスペースを空けてくれたので、レイチェルもその隣へと座った。

「その……質問してもいい?」
「いいけれど……私、魔法薬学のレポートはまだ何も手をつけてないわよ」
「違うの。あの、課題のことじゃなくて……」

そう言えばレイチェルもまだ魔法薬学のレポートは全然進んでいない。じゃなくて。
レイチェルはすぅっと息を吸って、そしてそのまま吐き出した。……やっぱり、こんなことを質問するのはやめた方がいいだろうか。いや、でも……レイチェルはしばらくパチパチと爆ぜる暖炉の火を眺めていたが、もう1度深く息を吸った。

「どうやったら、その……キスって、上手になるの?」

言いながら、レイチェルは自分の頬に熱が集まってくるのを感じた。1度疑問に思うとそればかりがぐるぐると考えてしまって、気になって仕方ない。クロディーヌに聞くのも相当恥ずかしいけれど、それでもパメラよりはまだ聞きやすい。クロディーヌはほんの少し目を見開きはしたけれど、クスクス笑いもしなかったし、目をキラキラさせることもなかったので、レイチェルはホッとした。

「さあ……考えたことなかったけれど、ある程度は慣れじゃないかしら?」
「慣れ……」

レイチェルは思わず眉根を寄せた。ある程度予想はしていたけれど、やっぱり経験値が違いすぎるからかあまり参考にならないかもしれない。

「人によっても、どう言うキスが好きかってそれぞれだし」
「好み……」

キスの好みって何だろう。レイチェルが知らないだけでそんなにたくさん種類があるのだろうか。

「自分の好みがまだハッキリしてないのなら、とりあえず相手に合わせておけばいいんじゃない?」
「合わせる……」

レイチェルの眉間の皺が無意識のうちに深くなっていることに気づいたのか、クロディーヌはクスクス笑ってみせた。

「ねえ、レイチェル。貴方、さっきからオウムみたいになってるわよ」
「あ……えっと……ごめんね……その……変な質問して」
「構わないけど。レイブンクローの人達って、本当に何でも『傾向と対策』しようとするわよね。それってつまらなくない?」

キスの上達方法を質問しただけなのに、人格にダメ出しをされている……。
しかし自分の言動を振り返ると思い当たるところがあったので、図星をつかれたレイチェルは沈黙した。そうかもしれない。そして、事前に予習したはずのことをジョージがことごとく裏切ってくるので、うろたえてばかりいる。

「その質問するってことは、ジョージは上手なんでしょ?『教えて』って言ってみれば?」
「む、無理」

レイチェルは勢い良く首を横に振った。それこそ、魔法薬学のレポートとは訳が違うのだ。クロディーヌみたいな美人に目を潤ませてそんな風にお願いしたとしたら、言われた男の子はきっと舞い上がってしまうだろう。クロディーヌなら上手く行くのだろうけれど、レイチェルがそれをやったとして良い結果が出る自信がない。

「キスが上手になりたいって言うより、一方的に受け身なのが居心地が悪いんでしょう? 変に頑張ろうとしないで、まずは貴方からしてみたらいいんじゃない?」
「うぅ……」
「きっとジョージ、喜んでくれるわよ。恥ずかしがったり、困った顔ばかりしてたら、男の子だって不安になるんだから。意外と繊細なのよ」

諭すようなクロディーヌの口調に、レイチェルは呻いた。自分よりも経験豊富で頼りになると思ったからクロディーヌを相談相手に選んだわけだけれど、クロディーヌと話しているとまるで自分が小さな子供になったような気分にさせられる。

男の子だって繊細。……そうなのだろうか?

ジョージはいつだってレイチェルよりずっと余裕そうに見えて、そんな風には見えないけれど。クロディーヌがそう言うのなら、そうなのかもしれない。だって、ジョージが初めての恋人なレイチェルとは違って、クロディーヌは今まで────正確な人数は知らないけれど少なくとも10人以上恋人が居たわけだし。

「何?恋愛相談?」
「きゃっ……」

急に背後から声をかけられて、レイチェルの心臓が跳ねた。パメラ────の声じゃない。でも、知っている声だ。振り向くとやっぱり、ソファの背もたれにもたれかかっているのは、レイチェルにとって見知った顔だった。

「何だよレイチェル、ジョージと上手く行ってねーの?」

男の子だって繊細。絶対そうじゃないと思う。少なくとも、ロジャーに関しては。
あまりにも率直な、端的に言えばデリカシーのない質問に、レイチェルは溜息を吐きたい衝動に駆られた。たぶん、寮に戻ってきたらちょうど通りかかったのだろうけれど、それにしてもタイミングが悪い。

「上手く行ってるけど、ジョージにリードしてもらってばかりなのが居心地悪いんですって。ねえロジャー、何かアドバイスはある?」
「クロディーヌ!」

2人きりだと思ったからこそ持ちかけた相談をあっさりロジャーに話されたことにレイチェルは抗議の声を上げたが、クロディーヌは「男子目線のアドバイスも必要でしょ」と取り合わなかった。……確かに、そうかもしれない。男の子にこんな相談をするのは抵抗があるけれど、もう知られてしまったし、レイチェルには他に恋愛相談できそうな男友達も居ないのだ。

「つまり、自分がリードしたいって? いきなりは無理だろ」

真っ当な答えなのだけれど、ロジャーに言われると釈然としないのはどうしてだろう。

「まぁ俺は積極的な子も好きだけど、シャイな子はそれはそれで燃えるしなあ。どっちも好き」

ロジャーは顔が可愛ければ何でもいいんでしょ────そう言いかけて、レイチェルは口をつぐんだ。一応相談に乗ってもらっている立場なのだから、あまり可愛げのないことを言うのはよくない。ロジャーは間違いなく男子だし、クロディーヌ同様、恋愛経験も豊富だ。何か参考になるアドバイスをもらえるかもしれない……。

「……女の子にこんな風にされたら嬉しいとか、ある?」
「そんなの人によるだろ。ほとんど話したことない相手ってことならともかく、ジョージに直接聞いたほうがいいんじゃね?」

ロジャーのくせに正論を言わないでほしい。
ジョージに直接聞く……やっぱりそれしかないのだろうか。うう、とレイチェルはクッションを抱きしめて項垂れた。でもやっぱり、キスの仕方をキスする相手に聞くのって、初心者にはハードルが高すぎる。

「まあ、そうだな。たとえばこの間────」
「ねぇ、ロジャー。一応の確認なんだけれど、それは今下級生も居るこの談話室でしても問題ない話なのかしら?」
「えっ? あー……」

クロディーヌの問いに、ロジャーはサッと談話室を見回した。もうほとんどが部屋へ戻ったのか、さっきよりさらに人気はなくなっていたが、何人かの2年生がまだ残っていて、爆発スナップに熱中していた。

「悪い、レイチェル。今のは初心者向きじゃなかった」

何を話すつもりだったんだろう……。そんな疑問が首をもたげたものの、レイチェルは口に出すことはしなかった。ロジャーが言い淀んで、クロディーヌがストップをかけると言うことは、たぶんレイチェルは聞かない方がいいような予感がしたからだ。聞いてもきっと実践できないだろうし。ロジャーは再び考え込むような表情になった。

「んー……じゃあ、そうだな。耳貸してみ」
「耳?」

何だろう。何か、秘密の話だろうか? 言われた通り、ロジャーの顔へと耳を寄せる。「あのさ」囁かれた声が小さくて、レイチェルはよく聞き取ろうと意識を集中した─────ら、チュッと軽い音と共に頬に何か触れた。

「こう言うのとか?」

頬にキスされたらしいと気がついて、レイチェルは驚いた。ほとんど反射的にロジャーを振り返ると、無邪気に笑ってみせるロジャーの顔がやけに至近距離にあって、また驚いた。……ロジャーは実演してみせただけだとわかっているのに、不覚にもちょっとドキッとしてしまったので、何だか悔しい。

「こんな時間まで寮の外に出てたってことは、もしかしてフラーと会ってたの?」
「まあ、そりゃ会うだろ。パートナーだし」

クロディーヌの言葉を聞いて、そう言えばロジャーはフラーのパートナーだったことを思い出した。聞いたときは意外な組み合わせだと感じたけれど、どうやらこちらも上手く行っているようだ。以前話したときフラーもまた恋愛経験豊富そうな印象だったし、もしかしたらロジャーとは似た者同士で相性がいいのかもしれない。

「……2人って、フラーがフランスに帰っちゃったらどうするの?」
「ん? まあ、わかんねーけど……なるようになるんじゃね? 半年も先のことなんて考えても仕方ないって」

呑気そうな口調のロジャーに、そんなものなのだろうかとレイチェルは首を捻った。いや、レイチェルだってダンスパーティーをきっかけに付き合うことになったと言う意味ではロジャー達と同じだし、『ジョージとこのまま結婚する!』とか思っているわけではないのだけれど……やっぱり些細なことを考えすぎなのかもしれない。ロジャーやクロディーヌみたいに、ポジティブと言うかアクティブな人の方が、恋愛って向いているのかも。

「しかし、本当あっと言う間だよなー。ついこの間ハロウィンだったと思ったのに、明後日はもうクリスマスだろ? 俺まだ全然課題やってねーや」

溜息を吐いたロジャーの言葉には、レイチェルも同意だった。いや、ロジャーよりはたぶん課題の進捗はマシだろうと思うけれど。
つい数日前に、セドリックとも同じような会話をした。今からたったの……3日前。ホグワーツの日々はいつだって賑やかで慌しく過ぎていくけれど、今年はとびきり忙しいと言うのは、きっと誰にとっても同じなのだろう。

「本当……あっと言う間よね……」

たった3日前のことなんて、嘘みたいだ。あのときのレイチェルはまさか自分が城を抜け出してホグズミードで男の子とデートするなんて想像もしていなかったし……こんな風にクロディーヌやロジャー相手に恋愛相談をするなんて思いもしなかった。そう気づいたら、何だか今の状況が奇妙に思えてきて、レイチェルはクスクス笑ってしまった。

「クロディーヌもロジャーも……話を聞いてくれてありがとう。2人みたいには上手くできないかもしれないけど……その、私なりにちょっとずつ頑張ってみる」

あのときのレイチェルに今日までの3日間のことを伝えたとしても、きっと信じないだろう。
何もかも、全然いつも通りじゃない。新鮮で、驚きに満ちていて、初めてのことばかり。心臓が落ち着かなくなるようなことだらけ。だからつい不安になって些細なことを気に病んで、悩んでしまったりもするけれど………こうやって悩みを打ち明けられる友人が居ることは、レイチェルの気持ちをずっと軽くしてくれる。

「まあ、急に焦っても仕方ないって。レイチェルの恋愛経験値って10歳児並みで止まってんだし」

そう思って感謝したのに────慰めてくれているつもりでそんなことを言ってのけるロジャーに、レイチェルは浮かべていた笑みが引きつるのを感じた。

……やっぱり、男の子が繊細なんて絶対嘘だ。

 

ところにより恋模様

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